心臓 COR cœur cuore corazón heart Herz
(上) 聖アントワーヌの心臓形メダイヨン 縦 22.8 x 横 16.6 mm 紙に石版画 金を張ったブロンズ 心臓形ガラス二枚 フランス 二十世紀初頭
当店の商品です。
全ての脊椎動物には心臓があります。心臓は家畜をはじめとする身近な動物や人間にもあります。内臓が体内で働く様子は、体の外側からはよくわかりません。しかし心臓が脈を打つ様子は胸に耳を当てればよくわかります。妊娠している動物や人間の子宮のあたりに聴診器を当てれば、胎仔の鼓動も聞こえます。
人間をはじめ動物が死ぬとき、心臓は死と同時に止まります(註1)。それゆえ古代以来、さまざまな文化圏において、心臓こそが生命を司る場所と考えられてきました。昔の西ヨーロッパでは、心臓は情動の座でした。古代インドにおいて、心臓はブラフマンの座でした。他の文化圏においても、心臓は知性と直観の座として重視されました。現代人の考えでは、生理機能の調節、知性や感情の働き、宗教的体験は、脳が担う働きです。しかしながら昔の人は、現代人が脳に属すると考える機能を、心臓の働きと考えていたのです。
【神と繋がる「霊の座」「信仰の座」としての心臓】
人間の「魂」(ψυχή, ANIMA, âme, soul)と「霊」(πνεῦμα, SPIRITUS, esprit, spirit)のうち、宗教心を司るのは「霊」であると考えられています。「詩篇」五十一篇十九節、及び「エゼキエル書」三十六章二十六節において、心臓を「霊」と同一視する修辞的表現が為されています。「詩篇」五十一篇十九節と「エゼキエル書」三十六章二十六節を、コイネー・ギリシア語による七十人訳、及び新共同訳によって引用します。なおこれらの箇所で新共同訳が「心」と訳している語(希
καρδία)は、「心臓」が本義です。
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七十人訳 |
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新共同訳 |
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「詩篇」 51: 19 |
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θυσία τῷ Θεῷ πνεῦμα συντετριμμένον, καρδίαν συντετριμμένην καὶ τεταπεινωμένην ὁ Θεὸς οὐκ ἐξουδενώσει. (PSALMI L 19) |
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しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 |
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「エゼキエル書」 36: 26 |
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καὶ δώσω ὑμῖν καρδίαν καινὴν καὶ πνεῦμα καινὸν δώσω ἐν ὑμῖν καὶ ἀφελῶ τὴν καρδίαν τὴν λιθίνην ἐκ τῆς σαρκὸς ὑμῶν καὶ δώσω ὑμῖν καρδίαν σαρκίνην. (Ezechielis XXXVI 26) |
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わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 |
シオンは世界の心臓であり、エルサレム神殿はシオンの心臓と呼ばれていましたが、神のいます至聖所こそがエルサレム神殿の心臓でした。十字架形平面プランを有する聖堂において、主祭壇の位置は受難するキリストの心臓がある場所と一致します。
ドイツ神秘主義を代表する思想家のひとり、アンゲルス・シレジウス (Angelus Silesius, c. 1624 - 1677) は、1657年に初版が出て
1675年に増補された詩集「ケルビムの如き旅人」(
„Cherubinischer Wandersmann“) において、心臓は神の宮であり、祭壇であると謳っています。「ケルビムの如き旅人」第三の書、百十三及び百十六を、十七世紀のドイツ語による原テキストに、日本語訳を添えて示します。日本語訳は筆者(広川)によります。ドイツ語のテキストは韻文ですが、筆者の訳は韻文になっていません。
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Angelus Silesius, „Cherubinischer Wandersmann“, drittes Buch, 113 |
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「ケルビムの如き旅人」第三の書、百十三 |
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Jch bin der Tempel Gotts, |
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我は神の宮なり。 |
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und meines Hertzens Schrein |
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我が心臓なる神龕は、 |
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Jsts allerheiligste, |
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いとも聖なり。 |
