極稀少品 フランスのアンティーク 《輝く生命と愛のウラリン製シャプレ》 花開く生命樹の十字架 全長 55.5センチメートル



環状部分を二重にして測ったロザリオの全長 55.5 cm

環状部分の周の長さ 73 cm


重量 54.1 g


突出部分を含むクルシフィクスのサイズ 縦 48.0 x 横 29.9 mm

クルシフィクスの最大の厚み 4.4 mm


突出部分を含むクールのサイズ 縦 24.2 x 横 20.4 mm


ビーズの直径 約 9 mm



フランス  十九世紀末



 銀色の金属製クルシフィクス(仏 crucifix キリスト磔刑像の付いた十字架)とクール(仏 cœur センター・メダル)、希望の象徴である緑のガラス製ビーズを使用したシャプレ・ド・ラ・ヴィエルジュ(仏 chapelet de la Vierge 聖母のロザリオ)。明るい緑色に輝くビーズは重厚なクリスタル・ガラス製で、シャプレ(ロザリオ)全体は五百円硬貨八枚分の重量があります。いまから百二十年ほど前、十九世紀末のフランスで制作された美しい品物です。





 本品のクルシフィクスとクール(cœur フランス語で「心臓」「センター・メダル」)、及びチェーンは銀色ですが、ポワンソン(ホールマーク 貴金属の純度の刻印)が無いので、銀ではありません。金(ホワイトゴールド)でもありませんが、ちょうどロジウムめっきを掛けない生(き)のままのホワイトゴールドのような、少し黄色味がかった温かみのある色をしています。


 十字架にコルプス(羅 CORPUS キリスト像)を取り付けたものを、クルシフィクス(仏 crucifix)といいます。本品のクルシフィクスは打ち出し細工で別作したコルプスを、ラテン十字に溶接しています。

 ラテン十字とは長い縦木と短い一本の横木を有し、縦木の中ほどよりも上方で横木が直交する十字架のことです。ラテン十字は西ヨーロッパのカトリック教会が用いる十字架で、わが国でも最も普通に目にするタイプです。本品の十字架もラテン十字に分類されますが、植物文様と透かし細工が特徴の装飾的意匠を有します。


 十字架末端の装飾、及びクールの装飾は、アカンサス文(唐草文)によります。アカンサス文は古代ギリシア以来頻用された装飾意匠であり、ユダヤ・キリスト教に起源を有するわけではありません。しかしながらあらゆる意匠が担う象徴性は文化的文脈によって決定されるのであり、アカンサス文に関しても同様のことが言えます。

 アカンサス(和名 ハアザミ)は学名をアカントゥス・モッリス(羅 Acanthus mollis)といいますが、属名アカントゥスはギリシア語アカントス(希 ἂκανθος 棘のある花)をラテン語式綴りで表記したものであり、アカントスはアカンタ(希 ἂκανθα 棘)とアントス(希 ἂνθοϛ 花)に由来します。リデル・スコット希英辞典第九版によると、古典ギリシア語の植物名アカントスは、ハアザミ、アラビアアカシア(Acacia arabica)、ハリエニシダの近縁種(Genista acanthoclada)を指します。これらの植物は分類学上は互いに大きく隔たりますが、いずれも棘を有します。





 末端がアカンサス文に変化した十字架は、それ自体がアカントス、すなわち棘のある植物です。しかるにユダヤ・キリスト教の象徴体系において、棘は原罪がもたらした神からの離反、死と苦しみを象徴します。「創世記」 3章 17~19節を七十人訳と新共同訳により引用します。

