パリ、ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールのバシリカ
La Basilique Notre-Dame-des-Victoires, Paris
ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールのバシリカ 古い絵葉書から
「ラ・バジリク・ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」(La Basilique Notre-Dame-des-Victoires フランス語で「勝利の聖母のバシリカ」)はパリの中心部にある聖堂で、パリの七つの小バシリカのひとつです。もともと跣足アウグスチノ会の修道院付属聖堂でしたが、修道院と聖堂はフランス革命期に国有化されました。聖堂は
1802年にカトリック教会に返還されましたが、修道院は使われないまま 1858年に取り壊されました。
ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールのバシリカに安置される同名の聖母「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」(Notre-Dame des Victoires フランス語で「勝利の聖母」)は、「罪人の避け所」(le
Refuge des pécheurs) として崇敬を集めています。
【ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールの歴史】
・修道院と聖堂の建設
聖アウグスチノ隠修士会の改革派修道士たちは、1588年、トレドの東八十キロメートルにあるタラベラ・デ・ラ・レイナに最初の改革派修道院を設立しました。後に
跣足アウグスチノ会 (Ordo Augustiniensium Discalceatorum, O. A. D.) と呼ばれることになるこの改革派はフランスにも伝わり、1619年、パリに修道院の用地三ヘクタールを取得しました。
しかしながら修道院を建設する資金が無かったので、修道士たちは国王ルイ十三世 (Louis XIII, 1601 - 1610 - 1643)
に資金提供を願い、ルイ十三世は新しい聖堂を「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」(Notre-Dame des Victoires フランス語で「勝利の聖母」)と名付けることを条件に、資金提供に応じました。ルイ十三世が「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」という名前を付けるように求めたのは、ラ・ロシェル攻囲戦の勝利を聖母に感謝するためでした(註1)。聖堂の設計はピエール・ル・ミュエ
(Pierre Le Muet, 1591 - 1669)(註2)が担当しました。
1629年12月8日、三十名の修道士が見守るなか、初代パリ大司教(註3)ジャン=フランソワ・ド・ゴンディ (Mgr. Jean-François de Gondi, 1584 - 1654) が建物の用地に十字架を立てて祝福しました。翌12月9日、廷臣たち、パリ市の行政官たちが見守るなか、国王自身によって定礎が行われました。
なお建設工事は資金難のために長らく中断していましたが、1656年に再開しました。聖堂の工事には建築家リベラル・ブリュアン (Libéral
Bruand, c. 1635 - 1697) や、ガブリエル・ル・デュク (Gabriel Le Duc, 1635 - 1696) が関わっています。聖堂が祝別されたのは
1666年、最終的に完成したのは 1740年です。1737年から1740年の最終段階では、建築家ジャン=シルヴァン・カルトー (Jean-Sylvain
Cartaud, 1675 - 1758) により、身廊西端のベイ三つ分と西側正面、及び翼廊の円屋根が建設されました。
・フィアクル修道士に対する聖母の出現と、王子(後のルイ十四世)の誕生
1637年当時、フランスは三十年戦争でスペインと交戦していました。国王ルイ十三世と王妃アンヌ・ドートリシュ (Anne d'Autriche,
1601 - 1666) は結婚22年目を迎えていましたが、いまだに跡継ぎの息子が無く、王子の誕生が強く願われていました。
跣足アウグスチノ会のフィアクル修道士 (Fr. Fiacre de Sainte-Marguerite, Denis Antheaume,
O. A. D. 1609 - 1684) は、同年10月27日、早朝1時から4時まで四回の祈りのたびごとに、聖母を幻視しました。現在は国立公文書館に保管されている修道院の文書によると、赤ん坊の泣き声を聞いたフィアクル修道士が振り向くと、美しい光に包まれた聖母が一人の男の子を腕に抱いて、椅子に座っていました。聖母は星をちりばめた青いローブを着、頭に三重の冠を被っていました。聖母の髪は肩に掛かっていました。聖母が修道士に向かって「子よ。恐れることはありません。わたしは神の母です」と言いました。修道士は聖母が抱いている男の子が幼子イエスであると思い、ひれ伏して礼拝しようとしましたが、聖母は「子よ。これはわたしの息子ではありません。神がフランスに与えることを望み給う子供です」と言いました。聖母はノートル=ダム・デ・グラース(註4)、ノートル=ダム・ド・パリ(註5)、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにノヴェナ(仏
neuvaine 九日間の祈り)を捧げることを、フィアクル修道士に命じました。フィアクル修道士は同年11月8日から12月5日までかかってノヴェナを捧げました。またフィアクル修道士の幻視は国王夫妻にも知らされました。
