無原罪の御宿り
The Immaculate Conception, L'Immaculée Conception, IMMACULATA CONCEPTIO




(上) ジュセッペ・デ・リベラ (ホセ・デ・リベラ) 「無原罪の御宿り」
Jusepe de Rivera (1591 - 1652), "la Inmaculada Concepción", 1635, Iglesia del Convento de las Agustinas Recoletas de Monterrey, Salamanca


 1854年12月8日、教皇ピウス九世はエクス・カテドラ宣言によって、「無原罪の御宿り」をローマ・カトリック教会の正式な教義と定めました。無原罪の御宿りとは聖母マリアが罪無くして(すなわち原罪を受け継がずに)母アンナの胎内に宿り生まれたという意味で、その内容は次のとおりです。

・原罪の本質は神の恩寵の欠如である。しかるに聖母マリアは「神の母」(ギリシア語で「テオトコス theotokos」、ラテン語で「デイー・ゲニトリークス DEI GENITRIX」)として、全能の神の恵みによって原罪を免れ、恩寵に満ちている。

・ただしこれは聖母マリアがキリストによる救いを必要としないという意味ではない。聖母マリア以外の人間はアダムとエヴァからいったん原罪を受け継ぎ、しかる後にキリストにより救われる。しかるに聖母マリアは原罪を受け継ぐ以前にキリストにより救われたのである。


【教義の歴史】

 カトリック教会によると、聖書には間接的ながら「無原罪の御宿り」の根拠となる記述が見られます。「創世記」三章十五節において、神は蛇に向かって次のように言っています。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(新共同訳)

カトリックの聖書解釈では、これは蛇の支配を受けない(すなわちその身に罪を帯びない)「女」、すなわち聖母マリアに関する預言であるとされます。下の絵において、聖母マリアは蛇を踏みつけています。




(上) ティエポロ 「無原罪の御宿り」 Giovanni Battista Tiepolo (1696 - 1770), "la Inmaculada Concepción", 1767 - 69, Óleo sobre lienzo, 279 x 152 cm, Museo del Prado, Madrid


 また「雅歌」四章七節にある

  恋人よ、あなたはなにもかも美しく、傷はひとつもない。(新共同訳)

はヴルガタ訳では "TOTA PULCHRA ES AMICA MEA, ET MACULA NON EST IN TE." ですが、新共同訳で「傷」と訳されたラテン語「マクラ」(MACULA)には汚れという意味もあるので、この章句も「無原罪の御宿り」の根拠とされます。下の絵には「雅歌」のこの章句が描き込まれています。




(上) マシプ 「無原罪の御宿り」 Vicente Juan Macip (1475 - 1550), "la Inmaculada Concepción", tempera sobre tabla


 さらに「ルカによる福音書」一章二十八節において天使ガブリエルがマリアに受胎を告知するときの呼びかけ、

  おめでとう、恵まれた方。(新共同訳)

はラテン語では "AVE GRATIA PLENA" ですが、この "GRATIA PLENA"(恩寵に満ちた方)という部分も無原罪の御宿りの根拠とされます。


(下) フラ・アンジェリコ 「受胎告知」 Fra Angelico, "La Anunciación" (details), c. 1435, témpera sobre tabla, 194 x 194 cm, Museo del Prado, Madrid




 しかしながら以上に引用した聖書の章句は、「聖母マリアが母アンナの胎内に宿った瞬間から原罪を免れていた」と明確な形で述べてはいません。


 聖母マリアが母アンナの胎内に宿った「御宿り」(受胎)は、イギリスのカトリック教会において九世紀から祝われていましたが、その御宿りが原罪無しに起こったという考えかたは、聖アンセルムスの伝記作者として知られる神学者イードマー (Eadmer, c. 1060 - 1124) が著作「聖マリアの御宿りについて」 (De Conceptione Sanctae Mariae) において論じたのが最初でした。

 この考え方はノルマン王国の時代にはイギリス国内でも公式に認められず、クレルヴォーの聖ベルナールやヘイルズの聖アレクサンダー、聖ボナヴェントゥラ、聖トマス・アクィナス は揃って反対の立場を取っていました。

 しかしそれにもかかわらずオックスフォード大学のフランシスコ会の学者たち、なかでもドゥンス・スコトゥスはこの教義を強く支持し、聖母マリアは無原罪ゆえにキリストによって救われる必要が無いのではなく、キリストを産むという役割のために特別な救いにあずかった結果が無原罪の御宿りなのだと説きました。


 この考え方はイギリス教会では広く支持され、1431年から1449年までスイスのバーゼルで開かれた公会議で正式の教義と認められましたが、後になってバーゼルの会議は正式の公会議ではないとされた結果、そこで宣言された教義も無効とされました。

 また 1323年には無原罪の御宿りを否定したトマス・アクィナスが列聖されて 1567年には天使的博士 (Doctor Angelicus) の称号が与えられ、トマスが属するドミニコ会の勢力もいっそう強まりました。

