ケルブ、ケルビム
cherub, cherubim




(上) Albrecht Dürer, „Melencolia I“, 1514, Kupferstich, 24 x 18.8 cm


 ケルブ(希 χερούβ 羅 CHERUB 智天使)は聖書に登場する天使のひとつです。ケルブはヘブライ語からギリシア語、ラテン語、近代諸語に入った言葉で、複数形は、ケルビム(希 χερουβίμ 羅 CHERUBIM)です。ケルビムの名前は旧約聖書に頻出します(註1)。新約聖書では「ヘブライ人への手紙」九章五節が「贖いの座」に作りつけられたケルビム(「出エジプト記」二十五章 後述)に言及しています。「ヨハネの黙示録」四章にもケルビムが登場しますが、「ケルビム」という名は明示されていません。


【ケルビムの起源】

 天使的存在の概念は古代オリエントに広く見られました。ヘブライ語「ケルーブ」(kerūb)は、アッシリアの「ケロウブ」(kéroub)または「カリブ」(karibu)、バビロニアの「カーリブ」(kārib)に対応し、「祈る者」あるいは「伝える者」という意味です。ペルシア、アッシリア、バビロニアでは、宮殿や神殿の入り口を、人頭有翼の牛のような一対の巨獣彫刻が守っていました。ケルーブ、カリブ、カリーブとはスフィンクスに似たこの巨獣のことです。

 以下で論じるように、「創世記」ではケルビム(複数のケルブ)がエデンへの入り口を守ります。「出エジプト記」では一対のケルビムが神の玉座になるとともに、十戒の石板を守ります。「列王記」に記されたソロモン神殿においても、同様です。「エゼキエル書」では四人のケルビムが神の玉座を支えます。これらの事実を見れば、「聖所を守る」というケルビムの役割は、ユダヤ、ペルシア、アッシリア、バビロニアを通じて一貫し、常に不変であることがわかります。




(上) アナトリアのスフィンクス ブロンズの体に石の顔を嵌め込み 高さ十六センチメートル エルミタージュ美術館蔵


 上の写真はアナトリア東端ヴァン湖の近くにある都城址、トプラクカレ(Toprakkale)遺跡から発掘された紀元前八または七世紀頃のスフィンクスです。高さ十六センチメートルと小さなサイズですが、アッシリア、バビロニア、ペルシアに見られる人頭有翼の巨獣を同じ形をしています。この像は玉座を支えていたものと思われ、役割の上でも「エゼキエル書」のケルビムと共通しています。


【聖書におけるケルビム ― 1. エデンの東で生命の木に至る道を守るケルビム】

 「創世記」三章二十四節によると、原罪を犯してエデンの園を追放されたアダムが、楽園に再び侵入して生命樹の実を食べることがないように、神は見張りのケルビムと炎の剣をエデンの東に置き給いました。「創世記」三章二十二節から二十四節を、新共同訳により引用いたします。

 「創世記」 三章
     22  主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
     23  主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
     24  こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。


(下) Marc Chagall, "Adam et Eve chassés du paradis", 1961, Huile sur toile, 190.5 x 283.5 cm, musée national biblique Marc Chagall, Nice




【聖書におけるケルビム ― 2. 幕屋のケルビム像と、ソロモン神殿のケルビム像】

 「出エジプト記」は一章から二十四章でモーセとモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル民族の歴史を語った後、二十五章以降において、幕屋(移動可能なテントによる神殿)と幕屋で使われる物品、祭司の服装など、祭祀に関する具体的な指示を記述しています。大方の聖書学者の一致した意見によると、「出エジプト記」二十五章は、この書物において祭司伝承に基づく記事が始まる部分です(註2)。

 「出エジプト記」二十五章十節から二十二節には、「契約の櫃」、及び櫃の蓋に相当する「贖いの座」の構造が詳述されます(註3)。「贖いの座」には両端にひとりずつ、合計ふたりのケルビムが取り付けられます。ケルビム像は金を打ち出して作られています。「出エジプト記」二十五章十節から二十一節を、新共同訳により引用します。

 「出エジプト記」 二十五章
     10  アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。
     11  純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。
     12  四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。
     13  箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。
     14  棒はその環に通したまま抜かずに置く。
     15  この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
     16  次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。
     17  打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、
     18  すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。
     19  一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。
     20  この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。
     21  わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

 「出エジプト記」三十七章一節から九節には、「契約の櫃」と「贖いの座」が上記の指示通りに制作されたことが記されています。「契約の櫃」と「贖いの座」、及びその上にある二体のケルビム像は、二十五章と並行する形で、再び描写されています。これら二体のケルビム像は、「民数記」七章八十九節、及び「サムエル記 上」四章四節、「サムエル記 下」六章二節にも言及されています。新共同訳により、「民数記」七章八十九節を引用します。

 「民数記」 七章
     89   モーセは神と語るために臨在の幕屋に入った。掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた。

 「詩編」十八編十一節では、天から降り給うた神がケルブに乗って飛ぶと謳われています。ケルブは単数形ですが、この詩句はおそらく「贖いの座」のケルビムから着想を得ているのでしょう。新共同訳により、「詩編」十八編十節から十二節を引用します。

 「詩編」 十八編
     10  主は天を傾けて降り、密雲を足もとに従え
     11  ケルブを駆って飛び、風の翼に乗って行かれる。
     12  周りに闇を置いて隠れがとし、暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。