1638年2月10日、ルイ十三世は、王子が生まれればフランスを聖母に捧げ、また
パリ司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・パリ)にピエタの絵、ならびに新しい主祭壇と一群の彫刻を寄進するという誓いを立てました。また同年8月15日、聖母被昇天の祝日には、パリ司教座聖堂まで祈願の行列が行われました。翌月9月5日、王妃アンヌ・ドートリシュは待望の王子ルイ・ディユドネ(Louis,
Dieudonné フランス語で「神が与え給うたルイ」の意)を出産し、ルイ十三世はフランスを聖母に捧げました。
・「罪びとの避け所」なる聖母への信心
イタリアを訪問した際に、
サヴォーナの「ノストラ=シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア」(Nostra Signora della Misericordia イタリア語で「慈悲の聖母」 註6)を知ったフィアクル修道士は、パリに戻った後、修道院付属聖堂ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール内に、この聖母に捧げた礼拝堂を作りました。建設資金はルイ十四世 (Louis XIV, 1638 - 1715) が提供し、礼拝堂は 1674年4月2日に祝別されました。
ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール内に安置された「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」(Notre-Dame de Savone フランス語で「サヴォーナの聖母」)の新しい像は、白いマントを羽織り、金の冠を戴いていました。フィアクル修道士は聖母像の前に身を投げ出し、聖母がこの聖堂において「罪びとの避け所」(le
refuge des pécheurs) となってくださるように、またイタリアと同様にフランスにおいても人々を庇護し給うように祈りました。
・「マリアの汚れ無き御心」への教区奉献と、集団的回心(1836年)
パリ外国宣教会の司祭であったシャルル=エレオノール・デュフリシュ=デジュネット師 (Charles-Éléonore Dufriche-Desgenettes,
1778 - 1860) は、1832年、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールの主任司祭に着任しました。その頃、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールの教区はパリで最も風紀が乱れたところでした。ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール聖堂自体、総裁政府時代(1795年11月2日から1799年11月10日まで)には宝くじの発行本部兼証券取引所になっており、1802年にカトリック教会に返還されましたが、教区民の不信仰と自堕落な生活態度は相変わらずでした。熱血漢であったデュフリシュ=デジュネット師は、住民の信仰心を高めるべく着任後四年に亙って奮闘しましたが、教区の酷い状況にはまったく変化が無く、教区司祭を辞任する決意を固めかけていました。
そんなある日のこと、ミサを捧げていたデュフリシュ=デジュネット師は、「『マリアの至聖にして汚れ無き御心』に教区を捧げなさい」という声を二度聞きました。この声に従って、デュフリシュ=デジュネット師はマリアの御心に捧げた「マリアの至聖にして汚れ無き御心信心会」 ia confrérie du très Saint et Immaculé cœur de Marie (「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール信心会」 la Confrérie de Notre-Dame des Victoires)の会則を書き、この会則は 1836年12月10日、パリ大司教ヤサント=ルイ・ド・ケラン師 (Mgr. Hyacinthe-Louis de Quélen, 1778 - 1821 - 1839) によって承認されました。
信心会の初会合は翌11日でした。この頃、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールでは、比較的参加者が多い朝のミサであっても、せいぜい数十人しか顔を出さないのが常でした。ところがこの日は500名近くの教区民が晩課に出席して熱心に祈り、デュフリシュ=デジュネット師を驚かせました。
1838年4月24日、教皇グレゴリウス十六世 (Gregorius XVI, 1765 - 1831 - 1846) は「マリアの至聖にして汚れ無き御心信心会」(ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール信心会)を、「大信心会」(Archiconfrérie)
に格上げしました。
【ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール 「勝利の聖母」像、及びエクス・ヴォートーなど】
バシリカには、漆喰(しっくい)製の聖母子像「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」(Notre-Dame de Victoire フランス語で「勝利の聖母」)が安置されています。
「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」はイタリア人彫刻家の作品と言われ、優しい表情の聖母が幼子イエスの傍らに立っています。幼子イエスの足下には