17.     τῷ δὲ Αδαμ εἶπεν ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες ἀπὸ τοῦ ξύλου οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν ἀπ᾽ αὐτοῦ ἐπικατάρατος ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου ἐν λύπαις φάγῃ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου       神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。  
18.     ἀκάνθας καὶ τριβόλους ἀνατελεῖ σοι καὶ φάγῃ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ   お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。
19.     ἐν ἱδρῶτι τοῦ προσώπου σου φάγῃ τὸν ἄρτον σου ἕως τοῦ ἀποστρέψαι σε εἰς τὴν γῆν ἐξ ἧς ἐλήμφθης ὅτι γῆ εἶ καὶ εἰς γῆν ἀπελεύσῃ   お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」


 上に引用した 3章18節において、新共同訳で「茨」と訳されているヘブル語の植物名は、七十人訳のギリシア語ではアカンタ(引用文中では複数対格形アカンタース ἀκάνθας)となっています。要するにアカンタ(棘)である十字架にキリストが架かり給うさまは、キリストが世の罪を除き給う過ぎ越しの子羊であることを示します。


 キリストを描く標準的な図像において、光背は円の内部に十字架をあしらいます。すなわち聖母や諸聖人の光背は単なる円盤ですが、キリストの光背は円盤にマルタ十字様(よう)の図形が描かれます。クルシフィクスの十字架交差部にはキリストの光背が表されるのが通例ですが、通常であれば十字文のある円盤として表現される光背が、本品では四弁の花に置き換えられ、植物を基調とする十字架全体の意匠によく調和しています。

 罪と苦しみ、死の象徴であるアカンタの十字架に美しい花が咲く様子は、罪の赦しと生命の回復を表します。すなわちキリストの十字架は生命樹であり、人祖アダムの罪によって枯死した生命樹が、救い主の贖いによってふたたび生命を取戻したさまを表します。


 メロヴィング期のラテン詩人フォルトゥーナートゥス(Venantius Honorius Clementianus Fortunatus, c. 530 – c. 600/609)は、ポワチエのラドゴンド(Ste. Radegonde, c. 519 - 587)のサント・クロワ修道院に聖十字架の破片がもたらされた際、「王の御旗は進み」(羅 VEXILLA REGIS PRODEUNT)という詩を作りました。この詩は聖歌として現在も十字架称讃の祝日に歌われていますが、現在のものは歌詞に変更が加えられています。下に示したのはフォルトゥーナートゥスによるオリジナルの詩で、日本語訳は筆者(広川)によります。

    Vexilla regis prodeunt,
fulget crucis mysterium,
quo carne carnis conditor
suspensus est patibulo.
  王の御旗は進み
十字架の奥義は輝く。
人を造り給える御方、人となり、
この奥義にて十字架に架かりたまえリ。
     
    Confixa clavis viscera
tendens manus, vestigia
redemptionis gratia
hic inmolata est hostia.
  主の臓腑は釘にて裂かれたり。
主の両手両脚は伸びたり。
救いのために、
かくの如く主は木に架かり、犠牲となりたまえり。
     
    Quo vulneratus insuper
mucrone diro lanceae,
ut nos lavaret crimine,
manavit unda et sanguine.
  主は木の上で傷を負いたまえり。
恐ろしき槍の刃先にて。
我らを罪より洗い浄めんとて、
水と血を流したまえり。
     
    Impleta sunt quae concinit
David fideli carmine,
dicendo nationibus:
regnavit a ligno deus.
  成就したるは、真(まこと)の歌にて
ダヴィデが歌う事ども。
ダヴィデが国々の民に語る事ども。
すなわち、神、木より統べたまえりと。
     
    Arbor decora et fulgida,
ornata regis purpura,
electa, digno stipite
tam sancta membra tangere!
  美しき木よ。輝ける木よ。
王の紫に飾られたる木よ。
その木は選ばれて杭となり、(*)
聖なる御手、御足が触るるに値したるなり。
     
    Beata cuius brachiis
pretium pependit saeculi!
statera facta est corporis
praedam tulitque Tartari.
  幸いなる木よ。その腕木より
世の(罪の)代価が吊られし木よ。
その木は御体を挙ぐる支え(直訳:天秤)となりて
地獄にその取り分を渡さざりき。
     