 「贖いの座」を飾る二体のケルビムの形態について、「出エジプト記」の記述からは、翼と顔があることしか分かりません。我々が「天使」と聞いて思い浮かべるような人間の姿であったかもしれないし、メソポタミアの神殿の入り口を守る有翼の動物の姿であったかもしれません。




(上) ソロモン神殿の内陣で「契約の箱」を守るケルビムの想像図。「契約の箱」の形は聖堂型聖遺物函を思わせます。1425年から1430年頃に北フランスで描かれた写本挿絵。 MS M. 396 folio 146r, The Morgan Library, New York


 「列王記 上」六章二十三節から三十五節、及び八章六節から七節には、ソロモン神殿のケルビムが描写されています。「歴代誌 下」三章七節から十四節、及び五章七節から八節にも、同じケルビムが描写されています(註4)。「列王記 上」六章二十三節から三十五節、及び八章六節から七節を、新共同訳により引用します。

 「列王記 上」 六章
     23  ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り、内陣に据えた。その高さは十アンマであった。
     24  ケルビムの翼は一方が五アンマで、他方も五アンマ、一方の翼の先から他方の翼の先まで十アンマであった。
     25  もう一体のケルビムも十アンマで、ケルビムは二体とも同形同寸であった。
     26  一方のケルビムは高さが十アンマで、もう一方のケルビムも同様であった。
     27  ソロモンはこのケルビムを神殿の奥に置いた。二体のケルビムはそれぞれ翼を広げ、一方のケルビムの翼が一方の壁に触れ、もう一方のケルビムの翼も、もう一方の壁に触れていた。また、それぞれの内側に向かった翼は接し合っていた。
     28  彼はケルビムも金で覆った。
     29  神殿の周囲の壁面はすべて、内側の部屋も外側の部屋も、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていた。
     30  神殿の床には、内側の部屋も外側の部屋も全面に金を張り詰めた。
     31  ソロモンは内陣の入り口にオリーブ材の扉を付けた。壁柱と門柱は五角形であった。
     32  そのオリーブ材の二枚の扉にもケルビムとなつめやしと花模様を浮き彫りにして、これを金で覆った。ケルビムとなつめやしの上にも金を張った。
     33  同様に外陣の入り口にもオリーブ材の門柱を付けた。これは四角形であった。
     34  そして糸杉材の二枚の扉を付けた。その一方の扉の二枚の板戸は折り畳み戸、もう一方の扉の二枚の板戸も折り畳み戸であった。
     35  そこにもケルビムとなつめやしと花模様を浮き彫りにし、彫られているところによく合わせて金を張った。
       
 「列王記 上」 八章
     6  祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。
     7  ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。


 「出エジプト記」、「民数記」、「サムエル記 上」、「サムエル記 下」に記録されているケルビム像は、純金を打ち出して作ったものです。正確な大きさは記されていませんが、両端にケルビム像を載せた「契約の櫃」の大きさが縦 111センチメートル、横 67センチメートルですので、一枚の翼の長さは 60センチメートルほどでしょう。一方ソロモンがオリーヴ材に金を被せて作らせたケルビムは、幕屋時代のものに比べてずっと大きく、一方の翼の先から他方の翼の先までが十アンマ、すなわちおよそ 445センチメートルとなっています。上記引用箇所の記述から判断すると、ソロモン神殿のケルビムはいずれも翼を大きく広げ、右のケルビムの左の翼と、左のケルビムの右の翼が、先端で触れあっている状態であったことがわかります。

 「歴代誌 下」三章十三節には、「ケルビムは顔を内側に向けて足で立っていた。」(新共同訳)と書かれています。「内側」とはどちら側のことか判然としませんが、ケルビムの顔と体は同じ方向を向いていると推測されますので、ここで言う「内側」は神殿の中央部分のことを指すのではないでしょうか。そうだとすればケルビムの顔は外陣に向いていたことになります。


【聖書におけるケルビム ― 3. エゼキエルが幻視したケルビム】

 祭司の子であり、自身もおそらく祭司であったエゼキエルは、紀元前六世紀の初めころ、捕囚先のバビロン近郊で預言者としての活動を始めました。「エゼキエル書」一章から三章十五節には、預言者エゼキエルが最初に幻視した神の顕現が記述されています。

 この部分には、四つの顔、四つの翼、翼の下に四つの人間の手を持つ不思議な生き物(テトラモルフ)が登場します。この生き物は四人いて、それぞれ傍らに車輪のようなものを伴っていました。車輪の中には生き物の霊があるゆえに、車輪と生き物は常に一緒に動いていました。それぞれの車輪はおびただしい目で覆われた枠に囲まれていました。四人の生き物の頭上には水晶のように輝く大空があり、大空のかなたにはサファイアのような王座があって、その上に神が座していました。「エゼキエル書」一章の全体(一節から二十八節)を、新共同訳により引用します。

 「エゼキエル書」 一章
     1   第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。
     2  それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。
     3  カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
       
     4   わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。
     5  またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
     6  それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
     7  脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
     8  また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。
     9  翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。
     10  その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。
     11  顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。
     12  それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。
     13  生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。
     14  そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。
       
     15   わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
     16  それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
     17  それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。
     18  車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた。
     19  生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。
     20  それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
     21  生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
       
     22   生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた。
     23  大空の下では、生き物の一対の翼がまっすぐに伸びて互いに触れ合い、他の一対の翼が体を覆っていた。すなわち、それぞれの一対の翼が彼らの体を覆っていた。
     24  それらが移動するとき、翼の羽ばたく音をわたしは聞いたが、それは大水の音のように、全能なる神の御声のように聞こえ、また、陣営のどよめきのようにも聞こえた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。
     25  生き物の頭上にある大空から音が響いた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。
     26  生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。
     27  腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。
     28  周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。




