ポワチエの聖ラドゴンド (聖ラデグンディス)
Ste. Radegonde de Poitiers (SANCTA RADEGUNDIS, St Radegund)




 聖ラドゴンド (Ste. Radegonde, c. 519 - 587) はチューリンゲン族の王ベルテール (Bertaire, Berthechar) の娘としてエルフルトに生まれました。クローヴィス (Clovis Ier, règne 481/482 - 511) の義理の娘にあたります。


【ラドゴンドの少女時代】

 ラドゴンドの父であるベルテールは実の兄弟ヘルマンフリート (Hermanfrid) とボデリック (Baderic) によって 529年に殺され、さらにヘルマンフリートはフランク王テウデリク1世 (Thierry Ier, c. 485/490 - 534) と同盟を結んでボデリックを殺しました。ところがヘルマンフリートはテウデリク1世との約束を破ってチューリンゲンの支配権を独占したため、テウデリク1世は兄弟であるクロタール1世 (Clotaire Ier, c. 497 - 561) と組んで 531年にヘルマンフリートを攻め滅ぼします。テウデリク1世とクロタール1世はいずれもクローヴィスの息子です。当時 11歳のラドゴンドとその弟ヘルマンフリートは叔父ヘルマンフリートに引き取られていましたが、クロタール1世はふたりを自国ネウストリア (Neustria)に連れ帰りました。

 ラドゴンドはクロタール1世の妻、信仰篤いアンゴンド Ingonde (イングンド Ingund, c. 499 - 538) の影響を受け、ラテン語を学び、信心書を読んで信仰を深めました。538年にアンゴンドが亡くなるとクロタール1世はラドゴンドを妻にしようとし、ラドゴンドはペロンヌ(Peronne 現在のピカルディ地域圏ソンム県)に逃れますが連れ戻され、結婚を承諾せざるを得ませんでした。



【信仰篤い王妃ラドゴンド】

 結婚式はソワソン司教聖メダール (St. Medard de Noyon, 456 - 545) の司式で行われました。クロタール1世は王の妃にふわさしい豪華な結婚衣装をラドゴンドが身に着けるように求めましたが、ラドゴンドはこれを断り、謙譲の徳を表す質素な服装で婚礼の宴に連なりました。このため宴席では夫妻の間に言い争いが起こりましたが、ラドゴンドは王の言いなりにはならず、また信心業の断食を理由に料理にも手を付けなかったため、ラドゴンドに出された料理は貧者への施しに回されました。

 ラドゴンドは結婚後も信仰と慈善の生活を追求し、また死刑を宣告された大勢の人たちを救うため、王に願い出て執り成しました。ラドゴンドとともにチューリンゲンからネウストリアに移された弟ヘルマンフリートが夫王に殺害されると、ラドゴンドは一層信仰を深めます。やがて聖メダールによって教会の職に任じられて、夫王から贈られたポワチエ近郊セ(Saix)の土地に礼拝堂と救済院を建て、そこに移り住んで自ら病者の世話に当たりました。ラドゴンドの救済院はフランスでももっとも初期に設置されたものとして知られています。


 「麦の奇蹟」を描いたフランスの古い小聖画。当店の商品です。


 夫王クロタール1世はラドゴンドの教会への奉仕を最初のうちは黙認していましたが、やがて兵士たちをセに派遣して、妻を宮廷に連れ戻そうとします。兵士たちがセに来るとラドゴンドは燕麦の畑に逃げ込みます。そのときちょうど麦蒔きが行われていましたが、ラドゴンドが畑に逃げ込むと麦が瞬時に伸びて、聖女の姿を隠しました。追手は農夫たちに王妃を見なかったかと尋ねましたが、農夫たちは麦蒔き以来、畑には誰も入っていないと本当のことを答え、追手は追跡を諦(あきら)めました。ラドゴンドはこのように奇跡によって難を逃れ、夫王はラドゴンドの信仰生活に干渉しなくなりました。

 なお作付けをしている人が追われている聖人に頼まれて、「種蒔きをしているときに逃げて行く人を見ました」と本当のことを追手に告げ、急に伸びた作物を見た追っ手が、数ヶ月の遅れをとってしまったと考えて追跡を諦めるという話は、奇蹟譚のパターンの一つです。新約外典にも類話がありますし、わが国の切支丹説話にも二、三の例を見い出すことができます。


【聖ラドゴンドとサント=クロワ(聖十字架)修道院】

 パリ司教聖ジェルマン (St. Germain de Paris, c. 496 - 576) から破門の脅しを受けたクロタール1世は、ポワチエの土地を教会に寄進しましたが、ラドゴンドはこの土地にフランスで最初の女子修道院であるノートル=ダム修道院、のちのサント=クロワ修道院 (L'Abbaye Sainte-Croix de Poitiers) を建て、他の大勢の若い女性たちとともにこの修道院の修道女となりました。

 ラドゴンドは自らが設立した修道院の院長とはならず、聖アニェス (Ste. Agnes de Poitier, + 588) を院長に任命し、聖アニェスと、後のポワチエ司教でラドゴンドの伝記作者となる聖フォルトゥーナートゥス (St. Venance Fortunat, Sacctus Venantius Honorius Clementianus Fortunatus, c. 530 - 609) を伴ってアルル大司教聖セゼール (St. Cesaire d'Arles, c. 470 - 542) を訪ね、指導を仰ぎました。また将来にわたってポワチエ司教からの干渉を避けるために、自らの修道院を教皇庁の直属としました。

(下) Sir Lawrence Alma-Tadema, Venantius Fortunatus Reading his Poems to Radagonda, 1862; Dordrechts Museum, Dordrecht