    Fundis aroma cortice,
vincis sapore nectare,
iucunda fructu fertili
plaudis triumpho nobili.
  木よ。汝はその樹皮より芳香を放ち、
その甘美さは蜜にも勝るなり。
豊かに実りたるその果実は甘し。
汝は優れたる勝利を讃うるものなれば。
     
    Salve ara, salve victima
de passionis gloria,
qua vita mortem pertulit
et morte vitam reddidit.
  めでたし、祭壇よ。
めでたし、受難たる栄光の、奉献されたる犠牲よ。
この栄光にて、命は死を耐え忍び、
死によりて命を取り戻したり。



 Volta della Basilica di San Marco a Venezia


 ヴェネツィア司教座聖堂サン・マルコのアトリウムは、聖堂西側正面から入ってすぐ右側に一つ、左側にエル(L)字型に並んで五つ、以上を合計して六箇所の丸天井に「創世記」のモザイク画を有します。モザイク画の手本は、大英博物館に収蔵されている五世紀の写本「ザ・コットン・ジェネシス」(The Cotton Genesis, MS Cotton Otho B VI)です。

 十一世紀以来、イタリアの聖堂を飾る壁画や天井画は、旧約聖書に取材する作例が多く見られます。サン・マルコ聖堂アトリウムの天井モザイク画は十三世紀に制作されましたが、「創世記」を題材に選んでおり、当時の流れに沿った作品です。

 サン・マルコの西側正面から入ってすぐ右側の空間にある天井画が「天地創造」で、上の写真はその一部、楽園追放を描いています。アダムとエヴァを後ろから追い立てているのが神で、その背後には生命樹が見えます。生命樹に重なるように十字架が描かれているのが目を惹きます。筆者(広川)は「ザ・コットン・ジェネシス」における「楽園追放」の挿絵を見たことは無いのですが、少なくともサン・マルコのモザイク画において、イエス・キリストの十字架がエデンの生命樹と同一視されていることが分かります。




(上) Piero della Francesca, "Adorazione della Croce" (dettaglio), 1452 - 66, affresco, la cappella maggiore della basilica di San Francesco, Arezzo


 ソルボンヌ大学の中世フランス文学者であるアルベール・ポーフィレ教授(Albert Édouard Auguste Pauphilet, 1884 - 1948)は、「ゴーティエ・マップが作者に擬せられる聖杯探求物語研究」("Études sur la Queste del saint graal attribuée à Gautier Map", Paris, 1949)の付録として、パリのビブリオテーク・ナシオナル・ド・フランス(フランス国立図書館)に収蔵されている「フランス語写本 No. 1036」を収録しています。この写本の物語では、人祖アダムの子のひとりであるセトが、死期が迫った父アダムの求めにより、救いをもたらす聖油を貰うためにエデンの園を訪れ、ケルビムと対話します。ケルビムはセトに「生命の樹」と思われる大木を見せます。生命の樹はの傍らにあって、泉から流れ出る水は四本の大河となり世界を潤していましたが、セトが目にした生命の樹は枯れたようになっていました。