(上) 十四世紀イングランドの重要な写本、「ド・リール・ソルター」("De Lisle Psalter" 「ロベルト・ド・リール詩篇」)に描かれた挿絵「デー・セクス・アーリース・ケルビム」(羅 "De Sex Alis Cherubim" ケルビムの六翼について)。「エゼキエル書」の記述に基づき、足下に車輪状のものが表されています。大英図書館所蔵 Alanus ab Insula, "De sex alis Cherubim", from "De Lisle Psalter", c. 1308 - 1340, The British Library


 「エゼキエル書」一章から三章十五節に、四つの生き物の名前は記されていません。しかしながら同書十章では類似した状況の下(もと)で別の幻視が起こっており、十五節、二十節、二十二節において、これら四人の生き物がケルビムであると明示されています。十二節によると、ケルビムは全身に目が付いています。またそれぞれのケルブが有する四つの顔は、一章十節によると「人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔」」ですが、十章十四節では「ケルビムの顔、人間の顔、獅子の顔、鷲の顔」となっています。「エゼキエル書」十章の全体(一節から二十二節)を、新共同訳により引用します。

 「エゼキエル書」 十章
     1   わたしが見ていると、ケルビムの頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるものがあるではないか。それはケルビムの上に見えた。
     2  主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と。彼は、わたしの目の前で入って行った。
     3  その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に止まっており、雲が中庭を満たしていた。
     4  主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。
     5  ケルビムの翼の羽ばたく音は外庭にまで聞こえ、全能の神が語られる御声のようであった。
       
     6   主が亜麻布をまとった人に命じて、「火を、回転するものの間、ケルビムの間から取れ」と言われたので、彼は来て、車輪の傍らに立った。
     7  すると、ケルビムのひとりが、手をケルビムの間から、ケルビムの間にある火に向かって伸ばして火を取り上げ、亜麻布をまとった者の両手に置いた。その人は火を受け取って、出て行った。
     8  ケルビムには、その翼の下に、人間の手の形が見えていた。
       
     9   わたしが見ていると、四つの車輪が、ケルビムの傍らにあるではないか。一つの車輪が、ひとりのケルビムの傍らに、また一つの車輪が、ひとりのケルビムの傍らにというように、それぞれの傍らにあって、それらの車輪の有様は緑柱石のように輝いていた。
     10  それぞれの形の有様は、四つとも同じで、一つの車輪がもう一つの車輪の中にあるかのようであった。
     11  それらが移動するときは、四つの方向に進み、移動するときに、向きを変えることはなかった。先頭のケルビムが向かうところに他のものも従って進み、向きを変えなかったからである。
       
     12   ケルビムの全身、すなわち、背中、両手、翼と、車輪にはその周囲一面に目がつけられていた。ケルビムの車輪は四つともそうであった。
     13  それらの車輪は「回転するもの」と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた。
     14  ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。
     15  ケルビムは上った。これがケバル川のほとりでわたしが見たあの生き物である。
     16  ケルビムが移動するとき、車輪もその傍らを進み、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき、車輪もその傍らを離れて回ることはなかった。
     17  ケルビムが止まると、車輪も止まり、ケルビムが上ると、車輪も共に上った。生き物の霊がその中にあったからである。
       
     18   主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。
     19  ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。
     20  これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしは、それがケルビムであることを知った。
     21  そのそれぞれに四つの顔と四つの翼があり、翼の下には人間の手の形をしたものがあった。
     22  これらの顔の形は、まさしく、わたしがケバル川の河畔で見た顔であった。それらは同じような有様をしており、おのおのまっすぐに進んで行った。

 出エジプトの幕屋においても、ソロモン神殿においても、ケルビムは地上における神の座でした。バビロニアによってソロモン神殿が破壊されたいま、神は神殿から出て、捕囚のユダヤ人たちとともにおられます。「エゼキエル書」十章十八節には「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった」と書かれています。


【聖書におけるケルビム ― 4. ヨハネが幻視したケルビム】



(上) サン・スヴェールのベアトゥス本(Ms. Lat. 8878)挿絵 une illumination du "Beatus de Saint-Sever", la bibliothèque nationale de France


 「ヨハネの黙示録」四章六節から八節にも、神秘的な四つの生き物が登場します。ヨハネが幻視した四つの生き物は互いに同じ姿ではなく、翼の数もそれぞれ六枚ずつですが、神の玉座に伴う点、前にも後ろにも一面に目がある点で、エゼキエルが幻視した生き物との間に大きな共通性があり、ケルビムが別の姿を取って幻視されたものと考えることができます。「ヨハネの黙示録」四章の全体(一節から十一節)を、新共同訳により引用します。

 「ヨハネの黙示録」 四章
     1   その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
     2  わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。
     3  その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。
     4  また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
     5  玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。
       
     6  また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
     7  第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
     8  この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
     9  玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、
     10  二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。
     11  「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」

 上記七節には「第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。」とあります。しかるに獅子(ライオン)は野生の哺乳動物のなかで、雄牛は家畜のなかで、人間は陸上動物のなかで、鷲は鳥のなかで、もっとも強い地位にあります。したがってヨハネが幻視した四つの生き物は、それぞれの範疇で最強の生物が選ばれていることがわかります。これら四つの生き物は、リヨンの聖エイレナイオス (St. Eirenaeus Lugduni, c. 130 - 202) 以来、四人の福音記者を象徴すると解釈されています。