 このような状況の中で、無原罪の御宿りはトリエント公会議 (1545 - 1663年) においても正式の教義と認められず、「この件について意見を異にする相手を異端と呼ばわる者は破門に処する」という教皇シクストゥス九世の立場を確認するだけに終わりました。


【十九世紀における聖母マリアの出現と「無原罪の御宿り」の教義化】

 ところが十九世紀に入ると聖母マリアの出現が各地で相次ぎ、無原罪の御宿りがふたたび注目を集めます。

 1830年にパリにおいてカトリーヌ・ラブレの前に出現した聖母は、「罪無くして宿り給えるマリアよ、御身を頼みとする我等のために祈りたまえ」 (O Marie, concue sans péché, priez pour nous qui avons recours a vous) という言葉に取り囲まれていました。

 さらに 1858年にルルドにおいてベルナデット・スビルーに出現した聖母は、「わたしは無原罪の御宿りです」(Je suis l'Immaculée Conception. / ビゴール方言 Que soy era Immaculada Concepciou. 註1) と自ら名乗りました。

 教皇ピウス九世は、これらのできごとと相俟って、1854年12月8日に、無原罪の御宿りが教義であることを正式に宣言します。これは宗教会議を経ずにローマ教皇が独自に行った宣言で、東方教会とプロテスタント教会から激しい反発を招きました。しかしそれにもかかわらず、教皇の権威を高める方向性はさらに推し進められて、1870年の第一ヴァティカン公会議においては教皇の不可謬性が採決されました。


【無原罪の御宿りの図像における月】



(上) ムリリョ 「スルトの無原罪の御宿り」 Bartolomé Esteban Murillo (1618 - 1682), "la Inmaculada de Soult", 1678, óleo sobre lienzo, Museo del Prado, Madrid


 特に「無原罪の御宿り」の図像において、聖母マリアが細い月の上に立つ姿で表される例がよく見られます。ちょうど三日月くらいの細さのこの月はクレセントではなくてデクレセント(下弦の月)、すなわち新月になる直前の月です。

 キリスト教徒の鑑(かがみ)というべき聖母マリアは、エクレシア(教会を擬人化した女性)と同様に、キリスト教会を象徴します。したがって聖母マリアがデクレセントの上に立つ姿は、新約時代の教会が旧約聖書の基礎の上に立っている事実を示すとともに、シナゴーガ(ユダヤ教を擬人化した女性)に対するエクレシアの優位性をも表しています。


(下) シナゴーガ(向かって左)と、エクレシア。1235年頃に製作されたストラスブール司教座聖堂の砂岩彫刻。高さはいずれも 194センチメートル。なお同聖堂西側正面中央入り口のタンパンにおいても、シナゴーガとエクレシアがキリストの十字架を挟んで立っている。このタンパンは 1280年から 1285年頃に制作されている。十字架を挟んで立つシナゴーガとエクレシアは、ブルゴス司教座聖堂のステンドグラス(1210 - 15年)にも見られる。




 十四世紀半ば以降、幼子イエスを抱いて弦月の上に立つ聖母の表現が盛んになりました。この図像はドイツ語で「モントジッヒェルマドンナ」(Mondsichelmadonna 弦月の聖母)と呼ばれ、「ヨハネの黙示録」十二章一節に出てくる女の姿に基づいて描かれています。「ヨハネの黙示録」十二章一節を、新共同訳により引用します。

 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。


 この聖句において十二の星は黄道十二宮、太陽はキリスト、月は移ろうこの世を象徴すると解釈されています。


(下) Francesco Vanni, "l'Immacolata Concezione con Gesu e Dio Padre" (details), 1588, Duomo di Montalcino





【図像におけるマリアの衣の色について】

 伝統的図像表現における聖母マリアの衣の色は、古い時代の画像では赤、近世以降の多くの画像では白で表されます。マントの色は古い時代の画像では青、近世以降の多くの画像でも青です。マントと別に描く場合のヴェールの色は、マントと同じ青、マントよりも淡い青、白が多用されます。白い衣が多用されるようになるのは十七世紀の中頃です。

 十六世紀後半から十七世紀前半にかけて活躍した画家フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco del Río, 1564 - 1644 註2)は、1649年にセビジャで出版された「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」("Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649)において、無原罪の御宿リの衣には白、マントには青が相応しいと書いています(註3)。

 下の写真はいずれもスルバラン (Francisco de Zurbarán, 1598 - 1664) による油彩で、初期の作品における聖母は赤い衣に青いマント、晩年に描いた聖母は白い衣に青いマントを着ています。


(下) Francisco de Zurbarán, "la Inmaculada Concepción", 1630 - 35, óleo sobre lienzo, 139 x 104 cm, Museo del Prado, Madrid




(下) Francisco de Zurbarán, "la Inmaculada Concepción", 1661, óleo sobre lienzo, 136.5 x 102.5 cm, Szepmuveszeti Muzeum, Budapest