 ポーフィレ教授が引用している「フランス語写本 No. 1036」から、一部を引用いたします。テクストは十三世紀のフランス語で、日本語訳は筆者(広川)によります。

    Seth le fist tout einsi com li angles li commanda,   セトはすべてのことを、天使に命じられた通りにした。
    et vit dedenz paradis tantes joies et tantes clartez que langue d'ome mortel ne le porroit dire ne conter les deliz ne les joies qui estoient em paradis, et de fruiz et de diverses mannieres de chanz et de douces voiz qui estoient plainnes de granz mélodies.   楽園で目にする歓びと美はたいそう大きく、死すべき人間の言葉では、楽園に見出される美しさや歓び、果実、さまざまな種類の歌、優美な調べに満ちた甘き歌声について語ることはできないほどであった。
    Car il i ot une fontainne dont iiii flunz sordoient, dont li nous sont tel. Li premiers est apelez Lyon ; li segonz Sison, li tierz a nom Tygris, li quarz Heufrates.   ここにひとつの泉があり、次に挙げる四つの川がそこから発していた。第一の川はリヨン、第二はシゾン、第三はティグリスという名で、第四はエウフラテスである。
    Cist iiii fluns donnent eve a tout le monde. Sor ceste fontainne avoit i grant arbre... [lac.]... tant qu'il li sovint des pas de son père et de sa mère que il avoit veus en la voie herbeuse.   これら四つの川は全世界に水を与えている。この泉の傍らに大いなる木を見て…[テクスト欠落]…セトは草の繁った道で見た父母(訳者註 アダムとエヴァ)の足跡を思い出した。
    Et il penssa bien [que] par cela raison que li pas estoient sans herbe, [par] celé raison meismes estoit li arbres sans fueille et sanz escorce.   父母の足跡に草が生えていなかったのと同じ理由で、木に葉と樹皮が無いのだと、セトは考えた。


 物語は更に続きます。この後のあらすじは次の通りです。


 セトが楽園を訪れたのは、死期が迫った父に与える救いの聖油を手に入れるためであったが、ケルビムは聖油の代わりに、「生命の木」の種を三粒、セトに与えた。セトはこの種を持ち帰り、間もなく亡くなった父の口に含ませて埋葬した。三粒の種からは三本の木が生えて、モーセとダヴィデのもとで数々の奇蹟を惹き起こす。ダヴィデ王の時代、三本の木は互いに癒着して、一本の大木になる。

 ソロモンはこの聖なる木をエルサレム神殿の梁にしようと考えて製材したが、いざ使おうとすると長すぎたり短すぎたりしてうまくいかない。邪悪なユダヤ人たちはこの梁を川に渡して橋にし、罪深い人々の足で踏まれるようにした。

 あるときシバの女王がソロモンの知恵の言葉を聴きにエルサレムを訪れたが、道中の橋で聖なる梁に気付いた女王は、橋を使わず裸足になって川を渡った。女王は跪いて梁を礼拝し、「この木は尊き血によってふたたび緑になるであろう」と言った。

 梁はイエスの受難のときまで同じ場所に横たわっていた。ユダヤ人たちはこの梁から十字架を作り、イエスを磔(はりつけ)にした。


 上に示した写真は、ピエロ・デッラ・フランチェスカがイタリア中部、アレッツォ(Arezzo トスカナ州アレッツォ県)のサン・フランチェスコ聖堂に制作したフレスコ画連作「聖十字架の物語」("Le Storie della Vera Croce", 1452 - 66) のうち、「十字架の礼拝」の部分です。この作品において、ソロモンの宮殿に向かうシバの女王は「聖なる梁(はり)」(生命の木から製材した梁)を見つけ、跪いて礼拝しています。この梁はユダヤ人が橋として使っていたもので、後にキリストの十字架の材料となります。

 ポーフィレ教授が引用する上記の説話において、シバの女王は「救い主の尊き血により、十字架の材木がふたたび緑になるであろう」と言っています。これは「愛と赦しによって、生命の木がふたたび緑になるであろう」ということであり、「花を咲かせるアカンタの十字架」という本品の意匠に一致しています。





 十字架交差部の花を模(かたど)る光背はカドリロブ(仏 quadrilobe 四つ葉)形の透かし細工に取り巻かれ、十字架の縦木と横木にも透かしがあしらわれています。縦木と横木は交差部から外側に向けて広がり、フルール・ド・リス(fleur de lys 百合文あるいはアヤメ文)様(よう)の各末端がフランス製シャプレらしい特徴となっています。