 ラファエロは 1518年頃に油彩画「エゼキエルの幻視」を描いています。ラファエロが描く四つの生き物は「エゼキエル書」の描写とも「ヨハネの黙示録」の描写とも異なりますが、生き物の姿が互いに異なっており、それぞれ人間、獅子、牛、鷲のようである点で、「ヨハネの黙示録」から強い影響を受けています。この作品はフィレンツェ、ピッティ宮殿のパラティナ美術館に収蔵されています。なおこの作品において、預言者エゼキエルの両脇には二人のプッティ(有翼の童子)がいます。プッティとケルビムの関係については後述します。


(下) Raffaelo Sanzio, "La Visione di Ezechiele", 1518 circa, Olio su tavola, 40,7 x 29,5 cm, Galleria Palatina, Palazzo Pitti, Firenze




 以上で見たように、「エゼキエル書」においても、「ヨハネの黙示録」においても、神の玉座であるケルビムは、多数の翼と多数の目を有します。ケルビムが有する多数の翼は「神の遍在」を、多数の目は「神の全知」を表します。このことに基づいて、ケルビムは智慧の象徴とされています。キリスト教の伝統的図像において、愛を象徴するセラフィムが赤色で描かれるのに対し、知恵を象徴するケルビムは青色で描かれます。


【偽ディオニシウス・アレオパギタにおけるケルビム】

 「ディオニシウス・アレオパギタ」(羅 Dionysius Areopagita 希 Διονύσιος ὁ Ἀρεοπαγίτης)とは、「アレオパゴスの議員ディオニシウス」(「使徒言行録」十七章三十四節 註5)という意味です。キリスト教思想史で言う「偽ディオニシウス・アレオパギタ」は紀元五百年頃の重要な教父で、その著作群(ディオニシウス文書)がアレオパゴス議員ディオニシウスのものとされたために、「偽ディオニシウス・アレオパギタ」と呼ばれています(註6)。

 ディオニシウス文書には、「教会位階論」(De Ecclesiae Hierarchia, Περὶ τῆς ἐκκλησιαστικῆς ἱεραρχίας 教会のヒエラルキアについて 註7)と、「天上位階論」(De Coelesti Hierarchia, Περὶ τῆς οὐρανίου ἱεραρχίας 天のヒエラルキアについて)が含まれます。これら二つの書によると、感覚及び知性によって捉え得る「聖職者の位階」の上には、知性のみによって捉え得る「天使の位階」があります。これらの位階は被造物における階層的秩序を表しており、一段階ずつ上昇するにつれて神に近付くことになります。

 「天上位階論」によると、諸天使には三つの階級があって、それぞれの階級には三つの位階が属しています。最上の階級に属するのはセラフィム(σεραφίμ 熾天使)、ケルビム(χερουβίμ 智天使)、トロノイ(θρόνοι 座天使)で、いずれも無媒介的に神のみそばに侍る天使たちです。ケルビムはセラフィムの下、トロノイの上に位置し、神から注ぎ込まれるこの上なく豊かな知恵をその本性とします。「天上位階論」第七章第一節はセラフィム、ケルビム、トロノイに関して論じられており、ケルビムについては次のように書かれています。今義博氏の訳により引用します。


      われわれはその聖なるもろもろの位階の秩序を受け入れて、天上の知性の名称のすべてが神に似ているそれぞれの特性を明示していることを認めるのである。すなわち、ヘブライ語の知識のある人は、「セラフィム(熾天使)」という聖なる名称が「火を発するもの」あるいは「熱するもの」を表し、「ケルビム(智天使)」という名称が「たくさんの知識」あるいは「知識の注ぎ出し」を表していることを知っている。
     (中略)
      あるいはまた、「ケルビム(智天使)」という名称が教えているのは、彼らが神を見ることができ、光の最高の賜物を受け取って、第一次的に与えられた力で真正の根源の整然たる美しさを観想することができる認識能力であり、また智慧を与える分与の働きに満たされて、与えられた知恵を注ぎ出すことにより第二位のものに惜しみなく分け与えることができるということである。
     (後略)


 ディオニシウス文書はヨーロッパの思想と文化に深甚な影響を及ぼしました。神学者たちは聖書に次ぐ権威をディオニシウス文書に認め、頻りに引用しました。また「天上位階論」第一章三節によると、可感的事物の美は神の美を分有したものであるゆえに、人間の魂が神に向かって上昇する助けとなります。この思想はやがてサン・ドニ修道院長シュジェに受け継がれ、ステンドグラスの光に彩られた壮麗なゴシック聖堂を生み出すことになります。


(下) 第一級の天使たち。セラフィムは赤、ケルビムは青で表現されています。いちばん下のトロノイは特定の色に結び付けられていないため、人の肌に近い色で描かれています。大英図書館蔵 "Carmina Regia", c. 1335, MS 6 E IX, folio 6r, The British Library





【「まことのケルビムの座」 ― ケルビムとしての聖母】

 「出エジプト記」二十五章の記述で確かめたように、幕屋の至聖所には契約の箱が収められ、その上には「贖いの座」が置かれました。贖いの座の両端には、ケルビムの像が取り付けられていました。また「列王記 上」六章二十三節から三十五節、及び八章六節から七節の記述で確かめたように、ソロモン神殿の至聖所には契約の箱が収められ、ケルビムがそれを守っていました。それゆえ幕屋及びソロモン神殿において、ケルビムは地上における神の座であったことがわかります。「詩編」八十編二節には、次のように書かれています。