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wann er ist leer und rein. |
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空しく清らかなるときに。 |
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Angelus Silesius, „Cherubinischer Wandersmann“, drittes Buch, 116 |
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「ケルビムの如き旅人」第三の書、百十六 |
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Mein Hertz ist ein Altar |
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わが心臓は祭壇なり。 |
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mein will' ists Opffer-Gutt |
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わが意志は捧げ物なり。 |
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Der Prister meine Seel' |
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わが魂は司祭なり。 |
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die Liebe Feur und Glutt |
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愛は火と炎なり。 |
【サクレ=クール ― 「神の愛」「神に対する愛」を象徴する心臓】
中世末期のドイツでは聖心に対する信心が盛んになりました。受難の際に槍で突かれたキリストの心臓は、十字架をはじめとする
アルマ・クリスティともに、数多くの絵画や版画に描かれました。
(上) Meister E. S,
„Christkind im Herzen: wer ihs (Jesus) in sinem herzen tre(g)t, dem ist
alle zit die ewig froed beraeit“, ein Kupferstich, um 1467
上の写真はゴシック末期にオーバーライン地方で活躍した銅版画家マイスター・エー・エス(Meister E. S, c. 1420 - c. 1468)による最晩年の作品で、十字架を突き立てた心臓の中に幼子キリストを描いています。四人の天使はさまざまなアルマ・クリスティを持っています。
(上) マルグリット=マリが幻視した聖心。聖女自身による絵を石版画で複製したもの。
当店の販売済み商品。
十九世紀半ば以降、フランスでは
聖心に対する信心が盛んになりました。上の写真は
マルグリット=マリ(Ste Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690)が幻視した聖心の絵です。マルグリット=マリは 1864年9月18日、ピウス九世によってローマで列福されましたが、その三年前の 1861年にラミエール神父 (Henri Maríe Félix Ramière, S.J. e. a. 1821 - 1884) という人が信心書のシリーズ「イエスの聖心のおとずれ」(
Le Messager du Sacré Cœur de Jésus) を発刊し、その第十二号において、マルグリット=マリの「第九十八書簡」が公表されました。聖女の「第九十八書簡」において、聖女に対して出現したイエスが国王ルイ十四世に伝えるように命じた言葉を、十七世紀のフランス語による原テキストに、日本語訳を添えて示します。日本語訳は筆者(広川)によります。
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Fais savoir au fils aîné de mon sacré Cœur – parlant de notre roi – que, comme sa naissance temporelle a été obtenue par la dévotion aux mérites de ma sainte Enfance, de même il obtiendra sa naissance de grâce et de gloire éternelle par la consécration qu'il fera de lui-même à mon Cœur adorable, qui veut triompher du sien, et par son entremise de celui des grands de la terre. |
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わが聖心の長子(ルイ十四世)に伝えよ。王は幼子イエズスの功徳によって儚(はかな)きこの世に生まれ出でたのであるが、崇敬されるべきわが聖心に自らを捧げるならば、永遠の恩寵と栄光のうちに生まれるを得るであろう。わが聖心は王の国を支配し、また王を仲立ちにして地上の諸君主の国々を征服することを望むからである。
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Il veut régner dans son palais, être peint dans ses étendards et gravé dans ses armes, pour les rendre victorieuses de tous ses ennemis, en abattant à ses pieds ces têtes orgueilleuses et superbes, pour le rendre triomphant de tous les ennemis de la sainte Église. |