 シャプレ(仏 chapelet 数珠、ロザリオ)のセンター・メダルを、フランス語でクール(仏 cœur)といいます。クルシフィクスの十字架と同様に、本品のクールは何れの面も同じ丁寧さで作られています。またやはり十字架と同様に、クールは透かし細工となっています。本品のクールはマリアの頭文字エム(M)を模ります。クルシフィクスを下にして吊り下げるとクールが倒立するのは十九世紀のフランス製ロザリオの特徴です。


 フランス語のクールは心臓、ハートのことです。古来心臓は生命と愛の座と考えられました。マリアの頭文字エムを模る本品のクールはマリアの汚れなき御心と等価であり、神とキリストに向かうマリアの愛を可視化しています。さらにマリアはキリスト者の鑑(かがみ 手本)であるゆえに、本品のクールはキリスト者が神とキリストを愛する愛の可視化でもあります。

 しかるにマリアとキリスト者が神とキリストを愛する愛は、神の愛(神が人を愛し給う愛)に先立つものではありません。まず最初に神が人を愛し給い、人の心はその愛を反映して、神を愛さざるを得なくなるのです。なぜならば在りて在る者、オントース・オン(希 ὄντως ὄν)、必然的存在者であり給う神とは違って、人をはじめとする被造物はいわばイデア(希 ἰδέαι)の影であり、塵に過ぎない偶有(たまたま存在しているが、存在していなくても不思議でない者)に過ぎないからです。

 クールに可視化された神の愛のミステリウム(奥義)は、人の内に反射して神に向かう愛となり、祈りに生命を与えます。シャプレ(ロザリオ)のクールは玄義と玄義の境目に位置し、円環を為す祈りの通過点となっています。シャプレのクールは、循環器系における心臓と、奇しくも同じ位置にあるのです。血液循環を発見したウィリアム・ハーヴェイは、心臓を単なるポンプとは考えず、血液に活力を吹き込む生命の座、ミクロコスモスにおける太陽と考えていました。それと同様に本品においても、環状部分の要(かなめ)に位置するクール(心臓)はシャプレ(ロザリオ)の祈りに生命を吹き込み、神への愛を活かし続けます。





 本品のビーズは淡い緑のクリスタル・ガラス(鉛ガラス)製で、それぞれ十八のファセット(小面)を有します。安価なシャプレのガラス製ビーズは融解したガラスを型に流し込んで成型しますが、本品のガラス製ビーズは熟練職人の丁寧な手作業により、ひとつひとつ丁寧にカットされています。ビーズはすべて同等の大きさで、おおよその直径は九ミリメートルです。


 色彩は光によって生み出されますが、光そのものに色があるわけではありません。ここで筆者(広川)が言うのは白色光が無色だということではなくて、赤色光、青色光などあらゆる光が呈する色は、光の本質をありのままに捉えているのではないという意味です。赤、青などの色は、人間による認識とは無関係に、光が独自に有する属性ではありません。人間が感覚器官を通して受容した光の有り様(よう)、具体的に言えば周波数が、感性と悟性のシェーマ(独 Schema 図式)に従って処理され、色覚が生じるのです。

 自然現象を観察する際、我々は外界をありのままに認識できていると思い込みがちですが、色をはじめとするあらゆる事象は人間の知性によって処理され、適合的な形式になって受容された現象(フェノメノン 希 φαινόμενον φαίνω《現れる》の中動相現在分詞)、英語で言えばアピアランス(英 appearance 様相、見え方)に過ぎないことを、われわれは忘れるべきではありません。外界の客観的反映と思われがちな自然科学分野のデータでさえ、「人間にのみ通じる」という最も根源的な意味の主観性から逃れることはできないのです。


 このことを思うとき、色に関連して筆者が思い出すのは、ゲーテの色彩論です。ゲーテはニュートンの光学に反論を試みて、色彩学の独自の体系を築きました。ゲーテの色彩学はその物理学的前提において間違いだらけであり、科学者にはまったく相手にされませんでした。しかしながら上に述べたように、色覚をはじめとする我々の感覚、知覚は人間独自のものであり、最も根源的な意味において主観性を有します。このことを思えば、ゲーテの色彩論は物理学的側面において否定されつつも、生理的・心理的側面においては十分な評価に値します。

