マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父
P. Marie-Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父
マリ=テオドール・ラティスボンヌ師 (P. Maeie-Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884) は、カトリックに改宗したユダヤ人神父です。「ノートル=ダム・ド・シオン修道会」(シオンの聖母修道会)を創設してユダヤ系子弟向けのカトリック教育に尽力し、その働きは歴代の教皇に高く評価されました。
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父は、不思議のメダイの聖母によって回心したことで知られる
マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父 (P. Marie-Alphonse Ratisbonne, 1814 - 1884) の実兄です。
【マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父の生涯】
テオドール・ラティスボンヌは、1802年12月28日、フランス東端ストラスブール(Strasbourg アルザス地域圏バ=ラン県)の名家に、9人きょうだいの長子として生まれました。銀行業を営む父オーギュスト・ラティスボンヌ
(Auguste Ratisbonne, 1770 - 1830) は、バ=ラン (Bas-Rhin) のコンシストワール(consistoire
israélite ユダヤ人長老会議)議長を務める名望家であり、母方の祖父セルフ・ナフタリ・ヒルツ・ヘルツ・ベル (
Cerf Naphtali Hirtz Herz Berr/Beer, 1726 - 1794) はアルザスにおけるユダヤ人コミュニティーの代表者を務めた人物でした。
テオドールはストラスブールの王立コレージュを卒業後、法律を学び、若くしてアルザスのユダヤ人コミュニティーにおいて人望を集めるようになりました。
この時代、フランスのユダヤ人知識層にカトリックへの改宗者が続出し、ストラスブールにおいても1821年に弁護士のダヴィッド・マイヤー (David
Mayer) が、1824/25年に医師のサムソン・リーバーマン (Samson Libermann 註1) と貿易商アルベール・ドレフュス
(Albert Dreyfus) が相次いでカトリックになりました。これら友人、知人たちの改宗をきっかけに宗教に関心を持ったテオドールは、聖書とキリスト教史を学び始め、1827年に洗礼を受けました。受洗後は「マリ=テオドール」を名乗って神学校に入学し、1830年、司祭に叙階されました。
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父はプチ・セミネール(petit séminaire カトリック系中等学校)の副校長を務めた後、ストラスブール司教座聖堂の副主管司祭となり、1840年からはパリの
ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール (la Basilique Notre-Dame des Victoires) において、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール信心会の会長補佐を務めました。
マリ=テオドール神父がパリにいた 1842年1月20日、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ聖堂 (Basilica di Sant'Andrea
delle Fratte) において、神父の弟アルフォンス(後のマリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父 (P. Marie-Alphonse
Ratisbonne, 1814 - 1884) が「不思議のメダイ」と同様の聖母を幻視し、カトリックに改宗しました。アルフォンスは兄であるマリ=テオドール神父に、ユダヤ人家庭の子供のために寮を設立することを提案し、同年、マリ=テオドール神父は弟の提案に従って、ある改宗ユダヤ人女性の娘ふたりを預かりました。この年の夏、マリ=テオドール神父はローマを訪れて教皇グレゴリウス16世
(Gregorius XVI, 1765 - 1831 - 1846) に謁見し、教皇はユダヤ人の改宗を進めるために惜しまず神父に協力することを約束しました。
翌 1843年、マリ=テオドール神父は弟アルフォンスの回心に感謝して「ノートル=ダム・ド・シオン修道会」(la congrégation de
Notre-Dame de Sion シオンの聖母修道会 註2)を創設し、数校のユダヤ人子弟向けカトリック学校を開校しました。教皇ピウス9世
(Pius IX, 1792 – 1846 - 1878) はマリ=テオドール・ラティスボンヌ神父のはたらきを高く評価し、次の教皇レオ13世
(Leo XIII, 1810 - 1878 - 1903) は使徒座書記官(註3)として重用しました。
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父は、作曲家、ピアニストとしても知られるカルメル会のドイツ人神父、ヘルマン・コーエン師 (Hermann
Cohen, 1820 - 1871) の精神的指導者でもありました。
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父は1884年1月10日にパリで亡くなりましたが、神父に終油を授けたパリ大司教ギベール師 (Mgr. Joseph Hippolyte Guibert, 1802 - 1886) は、レオ13世からの臨終の祝福を携えていました。
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父は、エヴリ(Évry
イール=ド=フランス地域圏エソンヌ県)にあるコレージュ・ド・ノートル=ダム・ド・シオンの敷地内に埋葬されています。
註1 サムソン・リーバーマンの弟ヤーコプ・リーバーマンも、ふたりの兄に続いて1826年12月4日に洗礼を受けました。ヤーコプ、後のフランソワ=マリ=ポール・リーバーマン神父
(Ven. François-Marie-Paul Libermann) は、1841年、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにおいて「マリアの聖心会」(la
Societe du Saint-Coeur de Marie) を創設し、この会と、プラール・デ・プラス神父(P. Claude-Francois
Poullart des Places, 1679 - 1709) が1703年に創設した聖霊修道会が1848年に合同し、現在の「聖霊修道会」(La
Congregation du Saint-Esprit, Spititain) の源流となりました。
註2 「ノートル=ダム・ド・シオン」(Notre-Dame de Sion シオンの聖母)は、「ロレーヌの守護聖女」として知られる聖母子像で、サクソン=シオン(Saxon-Sion ロレーヌ地域圏ムルト=エ=モーゼル県)のバシリカ
(la basilique Notre-Dame de Sion) に安置されています。地名サクソン=シオンの「シオン」は、この村のラテン語名「スエントゥム」(Suentum)
に由来します。
ラティスボンヌ神父の出身地ストラスブールはロレーヌではなくアルザスの町です。しかしながら「ノートル=ダム・ド・シオン」はロレーヌのみならず、アルザスやルクセンブルクなど、フランス東部を中心に広く崇敬を集める聖母であり、聖母を安置するサクソン=シオンは古来東フランスにおける一大巡礼地です。それゆえに神父は、自らが創設した修道会をこの聖母に捧げたのでしょう。
註3 「使徒座書記官」(仏 protonotaire apostolique)とは、ヴァティカンにおいて教皇の裁定や殉教者の事績を記録する書記官です。
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