 「詩編」 八十編 (新共同訳)
     2  イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください


 ネオカイサレアの司教、聖グレゴリウス・タウマトゥルグス (Γρηγόριος ὁ Θαυματουργός, Γρηγόριος Νεοκαισαρείας St. Gregory Thaumaturgus of Neocaesarea, c. 213 - c. 270) は、キリスト教の立場に立って、聖句冒頭の「イスラエル」を「新しきイスラエル」、すなわち「エクレシア」(キリスト教会、キリスト教徒全体)という意味に解釈しました。この解釈に従えば、「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方」とはキリストを指していることになります。これを上の聖句に当てはめると、キリストはケルビムの上に座していることになります。

 一方、幼子イエスは聖母の膝の上に座しています。オリンポスの司教、聖メトディウス (Μεθόδιος Όλύμπου St. Methodius of Olympus, + 311) は、聖母を幼子イエズスの「おとめなる玉座」と呼びました。したがって「おとめなる玉座」なる聖母の膝と、「ケルビムの座」の間には、アナロギア(類比)に基づく類似性が成立します。

 しかるに「箴言」八章から九章にかけてはまことの「知恵」について述べられていますが、キリスト教の立場に立つと、この知恵はキリストを指していると考えることが可能です。なぜならば「ヨハネによる福音書」一章一節において、キリストは「ロゴス」(希 λόγος)と呼ばれているからです。

 以上のような根拠に基づき、「知恵」そのものである幼子イエスを膝の上に抱く聖母は、「セーデス・サピエンティアエ」(羅 SEDES SAPIENTIAE 知恵の座、上智の座)と呼ばれます。「まことの知恵」を載せる聖母の膝は、神を座らせる玉座に比することができます。この比喩において、聖母はケルビムに比せられています。

 下の写真はフラ・フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406 - 1469)によるテンペラ板絵で、メトロポリタン美術館に収蔵されています。この作品において聖母子の向かって左にいる天使は「集会書」二十四章二十六節の聖句「われを欲する汝等は皆、われに来(きた)りて、われの産み出すものにて満たされよ」 (VENITE AD ME OMNES QUI CONCUPISCITIS ME ET A GENERATIONIBUS MEIS IMPLEMINI) を手にしています。「集会書」二十四章二十六節は、新共同訳聖書において「シラ書」二十四章十九節に当たります。


(下) Fra Filippo Lippi (1406 - 1469), Madonna and Child Enthroned with Two Angels, 1437, tempera and gold on wood, Metropolitan Museum of Art, New York




【トマス・アクィナスにおけるケルビム】

 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第1部108問5項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum convenienter nominentur.")において、セラフィムとケルビムの本性を論じています。この項の異論五に対するトマスの回答を、下に示します。異論五に対する回答は、前半がセラフィム、後半がケルビムに関する考察になっています。ラテン語原文はマリエッティ社のレオニナ版、日本語訳は筆者(広川)によります。

    Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis.    第五の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第七章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。
         
    In igne autem tria possumus considerare. Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter moventur in Deum.
   ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。
    Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes.    しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。
    Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant.    火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。
         
    Similiter etiam nomen Cherubim imponitur a quodam excessu scientiae, unde interpretatur plenitudo scientiae.    さらにケルビムという名前も、知恵のある種の上昇に基づいて、同様な付けられ方をしている。それゆえケルビムという名前は知恵の充溢という意味に解される。
    Quod Dionysius exponit quantum ad quatuor, primo quidem, quantum ad perfectam Dei visionem; secundo, quantum ad plenam susceptionem divini luminis; tertio, quantum ad hoc, quod in ipso Deo contemplantur pulchritudinem ordinis rerum a Deo derivatam; quarto, quantum ad hoc, quod ipsi pleni existentes huiusmodi cognitione, eam copiose in alios effundunt.    ディオニシウスはこのことを四つの点に関連して説明している。すなわち第一に、ケルビムが神を完全に見ることに関して。第二に、ケルビムが神よりの光を受けて充ち足りていることに関して。第三に、神から発した諸事物の秩序が有する美しさを、ケルビムは神ご自身のうちに観想するということに関して。第四に、かかる認識に満たされて存在するケルビムは、その認識を他の者たちへと豊かに注ぎ込むということに関して。


 トマスが生きた十三世紀には、ディオニシウス文書は使徒パウロの弟子(アレオパゴス議員ディオニシウス)の著作であると考えられ、絶大な権威を有していました。トマスは「天上位階論」に準拠して論を進め、ディオニシウス文書に見られる「止留と流出と回帰」の考え方に従って、セラフィム及びケルビムを論じています。

 セラフィムの自然本性と働きについては、物質界における可視的な「火」に譬えることにより、「止留と流出と回帰」の型式に則って巧みな説明が行われています。いっぽうケルビムの属性と働きは可視的な物に譬えるのが難しいですが、やはり「止留と流出と回帰」の型式に則った説明が可能であることが指摘されています("Similiter etiam nomen Cherubim imponitur..." loc. cit.)。

 セラフィムの自然本性には火、すなわち愛が充溢しています。セラフィムは愛の火ゆえに神へと上昇し、また愛の火を下位のものに点火して上へと引き上げます。ケルビムについてもこれと類比的に考えることができます。ケルビムの自然本性には知恵が充溢しています。ケルビムは自身のうちに知恵が充溢するゆえに、神についての認識を下位のものに伝え、上へと引き上げます。