 「対立と調和」はゲーテの思想を貫くテーマですが、これは色彩学においても同様です。ゲーテは互いに対立する二色である《黄》と《青》を色彩の基礎と考え、黄はオレンジ色を経て深紅へと、青は紫を経て深紅へと、それぞれ上昇(独 steigern)すると考えました。すなわち対立する黄と青は、最高位の色である深紅において、上昇による一致を達成します。他方、黄と青が単なる混合によって一致すると緑が生じます。この色相環は閉じていて、調和した全体を為します。残像現象からもわかるように、色相環上で正反対の位置にある二つの色は互いに求め合い、対立しつつも調和します。

 実際、現代の色彩学においても、深紅と緑は対比補色です。残像が対比補色に色づいて見えるのは、対比補色の関係にある二色が互いを誘導するからです。ゲーテの色相環上で正反対の位置にある二つの色は、ライプニッツの「予定調和」におけるような有機的調和を希求します。したがってゲーテにおける対立色は単なる補色ではありませんが、二色が互いを誘導する事実に変わりはありません。対立色同士の誘導を、ゲーテはフォルデルンク(独 Forderung 要求)と表現しました。ドイツ語の動詞フォルデルン(独 fordern 要求する)は副詞フォアデア(独 vorder 前に)を語源とし、「目の前に連れて来る」が原意です。対立色同士の誘導にフォルデルンの語を用いるのは、「有機的調和の希求」というニュアンスをよく表現するとともに、対立色が残像に現れる様(さま)を巧みに表す用語法と思えます。


 筆者(広川)がここでさらに思い起こすのは、ヨーロッパの紋章学で使われるシノプル(仏 sinople)という色名です。シノプルは緑色のことですが、この語の語源であるラテン語シノーピス(羅 SINOPIS)は、黒海南岸のシノーペー(希 Σινώπη)で採れる赭土(しゃど、あかつち)を指します。赤を表す語がどのようにして緑を表すに至ったのか、筆者は理解することができず、長い間不思議に思っていました。しかしながら赤と緑が対比補色であること、とりわけゲーテの色彩学においては互いに希求し調和し合う関係にあることを考えれば、このような語意の変化は必然的とは言えないまでも、一見して思えるほど不自然でも不合理でもないことに気付きます。赤と緑が対比補色であるという事実は、この二色に自然本性的なつながりがあることを示しています。

 議論の最初に断ったように、色覚は人間の感性と悟性のシェーマ(図式)を通して得られるものである以上、赤と緑の間に人間の認識とは無関係に独立したつながりがあるわけではありません。人間に固有的な色覚の体系においてのみ、赤と緑は自然本性的なつながりを有します。そうであるからこそ却って、この二色のつながりは人間の自然本性的思考を、あるいは思考以前の自然な感覚を、忠実に反映しているということができます。





 本品に用いられているガラスはウラリン(仏 ouraline ウランガラス)といって、酸化ウランを含有します。酸化ウランは紫外線によって鮮緑色の強い蛍光を発します。通常の可視光でウラリンを見ても、蛍光には気付きません。可視光紫外線を当てると、ウラリンは強い緑の蛍光を放ちます。ウラリンのこのような性質は、我々が日常に埋没して忘れている神の愛を思い起こさせるとともに、神の愛が人のうちに呼び起こす神への愛をも重層的に象徴します。

