額装例









「塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」 宗教感情の核心を主題にしたカニヴェ (ベス・エ・デュブルイユ)

Parlerai-je à mon Seigneur, moi qui ne suis que poussière? Bes et Dubreuil


110 x 72 mm

フランス  1850 - 80年代



 19世紀半ばまたは後半、わが国で言えば幕末から明治前期頃に、パリの版元ベス・エ・デュブルイユ (Bes et Dubreuil) が制作したカニヴェ。人間をはじめとする被造物とは隔絶された次元にある創造者、「在りて在る者」である神を前にして、自らが「虚無」の中に沈み込むような感情に圧倒されつつも、愛と救いを求める人間の姿を描いています。





 カニヴェ表(おもて)面の中央には、聖堂の床に独り跪(ひざまず)く人を描きます。この人は一枚の布のほかは何も身に着けず、頭を被う物も無く、裸足で、頭(こうべ)を深く垂れています。体を小さく丸めているために、跪くというよりは、床にうずくまっているように見えます。

 後方の祭壇上では聖体と聖杯が眩(まばゆ)い光を放っています。この光は神の恩寵の象徴であって、物理的な光、電磁波としての光ではありません。しかしながら電磁波の光は分かりやすい比喩となります。光を発する根源と、そこから発せられる光は、エネルギーであり、物質すなわち実体でもあります。エネルギーと実体は、スコラ哲学用語で言う「エーンス」(羅 ENS 希 ὁ ὤν 「有」)、すなわち「存在するもの」です。これと同様に、否、これをはるかに超えて、神は「在る者」(希 ὁ ὤν 羅 QUI SUM) です。神は「出エジプト記」 3章 14節において、モーセに対し、この名を名乗り給いました。七十人訳と新共同訳によって該当箇所を引用いたします。下線は筆者(広川)によります。

     καὶ εἶπεν ὁ ϑεὸς πρὸς Μωυσῆν ᾽Εγώ εἰμι ὁ ὤν· καὶ εἶπεν Οὕτως ἐρεῖς τοῖς υἱοῖς Ισραηλ ῾Ο ὢν ἀπέσταλκέν με πρὸς ὑμᾶς.    神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」





 「在りて在る者」なる神が光に包まれているのに対して、跪く人の周囲には闇が立ち籠めています。闇は雲のような形に表現されていますが、そこに「闇」という実体が、人を包む「何か」として存在しているのではありません。「闇」は光の欠如です。「闇がある」とは、「闇」と名付けられる何らかの実体(有、存在者)がある、ということではなく、単に「何も無い」ということです。「虚無」は如何なる意味においても実体ではなく、エネルギーでもありません。どんな物質もエネルギーも無い状態、徹底的に何も無い虚空の状態、否、虚空(空間)や時間さえ無い状態が、「虚無」であり「闇」なのです。

 跪く人は、光に包まれた側、神の住まう世界にいるのではなく、「虚無」と同じ側にいます。「在りて在る者」なる神に比べれば、人は虚無にも等しいものです。本品の版画において、人を包む虚無と、虚無に包まれる人は、ほとんど等しく虚無なのです。

 人は交差させた腕を胸に当てて祈っていますが、体を縮めて床にうずくまる様子は、うなだれているようにも見えます。圧倒的な存在の前に引き出され、畏怖のあまりに顔を挙げることも口を利くこともできず、自分の小ささと価値の無さゆえに、底無しの虚無の中へただ落ち込み、消え入るしかないと感じています。神の御前(みまえ)で気が遠くなり、息絶え絶えになりつつも、辛うじて正気を保って祈るその言葉は、「塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」(Parlerai-je à mon Seigneur, moi qui ne suis que poussière?) というものです。




(上) Pieter Schoubroeck (c.1570 – 1607), "de verwoesting van Sodom en Gomorrah"


 「塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」という言葉は、「創世記」 18章 27節の引用です。「創世記」 18章において、神はふたりの天使を伴い、マムレの樫の木のところでアブラハムに現れ給いました。神はソドムとゴモラをその悪徳ゆえに滅ぼし給いますが、その直前にアブラハムの天幕に立ち寄られたのです。アブラハムは神の意図を知って、勇気を振り絞り、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」(「創世記」 18章 27節 新共同訳)と、ソドムのために執り成しを試みます。神はふたりの天使に命じて、ソドムに住む義人ロトとその家族を町の外に連れ出させ、彼らが退避した後に、ソドムとゴモラを硫黄の火で焼き尽くされました。


