悔悛のガリア
Gallia pœnitens/pænitens




(上) キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。ノートル=ダム・ド・ランスは歴代のフランス国王が戴冠した司教座聖堂です。手前にジャンヌ・ダルクの騎馬像が見えます。戦時ゆえか、ガリアはコロナ・キーウィカを着けています。当店の商品。



 「主の五つの御傷」、すなわちイエズスが受難の際に負い給うた両手両足と脇腹の傷への信心は、既に中世に存在していました。「主の五つの御傷」に対するこの信心は、17世紀後半、聖ジャン・ユード (Jean Eudes, 1601 - 1680) と、とりわけ聖マルグリット=マリ (Margueritte Marie Alacoque, 1647 - 1690) の功績により、「イエズスの聖心」に対する信心として発展、普及しました。


 「イエズスの聖心」に対する信心は、19世紀後半のフランスにおいて、マルグリット=マリの時代以来フランスが犯し続けた罪への償いという形を取りました。本稿の目的は、近代フランスにおける聖心への信心が、フランスの罪に対する償いと結びついた経緯を明らかにすることです。議論は次のような構成に拠ります。

1. 19世紀のフランス人は、フランスが本来カトリックの守護者たるべきであると考えました。このように考えられた根拠はフランク以来の歴史に求めることができますが、近世以降の歴史的出来事としては、ルイ十三世による聖母へのフランス奉献が挙げられます。

 Jean Auguste Dominique Ingres, Assomption et Vœu de Louis XIII, 1824

2. マルグリット=マリに出現したキリストは、ルイ十四世への(すなわち、フランスへの)メッセージを聖女に託し、フランスが自らを聖心に奉献することを求めます。しかしルイ十四世(すなわち、フランス)はキリストの言葉に従わず、フランスは堕落して反キリスト教的な革命を起こすに至ります。フランスは普仏戦争に敗れますが、これは神が高慢なフランスに与え給うた罰と考えられます。フランスが赦される唯一の道は、キリストがマルグリット=マリを通して命じ給うたとおりに、フランスが自身を聖心に奉献することでした。

3. フランス革命時に捕らえられたルイ十六世は、王権が回復した暁にはフランスを聖心に奉献するという誓いを立てましたが、これを果たせずに処刑されました。王政復古期の1818年に現れた冊子「フランスの救い」によって「ルイ十六世の誓い」が明らかになると、フランスが革命の罪を償うためには、聖心に対して自らを奉献しなければならないと考えられるようになりました。

4. ルイ十四世はキリストに従う意思が無く、ルイ十六世は処刑されたために誓いを果たせませんでした。フランスを聖心に奉献するという誓いは、それゆえ、19世紀のフランス国民に引き継がれたものと看做されました。この誓いを果たすために、国民的事業として、モンマルトルにサクレ=クール教会が建設されました。聖心に捧げた教会は、他にもフランス各地に建てられましたが、それらはモンマルトルの教会と同じ意味合いを持って建設されたものです。


 以上の議論の各項目を、以下の部分で具体的に論じます。

1. カトリックの守護者たるフランス - ルイ十三世による聖母へのフランス奉献

 1638年2月10日、三十年戦争でスペインと交戦していたフランス国王ルイ十三世 (Louis XIII, 1601 - 1643) は、跡継ぎの息子が生まれればフランスを聖母に捧げ、またパリ司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・パリ)にピエタの絵、ならびに新しい主祭壇と一群の彫刻を寄進するという誓いを建てました。また同年8月15日、聖母被昇天の祝日には、パリ司教座聖堂まで祈願の行列が行われました。翌月9月5日に、後のルイ十四世となる男の子が無事に産まれ、ルイ十三世はフランスを聖母に捧げました。

 下の二枚の絵は、ルイ十三世の宰相リシュリューの下で活躍した画家フィリップ・ド・シャンペーニュ (Philippe de Champaigne, 1602 - 1674) による作品で、フランス王国を聖母に奉献するルイ十三世を描いています。フランス王国の公式の絵とも言うべきこれらの作品は、ルイ十三世によるフランスの奉献が、王室の私的な信心としてではなく、国王としての立場で為された公式の宣言であることを示しています。