 なお上に引用した箇所には、「すなわち第一に、ケルビムが神を完全に見ることに関して」(primo quidem, quantum ad perfectam Dei visionem)という句があります。しかしながらケルビムが知恵の充溢を本性とするからといって、神の本質を「神のうちにあるがままに認識できる」わけではありません。トマスによると、いかなる天使であっても、その被造的認識能力(被造物である天使が自然本性的に有する認識能力)によって神の本質を認識することは、まったく不可能です。ケルビムの場合も例外ではありません。

 「スンマ・テオロギアエ」第1部56問3項 「天使たちは自身の自然本性的能力を通して神を認識し得るか」("Utrum angeli per sua naturalia Deum cognoscere possint.")のレースポンデオー(羅 Respondeo 異論に対する回答)において、トマスは次のように論じています。ラテン語原文はマリエッティ社のレオニナ版、日本語訳は筆者(広川)によります。

      Respondeo dicendum quod angeli aliquam cognotionem de Deo habere possunt per sua naturalia. Ad cuius evidentiam, considerandum est quod aliquid tripliciter cognoscitur. Uno modo, per praesentiam suae essentiae in cognoscente, sicut si lux videatur in oculo: et sic dictum est quod angelus intelligit seipsum. Alio modo, per praesentiam suae similitudinis in potentia cognoscitiva: sicut lapis videtur ab oluco per hoc quod similitudo eius resultat in oculo. Tertio modo, per hoc quod similitudo rei cognitae non accipitur immediate ab ipsa re cognita, sed a re alia, in qua resultat: sicut cum videmus hominem in speculo.    答えて以下のように言われるべきである。天使たちは自らの自然本性的能力によって神に関する何らかの認識を有し得る。このことを示すには、物が認識される場合に、三つの様態があることを考える必要がある。第一に、認識されるものの本質が、認識する者ののうちに現存することにより認識される場合。たとえば光が目のうちで見られる場合がこれに当たる。天使がこの方法によって自身を認識することは、既に論じた(註8)。第二に、認識される物の類似性が認識能力のうちに現存することにより、認識が行われる場合。たとえば石が目によって見られるのは、石の類似性が目のうちに生ずるという事実による(註9)。第三に、認識される物の類似性が認識される物自身から受け取られるのではなく、他の物から受け取られる場合。この「他の物」とは、認識される物がそのうちに生じているような物のことである。たとえば鏡に映った人を見る場合がこれに当たる。
      Primae igitur cognitioni assimilatur divina cognitio, qua per essentiam suam videtur. Et haec cognitio Dei non potest adesse creaturae alicui per sua naturalia, ut supra dictum est.     それゆえ神が為し給う認識の働きは、第一の認識に比せられる。神が神ご自身を認識し給うとき、神ご自身の本質によって認識が行われているのである。被造物が自然本性的能力により、神ご自身によるこの認識の働きを為すことは、既に論じたように(註10)、如何なる被造物にも起こり得ない。
      Tertiae autem cognitioni assimilatur cognitio qua nos cognoscimus Deum in via, per silimitudinem ejus in creaturis resultantem; secundum illud Rom. 1, [20]: Invisibilia Dei per ea quae facta sunt, intellecta, conspiciuntur. Unde et dicimur Deum videre in speculo.     我々がこの世の生において神を認識する働きは、第三の認識に比せられる。神の類似性は神から生じる被造的諸事物のうちにあり、その類似性を通して我々は神を認識するのである。「ローマ人への手紙」一章に十節に「造られた諸事物を通して、神の内なる不可視のものが知解され、露わになる」とあるのは、この意味である。それゆえ我々は神を鏡に映して見ていると言われる。
      Cognitio autem qua angelus per sua naturalia cognoscit Deum, media est inter has duas; et similatur illi cognitioni qua videtur res per speciem ab ea acceptam. Quia enim imago Dei est in ipsa natura angeli impressa per ipsam essentiam, angelus Deum cognoscit, inquantum est similitudo Dei. Non tamen ipsam essentiam Dei videt: quia nulla similitudo creata est suffuciens ad repraesentandam divinam essentiam. Unde magis ista cognitio tenet se cum speculari: quia et ipsa natura angelica est quoddam speculum divinam similitudinem repraesentans.     しかるに天使が自身の自然本性的能力によって神を認識する働きは、上記のふたつの中間に位置し、物から受け取られた像を鏡を通して見る認識に比せられる。なぜなら神のイマーゴー(羅 imago 像、姿)は天使の本質を通して天使の自然本性自体に刻印されているからである。天使は自身が神の類似性であるゆえに、神を認識する。しかしながら天使は神の本質そのものを見るのではない。如何なる被造的類似性も、神の本質を表すのは充分でないからである。それゆえ天使が神を認識するこの働きは、むしろ形相(けいそう)を観想する働き(speculari 註11)に関連する。なぜなら天使の自然本性そのものが神の類似性を表す何らかの鏡だからである。


 上の引用箇所には「ナートゥーラーリア」(羅 naturalia)という言葉が頻出します。ラテン語「ナートゥーラ」(羅 natura)はギリシア語の「ピュシス」(希 φύσις)を訳した語で、「自然本性」という意味です。「ナートゥーラーリア」は、「ナートゥーラ」の形容詞形である「ナートゥーラーリス」(羅 naturalis 辞書の見出しに載っている形、すなわち男性単数主格形)の中性複数対格形を、名詞として用いたものです。したがって「ペル・スア・ナートゥーラーリア」(羅 per sua naturalia)を直訳すると「自然本性的な諸々のものを通して」ですが、ここでは「自然本性的能力によって」と訳しました。「自身の自然本性に属する諸々の能力によって」という意味です。