 ルドルフ・オットー


 ドイツの宗教学者ルドルフ・オットー (Rudolf Otto, 1869 - 1937) は、著書「聖なるもの」(Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen. Trewendt & Granier, Breslau 1917) の第四章「戦慄すべき神秘(ヌミノーゼの諸要因 その二) -- 次に、この客体的すなわち我の外に感じられるヌミノーゼとは何であり、どのようにあるのか」(viertes Kapitel - MYSTERIUM TREMENDUM, Momente des Numinosen II, Was aber und wie ist nun dieses - objektive, außer mir gefühlte - Numinose selbst?) において、アブラハムの言葉に言及し、創造主を前にしたときに、被造物である人間が感じる、虚無の中に沈み込むような感情を、神秘主義に結びつけて論じています。



 本品の切紙細工はたいへん美しく、また象徴性に富んでいます。四隅には天使の顔があり、その内側にフルール・ド・リスが造形されています。フルール・ド・リスあるいは百合は神に選ばれた身分の象徴であり、マリアに対する受胎告知と、キリストの受肉のミステリウムを思い起こさせるとともに、一人ひとりのキリスト者を神の子として選び給うた神の愛をも表します。時計で言えば三時と九時に当たる部分には、薔薇の花が二輪ずつ造形されています。薔薇はキリストの受難によって極点に達した愛の象徴であり、受難の完全な再現であるエウカリスチアをも意味します。

 薔薇はまた多くの歴史記録がある聖体の奇跡をも思い起こさせます。ランチアーノ(750年)やファヴェルネ(1608年)の奇跡は有名ですし、最近では 1996年にブエノスアイレスで聖体が肉片に変わっています。1999年にはルルドで聖体が宙に浮き上がり続け、その様子は動画に記録されました。動画のリンクはここをクリックしてください。動画は音が出ます。

 フルール・ド・リスの根元には心臓(ハート)、両横には十字架と錨が造形されています。「十字架」「錨」「心臓」は、それぞれ信仰、希望、愛の象徴です。「信仰と希望と愛」はキリスト教の枢要徳です。本品の裏面に記された祈りにも、「信仰と希望と愛」が籠められています。





 畏怖に打たれた人間が、おののきつつ神に呼びかける心の声が、カニヴェの裏面にフランス語で記されています。内容を下に示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Plus j'abaisse mon front devant vous, mon Dieu, plus je voudrais pouvoir l'abaisser encore, tant je reconnais à la fois votre gloire et mon indignité.    わが神よ。私は御前(みまえ)に深く頭を垂れます。ああ、もっと深く頭を垂れることができるなら。私にはよく分かっています。御身は栄光に満ち給う。しかし私は無価値なのです。
     Oh, ne m'abandonnez pas, moi qui sans votre secours resterais plongé dans une éternelle mort; jetez sur moi un regard indulgeant, un regard de père, afin que je me relève consolé et que mon cœur renaisse à la vie.    どうか私を見棄てないでください。御身の援けが無ければ、私は永遠の死に沈んだままなのです。赦しの眼差しを、父の眼差しを、私に注いでください。私が慰めを受けて立ちあがり、私の心が再び命を得るように。
     En me détachant de moi-même, attachez-moi à vous, Seigneur, par tous les liens de la reconnaissance et de l'amour ; et que votre fils, bénissant à jamais votre aimable joug, puisse anemer ses frères à venir les partager avec lui.    主よ。私自身から私を引き離し、感謝と愛のあらゆる絆によって、私を御身に結び付けてください。御身の息子である私が、御身の優しき軛(くびき)を常に喜びつつ、御身との絆を同胞たちにも分かつことができますように。
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     Parlerai-je à mon Seigneur, moi qui ne suis que poussière?     塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか。


 裏面最下部には、この祈りを活版で刷ったパリの印刷工房「フェリス」 (Féliz) の署名があります。



 カニヴェはもともと修道女が信心業として一点ずつ制作していたものでした。修道女が一点ずつ制作したカニヴェは、その制作過程自体が祈りにも似た信心業であり、誰かに配るためではなく、修道女自身のために作られるものでした。

 しかしながら 1830年代になると、水彩画のかわりに版画を、手作業の切り紙の代わりに型による切り紙を使用し、カニヴェを量産する方法が考え出されました。こうして19世紀のフランス社会に広まったカニヴェは、信仰者のあるべき姿や、聖人伝や、教義を解説する役割を担うようになりました。