(下) Philippe de Champaigne, "Le vœu de Louis XIII à la Vierge", 1638



(下) Philippe de Champaigne, "Louis XIV offrant sa couronne à une Vierge à l'Enfant", 1643





2. フランスが自らを聖心に奉献すべき第一の理由 - マルグリット=マリに対する聖心の啓示

 マルグリット=マリは、五つの傷と愛に燃える聖心を示すキリストの幻視を、1673年から1690年の間にたびたび経験し、後に行われるべき聖心への信心業の啓示を得ました。

 マルグリット=マリがキリストから受けた啓示には、フランス国王ルイ十四世へのメッセージも含まれていました。1689年当時、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院の院長を務めていたのはスール・マリ=フランソワーズ・ド・ソメーズ (Marie-Françoise de Saumaise) でしたが、マルグリット=マリはこの院長に宛てた1689年6月17日の手紙の中で、地上で辱めを受けたキリストが地上の君主に償いを求めていると述べた後、キリストが語ったという次の言葉を記しています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Fais savoir au fils aîné de mon sacré Cœur – parlant de notre roi – que, comme sa naissance temporelle a été obtenue par la dévotion aux mérites de ma sainte Enfance, de même il obtiendra sa naissance de grâce et de gloire éternelle par la consécration qu'il fera de lui-même à mon Cœur adorable, qui veut triompher du sien, et par son entremise de celui des grands de la terre.
   わが聖心の長子(ルイ十四世)に伝えよ。王は幼子イエズスの功徳によって儚(はかな)きこの世に生まれ出でたのであるが、崇敬されるべきわが聖心に自らを捧げるならば、永遠の恩寵と栄光のうちに生まれるを得るであろう。わが聖心は王の国を支配し、また王を仲立ちにして地上の諸君主の国々を征服することを望むからである。
         
     Il veut régner dans son palais, être peint dans ses étendards et gravé dans ses armes, pour les rendre victorieuses de tous ses ennemis, en abattant à ses pieds ces têtes orgueilleuses et superbes, pour le rendre triomphant de tous les ennemis de la sainte Église.    わが聖心は王の宮殿にて統べ治め、王の軍旗に描かれ、王の紋章に刻まれることを望む。そうすれば王はすべての敵に勝利し、驕り高ぶる覇者たちの頭をその足下へと打ち倒し、聖なる教会のすべての敵を征服するであろう。
         
      (Marguerite-Marie d'Alacoque, Lettre IIC, 17 juin 1689, Vie et œuvres, vol. II, Paray-le-Monial)     (「マルグリット=マリの生涯と著作 第二巻」より、1689年6月17日付第98書簡)


 十七世紀はイギリスでプロテスタント勢力によるピューリタン革命(1641 - 1649年)と名誉革命(1688 - 1689年)、プロテスタント勢力を加えた諸国とルイ十四世のフランスが交戦したプファルツ継承戦争(1688 - 1697年)が起きた時代です。またオスマン・トルコは東地中海の制海権を未だ維持しており、1683年にはウィーンを攻囲しました。

 上記の啓示でキリストはルイ十四世を「わが聖心の長子」(le fils aîné de mon sacré Cœur) と呼んでいますが、この表現を十七世紀という時代背景に照らすと、「カトリック教会の長姉」(fille aînée de l'Église)、すなわちカトリック教会の守護者たるフランスのイメージがはっきりと浮かび上がります。


 国王の身分は国家を象徴します。それゆえにルイ十三世が聖母にフランスを奉献するというとき、これはルイ十三世個人の私的な信心の問題ではなく、公式の宣言であると考えられます。ルイ十三世の宣言によって、フランスは聖母のものになったのです。

 マルグリット=マリに現れたキリストは、フランス王ルイ十四世を「わが聖心の長子」と呼び、王へのメッセージをマルグリット=マリに託しました。これは私人としてのルイ十四世個人に対してではなく、フランス王国の元首としてのルイ十四世に対して為された呼びかけです。換言すればキリストは、ルイ十四世に対して呼びかけるという形を取りながらも、国王個人ではなくフランスに対して呼びかけたのだと考えることができます。


