ふたつの面のそれぞれに、パリに縁(ゆかり)が深い図像を刻んだ「パリのメダイ」。いまから八十年ないし九十年前、戦間期のフランスで制作された作品で、古い時代のフランス製メダイを特徴づける驚異的な細密性を有します。
一方の面にはパリ中心部で「罪人の避け所」(le Refuge des pécheurs) として崇敬を集める聖母子像、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール(Notre-Dame des Victoires 勝利の聖母)が、信じがたい細密さで浮き彫りにされています。
「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」はイタリア人彫刻家の作品と言われ、優しい表情の聖母が幼子イエスの傍らに立っています。聖母はグロブス(羅 GLOBUS 球)の上に立つ幼子イエスを両腕で抱き、優しく寄り添っています。聖母のこの姿勢には、ふたつの意味を読み取ることができます。
まず第一に、幼子を優しく抱き寄せる聖母の姿は、不安定な場所によじ登った幼児が転落しないように、幼児の体を支える母の愛を表しています。
第二に、あたかも一体となるかのように幼子イエスに寄り添う聖母の姿は、キリストが罪びとを愛するのと同様に、聖母もまた罪びとを愛し、憐れみ、罪びとのために執り成し給うことを表しています。イエスを十字架に懸けた罪人たちに対して、救い主イエスとともに聖母が注ぐ慈愛の眼差しは、神とイエスへの愛ゆえに、世の罪びとをも愛して、その「避け所」(le
refuge)となり給うことを表しているのです。
「イエスに対する母の愛」と「神とイエスへの愛の反映としての、罪びとへの愛」は、マリアの汚れ無き御心 (l'Immaculé Cœur de Marie) においてひとつに融け合っています。それゆえ聖母子像「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は、「マリアの汚れ無き御心」の愛の形象化であるということができます。
(上・参考画像) ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール 戴冠記念カニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号896) 1853年 当店の販売済み商品
「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は、数多くの聖人たち、一般信徒たちに崇敬されてきました。またわが国のキリスト教史にも関係があります。
テオドール・ラティスボンヌ神父 (P. Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884) は、1840年からノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにおいて信心会の会長補佐を務めました。同じ頃、後に尊者となるフランソワ=マリ=ポール・リーバーマン神父
(Ven. François-Marie-Paul Libermann) がノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに創設した「マリアの聖心会」(la
Société du Saint-Cœur de Marie) は、現在の「聖霊修道会」(La Congrégation du Saint-Esprit,
Spititain) の源流となりました。
パリ外国宣教会もノートル=ダム・デ・ヴィクトワールと深いつながりがあります。1861年2月2日にハノイで殉教することになるジャン=テオファン・ヴェナール師 (St Théophane Vénard, 1829 - 1861) は、神学校在学中の1847年にノートル=ダム・デ・ヴィクトワール大信心会に加入し、ヴェトナムに出発する前にはヴェトナムにおける司祭としての働きをノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに委ねました。
イギリス国教会の司祭から1845年にカトリックに改宗し、後に枢機卿となったジョン・ヘンリー・ニューマン師 (Mgr. John Henry Newman, 1801 - 1890) は、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールを訪れて、自身の改宗を聖母に感謝しています。
(上) 「ほほえみの聖母」の聖遺物付小聖画 リジュー、女子カルメル会修道院 No. 79A 120 x 65 mm フランス 二十世紀中頃 当店の販売済み商品
テレーズ・マルタン、後のリジューの聖テレーズ (Ste. Therese de Lisieux, 1873 - 1897) は十歳のときに原因不明の体調不良で重篤な容態に陥りましたが、微笑む聖母を幻視して回復しました。テレーズの自叙伝によると、この聖母はノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに他なりませんでした。またテレーズは十四歳のときに家族とローマを訪れていますが、リジューからローマに向かう途中でノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに立ち寄って、カルメル会に入る望みがかなうように祈っています。