 サント=クロワ修道院の修道女ボドニヴィ (Baudonive, BAUDENIVIA) が 600年頃に書いたラドゴンド伝によると、聖女は修道院のために聖遺物を熱心に収集しており、そのなかにはラドゴンドが皇帝ユスティヌス2世 (Justinus II, 520 - 578) から譲り受けた真の十字架の破片も含まれていました。修道院の名前サント=クロワ(聖十字架)はこの聖遺物に由来し、この破片が盛大な行列によってトゥールからサント=クロワ修道院まで届けられた際に、聖フォルトゥーナートゥスが現在でも歌い継がれている聖歌「王の御旗は進み」("Vexilla Regis Prodeunt" 註) を作ったと言われています。

 クロタール1世の死後オーストラシア王となったクロタールの息子シゲベール1世 (Sigebert Ier, c. 535 - c. 575) をはじめ、諸国の王たち、司教たちに対して、聖ラドゴンドは数多くの書簡を送り、影響を及ぼしました。



【聖ラドゴンドの死と埋葬】

 ポワチエの聖ラドゴンド教会 20世紀初頭の絵葉書


 聖ラドゴンドは 587年 8月 13日、68歳のときにサント=クロワ修道院で没し、8月 25日に行われた葬儀にはトゥール司教聖グレゴリウス (St. Gregoire de Tours, c. 538 - 594) も参列しました。

 ラドゴンドの遺体はポワチエにある現在の聖ラドゴンド教会に埋葬されたあと、9世紀にノルマン人が侵入した際にカンセ (Quinçay) の聖ベネディクト修道院 (Abbaye Saint-Benoit de Quinçay, QUINCIACUS MONASTERIUM) に移され、868年に聖ラドゴンド教会に戻されました。その遺体は病気の快癒をはじめとする数々の奇跡によって数多くの巡礼者を集め、ラドゴンドは死後まもなく聖女とされました。

 聖ラドゴンドの祝日は 8月 13日です。



【聖ラドゴンドの図像学】

 1850年に出版された本の口絵より。本は当店の商品です。


 図像において聖ラドゴンドは冠と王妃のマントを身に着け、修道女のヴェールを被った姿で表されます。マントの色は表が青、裏が白です。
 また右手に杖あるいは十字架、左手に本を持っています。上の画像のように先の曲がった杖は司教や修道院長のものですから、このような杖を持っている場合は、サント=クロワ修道院創立者としての聖女を表しています。十字架を持っている場合は、サント=クロワ修道院に到来した「真の十字架」を表します。




註 VEXILLA REGIS PRODEUNT 王の御旗は進み

 この聖歌は現在も十字架称讃の祝日に歌われていますが、現在のものは歌詞に変更が加えられています。下に示したのは聖フォルトゥーナートゥスによるオリジナルの詩で、日本語訳は筆者(広川)によります。

    Vexilla regis prodeunt,
fulget crucis mysterium,
quo carne carnis conditor
suspensus est patibulo.
  王の御旗は進み
十字架の奥義は輝く。
人を造り給える御方、人となり、
この奥義にて十字架に架かりたまえリ。
     
    Confixa clavis viscera
tendens manus, vestigia
redemptionis gratia
hic inmolata est hostia.
  主の臓腑は釘にて裂かれたり。
主の両手両脚は伸びたり。
救いのために、
かくの如く主は木に架かり、犠牲となりたまえり。
     
    Quo vulneratus insuper
mucrone diro lanceae,
ut nos lavaret crimine,
manavit unda et sanguine.
  主は木の上で傷を負いたまえり。
恐ろしき槍の刃先にて。
我らを罪より洗い浄めんとて、
水と血を流したまえり。
     
    Impleta sunt quae concinit
David fideli carmine,
dicendo nationibus:
regnavit a ligno deus.
  成就したるは、真(まこと)の歌にて
ダヴィデが歌う事ども。
ダヴィデが国々の民に語る事ども。
すなわち、神、木より統べたまえりと。
     
    Arbor decora et fulgida,
ornata regis purpura,
electa, digno stipite
tam sancta membra tangere!
  美しき木よ。輝ける木よ。
王の紫に飾られたる木よ。
その木は選ばれて杭となり、(*)
聖なる御手、御足が触るるに値したるなり。
     
    Beata cuius brachiis
pretium pependit saeculi!
statera facta est corporis
praedam tulitque Tartari.
  幸いなる木よ。その腕木より
世の(罪の)代価が吊られし木よ。
その木は御体を挙ぐる支え(直訳:天秤)となりて
地獄にその取り分を渡さざりき。
     
    Fundis aroma cortice,
vincis sapore nectare,
iucunda fructu fertili
plaudis triumpho nobili.
  木よ。汝はその樹皮より芳香を放ち、
その甘美さは蜜にも勝るなり。
豊かに実りたるその果実は甘し。
汝は優れたる勝利を讃うるものなれば。
     
    Salve ara, salve victima
de passionis gloria,
qua vita mortem pertulit
et morte vitam reddidit.
  めでたし、祭壇よ。
めでたし、受難たる栄光の、奉献されたる犠牲よ。
この栄光にて、命は死を耐え忍び、
死によりて命を取り戻したり。

(*) "digno stipite" を絶対的奪格と解して訳しました。


 フォルトゥーナートゥスはこの詩において、救い主の十字架を生命樹と同一視しています。ちなみにダンテは「神曲」地獄篇第34曲の冒頭で、この詩をもじった言葉をウェルギリウスに語らせています。



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 書籍 マリ=テオドール・ド・ビュシエール 「王妃聖ラドゴンドと、クロタール1世及びキルデリク時代のネウストリア」 パリ、V.-A.ヴァーユ社 1850年




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