 マルグリット=マリはキリストから受けた啓示をルイ十四世宛ての手紙に記しました。聖女の手紙はパレ=ル=モニアルのド・ソメーズ院長から、パリ、シャイヨ宮にある聖母訪問会修道院の院長、王妃、国王付聴罪司祭を経て国王に渡されるはずでした。

 しかしながら国王からの反応はありませんでした。聖女の手紙がいずれかの段階で止められたか、あるいは国王が手紙を読んでも内容を実行しなかったのです。その結果、聖女の没後長らくの間、聖心への信心が修道会の枠を超えて国家に関連付けられることはありませんでした。


(下) イアサント・リゴー (Hyacinthe Rigaud, 1659 - 1743) によるルイ十四世像。太陽王 (Roi-Soleil) と呼ばれたルイ十四世は当時のヨーロッパで最強の君主であり、ヴォルテールが伝える「朕は国家なり」(L'État, c'est moi.) という言葉は有名です。

 Hyacinthe Rigaud, "Louis XIV", 1701, huile sur toile, 277 × 194 cm, musée Bernard d'Agesci, Niort


 19世紀後半のフランスにおいて、聖心に対する信心が広まる過程で大きな役割を果たしたのは、ラミエール神父 (Henri Maríe Félix Ramière, S.J. e. a. 1821 - 1884) が 1861年に発刊した信心書のシリーズ「イエズスの聖心のおとずれ」(Le Messager du Sacré Cœur de Jésus) です。マルグリット=マリの第98書簡の啓示は、1867年8月に発行された「イエズスの聖心のおとずれ」第12号で初めて公開されました。教皇ピウス9世が、マルグリット=マリ列福の小勅書を出したのは1864年8月19日ですから、第98書簡の公開はそのちょうど三年後に当たります。


 ルイ十四世が歩むべき道に関し、マルグリット=マリに対して為された1689年の啓示が、1867年まで知られなかったという事実は、啓示の内容が当時の国王ルイ十四世に伝えられなかったか、もしくはルイ十四世がキリストの言葉に従わなかったことを意味します。そのいずれにせよ、聖女を通して与えられたキリストからの啓示に、ルイ十四世が心を動かすことはありませんでした。

 これは国王個人の問題ではなく、フランス王国がキリストに対して不服従であったことを意味します。キリストは聖女を通して国王に語りかけるという形を取りながらも、むしろフランス人全員に語りかけ給うたのですが、フランス人はこれに耳を貸さなかったのです。


(下) 聖心を示すキリストと、聖マルグリット=マリ。19世紀のクロモリトグラフィ。当店の商品です。




 普仏戦争の敗北、コミューンの内乱など、その後のフランスを襲った数々の不幸は、ノアの洪水に比することができます。それらの災厄はルイ十四世に象徴されるフランス人の心が頑なになり、キリストの啓示に聴き従わなかった結果であると思われました。キリストの啓示が為されてフランスには回心の機会が与えられたのに、それ以来百年経ってもフランスは回心せず、それどころかフランス革命を起こして、ますます悪くなりました。聖女に啓示が為されたちょうど百年後、1789年の聖心の祝日(6月17日)に第三身分が国民議会を結成し、反キリスト教的、反教会的なフランス革命が本格化したことは、保守的な人々の目から見れば、フランスが神に反逆した象徴的な出来事と映りました。

 ルイ十三世によって聖母に捧げられたフランスは、本来カトリックの守護者であるはずなのに、ルイ十四世、すなわちフランスはキリストの言葉に従わずに堕落し続けました。神は旧約時代に、堕落した人間をノアの洪水で滅ぼし(創世記6章から9章)、傲慢になった人間が築いたバベルの塔を崩し給いました(創世記 11: 1 - 8)。18世紀、19世紀にフランスを襲った災厄は、ノアの洪水やバベルの塔の故事と同様に、神がフランスを罰し給うたものに違いありません。


 それゆえ19世紀後半のフランスでは、1689年の啓示が公開されたいまこそが悔悛のときであると思われました。国民が犯し続けてきた罪を償うことこそが、フランス国民の務めであると考えられ、「償い」こそが聖心への信心の中心的テーマとなりました。