全宇宙を象徴するグロブス(羅 GLOBUS 球体)があって、星がちりばめられています。幼子イエスがグロブスの上に立つ姿は、イエスが全宇宙の支配権を有することを表しています。
聖母は幼子イエスを両腕で抱き、優しく寄り添っています。聖母のこの姿勢には、ふたつの意味を読み取ることができます。
まず第一に、幼子を優しく抱き寄せる聖母の姿は、不安定な場所によじ登った幼児が転落しないように、幼児の体を支える母親の愛を表しています。
神学的に考えると、全宇宙の創造主であり主宰者であるイエスズ・キリストがグロブス(球体)から転落するということはありえず、実際「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」においても、幼子は堂々とした様子で球体上に立っています。しかしながらキリストはマリアの子として降誕し、普通の子供と同じように育ち給うたのですから、イエスが健康な身体と健全な精神を持って成長し給い、公生涯を送った後に救世を成し遂げ給うたのは、母マリアの愛と庇護があってはじめて可能になったことでもあります。したがって「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」において、幼子を優しく抱き寄せる聖母は、幼子イエスを限りない母の愛で包んでいるのです。
第二に、イエス・キリストに寄り添う聖母の姿は、キリストが罪びとを愛するのと同様に、聖母もまた罪びとを愛し、憐れみ、罪びとのために執り成し給うことを表しています。天上なる聖母は、足許、すなわち地上に、慈母の眼差しを注いでいます。愛するひとり子イエスを十字架に懸けた罪人たちに対して、救い主イエスとともに慈愛の眼差しを注ぐ聖母の姿は、神とイエスへの愛ゆえに神の御意志に聴き従い、神の愛とひとつになった聖母の愛を表すのです。
「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の姿勢に籠められたこれらふたつの意味には、しかしながら、内的な深い繋がりがあります。すなわち、聖母はイエスを愛し給い、その愛ゆえに、世の罪びとをも愛して、その「避け所」(le
refuge des pécheurs) となり給うのであって、このふたつの愛は
マリアの汚れ無き御心 (l'Immaculé cœur de Marie)
においてひとつに融け合っているのです。
それゆえ聖母子像「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は、「マリアの汚れ無き御心」の愛の形象化であるということができます。
(下) ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール 1853年頃のアンティーク・カニヴェ(部分)
当店の商品です。
もともとこの祭壇には、1670年代にフィアクル修道士によって「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」(Notre-Dame de Savone フランス語で「サヴォーナの聖母」)像が安置されていましたが、「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」はフランス革命期の1796年に破壊されてしまいました。破壊された「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」に代わって
1809年に安置されたのが、「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」です。
イタリアにとって、1820年代頃から1860年代頃までは、リソルジメント(国家統一)に伴って戦争と混乱が続いた不穏な時代でした。1848年11月15日、教皇領で首相ペレグリーノ・ロッシ
(Pellegrino Rossi, 1787 - 1848) が暗殺され、その9日後に教皇ピウス九世 (Pius IX, 1792 - 1846
- 1878) は一司祭の姿に変装してローマを脱出し、当時両シチリア王国領であったガエタ(Gaeta 現在のラツィオ州ラティナ県)に避難しました。ピウス九世がいなくなった教皇領には、1848年2月9日、ローマ共和国
(la Repubblica Romana) が成立し、信教の自由をはじめとする急進的な政策を実施しました。
いっぽうフランスでは1848年2月23日に「二月革命」が起こり、七月王政が倒れました。同年12月10日に行われた直接選挙では、ナポレオン一世の甥であるルイ=ナポレオン・ボナパルト
(Louis-Napoléon Bonaparte, 1808 - 1873 註7) が、75%という驚異的な得票率で第二共和政の初代首相に選ばれました。
ガエタに亡命中の教皇ピウス九世は、ローマ共和国を倒して教皇領を回復すべく、ルイ=ナポレオン・ボナパルトに救援を要請します。ルイ=ナポレオン・ボナパルトはかつて教皇領で反乱が起こった際に自由主義側(反教皇側)に味方していましたが、1848年の時点では、ローマとつながりが深いカトリック聖職者(ウルトラモンタニスト)の協力によって選挙に勝利していたために、教皇の救援要請を断り切れず、ローマに出兵しました。「ローマ共和国」軍は勇敢に戦いましたが、1849年7月3日、フランス軍に降伏しました。
教皇ピウス九世はフランスに感謝して、「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」を戴冠させるように命じます。「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」像は、1853年7月9日、ペッチ枢機卿
(Mgr. Gioacchino Vincenzo Pecci, 1810 - 1903) により戴冠しました。(註8)
