受胎告知
ANNUNTIATIO




(上) Simone Martini e Lippo Memmi, "L'Annunciazione tra i santi Ansano e Margherita" (details), 1333, tempera e oro su tavola, 305 x 265 cm, La Galleria degli Uffizi, Firenze


 「受胎告知」(ANNUNTIATIO) とは、天使ガブリエルがナザレのマリアにイエズス・キリスト(イエス・キリスト)の受胎を知らせた出来事で、新約聖書正典では「ルカによる福音書」1章26節から38節に記録されています。

 なおこの解説ページでは、「ルカによる福音書」の記録そのものについて論述します。「ルカによる福音書」に基づいて作られた祈りである「天使祝詞」(「アヴェ・マリア」)についてはこちらのページ、美術における「受胎告知」についてはこちらのページをご覧ください。また「マーグニフィカト」についてはこちらのページをご覧ください。


【正典福音書における受胎告知】

 イエズスの誕生前後の事柄は、四つの福音書のうち、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に記録されています。ふたつの福音書を比べると、イエズスの誕生に関してルカはマタイに比べて圧倒的に詳しく記述しており、特に天使ガブリエルによるマリアへの「受胎告知」(ANNUNTIATIO) は、ルカにのみ記述されています。

 新共同訳聖書において、「ルカによる福音書」1章26節から38節は次のようになっています。

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。




【旧約聖書との関連】

 ところで福音記者たちは、福音書を書くにあたって、旧約聖書あるいはヘブル文学の形式を踏襲しました。とりわけイエズスこそが旧約聖書の預言したメシアであると示すために、ひとつひとつの言葉や文章の形式が、旧約聖書を半ば引用する形で選択的に使用されています。

 医師であったルカは、四人の福音史家のなかで最も洗練されたギリシア語を使う知識人でもありました。ギリシア、ローマの歴史家は、高雅な文体の序文を著作の冒頭に付ける習慣でしたが、四つの福音書の中で、ルカによる福音書のみ、このような序文が付いています。「ルカによる福音書」がユダヤ人向けではなく、ギリシア人をはじめ、主に異教からキリスト教に改宗した人々のために書かれた書物であることは、このように序文を付した型式からもわかります。しかしながらこの福音書においても、ルカが旧約聖書を強く意識していることに変わりはありません。

 「ルカによる福音書」と旧約聖書の緊密な内的関連性を示すために、内容あるいは形式において、上の引用箇所と明白な類同性が認められる旧約聖書の聖句を示します。日本語はいずれも新共同訳聖書に拠ります。


 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(士師記 6: 12)

 ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。(ルツ記 2: 4)

 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。(創世記 16: 11)

 主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」(士師記 13: 3 - 5)

 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書 7: 14)

 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ書 9: 6)

 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。(サムエル記下 7: 16)

 しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに/主が彼らの上に王となられる。(ミカ 4: 7)

 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル 7: 13, 14)

 彼(広川註、天使)は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。(ダニエル 10: 12)



 この他、「受胎告知」に関連が深く、「天使祝詞」にも取り入れられているエリサベトの言葉についても、旧約の聖句との類同性を指摘しておきます。


 あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。(ルカによる福音書 1: 41)

 女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女。(士師記 5: 24)



 四福音書のうち最初に成立した「マルコによる福音書」は、ローマにおいてラテン語使用者のために書かれました。ルカは「マルコによる福音書」に大きく依拠しており、「ルカによる福音書」のうち、60パーセントが「マルコによる福音書」から取り入れた内容であるといわれています。

 「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」は、いずれも異教から改宗したキリスト教徒向けの書物でありながらも、その一方で、イエズスが旧約で預言されたメシアであることを示すために、旧約聖書と不可分の内的連関を以って書かれています。成立年代の早さのみならず、ユダヤの伝統に基づいた内容の正統性ゆえに、「マルコによる福音書」も「ルカによる福音書」も、カノン(正典)に相応しい書物であるということがよく分かります。



【天使の言葉「カイレ」(アヴェ)の意味】

 天使ガブリエルがマリアに呼び掛けたときの言葉「カイレ」(「アヴェ」)についても、旧約聖書に照らして見るならば、単なる挨拶ではないことが分かります。ここに再び、「ルカによる福音書」1章28節を、ギリシア語原文とラテン語を付して引用します。ギリシア語はネストレ=アーラント26版、ラテン語はノヴァ・ヴルガタ、日本語は新共同訳に拠ります。


 καὶ εἰσελθὼν πρὸς αὐτὴν εἶπεν, Χαῖρε, κεχαριτωμένη, ὁ κύριος μετὰ σοῦ. ...  Et ingressus ad eam dixit: "Ave, gratia plena, Dominus tecum." ...  天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」



 紀元前3世紀から1世紀にかけて、旧約聖書がギリシア語に訳されました。ヘレニズム時代にはこの「七十人訳聖書」が広く用いられ、福音記者ルカも「七十人訳聖書」に通じていたと考えられています。しかるに「七十人訳聖書」の預言書には、次のような表現が見られます。


七十人訳 新共同訳
... .
ゼファニア書 3章14節
Χαῖρε σφόδρα, θύγατερ Σιών, κήρυσσε, θύγατερ ῾Ιερουσαλήμ· εὐφραίνου καὶ κατατέρπου ἐξ ὅλης τῆς καρδίας σου, θύγατερ ῾Ιερουσαλήμ. 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
.
.ゼカリア書 9章9節
Χαῖρε σφόδρα, θύγατερ Σιών· κήρυσσε, θύγατερ ῾Ιερουσαλήμ· ἰδοὺ ὁ βασιλεὺς σου ἔρχεταί σοι, δίκαιος καὶ σῴζων αὐτός, πραΰς καὶ ἐπιβεβηκὼς ἐπὶ ὑποζύγιον καὶ πῶλον νέον. 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。


 預言者ゼファニアとゼカリアは、それぞれの小預言書において、メシア(救い主)の出現を予告しています。上に引用した箇所の冒頭では「カイレ・スポドラ」(Χαῖρε σφόδρα ギリシア語で「大いに喜べ」)という呼びかけが為され、新共同訳では「喜び叫べ」「大いに踊れ」と訳されています。「大いに喜ぶ」理由は、メシアが出現するからです。

 旧約聖書の光に照らすと、「ルカによる福音書」1章28節の「カイレ Χαῖρε」(ラテン語では「アヴェ AVE」)は、これらの箇所における「カイレ」と同様に、メシアの出現を喜ぶ言葉であることがわかります。大天使ガブリエルはマリアに対して単に挨拶しているのではなく、救い主の生誕を予告して、「喜べ、恩寵を受けた女よ」(希 Χαῖρε, κεχαριτωμένη 羅 Ave, gratia plena)と言っています。


 ガブリエルが発したマリアへの呼びかけ「カイレ」(Χαῖρε) は、新共同訳では「おめでとう」と訳されています。旧約聖書とギリシア語の知識、及びヘレニズム時代の歴史的背景に関する知識が無ければ、単なる挨拶、あるいはせいぜいマリア個人の「おめでた」(懐妊)を祝福する言葉として読み流してしまいそうになりますが、この一言には、イエズスこそが旧約の預言者たちが待ち望んだメシアであるという意味が籠められているのです。




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