テレーズは愛読の「イミターティオー・クリスティー」("Imitatio Christi" 「キリストに倣いて」)に、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の小聖画を挟んでいました。カルメル会に入会したいという望みを父ルイ・マルタンに伝えたとき、父は娘に小さな花を贈り、テレーズはその花を聖画に貼り付けました。亡くなる数日前、テレーズは聖画の裏に名前を書きましたが、これはテレーズの最後の署名となりました。
テレーズはカルメル会修道院の病室で亡くなりましたが、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の像はここにも安置されており、地上におけるテレーズの最後の日々を見守りました。
東京国立博物館収蔵のノートル=ダム・デ・ヴィクトワール
1865年4月12日、パリ外国宣教会のベルナール・プチジャン神父(P. Bernard-Thadée Petitjean, 1829 - 1884)によって、根絶されたはずの日本キリシタンが再発見され、世界に衝撃を与えました。神父は長崎の信徒たちを密かに指導しましたが、1867年、キリシタンたちの信仰が露見して、浦上四番崩れが起こります。
東京国立博物館には、浦上四番崩れの際に浦上の村民たちから押収された多数のメダイやロザリオ、聖像が収蔵されています。聖像のなかには「無原罪の御宿り」や「幼子イエス」「大天使ガブリエル」に混じって、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」一点があります。この「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は石膏製で、高さ九十四ミリメートルの小像です。キリスト教は禁制であったので、大きな像を所持することは不可能であったと思われます。東京国立博物館の「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は幼子イエスの頭部が失われていますが、聖母はほぼ無疵(むきず)で残っています。
また同博物館には 23 x 16 ミリメートルのブロンズ製メダイ八個が収蔵されており、一方の面が「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」、もう一方の面が「バック通の聖母」となっています。これらのメダイは 1868年、浦上のキリスト教徒を捕縛した際の没収品で、プチジャン神父が日本キリシタンの勝利、すなわちキリスト教信仰の解禁を願って、浦上の信徒たちに贈ったものと思われます。
明治維新後もキリスト教は禁制のままであり、キリシタンたちは多くの殉教者を出し続けましたが、1873年(明治六年)、信徒たちの祈りはついに聞き届けられ、キリシタン禁制の高札が撤去されました。
メダイ上部に突出する環の位置から分かるように、本品の浮き彫りが円形画面の中心に据えるのは、幼子イエスよりもむしろ聖母です。メダイの天地いっぱいに彫られた聖母の姿は、天地をつなぐ恩寵の器、神の恵みの通り道として聖母が果たした役割を視覚化しています。
プロテスタントと違って、カトリックでは聖母マリアを大切にしますが、それは受胎告知の際、マリアがガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたからです。プロテスタント思想においては、人間は善を為すことができません。人間にできるのは、罪を犯すことだけです。しかるにカトリックにおいては、人間は善を為す自由を有すると考えられています。神は救いを強制せず、マリアは自由意志を以って、全人類のために救いを受け入れるという善を為したのです。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。人体各部の比例が正しく写し取られているばかりでなく、聖母子の表情、王冠や手などの細部、衣文(えもん 衣の襞)の自然な流れ、聖母子の足下に見える不定形な雲等、あらゆる部分が臨場感豊かに再現されています。
聖母子の顔のサイズは直径一ミリメートルの範囲に収まります。直径一ミリメートルの顔に目鼻口が付いているだけでなく、表情まで読み取れるということは、顔の各部を制作する際の精度が百分の一ミリメートル(十ミクロン)のオーダーであることを示します。
フランスはメダイユ芸術の国ですが、本品を見ると、フランスのグラヴール(仏 graveurs メダイユ彫刻家)が到達した芸術の、人間業とも思えない水準の高さを実感します。見事な出来栄えの細密彫刻は、これが直径十六ミリメートルあまりの金属板に施された浮き彫りであることを忘れさせます。
メダイのもう一方の面には聖心(心臓)を示すイエス・キリストが浮き彫りで表されています。古来心臓は生命と心の座と考えられてきました。キリストの心臓(聖心)は、十字架上の受難を通して罪びとに永遠の命を与えようとする神の愛の象徴です。
聖心に対する信心は中世以来のものですが、近世以降の時代にこの信心を広めるうえで最も大きな影響力があったのは、マルグリット=マリです。マルグリット=マリはフランスの修道女ですが、聖心の信心は全カトリックのものであり、フランスに固有のものではありません。それにもかかわらず商品説明の冒頭で筆者(広川)が本品を「パリのメダイ」と呼んだのは、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール像がパリにあることに加えて、聖心の信心もフランスとパリに縁(ゆかり)が深いからです。