【ノートル=ダム=デ=ヴィクトワールにゆかりの聖人など】
テオドール・ラティスボンヌ神父 (P. Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884 註9) は、1840年からノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにおいて信心会の会長補佐を務めました。同じ頃、後に尊者となるフランソワ=マリ=ポール・リーバーマン神父
(Ven. François-Marie-Paul Libermann 註10) がノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに創設した「マリアの聖心会」(la
Société du Saint-Cœur de Marie) は、現在の「聖霊修道会」(La Congrégation du Saint-Esprit,
Spititain) の源流となりました。
また既述のように、パリ外国宣教会もノートル=ダム・デ・ヴィクトワールと深いつながりがあります。1861年2月2日にハノイで殉教することになるジャン=テオファン・ヴェナール師
(St Théophane Vénard, 1829 - 1861) は、神学校在学中の1847年にノートル=ダム・デ・ヴィクトワール大信心会に加入し、ヴェトナムに出発する前にはヴェトナムにおける司祭としての働きをノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに委ねました。
イギリス国教会の司祭から1845年にカトリックに改宗し、後に枢機卿となったジョン・ヘンリー・ニューマン師 (Mgr. John Henry
Newman, 1801 - 1890) は、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールを訪れて、自身の改宗を聖母に感謝しています。
テレーズ・マルタン、後のリジューの聖テレーズ (Ste. Therese de Lisieux, 1873 - 1897) は10歳のときに原因不明の体調不良で重篤な容態になりましたが、
微笑む聖母を幻視して回復しました。
テレーズの自叙伝によると、この聖母はノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに他なりませんでした。またテレーズは14歳のときに家族とローマを訪れていますが、リジューからローマに向かう途中でノートル=ダム・デ・ヴィクトワールに立ち寄って、カルメル会に入る望みがかなうように祈っています。
テレーズは愛読の「イミターティオー・クリスティー」(
"Imitatio Christi" 「キリストに倣いて」)に、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の小聖画を挟んでいました。カルメル会に入会したいという望みを
父ルイ・マルタンに伝えたとき、父は娘に小さな花を贈り、テレーズはその花を聖画に貼り付けました。亡くなる数日前、テレーズは聖画の裏に名前を書きましたが、これはテレーズの最後の署名となりました。
テレーズはカルメル会修道院の病室で亡くなりましたが、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」の像はここにも安置されており、地上におけるテレーズの最後の日々を見守りました。
1865年4月12日、
パリ外国宣教会のベルナール・プチジャン神父 (P. Bernard-Thadée Petitjean, 1829 - 1884) によって日本キリシタンが再発見され、世界に衝撃を与えました。神父は長崎の信徒たちを密かに指導しましたが、1867年、キリシタンたちの信仰が露見して、浦上四番崩れが起こります。
東京国立博物館には、浦上四番崩れの際に浦上の村民たちから押収された多数のメダイやロザリオ、聖像が収蔵されています。聖像のなかには「
無原罪の御宿り」や「幼子イエス」「
大天使ガブリエル」に混じって、「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」一点があります。この「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は石膏製で、高さ九十四ミリメートルの小像です。キリスト教は禁制であったので、大きな像を所持することは不可能であったと思われます。東京国立博物館の「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」は幼子イエスの頭部が失われていますが、聖母はほぼ無疵で残っています。
また同博物館には 23 x 16 ミリメートルのブロンズ製メダイ八個が収蔵されており、一方の面が「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」、もう一方の面が
「バック通の聖母」となっています。これらのメダイは 1868年、浦上のキリスト教徒を捕縛した際の没収品で、プチジャン神父が日本キリシタンの勝利、すなわちキリスト教信仰の解禁を願って、浦上の信徒たちに贈ったものと思われます。
明治維新後もキリスト教は禁制のままであり、キリシタンたちは多くの殉教者を出し続けましたが、1873年(明治六年)、信徒たちの祈りはついに聞き届けられ、キリシタン禁制の高札が撤去されました。
註1 この時代は三十年戦争(1618 - 1648年)期で、フランスとイギリスが対立した時代でした。前世紀のユグノー戦争(1562 - 1598年)は1598年の「ナント勅令」によって終結しましたが、フランス国内ではカトリックの国王側とユグノーの間に緊張関係が続き、イギリスはこれに介入を試みていました。