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わが聖心は王の宮殿にて統べ治め、王の軍旗に描かれ、王の紋章に刻まれることを望む。そうすれば王はすべての敵に勝利し、驕り高ぶる覇者たちの頭をその足下へと打ち倒し、聖なる教会のすべての敵を征服するであろう。 |
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Marguerite-Marie d'Alacoque, Lettre IIC, 17 juin 1689, Vie et œuvres, vol. II, Paray-le-Monial |
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「マルグリット=マリの生涯と著作 第二巻」より、1689年6月17日付 第98書簡 |
しかしながら国王は何の行動も起こさず、フランス国民は国王が無視したキリストの啓示を 1861年になってようやく知りました。これを一つの大きなきっかけとして、十九世紀後半から二十世紀前半のフランスでは
「悔悛のガリア」(GALLIA PŒNITENS)の運動が大きなうねりとなります。
【ウィリアム・ハーヴェイにおける心臓と太陽のアナロギア】
William Harvey, 1578 - 1657
パドヴァ大学に学んだイギリスの解剖学者ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578 - 1657)は、1628年、「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」("
Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus")を発表し、全身の血液が一体となって循環していること、この循環は心臓のポンプ作用によることを明らかにしました。
しかしながらハーヴェイにとって、心臓は決して単なるポンプではなく、あくまでも身体に生気を与える源、生命の基礎に他なりませんでした。「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」において、ハーヴェイは、心臓は「生命の源泉」である、とし、身体というミクロコスモスの「太陽」である、とも述べています。
「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」から、第八章「心臓を通り、静脈から動脈へと流れる血の量について。また血の循環について」(
De copia sanguinis transeuntis per cor e venis in arterias, et de circulari
motu sanguinis)を全訳し、別の解説ページに示しました。
このリンクをクリックすると、お読みいただけます。
【生命と愛の源である心臓】
心臓が単なるポンプではなく生命の座であるとすれば、恋人や配偶者に先立たれた人が、愛する人の心臓とともにありたいと願うのは自然なことでしょう。ここでは伝承に基づく文学と、発掘調査によって得られた実証的歴史資料から、そのような二例を取り上げます。
《「デカメロン」におけるギスモンダの例》
「デカメロン」(
"Decaeron", 1348 - 53)にはサレルノ公タンクレディの愛娘ギスモンダが、恋人の心臓を抱きしめつつ死んだ話が収められています(4. 1.)。
サレルノ公タンクレディはもともと善良な君主でした。公爵にはひとりしか子供がありませんでした。これはギスモンダという美しい娘で、公爵は娘を目の中に入れても痛くないほどに可愛がり、なかなか手放しませんでした。それでもようやくカポーヴァ大公の息子と結婚させましたが、ほどなくして未亡人となった娘がサレルノに戻ってくると、まだ若く美しい娘を再び結婚させようとはしませんでした。
ギスモンダはサレルノの宮廷に暮らすうち、父の家来のひとりであるグイスカルドに惹かれ、グイスカルドもギスモンダの気持ちに応えて、ふたりは愛し合うようになりました。グイスカルドは貴族ではなく、公爵が慈善のために幼いころから宮廷で養ってきた若者でした。
公爵の城にあるギスモンダの部屋からは、近くの洞窟に通じる秘密の通路がありました。地上からは縄梯子で通風孔を下りれば、洞窟内に降りることが可能でした。ギスモンダの部屋から洞窟に抜ける通路は古くて、いまは使われておらず、忘れられていました。しかし愛の神の目を逃れる秘密などありはしません。ギスモンダは通路のことを思い出し、何日もかかって秘密の扉を開けました。そしてグイスカルドに手紙を渡し、ふたりは洞窟で会うことができました。ギスモンダはグイスカルドを自室に入れて一日をともに過ごしました。その日からふたりはこの方法で逢う瀬を重ねるようになりました。
ある日ギスモンダの父である公爵タンクレディがギスモンダの部屋を訪れると、娘は侍女たちと庭で遊んでいました。部屋で娘を待つあいだ、公爵は眠り込んでしまいました。部屋に戻ったギスモンダは、父がいるのに気付かないままグイスカルドを招き入れ、恋人たちはベッドで戯れました。目を覚ました公爵は一部始終を目撃しましたが、二人から見えない位置にいるままであったので、ふたりは最後まで公爵に気づきませんでした。グイスカルドは秘密の扉から帰り、ギスモンダも部屋を出ました。公爵は部屋の窓から庭に飛び降り、娘の裏切りを悲しみつつ自室に戻りました。
その夜、公爵は家来たちに命じてグイスカルドを捕縛させ、城内の牢に監禁しました。公爵は娘の部屋に行き、「グイスカルドの処置はすでに決めたが、愛する娘であるお前をどうしたらよいか、わたしにはわからないのだ」と言って、娘の前で子供のように泣きました。ギスモンダはこれに答えて、自分はまだ若くて情欲が強いこと、グイスカルドが自分を呼んだのではなく、自分がグイスカルドを呼んだこと、徳ある者が貴族であるなら、グイスカルドこそ大貴族と呼ばれるにふさわしい男であること、父がグイスカルドと同様に自分を殺さないならば、自分は自ら始末をつけます、と言いました。公爵はギスモンダの立派な言葉を聞きましたが、娘が本当に自殺するとは思わず、グイスカルドに二人分の処罰を下すことにしました。公爵の命により、グイスカルドはその夜に絞殺のうえ心臓を抉り出されました。公爵は若者の心臓を黄金の器に入れ、家来に命じてそれをギスモンダのもとに届けさせました。
