リジューの聖テレーズ
Ste. Thérèse de Lisieux, 1873 - 1897 1923年に列福、1925年に列聖
実姉セリーヌが 1899年に描いたテレーズの肖像 まゆみの木炭画
リジューの聖テレーズ (Sainte Thérèse de Lisieux, 1873.1.2 - 1897.9.30) はカルメル会の修道女で、幼きイエスのテレジア
(Sainte Thérèse de l'Enfant-Jésus )、イエスの小さき花とも呼ばれます。わずか24歳のときに結核で亡くなりましたが、1923年に列福、1925年に列聖されました。テレーズの祝日は10月1日です。
【テレーズの生涯】
リジューの聖テレーズ、俗名マリー・フランソワーズ=テレーズ・マルタン (Marie Françoise-Thérèse Martin) は、1873年
1月 2日、フランス北部のアランソン(Alençon バス=ノルマンディー地域圏オルヌ県)に生まれました。テレーズの父ルイ・マルタン (Louis
Martin, 1823 - 1894) は時計販売・修理業を営み、母ゼリー・マルタン (Zélie Guérin, 1831 - 1877)
は繊細さゆえに「レースの女王」とも呼ばれるアランソンのレースを編む職人でした。ルイとゼリーの間には九人の子どもが生まれましたが、うち四人は乳幼児期に亡くなっています。テレーズはゼリーが41歳のときに生んだ末子(七女)で、上には四人の姉がいました。
テレーズは誕生二日後の 1873年 1月 4日にアランソンのノートル=ダム教会で洗礼を受け、同年3月から翌年4月までの約一年間に亙ってアランソン近郊スマレ
(Semallé) の乳母に預けられたあと家族のもとに戻り、両親と姉たちに可愛がられて幸福に過ごしましたが、1877年8月28日、テレーズが4歳7か月のときに、母ゼリーが乳癌で亡くなりました。母の亡き後、テレーズは12歳年上の姉ポリーヌ
(Pauline Martin, mère Agnès de Jésus, 1861- 1951) を母代りに慕いましたが、優しい母を亡くしたことによる心の傷は、その後十年に亙ってテレーズを苦しめます。
(下) 左は四歳ころのテレーズと母ゼリー・マルタン。右は15歳のテレーズと父ルイ・マルタン
アランソンの北80キロメートルにあるリジュー (Lisieux バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)には、母方の叔父イシドール・ゲラン
(Isidore Guérin, 1841 - 1909) 夫妻が住んでいました。母の死後、叔父イシドールは子供たちの後見人に指名されたため、義兄ルイにリジューへの移住を強く勧め、1877年11月16日、マルタン家はリジューに引っ越しました。一家はリジューで「レ・ビュイソネ」(les
Buissonnets フランス語で「小藪荘」というほどの意味)と名付けられた大きな家に住み、テレーズはふたりの姉レオニー、セリーヌとともにベネディクト会修道院ノートル=ダム・デュ・プレ
(l'abbaye Notre-Dame du Pré) の寄宿学校に半寄宿生(昼食のみの給食を受ける通学生)として通いました。テレーズは小心な子供で、この学校での五年間はつらい思い出が多かったようです。
1882年10月15日、ポーリーヌは父ルイの同意を得てリジューのカルメル会に入りましたが、12歳年上のポーリーヌを母代わりに慕っていたテレーズは、あたかも姉に捨てられたかのように感じて悲しみました。四か月あまり後の
1883年3月25日、当時 10歳であったテレーズは、突然体調不良を訴えました。食欲を失い、体が震えて、幼児のように甘え、床に就いたのです。父ルイと姉マリー、レオニー、セリーヌがテレーズのために祈り、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにノヴェナ(九日間連続のミサ)を捧げたところ、1883年5月13日、聖霊降臨の主日に、病床の少女テレーズは自身に微笑みかけるノートル=ダム・デ・ヴィクトワール、「ヴィエルジュ・デュ・スーリール」(la Vierge de sourire フランス語で「ほほえみの聖母」の意)を幻視して快癒しました。1884年6月8日、11歳のテレーズは初聖体を受け、同じ日に姉ポーリーヌが終身誓願を立てました。六日後の6月14日、テレーズはバイユー・リジュー司教のフラヴィアン・ユゴナン師
(Mgr Flavien Hugonin, 1823 - 1898) から堅信の秘蹟を授かっています。
(下) 「テレーズの癒し」 ピエール・アヌールによる単色のインク画に基づいて、リジューのカルメル会修道女、スール・マリ・デュ・サン・テスプリ (Sr. Marie du St. Esprit) が描いた作品。「絵で見るスール・テレーズの生涯」より。
Pierre-Léon-Adolphe Annould et sr Marie du St Esprit, "Guérison de Thérèse", 54 x 81 cm
1886年8月には長女マリーもリジューのカルメル会に入りましたが、姉を頼るテレーズはこのときも精神的に不安定になり、神経過敏で泣いてばかりの状態になりました。同年10月には三女レオニーもクララ会に入り、父の家に残るのは17歳のセリーヌと14歳のテレーズのみになりました。七週間後の12月、レオニーはクララ会を退会していったん家に戻りましたが、翌1887年春にはリジューから40キロメートルあまり西の都市カーン(Caen バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)の聖母訪問会に入会し、レ・ビュイソネは再び静かになりました。