 「類似性」(シミリトゥードー similitudo)は、「類比」(アナロギア analogia)と並んで、トマスにおける存在論及び認識論の要(かなめ)となる概念です。通常の類似は同じ次元にある事物の間に成立します。たとえば「水晶」と「ガラス」は類似しています。いっぽうアナロギアに基づけば、全く異なる次元に属する事物の間にも類似が成立します。たとえば「石」は物体であり、「石のイメージ」は概念すなわち非物体ですが、これらふたつの間にはアナロギアによる類似性あるいは関連が存在します。


【プット、プッティ】

 有翼の童子をイタリア語で「プット」(伊 putto)といいます。プットの複数形は「プッティ」(伊 putti)です。プットは「ケルブ」(伊 cherubino 西 querubín 仏 chérubin 英 cherub 独 Cherub)とも呼ばれますが、丸々と太った幼い男の子として表された愛らしい姿は、聖書に出てくる恐ろし気なケルビムとはかけ離れています。プット、プッティは古典古代以来美術に用いられていましたが、中世には用いられなくなり、イタリア・ルネサンスの画家ドナテッロ(Donatello, c. 1386 - 1466)が復活させたと言われています。




(上) Raffaelo Sanzio, „Madonna Sistina“, 1512 - 14, Öl auf Leinwand, 265 x 196 cm, Gemädegalerie Alte Meister, Dresden


 上の写真はラファエロの「サン・シストの聖母」で、画面最下部に描かれているふたりの天使(プッティ、ケルビーニ)はたいへん有名です。「サン・シストの聖母」は三十八歳の若さで亡くなったラファエロが自らの手で仕上げた最後の聖母子像で、聖母はウルトラマリン(バダフシャーン産ラピスラズリの粉末)に鉛白(2PbCO3•Pb(OH)2 白の顔料)を加えた美しい青色のマントをまとっています。この作品は1754年以来ずっとドレスデンにあり、第二次世界大戦当時はヒトラーの命により地下室に保管されていたために、連合軍のドレスデン空襲による破壊を免れました。第二次世界大戦後、いったんモスクワに運ばれましたが、その後ドレスデンに返却され、現在に至っています。




(上) Nicolas Blasset, "l'Ange Pleureur", 1636, le tombeau du chanoine Guillain Lucas, la cathédrale Notre-Dame d'Amiens


 プッティは楽しげに遊ぶ描写が多いですが、墓所の彫刻には悲しげに泣くプットが飾られることがあります。泣くプットの彫刻はフランス語で「アンジュ・プルルール」(仏 l'Ange pleureur 「泣く天使」の意)または「アンジュ・キ・プルール」(仏 l'Ange qui pleure 同)と呼ばれ、フランスの彫刻家ニコラ・ブラセ(Nicolas Blasset, 1600 - 1659)の作品が有名です。ニコラ・ブラセは 1630年から 1659年までアミアン司教座聖堂ノートル=ダムで仕事をしていました。

 上に示した「泣く天使」はニコラ・ブラセが 1636年に制作した作品で、司教座聖堂参事会員(司祭)ギラン・ルカ師(Guilain Lucas, + 1628)の墓所を飾っています。天使は左手(向かって右手)を砂時計の上に置き、髑髏に右肘(向かって左肘)をついて頭を支え、顔をゆがめて泣いています。髑髏と砂時計はメメントー・モリー(羅 MEMENTO MORI)です。



註1 「ケルブ」、「ケルビム」という名前は、次の箇所に言及があります。

 旧約聖書 第一正典
     創世記  3:24
     出エジプト記  25:18-22, 26:1&31, 36:8&35, 37:6-9
     民数記  7:89
     サムエル記 上  4:4
     サムエル記 下  6:2, 22:11
     列王記 上  6:23-35, 8:6-7
     列王記 下  19:15
     歴代誌 上  13:6, 28:18
     歴代誌 下  3: 7-14, 5: 7-8
     詩編  18:11, 80:2, 99:1
     イザヤ書  37:16
     エゼキエル書  9:3, 10:1-22, 11:22, 28:14-16, 41:13-26
 
 旧約聖書 第二正典
     シラ書(集会書)  49:8
     アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌  31
 
 新約聖書   
     ヘブライ人への手紙  9:5

 「ケルビム」という名前は明示されていませんが、「エゼキエル書」一章から三章十五節に記録された預言者エゼキエルの幻視、及び「ヨハネの黙示録」四章に記録された預言者ヨハネの幻視にも、ケルビムが登場します。


註2 旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は「モーセ五書」と呼ばれ、モーセが書いたものと伝承されてきました。しかるにドイツの聖書学者ユリウス・ヴェルハウゼン(Julius Wellhausen, 1844 - 1918)は、モーセ五書はモーセが書いたのではなく、「ヤーウェ伝承」(独 Jahwist; J)、「エロヒム伝承」(独 Elohist; E)、「祭司伝承」(独 Priesterschrift; P)、「申命伝承」(独 Deuteronomisten; D)の四つが後に一書まとめられたものであると主張しました。ヴェルハウゼンの説はいくらかの修正を加えられつつも、現在ではほとんどの聖書学者に受け容れられています。