 ただし、スルバランは上の作品とほぼ同時期においても、赤と青の衣を着た聖母像を描いています。

(下) Francisco de Zurbarán, "Madonna con Niño", 1658, óleo sobre lienzo, 101 x 78 cm, Pushkin Museum, Moscow




 白い衣と青いマントは、もともとポルトガルの聖女、ベアトリス・ダ・シルヴァ (Beatrix da Silva, 1424 - 1492) が幻視した聖母が身に着けていたものです。聖母の出現を受けて修道会創設を決意した聖ベアトリスは、1484年、トレドで女子修道会「無原罪の御宿り修道会」(La Orden de la Inmaculada Concepción, ORDO IMMACULATAE CONCEPTIONIS, OIC) を設けました。



註1 ベルナデットの使用言語はオック語に属するガスコーニュ語のビゴール (Gigorre) 方言である。ベルナデットが理解したのはビゴール方言のみで、ルルドの聖母はこの言語を使ってベルナデットに話しかけた。ここで動詞ソイ(soy)に前置されているケ(que)は、陳述のケ(仏 que énonciatif)あるいは動詞前接のケ(英 preverbal que)と呼ばれ、バスク語と接触のあるガスコーニュ語に遍在する文の構成要素である。エラ(era)は女性単数の定冠詞。


註2 フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco del Río, 1564 - 1644)はマニエリスムの画家で、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez, 1599 - 1660)とアロンソ・カノ(Alonzo Cano, 1601 - 1667)の師にあたる。 註3の引用元であるパチェコの著書「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」は、スペイン美術史における重要文献のひとつである。

 パチェコは 1610年代に画業組合の公式監督(el veedor del oficio de la pintura)に選ばれ、1618年には異端審問所における宗教美術の監督官(el veedor de pinturas sagradas)に任じられた。1811年以来パチェコの徒弟であったベラスケスは、1618年に.パチェコの娘フアナ(Juana Pacheco, 1602 - 1660)と結婚した。ベラスケスがフェリペ四世の宮廷画家になれたのは、義父パチェコのお蔭である。フェリペ四世の宮廷でベラスケスは二十二歳年上の外交官ルーベンスと出会い、親交を結んだ。ベラスケスは王室所蔵のティツィアーノ作品を研究するようにルーベンスから勧められ、色彩の使用に関して大きな影響を受けている。


註3 無原罪の御宿リとして描かれる女性単身像の容姿や年齢について、同書では次のように述べられている。日本語訳は筆者(広川)による。文意を通じやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲んだ。

      Sin poner a pleito la pintura del Niño en los brazos, para quien tuviere devoción de pintarla así, nos conformaremos con la pintura que no tiene Niño, porque ésta es la más común...     両腕に幼子を抱く聖母を我々が描くのは、抱かれる幼子への信心ゆえである。[それゆえ聖母とともに]幼子を描くことに、我々は反対するわけではない。聖母は幼子を抱いて描かれる場合が最も多い。
      Esta pintura, como saben los doctos, es tomada de la misteriosa mujer que vio San Juan en el cielo, con todas aquellas señales; y, así, la pintura que sigo es la más conforme a esta sagrada revelación del Evangelista, y aprobada de la Iglesia Católica, la autoridad de los santos y sagrados intérpretes y, allí, no solo se halla sin el Niño en los brazos, más aún sin haberle parido, y nosotros, acaba de concebir, le damos hijo...     [しかしながら]学識ある人々が知っているように、[単身の聖母を描いた]この絵は、福音記者聖ヨハネが天国で見(まみ)え、彼(か)のあらゆる印を有する神秘的な女性を描いたものである。それゆえ私が範とする絵は、福音記者に示されたこの聖なる啓示に最も合致しており、カトリック教会、諸聖人の権威、及び聖なる学者たちに是認されているのであって、両腕に幼子を抱いていないのみならず、未だ幼子を産んでいない。この女性は懐妊したばかりであり、我々は彼女に一人の息子を与えるのである。
      Hase de pintar, pues, en este aseadísimo misterio, esta Señora en la flor de su edad, de doce a trece años, hermosísima niña, lindos y graves ojos, nariz y boca perfectísima y rosadas mejillas, los bellísimos cabellos tendidos, de color de oro; en fin, cuanto fuere posible al humano pincel.     それゆえに、いとも清らかなるこの神秘のうちにあって、最も美しい年齢である十三歳の聖母を描くことが必要なのである。十三歳の聖母は誰よりも美しい少女であり、その眼は澄んでいて軽はずみなところが無く、鼻と口は完璧な形である。頬は薔薇色で、最高に美しい髪は長く、金色であり、つまりは人間の筆で描ける限り[の美しさでなければならない]。
         
     「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」 セビジャ、シモン・ファハルド書店 1649年    "Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649

 ※ 上記引用個所の第三パラグラフ冒頭にある "hase" は、"haze" の別綴り。



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