3. フランスが自らを聖心に奉献すべき第二の理由 - ルイ十六世の誓い

 フランス革命後に始まった第一帝政はナポレオン戦争におけるナポレオンの敗退で終わり、フランスは 1814年から1830年までの間、再び王国となりました。この「王政復古期」の国王は、1793年にギロチンで処刑されたルイ十六世の弟、ルイ18世でした。

 1818年、イエズス会士ロンサン神父 (P. Pierre Ronsin)によると思われる著作「フランスの救い」(Le Salut de la France) が出版されて、広く流布しました。この本の表紙には十字架に架かり、傷付いて血を流す聖心の絵が描かれていました。「フランスの救い」の匿名の著者は、「十字架上の聖心」への信心が足りなかったゆえに、フランス国内で反宗教の勢力が力を得て、教会や祭壇が破壊されるに至ったのだと論じました。この本の影響により、十字架上の聖心への崇敬が、フランスに救いをもたらすと考えられるようになりました。


 1792年の九月虐殺 (Massacres de Septembre) で犠牲となった聖職者のひとり、「イエズスとマリアとの司祭修道会」(la Congrégation de Jésus et Marie, CIM 聖ユード会)総長のエベール神父 (Père François-Louis Hébert, 1738 - 1792) は、ルイ十六世の聴罪司祭でしたが、「フランスの救い」にはエベール神父がルイ十六世から聴き取ったとされる内容が含まれていました。この内容は「ルイ十六世の誓い」(le vœu de Louis XVI) として広く知られることになります。


(下) 「ヴェルサイユ襲撃時のルイ十六世と家族」 ユリウス・ベンツール (Julius Benczur, 1844 - 1920) の原画による1890年代のフォトグラヴュア。当店の商品です。




 「ルイ十六世の誓い」によると、獄中の国王は神に対し、釈放されて王権が回復された暁には、教皇の命であれ、立憲議会が定めた聖職者基本法の命であれ、教会のすべての命に従うこと、聖心に捧げた祝日を定めること、パリ司教座聖堂に出向いて王自身と王室、および王国を聖心に捧げ、また聖心の礼拝堂あるいは祭壇を寄進することを誓いました。しかしながらルイ十六世はギロチンで処刑され、またパリ司教座聖堂は荒廃して、この誓いが果されることはありませんでした。


4. 結語 フランス国民に引き継がれた「誓い」とサクレ=クール教会




(上) アンリ・シャピュ作 「キリストの聖心にバシリカを捧げる悔悛のガリア」 当店の商品です。


 ルイ十四世とルイ十六世はともに国王であり、フランスそのものを象徴します。キリストがルイ十四世に対し、フランスを聖心に奉献するように命じたとき、それは私人の内的な信仰を指導したのではなくて、フランスが聖心に対して公式に奉献されることを求め給うたのです。またルイ十六世がフランスを聖心に奉献することを誓ったとき、それは私人の内的心情の表明ではなく、フランスを代表する国王としての正式な誓約です。しかるにルイ十四世はキリストに従う意思が無く、ルイ十六世は処刑されたために誓いを果たせませんでした。フランスを聖心に奉献するという誓いは、それゆえ、19世紀のフランス国民に引き継がれたものと看做されました。

 マルグリット=マリを通して啓示を与えられ、自らを聖心に奉献するように命じられたにもかかわらず、フランスはこれに従いませんでした。堕落を重ねたフランスは、マルグリット=マリへの啓示のちょうど百年後に革命を起こし、遂に国王殺しに至りました。それゆえ神は、普仏戦争によってフランスを罰し給いました。フランスが赦されて神から再び祝福を受けるには、国王が果たさなかったフランス奉献の誓いを「国民の誓い」(le vœu national) として引き継がなくてはなりません。


 モンマルトル、サクレ=クール教会


 1873年5月24日、ポワチエのピィ司教 (Louis-Édouard-François-Désiré Pie , 1815 - 1880) はフランスの霊的目覚めを呼びかけ、第三共和制のもとにカトリックの組織と世俗の組織がともに手を取り合って、国民の宗教心を刷新すること、悔い改めたフランス(ガリア)をイエスの聖心に捧げること (SACRATISSIMO CORDI JESU GALLIA PŒNITENS ET DEVOTA) を訴えかけました。