 上記四資料のうち、「出エジプト記」は申命伝承を除く三つの伝承がまとめられたもので、一章から二十四章まで、及び三十二章から三十四章二十八節までがヤーウェ・エロヒム伝承、二十五章から三十一章、及び三十四章二十九節から最後(四十章三十八節)までが祭司伝承に基づくと考えられています。


註3 「契約の櫃(ひつ)」とは純金で被ったアカシア材の箱で、1アンマを 44.5センチメートルとすると、縦 111センチメートル、横 67センチメートル、高さ 67センチメートルです。「契約の櫃」にはモーセの十戒を記した石板が収められています。これには「贖(あがな)いの座」と呼ばれる純金製の蓋が付いています。贖いの座は地上の幕屋(神殿)における神の玉座です。


註4 「歴代誌」の内容は「サムエル記」及び「列王記」と大きく重なっていて、七十人訳では「パラレイポメノーン」(希 Παραλειπομένων 「パラレイポメナ」の属格)、すなわち「省略された事どもの[書]」という表題が付けられていました。このような表題が付けられたのは、「サムエル記」と「列王記」において省略された事を、省略せずに詳しく書いているのが「歴代誌」である、と考えられたためです。この書物を「リブリー・クロニコールム」(羅 "Libri Chronicorum" 「歴代誌」)と名付けたのはヒエロニムスです。


註5 ルカは「使徒言行録」十七章において、使徒パウロがアテネのアレオパゴスで演説あるいは説教を行ったこと、アテネの人々が死者の復活を信じずに嘲笑し、パウロがその場を立ち去ったこと、しかしながら数名のアテネ人がパウロについて行って信仰に入ったことを記しています。アレオパゴスの議員ディオニシウスは、このときパウロに従って信仰に入ったアテネ人のひとりです。

 アレオパゴス(希 Ἄρειος πάγος )とは字義どおりには「軍神アレース(希 Ἄρης)の丘」という意味で、アテネのアクロポリスから西方三百メートルにある丘のことです。この丘にはアテナイの最高裁判所がありましたので、「アレースの丘」はやがて最高法院をも指すようになります。パウロによって回心したディオニシウスは、新共同訳では「アレオパゴスの議員」となっていますが、これはアテネ最高法院の裁判官のことです。アレオパゴスの議員(裁判官)は執政官(希 ἄρχων)経験者から選ばれ、終身制でした。「アレオパゴスの議員」は優れた知性と教養、高い社会的身分を有する市民であったことがわかります。


註6 一群の「ディオニシウス文書」(Corpus Dionysiacum)の著者は、その「第七書簡」において、使徒パウロの弟子であるアレオパゴスの議員ディオニシウスを自称しました。この記述が信じられた結果、「ディオニシウス文書」は東方教会では七世紀以来、西方教会ではカロリング・ルネサンス期(八世紀)以来、数百年以上に亙って非常に大きな権威を有しました。

 十五世紀になって「ディオニシウス文書」の成立年代は五世紀以降と考えられるようになり、十九世紀末から二十世紀初頭の研究によって、紀元五百年頃に成立したものであることが確証されました。以来「ディオニシウス文書」の著者は「偽ディオニシウス・アレオパギタ」(羅 Pseudo-Dionysius Areopagita 希 Ψευδο-Διονύσιος ὁ Ἀρεοπαγίτης)と呼ばれています。

 新プラトン主義との関連における「ディオニシウス文書」の重要性は、第一に、この文書がプロクロスが活躍した頃、すなわち新プラトン主義後期の思想を反映していることです。ニュッサのグレゴリウスやヒッポのアウグスティヌスによって、新プラトン主義は早い時期からキリスト教に採り入れられました。しかしながら後期の新プラトン主義に関しては、ディオニシウス文書によってキリスト教に流入したということができます。第二に、ディオニシウス文書によると、神の力は教会の位階及び天上の位階に従って働き、魂を上昇させます。この思想はディオニシウス文書の著者が新プラトン主義から新たに採り入れたものです。


註7 「ヒエラルキア」(希 ίεραρχία)は偽ディオニシウス・アレオパギタによる造語で、「ヒエラルケース」(希 ίεραρχης 大祭司)の語幹(ίεραρχ-)に、抽象化の語尾(-ία)を付けたものです。「ヒエラルキア」の原意は聖職者の位階のことであり、「ヒエラルヒー」(独 Hierarchie)、「イエラルシ」(仏 hiérarchie)等の近代語でもこの意味を本義としますが、「ディオニシウス文書」においては、多くの場合、諸々の被造物間に成り立つ階層的秩序を意味しています。


註8 「スンマ・テオロギアエ」第1部56問1項。トマスはここで、視覚に関する中世の科学思想に基づいて、「光が目のうちに見られる場合のように」(sicut si lux videatur in oculo)と言っています。視覚の成立に関する当時の考え方は、狼に関するレファレンスのページで解説しました。


註9 トマスが言う「類似性」(シミリトゥードー similitudo)とは、類比(アナロギア)に基づいて行われる関連付けの結果として見出される類似、あるいは関連のことです。


註10 「スンマ・テオロギアエ」第1部12問4項。


註11 「スペクラーリー」(羅 speculari)は型式所相動詞「スペクロル」(羅 speculor)の不定法現在形です。「スペクロル」の語源は「スペクラ」(羅 specula 見晴らしの良い場所、見張り台)です。したがって「スペクロル」は「見晴らす」「見渡す」が原意ですが、哲学用語としてはアリストテレスの「テオーレオー」(希 θεωρέω)をラテン語に訳したもので、「形相(けいそう)を観想する」という意味です。



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