 上の写真は本品に長波長の紫外線を照射して撮影しました。ウラン原子に高エネルギーの光を照射すると、内殻準位にある電子が励起されて外部に放出され、内殻に正孔が形成されます。高い準位の電子がこの正孔を埋めると き,順位のエネルギー差に等しいエネルギーをもった電磁波が生じます。これがウラリンの蛍光で、明るく鮮やかな緑色をしています。砂漠に生まれたキリスト教の象徴体系において、水と植物の色である緑は「希望」を表すカノニカル・カラー(典礼色)です。したがって鮮やかな緑色の蛍光は、輝く希望の象徴でもあります。

 上述のように、紋章学においてシノプル(緑)は元々「赤」という意味であり、緑の中に赤を内包しています。「緑の内に赤が隠れている」というのは矛盾律や同一律に抵触する不合理な言説と思われるかもしれません。しかしながら「或る物のうちに、それと正反対の物が隠れている(あるいは、含まれている)」事態は珍しくありません。たとえば残像は補色です。ある物体、たとえばシャプレと周囲の空間の境界を考えるとき、物体を雄型と考えれば空間は雌型であり、空間を雄型と考えれば物体は雌型です。素粒子はエネルギーに変わり、エネルギーは素粒子に変わります。ユングは男性の人格中にアニマを、女性の人格中にアニムスを見出しました。湿って冷たい水を表す緑に、乾いて熱い火を表す赤が内包されている状態は、生命を生み出す女性原理と男性原理の結合に他なりません。これは愛と生命の一体的結合を表します。







 上の写真は本品の類品を夜明け前の自然光で撮影したもので、撮影時の空の写真を添えました。紫外線を人工的に照射したときの強烈な蛍光に比べて、自然光による蛍光はずっと柔らかですが、綺麗な緑色の光を発しています。個々のビーズが全体的に明るいのは、蛍光を発しているせいです。右寄りに置かれた三個の宝石はトルマリングロッシュラー・ガーネットペリドットで、いずれも対照試料です。これらの宝石は紫外線で蛍光を発しないので、外から入射する可視光に照らされた部分だけが光って見えます。

 ウラリンのビーズは、間もなく太陽が昇る夜明け前、時が満ちて空を満たしつつも人間の目には未だ見えない紫外線を受けて、いちはやく可視光線に変え、希望を象徴する緑の輝きを見せてくれます。それと同様にマリアも、「ソール・ユースティティアエ」(SOL JUSTITIAE ラテン語で「義の太陽」)たるイエス・キリストが生まれる前に受胎の告知を受け容れ、人の望みにして喜びなるイエスを生みました。「カイレ・マリア」(Χαῖρε Μαρία 「アヴェ・マリア」「喜びなさい、マリア」)とはメシアの誕生を予告する言葉です。それゆえ日の出の直前に、あたかも間もなくメシアが誕生することを予告するかのように、希望の色である緑の輝きを見せるウラリンは、恩寵の通り道、聖母マリアのロザリオに、このうえなくふさわしいといえるのです。

 さらに、緑は生命を象徴します。「生命」(ハワ、ゾーエー)とは人祖アダムの妻の名前ですが、彼女は蛇の誘惑に負けて原罪を犯し、人間に死をもたらしました。しかるにマリアは「新しきエヴァ」であり、聖霊によって身ごもりイエスを生むことで、人間に生命をもたらしました。目に見えない紫外線を不可視の聖霊の光、緑の蛍光を「生命」そのものであるイエス・キリスト(「ヨハネによる福音書」 14章 6節他)と考えれば、緑の光を宿すウラリン製ビーズは、まさに聖母の象(かたど)りにほかなりません。





 上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。なおウラリンに含まれるウランは放射性元素ですが、本品に含まれるウランは極めて微量であり、本品を触ったり持ち歩いたりしても健康に害が及ぶことは決してありません。ご安心ください。

 本品は十九世紀のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず良好な保存状態です。鉛ガラスはソーダガラス(通常のガラス)に比べて軟らかく割れやすいですが、本品のビーズに逸失はなく、すべて揃っています。ウラリン製ビーズのシャプレはたいへん稀少で、めったに手に入りません。





73,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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