一方ギスモンダは、父が部屋を去った後、有毒な草や木の根を集めて蒸留し、毒薬を作っていました。父の家来がグイスカルドの心臓を持ってきたとき、ギスモンダは心臓に接吻して語り掛けました。そして驚くほどたくさんの涙で心臓を洗いつつ、接吻を繰り返しました。泣き終わったギスモンダは、グイスカルドの心臓が入った黄金の器に、前日作った毒薬を注ぎ入れて飲み干しました。そして心臓が入った黄金の器を持ってベッドに上がり、恋人の心臓を自分の心臓に近づけて、死を待ちました。
侍女たちから知らせを受けた公爵タンクレディはギスモンダの部屋を訪れ、瀕死の娘を見て泣き出しました。ギスモンダは自分とグイスカルドを同じ墓に埋めてくれるように父に言い、恋人の心臓を抱きしめて死にました。公爵は自分の残酷な行為を悔い、二人の恋人はサレルノの全市民が悲しむ中、同じ墓に葬られました。
物語の梗概を上に示しましたが、このうちギスモンダがグイスカルドの心臓に毒を注いで飲み干し、恋人の心臓とともにベッドに上がる場面を、十四世紀のイタリア語による原テキストに、日本語を添えて示します。日本語訳は筆者(広川)によります。
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E questo detto, si fé dare l'orcioletto nel quale era l'acqua che
il dí davanti aveva fatta, la quale mise nella coppa ove il cuore era da
molte delle sue lagrime lavato; e senza alcuna paura postavi la bocca,
tutta la bevve e bevutala con la coppa in mano se ne salí sopra il suo
letto, e quanto piú onestamente seppe compose il corpo suo sopra quello
e al suo cuore accostò quello del morto amante: e senza dire alcuna cosa
aspettava la morte. |
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このように語り終えると、ギスモンダは小さな壺を持ってこさせた。壺の中には、あらかじめ作っておいた液が入っていた。ギスモンダは自身が流した大量の涙で洗われた心臓が入っている杯に、その液を流し込んだ。そして全く恐れずに口を付け、すべて飲み干した。飲み終えると、杯を手に持ってベッドの上に退き、できるだけきちんと姿勢を整えて、体の上、自分の心臓の傍に、死んだ恋人の心臓を添えた。そして何も語らずに死を待った。 |
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Boccacio - Il Decamerone, Quarta Giornata, Novella Prima - V. Branca, 1992 |
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ボッカチオ 「デカメロン」 第四日 最初の物語 |
《ルイーズ・ド・ケンゴの例》
(上) レンヌの修道院でルイーズ・ド・ケンゴの遺体とともに発掘された鉛製容器。夫トゥサン・ド・ペリアンの心臓が入っています。
フランス北西部、ブルターニュ半島の基部にある都市レンヌ(Rennes ブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県)のドミニコ会修道院(le couvent
des Jacobins, Rennes)は 1369年に創建された古い修道院で、当地の貴族が埋葬される墓所のひとつとなっていました。2009年、ここを改装して大規模なサントル・デ・コングレ(centre
des congrès
コンヴェンション・センター)とすることが決定されたので、改装工事に先立ち、2011年から 2013年にかけて、フランスの国立考古保存調査協会(l'Institut
national de recherches archéologiques préventives, INRAP)による発掘調査が行われ、およそ九百体の遺体が発掘されました。この発掘調査に際し、エンバーミングを施した心臓入りの鉛製容器五個が見つかり、そのうち四つには
1584年から 1655年の年号が記されていました。
ルイーズ・ド・ケンゴ(Louise de Quengo, 1584 - 1656)はブルターニュの貴婦人です。夫の死後、ルイーズは財産をレンヌのドミニコ会修道院に寄付し、一介の修道女として当修道院で余生を送りました。夫に遅れること七年、ルイーズは
1656年に没し、当修道院に葬られました。ルイーズの遺体は国立考古保存調査協会によって発掘されましたが、遺体とともに心臓を模(かたど)った鉛製容器が見つかり、その中には夫トゥサン・ド・ペリアン(Toussaint
de Perrien, + 1649)の心臓が入っていました。一方、ルイーズの遺体からは心臓が摘出されていました。
ルイーズの夫トゥサン・ド・ペリアンは、レンヌから約二百キロメートル西方のサン・エルナン(Saint-Hernin ブルターニュ地域圏フィニステール県)にカルメル会修道院を建てた人物で、遺体はこの修道院に埋葬されていると伝えられます。サン・エルナンのカルメル会修道院は発掘調査が行われていませんが、妻ルイーズの心臓は、おそらく夫トゥサンの遺体に寄り添っているのでしょう。
註1 現代の医学的知見に基づけば、死は全身が同時に迎える瞬間的な出来事ではなく、時間的な広がりを有するプロセスであると考えられます。それでも継続的・不可逆的な心停止が死を意味することに変わりはありません。
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