この頃、テレーズはリジューのカルメル会への召命を感じていましたが、父や叔父の反対をはじめとするさまざまな障碍を予想して、心を決められずにいました。1886年12月25日、真夜中のミサで聖体を拝領した後に回心を経験したテレーズは、自身がイエスを愛し、またイエスが人々に愛されるようにするために、一生を捧げることを決心します。
1887年3月17日、パリ八区のモンテーニュ通(現、ジャン・メルモーズ通)17番地で、売春婦とその家政婦および家政婦の娘が惨殺されてダイヤモンドが奪われる事件があり、四日後に犯人アンリ・プランジーニ
(Henri Pranzini, 1857 - 1887) が捕まりました。プランジーニは同年8月31日、ラ・ロケット刑務所前でギロチンにかけられましたが、プランジーニの魂の救いを祈っていたテレーズは、翌日の「ラ・クロワ」("La Croix" カトリックの日刊紙)でプランジーニが処刑前にクルシフィクスを抱きしめたという記事を読み、喜びの涙を流しました。テレーズはプランジーニを「私の最初の子ども」と呼びました。
(上) レ・ビュイソネの庭でカルメル会入会の許しを父に請うテレーズ。マリ=ベルナール修道士による彫刻を写した 1930年頃の絵葉書。当店の商品です。
1887年5月29日、テレーズは自宅の庭で修道女になる願いを父に打ち明けます。父はテレーズの気持ちを理解し、後見人である叔父イシドールも同意しましたが、リジューのカルメル会のジャン=バティスト・ドラトロエット神父
(P. Jean-Baptiste Delatroëtte) の許可が下りません。テレーズは父とともにバイユー・リジュー司教ユゴナン師と面会しましたが、司教からもすぐに許可を得ることはできませんでした。悲しむ娘の姿を見て、父ルイは教皇レオ13世
(Leo XIII、1810 - 1873 - 1903) に直接願い出ることを思い立ち、テレーズを連れてローマに向かいます。1887年11月20日、教皇の謁見を許されたテレーズはその足元に身を投げ、15歳でカルメル会に入会する許可を求めますが、教皇は長上の指導に従い神の御心に任せるようにと言いました。テレーズは失意のうちにリジューに戻りますが、15歳の誕生日を翌日に控えた
1888年1月1日、ユゴナン司教からカルメル会入会を許可する手紙が届きました。テレーズはすぐにでも入会したがりましたが、カルメル会では少女テレーズが厳冬期に入会することを心配し、4月9日を入会の日に指定しました。
1888年4月9日、父に見送られてカルメル会に入会したテレーズは、1889年1月10日に着衣式を迎え、1890年12月24日に終生誓願を立てました。
テレーズが入会した当時のカルメル会では、義なる神を恐れる雰囲気が強かったのですが、テレーズは愛なる神を求めました。1894年頃、テレーズは、父なる神の子として生きること、父なる神の愛を一身に受ける子なる神イエス・キリストのうちに生きることこそが、キリスト者の生のあるべき姿であると思い至ります。自分は義なる神の目に適わず弱く不完全であると考えたテレーズは、1895年6月9日、三位一体の主日のミサで、自分自身を愛なる神の憐れみに捧げました。
テレーズは、神への愛を表し聖性に到達するために必要なのは難しい本や偉業ではなく、愛のために為す行為、すなわち小さな花のような自己犠牲、眼差し、言葉だと考えました。テレーズは聖性に到達するために、誰もが理解し模倣できる方法を考え、探したのでした。
1897年7月8日、肺結核が悪化したテレーズは病床に就き、7月30日に病者の塗油を受けました。テレーズは 1897年9月30日午後7時30分頃、
24歳の生涯を閉じました。遺体は 10月4日にリジューの墓地に埋葬されました。
テレーズは亡くなる際、「もう苦しむことができなくなりました。苦しみはすべて、私にとって甘美なのですから」と語ったと伝えられます。また「私は地上に善を為すために天での時を過ごしましょう。(Je
veux passer mon ciel à faire du bien sur la terre.)」「私は天から薔薇の雨を降らせましょう。(Je
ferai tomber une pluie de roses.)」というテレーズの言葉もよく引用されます。
リジューの聖テレーズは修道女となってからも俗名と同じテレーズを名乗りましたが、これはアビラの聖テレサ (Santa Teresa de Ávila, 1515 - 1582) を自らの範としたゆえです。アビラの聖テレサは跣足カルメル会の祖とも言うべきスペインの聖女で、イエスの聖テレサ(Santa Teresa de
Jesús) という名によっても知られています。リジューの聖テレーズが幼きイエスのテレーズ(sœur Thérèse de l’Enfant-Jésus
) を名乗ったのも、アビラの聖テレサに倣ったものです。
テレサ(Teresa) はスペイン語、テレーズ(Thérèse) はフランス語、テレジア(THERESIA) はラテン語です。イタリア語ではテレーザ(Teresa)
です。
リジューの聖テレーズは、アビラの聖テレサ、シエナの聖カタリナ、ビンゲンの聖ヒルデガルトとともに、数少ない女性の教会博士です。またトゥールの聖マルタン、ルイ九世、ジャンヌ・ダルクとともにフランスの第二の守護聖人でもあります。
【「幼きイエスと聖顔のテレーズ」という修道名について】
(上) Hans Memling, "Diptychon mit Johannes dem Taufer und der Heilige Veronika, rechter
Flügel", um 1470, Öl auf Holz, 32 × 24 cm, The National Gallery of Art,
Washington D. C.