 「聖心に対するフランス奉献」を具体的な形で実現させるため、1870年以降、モンマルトルにサクレ=クール教会を建設することが議論されました。1873年7月24日、モンマルトルにおける聖堂の建設は公共の事業であると宣言され、教会はその建設計画を「フランス国民の誓い」であるとしました。聖堂は 1875年に建設が始まり、1919年に竣工しました。

 なおこの時代には、モンマルトルの他にも、フランス各地にサクレ=クール教会が建設されました。これらの教会はいずれも、悔悛のガリアたるフランスのカトリック教会が、長らく果たされなかった神への誓いを果たすために建設したものであり、フランス教会史においてモンマルトルの聖堂と同等の意味を有します。


5. 補遺 20世紀における「悔悛のガリア」 --- 第一次世界大戦期に行われた「聖心へのフランス奉献」




(上) マッツォーニ作 「聖心を見上げるマルグリット=マリ」 直径 18.6ミリメートル 第一次大戦期 当店の商品です。


 19世紀後半における「悔悛のガリア」の国民運動が、当時のフランスに大きな影響を与えたことは既に見たとおりです。しかしながら「悔悛のガリア」の国民運動は19世紀のみにとどまるものではなく、20世紀の初めにフランスを襲った国難、第一次世界大戦においても顕著な形を取って現れました。すなわち 1915年 6月11日には「フランスを聖心に奉献する」儀式が、1917年 6月 15日には「連合国軍の兵士たちを聖心に奉献する」儀式が、1919年 10月 16 - 19日にはモンマルトルのサクレ=クール教会を聖心に奉献する儀式が、いずれもフランスの全枢機卿の名においてパリ大司教が布告し、フランス全土のカトリック教会で執り行われたのです。この事実からは、20世紀に入って十数年が経っても、「悔悛のガリア」の思想がフランス人の精神に強く働きかける力を保っていたことがわかります。

 第一次世界大戦期に行われた「聖心へのフランス奉献」には、「戦勝を祈願する」「対独戦争を聖戦と位置付ける」「国教に準ずる宗教としてのカトリック再興を試みる」という側面があると考えられます。最後の点に関しては、第三共和政が政教分離と社会の世俗化を極端なまでに推し進め、フランス国内のカトリック教会を反キリスト教的といえるまでに迫害したこと、及びアンシアン・レジーム期まではカトリックが事実上の国教であったのに対して、近現代では「信仰」が個人の問題とされるようになったことへの反動が背景にあります。

 上に示した写真は第一次大戦期のフランスで制作されたメダイです。マルグリット=マリが頭上に輝く聖心を見上げる構図は、コンスタンティヌス大帝が空に浮かぶ十字架を見上げる姿を連想させます。この作品において聖心はフランス国民に対し「この印にて勝利せよ」(IN HOC SIGNO VINCES.) と語り掛けています。およそ百年前に制作された本品の意匠には、当時のカトリック教会がフランスの奉献によって実現しようとした上記の願い、すなわち「対独戦の聖戦化と戦勝」及び「フランス社会全体のカトリック化」、さらにはド・ソメーズ院長に宛てた1689年6月17日の手紙でマルグリット=マリが書いているように、聖心に捧げられたフランスを仲立ちにし、「神の愛の支配がすべての国々に広まるように」という願いが籠められています。



註1 1917年 1月 5日には、イタリアのカトリック教会において、イタリア軍の兵士たちを聖心に捧げる儀式が執り行われました。


番外註 「悔悛のガリア」に関連して、宗教色よりも政治色が強い幻視としては、「マルタン・ド・ガラルドン」として知られる農夫トマ・マルタン(Thomas Martin, dit Martin de Gallardon, 1783 - 1834)の例があります。1816年、農夫トマは多数回に亙り、「神に次いでよく知られる大天使ラファエル」からお告げを受けたと主張しました。トマが幻視したラファエルはフロックコートを着、山高帽を被っていました。

 トマは当時の精神科医が診断したように、おそらく狂人でしたが、ルイ十八世はチュイルリー宮にトマを招き、二人きりになって謁見を行っています。王と対話した出来事によってトマは一躍脚光を浴び、傍系のルイ十八世を正当な国王と認めない正統王党派の俗人のみならず、一部の教会関係者からも預言者と看做されました。



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