マルグリット=マリに出現したキリストは、当時のフランス王ルイ十四世へのメッセージを聖女に託し、フランスが自らを聖心に奉献することを求めました。しかしフランスはキリストの言葉に従わずに堕落を重ね、やがて反キリスト教的な革命を起こすに至ります。フランスは普仏戦争に敗れますが、これは神の鞭(むち)、すなわち神が高慢なフランスに与え給うた罰と考えられました。聖心に巻き付く茨はフランスが犯した罪の象徴であり、フランスが赦される唯一の道は、キリストがマルグリット=マリを通して命じ給うたとおりに、フランスが自身を聖心に奉献することであると、当時多くの人々が信じました。このような経緯により、十九世紀後半にはガリア(フランス)をキリストの聖心に捧げる「悔悛のガリア」(羅 GALLIA PŒNITENS)の運動が盛んになりました。
(上) 建設中のサクレ=クール・ド・モンマルトル コロタイプによる古い絵葉書 当店の商品です。
普仏戦争は神の鞭でしたが、戦争が終っても神は鞭を収め給わず、フランスはコミューンの内乱によって一層傷を深めました。内乱の終息後、1873年5月24日、ポワチエのピィ司教 (Louis-Édouard-François-Désiré
Pie , 1815 - 1880) はフランスの霊的目覚めを呼びかけ、第三共和制のもとにカトリックの組織と世俗の組織がともに手を取り合って、国民の宗教心を刷新すること、悔い改めたフランス(ガリア)をイエスの聖心に捧げること(SACRATISSIMO
CORDI JESU GALLIA PŒNITENS ET DEVOTA)を訴えかけました。
「聖心に対するフランス奉献」を具体的な形で実現させるため、1870年以降、モンマルトルにサクレ=クール教会(聖心教会)を建設することが議論されました。1873年7月24日、モンマルトルにおける聖堂の建設は公共の事業であると宣言され、教会はその建設計画を「フランス国民の誓い」であるとしました。聖堂は
1875年に建設が始まり、1919年に竣工しました。
「聖心を示すキリスト」の図柄に関しても筆者が本品を「パリのメダイ」と呼ぶのは、このような理由によります。本品に刻まれた「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」像、「聖心を示すキリスト」像をそれぞれ建物で言うと、前者はパリ二区の「ラ・バジリク・ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」(La Basilique Notre-Dame-des-Victoires 勝利の聖母のバシリカ)、後者はパリ十八区の「ラ・バジリク・デュ・サクレ=クール・ド・モンマルトル」(La basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)に置き換えることができます。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。キリストの上半身を大きく表した大胆な構図は、細密浮き彫りのもたらす臨場感と相俟って、見る者の心を揺さぶらずにはおきません。
本品の制作年代は 1920年代ないし 30年代で、第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた戦間期に当たります。1914年から 1918年まで戦われた未曾有の世界大戦によって、フランスの国土は戦場となり、軍人軍属の戦死者のみならず、戦災死者、戦争寡婦、戦争孤児が国中に溢れました。この世界大戦によって、フランスの信仰深い人々は、神が再びフランスを鞭打ち給うたと痛感したことでしょう。フランスに悔悛を求めて聖心を示すキリストと、罪人の避け所であるノートル=ダム・デ・ヴィクトワールを浮き彫りにした本品には、「カトリックの長姉」なるガリア(フランス)の慟哭が籠められています。しかし放蕩息子(「ルカ伝」十五章)の慟哭にも似たガリアの嘆きの向こうには、それでも愛娘フランス(la
France ガリア及びフランスは女性名詞)を見捨て給わない神の愛の輝きが見えています。
「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」に関して言えば、これは有名な聖母子像ですが、メダイはたいへん少なくて滅多に見つかりません。またノートル=ダム・デ・ヴィクトワールのメダイが見つかったとしても、たいていの場合はもう一方の面に花が彫られているだけです。花の浮き彫りはそれ自体美しいものですが、「裏面に彫られた花」は広い範囲の時代と地域にまたがって行われる意匠です。アンティーク・メダイが持つ大きな魅力のひとつは、作品が生まれた時代や地域の雰囲気を色濃く留めていることですが、裏面の花は限られた時代や地域を指し示す特徴ではないのです。これに対して本品の両面に彫られた意匠は、それぞれ単独では時代を超えた意匠でありつつも、両面を合わせれば第一次世界大戦という「神の鞭」を経験したフランスならではの組み合わせです。その結果として本品は、「戦間期のパリ」という限られた時代と地域の雰囲気を色濃く留める作品となっています。
本品はおよそ八十年ないし九十年前に制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にも関わらず、保存状態はきわめて良好です。突出部分の磨滅もごく僅かで、細部まで制作当時の状態を留めています。「作品が生まれた時代や地域の雰囲気を色濃く留めている」というアンティーク・メダイ特有の魅力を、掌の上で愛(め)でることのできる稀有な一点です。