 版画によるカニヴェは、それゆえ、信仰生活に役立つ「目で見る解説書」のようなものであり、「分かりやすさ」がその特徴となります。また「分かりやすいもの」は、しばしばキッチュ(俗悪)になりがちです。当店ではキッチュなものを排除して、美術工芸品と呼べる水準のカニヴェを厳選していますが、信仰生活の「目で見る解説書」であることに変わりはありません。これは19世紀のカニヴェの本質であり、変えようのない特性です。





 しかしながら本品は信仰生活の「目で見る解説書」として制作されてはおらず、むしろ言語化が困難であり、ましてや「分かりやすい絵」による解説など望むべくもない、宗教感情の核心あるいは根源を主題にしています。「塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」という言葉に表れている感情、人が創造者の前で感じる虚無の中に沈み込むような感情は、ユダヤ教徒にも、イスラム教徒にも、おそらく一部の多神教徒にさえも共通する神への畏怖であり、これこそが宗教の核心と根源に他なりません。

 たとえ洗練された美しい意匠に基づき、高い水準の技術によって制作された信心具であっても、神への畏怖が感じられない作例もあり得ます。そのような信心具はただ美しいだけ、あるいは宗教に基づく道徳を説くだけで、神への畏怖とは無関係です。「美」も「善」も万人に分かりやすい性質ですが、どれだけ深く美に感動しても、どれだけ体系的に道徳を論じ、あるいは善行を積んでも、宗教は決して生まれません。「美」や「善」に対する感動と敬服は、宗教の核心、すなわち「塵(ちり)にすぎない私が、主よ、御身に語るのでしょうか」という「神への畏怖」とは全くの別物なのです。

 ルドルフ・オットーは神概念から合理的要素を排除した後に残る「トレメンドゥム・エト・ファスキナーンス」(羅 TREMENDUM ET FASCINANS 戦慄を覚えさせつつも、魅するもの)を、「ヌミノーゼ」(独 das Numinose)と呼びました。ある人の心にヌミノーゼへの畏怖があるかどうかは、公理が分かるかどうかに似ています。ルドルフ・オットーが「聖なるもの」の冒頭でまさに書いているように、ヌミノーゼへの畏怖は、この感情が分からない、感じられないという人に説明のしようがないし、この感情を持てるように教育し訓練することもできません。

 「公理」と「ヌミノーゼへの畏怖」との間にこのような類似性が見られるのは、人間の理性と感情において、これらふたつがそれぞれ同様の場所を占めるゆえである、と筆者(広川)は考えます。すなわち、理性認識の各範疇 (Kategorien der reinen Vernunft) において、公理は根源的な場所を占めますが、これと同様の根源的な場所を、「ヌミノーゼへの畏怖」は人間の宗教的感情において占めているのです。


 通常のカニヴェはカトリック教義を説明するためのもの、あるいは信徒を教育し訓練するためのものです。しかるに本品が主題とする「ヌミノーゼへの畏怖」、「虚無の中に沈み込むような被造者感情」は、言葉や絵で説明することもできないし、教育や訓練によって感得させることもできません。またカトリック、キリスト教にとどまらず、他宗教にも及ぶ普遍的宗教感情です。このような「ヌミノーゼへの畏怖」を主題に制作された本品は、他のカニヴェと性格を大きく異にする稀有な作例となっています。



 本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、極めて良好な保存状態です。本品のように大きな面積の切り紙細工は、大きく破損しているのが普通ですが、本品は完品に近い状態です。本品の紙は中性紙ですので、百年以上の歳月にもかかわらず酸性紙のような劣化は起こっておらず、紙自体が劣化することは今後もありません。









 なお当店では別料金にてカニヴェ、聖画の額装を承ります。上の写真は幅広の縁の付いた大きめの額で、自立式、壁掛け式のいずれにもお使いいただけます。この額装の価格は、額、ベルベット、工賃、税すべて込みで 6,800円です。ベルベットの色は価格を変えずに変更できます。額装料金にカニヴェの商品代金は含まれません。

※ 写真の額は一点しかありません。この額を使った額装をご希望の方はお早めにご注文ください。写真の額が販売済みの場合は、別の額を使用して額装できます。





カニヴェの価格 19,500円 (税込、額装別)

電話 (078-855-2502) またはメールにてご注文くださいませ。




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