フランス西部、ビスケー湾に臨む港湾都市ラ・ロシェル(La Rochelle ポワトゥ=シャラント地域圏シャラント=マリティーム県)はユグノーの橋頭堡でしたが、1627年から1628年にかけてここで攻囲戦が展開され、イングランドの援助を受けたユグノー軍が、リシュリュー枢機卿率いる国王軍と戦いました。
攻囲戦の結果はフランス国王軍の勝利に終わりました。飢餓と疫病に屈したユグノー側の状況は悲惨を極め、攻囲戦の開始時に 27,000人であったラ・ロシェルの人口は、カトリック側に降伏した時にはわずか 5,000人になっていました。
註2 ピエール・ル・ミュエ (Pierre Le Muet, 1591 - 1669) は1616年に国王付の建築家に任命されました。1828年のノートル=ダム・デ・ヴィクトワール聖堂をはじめ、1637年のレルネ(Lerné サントル地域圏シノン県)のシャヴィニ城
(château de Chavigny)、1638年のポン=シュル=セーヌ(Pont-sur-Seine シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏オーブ県)の城館など多数の建築物を設計しました。タンレ(Tanlay ブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県)のタンレ城
(château de Tanlay) は十六世紀以来建設作業が中断していましたが、これを完成させたのもル・ミュエです。
註3 従来パリはサンス大司教区に属していましたが、1622年10月20日、大司教区に昇格しました。
註4 「ノートル=ダム・デ・グラース」(Notre-Dame des Grâces フランス語で「恩寵の聖母」)は、1519年8月10日と11日、フランス南東部、コティニャック(Cotignac プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴァル県)において、モンルヴェル=アン=ブレス伯ジャン・ド・ラ・ボーム
(Jean de La Baume, comte de Montrevel-en-Bresse, + 1435) に出現した聖母です。
註5 「ノートル=ダム・ド・パリ」(Notre-Dame de Paris フランス語で「パリの聖母」)は、
パリ司教座聖堂ノートル=ダムに安置されている聖母子像です。
註6 「ノストラ=シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア」(Nostra Signora della Misericordia イタリア語で「慈悲の聖母」)は、1536年、イタリア北西部、フランス国境に近いサヴォーナ(リグリア州サヴォーナ県)近郊の小村サン=ベルナルドにおいて、牧夫アントニオ・ボッタ
(beato Antonio Botta) に出現した聖母です。聖母は水辺の岩の上に白い衣を着て現れ、当時交戦中であったジェノアとサヴォーナの人々に「正義ではなく慈悲」("misericordia
e non giustizia") を求めました。
註7 ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、1852年12月2日に皇帝ナポレオン三世として即位します。フランス第二帝政は 1870年9月4日まで続きます。
註8 「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」を戴冠させたペッチ枢機卿は、ピウス九世の死去に伴って 1878年に第256代ローマ教皇に選出され、「レオ十三世」(Leo
XIII) を名乗ることになります。
註9
マリ=テオドール・ラティスボンヌ神父 (P. Marie-Théodore Ratisbonne, 1802 - 1884) は、カトリックに改宗したユダヤ人神父です。「ノートル=ダム・ド・シオン信心会」を創設してユダヤ系子弟向けのカトリック教育に尽力し、その働きは歴代の教皇に高く評価されました。
マリ=アルフォンス・ラティスボンヌ神父 (P. Marie-Alphonse Ratisbonne, 1814 - 1884) は、もともとユダヤ人であり、あらゆる宗教を敵視する自由主義者でしたが、1842年1月20日、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ聖堂 (Basilica di Sant'Andrea delle Fratte) において「不思議のメダイ」と同様の聖母を幻視し、カトリックに改宗しました。同年6月にイエズス会に入会し、1848年に司祭となりました。
註10 後に尊者となるフランソワ=マリ=ポール・リーバーマン神父 (Ven. François-Marie-Paul Libermann) は、ラティスボンヌ神父と同じくアルザス出身のユダヤ人で、ラティスボンヌ神父の友人サムソン・リーバーマン医師の実弟です。リーバーマン神父はノートル=ダム・デ・ヴィクトワールにおいて「マリアの聖心会」(la
Societe du Saint-Cœur de Marie) を創設し、この会と、プラール・デ・プラス神父 (P. Claude-Francois
Poullart des Places, 1679 - 1709) が1703年に創設した聖霊修道会が1848年に合同し、現在の「聖霊修道会」(La
Congregation du Saint-Esprit, Spititain) の源流となりました。「聖霊修道会」は旧植民地原住民への宣教を目的としています。
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