伝承によると、十字架を担いでゴルゴタへの道をたどるイエスに聖女ヴェロニカが布を差し出し、イエスがその布で汗を拭いたところ、イエスの聖顔(ラ・サント・ファス la
Sainte Face)が奇蹟によって布に転写されたといわれています。この聖遺物はギリシア語でマンディリオン(希 Μανδύλιον)、ラテン語でスーダーリウム(羅 SUDARIUM 汗拭き、ハンカチ)またはウェロニカエ・ウェールム(羅
VERONICÆ VELUM ヴェロニカの布)と呼ばれ、ヴァティカンのサン・ピエトロのバシリカをはじめ、数か所の聖堂や修道院に伝えられています。
イエスを十字架で苦しめたことを償おうとする信心において、聖顔は大きな意味を持ちます。トゥールの聖者(仏 Le saint homme de
Tours)と呼ばれる尊者レオン・パパン・デュポンは、フランス革命時に破壊されたトゥールの聖マルタンの墓所を再発見したことでも知られますが、聖顔への信心を広めるべく三十年間に亙って教会当局と交渉を続けたことにより、聖顔の使徒(仏 l'apôtre
de la Sainte Face)とも呼ばれます。1876年にデュポンが亡くなると、その居宅はトゥール大司教区によって買い取られて改装され、聖顔の小礼拝堂(仏
l'Oratoire de la Sainte Face)とされました。イエスの聖顔への信心は、その後 1885年に、教皇レオ十三世(Leo
XIII, 1810 - 1878 - 1903)によって認可されました。
1849年1月6日、主のご公現の祝日に、ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂でマンディリオンが公開されたとき、拝観に集まった大勢の信徒たちの目の前で、布に転写された救い主の聖顔が突然鮮明度を増し、しかも立体的に浮き出て、救い主の顔を完全に再現するという奇跡が起こりました。上の写真はこのマンディリオンを複製した版画で、聖テレーズの聖務日課書にもこれと同じ版画が掲載されていました。ちなみにレオン・パパン・デュポンの自宅にも同じ版画が掛かっていました。
テレーズが生きた十九世紀後半のフランスは、悔悛のガリア(羅 GALLIA PÆNITENS)の時代でした。聖テレーズも十二歳のとき、父や姉たちとともに聖顔の償い信心会(仏 la confrérie réparatrice de la Ste Face)に入会しています。テレーズは
1888年に跣足カルメル会に入りますが、聖顔への信心は同会においても盛んで、後にアニェス院長となる姉のポーリーヌはテレーズに対し、苦痛にゆがむ聖顔の眼差しの下で生きるよう勧めています。さらにテレーズは、この頃病に倒れた父ルイの顔をイエスの聖顔に重ね合わせ、1889年1月10日に着衣式を迎えると、幼きイエスと聖顔のテレーズ(仏
Thérèse de l'Enfant Jésus et de la Ste Face)を名乗りました。テレーズは「手稿A」に次の言葉を書き残しています。
La petite fleur transplantée sur la montagne du Carmel devait s'épanouir à l'ombre de la Croix, les larmes, le sang de Jésus devinrent sa rosée et son soleil fut la Face Adorable voilée de pleurs. | カルメル山に移植された小さき花は、十字架の下で咲かなければなりませんでした。イエスの涙、イエスの血が、小さき花の露となりました。涙に覆われた美しき御顔が、小さき花の太陽でした。 | |||
Jusqu'alors je n'avais pas sondé la profondeur des trésors cachés dans la Ste Face, ce fut par vous, Ma Mère chérie, que j'appris à les connaitre. | 聖顔のうちに隠された宝の奥深さに、私はそのときまで気付いていませんでした。わが慕わしき御母よ、御身が私にその宝を知らしめ給うたのです。 | |||
Ms A 71r° |