ウィリアム・ハーヴェイにおけるミクロコスモスのアナロギア ― 目的因の下で働く作出因としての心臓

 William Harvey, 1578 - 1657


 近世以前のヨーロッパでは、古代ローマ時代のギリシア人医師ペルガモのガレーノス(Aelius Galenus, Γαληνός, 129 - c. 200/216)に従い、別種の体液である動脈血と静脈血が心臓で生気を受け取って、身体各部に運んでいると考えられていました。しかるにパドヴァ大学に学んだイギリスの解剖学者ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578 - 1657)は、動脈血と静脈血が同じ体液の二相であることを見抜きました。1628年、ハーヴェイは「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」("Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus")を発表し、全身の血液が一体となって循環していること、この循環は心臓のポンプ作用によることを明らかにしました。

 ハーヴェイが心臓と血液との関係を解明した時点で、毛細血管の存在はまだ確かめられず、肺や腎臓と血液の関係についても解明されていませんでした。これらを明らかにしたのは、ボローニャ大学のマルチェッロ・マルピーギ(Marcello Malpighi, 1628 - 1694)です。マルピーギはハーヴェイの血液循環説を最も最初に評価した人物のひとりとしても知られています。

 しかしながらハーヴェイにとって、心臓は決して単なるポンプではなく、あくまでも身体に生気を与える源、生命の基礎に他なりませんでした。「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」において、ハーヴェイは、心臓は「生命の源泉」である、とし、身体というミクロコスモスの「太陽」である、とも述べています。


 「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」から、第八章「心臓を通り、静脈から動脈へと流れる血の量について。また血の循環について」(De copia sanguinis transeuntis per cor e venis in arterias, et de circulari motu sanguinis)を、1628年のフランクフルト版(Sumptibus G.Fitzel, 1628)に基づき、全訳を付して示します。日本語訳は筆者(広川)によります。文意が伝わり易くするために補った語句は、ブラケット [ ] で示しました。


     Huc usque de transfusione sanguinis e venis in arterias, & de viis, per quas pertranseat, & quomodo ex pulsu cordis, transmittatur dispenset? de quibus, forsan sunt aliqui, qui, antea aut Galeni authoritate, aut Columbi, aliorumque rationibus adductis, aslentiri se dicant mihi; nunc vero, de copia & proventu istius pertranseuntis sanguinis, quae restant, (licet valde digna consideratu) cum dixero; adeo nova sunt, & inaudita, ut non solum ex invidia quorundam, metuam malum mihi, sed verear, ne habeam inimicos omnes homines tantum consuetudo, aut semel imbibita doctrina, altisque defixa radicibus, quasi altera natura, apud omnes valet, & antiquitatis veneranda suspicio cogit Utcumque iam iacta est alea, spesmea in amore veritatis, & doctorum animorum candore:     これまで[に論じたの]は、静脈から動脈への血液の流入、血流の道筋、ならびに心臓の拍動によって血がどのように移送され、配分されるのか?[という問題である。](註1) これらの事柄については、ガレノスの権威に基づき、あるいはコルンブスや他の人々の論に導かれて、私の説を聞くまでもなく、同意を表明する人々も、おそらくいるだろう(註2)。しかしながら心臓を通るこの血液の量と出所に関して、[論じるべき]諸点が残っている。それらは大いに考慮に値する[重要な問題である]。[それらの諸点は、]これから述べるように、これまでになく新奇であり、耳にしたこともないようなものである(註3)。それゆえ私は或る人々の憎悪に発する私への害を怖がるのみならず、新しいことを述べるだけでも、全ての人々を敵に回すのではないかと恐れる(註4)。同時に、心に吸収されて確固たる根を張った教えは、あたかもいまひとつの自然本性のようにすべての人々を支配し、いにしえの尊い教えを強いるのだと私は考える(註5)。いずれにせよ、骰(さい)は既に投げられた。学識有る人々が真理を愛し、率直に耳を傾けてくれることを私は願っている(註6)。
     Sane cum copia quanta fuerat, tam ex vivorum, experimenti causa, dissectione, & arteriarum apertione, disquisitione multimoda; tum ex ventriculorum cordis, & vasorum ingredientium & egredientium Symmetria, & magnitudine, (cum natura nihil faciens frustra, tantam magnitudinem, proportionabiliter his vasibus frustra non tribuerit) tum ex concinno & diligenti valvularum & fibrarum artificio, reliquaque cordis fabrica, tum ex allis multis saepius mecum & serio considerassem, & animo diutius evolvissem: quanta scilicet esset copia transmissi sanguinis, quam breui tempore ea transmissio fieret, nec suppeditare ingesti alimeti succum potuisse animaduerterim; quin venas inanitas, omnino exhaustas, & arterias, ex altera parte, nimia sanguinis intrusione, disruptas, haberemus, nisi sanguis aliquo ex arteriis denuo in venas remearet, & ad cordis dextrum ventriculum regrederetur.    実際のところ、[血液循環の]証拠を得るため、私は生体解剖及び動脈の切開を行い、探求すべきさまざまな問題に関して多くの知見を得たのであるが(註7)、その一方で、心臓の諸弁、[心臓に]入る血管と出る血管の対称性及び大きさ ― というのも自然は無駄なことをしないから、これらの血管が臓器(心臓)に比して不釣り合いに大きいのにも理由があるはずだ ― に基づき(註8)、あるいは弁膜と心筋、及び心臓の残りの部分が細心の巧みさを以て正しく配されているという事実に基づき、さらには一層たびたびさまざまな他の事柄に基づいて、私が充分に吟味しつつ真剣に考え、いっそう長い時間をかけて熟考した(註9)のは、輸送される血液の量は如何ほどであるか、どれほど短い時間でその輸送が為されるかということであった(註10)。摂取された食物の水分が[血液を]供給し続け得ないことに、私は注意を向けた。すなわち、もしも血が何らかの仕方で動脈からもう一度静脈へと戻り、また右心室に帰るのでなければ、動脈は空になり、全く汲み尽くされてしまうであろう。いっぽう静脈は血液が過度に流入して破れるであろう(註11)。
         
     Coepi egomet mecum cogitare, an motionem quandam quasi in circulo haberet, quam postea veram esse reperi, & sanguinem e corde per arterias in habitum corporis, & omnes partes protrudi, & impelli, a sinistri cordis ventriculi pulsu, quemadmodum in pulmones per venam arteriosam a dextris; & rursus per venas in venam cavam, & vsque ad auriculam dextram remeare, quemadmodum ex pulmonibus per arteriam dictam venosam, ad sinistrum ventriculum ut ante dictum est.     [血液は]円環を為すような何らかの動きを有しているのではないか、と私自身は考え始めた。私は後になって、そのような動きが本当であると見出した。すなわち血液は左心室の拍動により、心臓から動脈を通して全身及びあらゆる部分に押しやられ、駆り立てられるのだ(註12)。具体的に言うと、血液は右心室の拍動により、肺動脈を通して両肺へと押しやられ、次いで静脈を通して大静脈へと[押しやられ]、最後に右心耳へと戻るのである(註13)。[また、]両肺から肺静脈を通して左心室へと[行く]。以上は先述の通りである(註14)。
         
     Quem motum circularem eo pacto nominare licet, quo Aristoteles aerem & pluviam circularem superiorum motum aemulatus est. Terra enim madida a sole calefacta evaporat, vapores sursum elati condensant, condensati in pluvias rursum descendunt, terram madefaciunt & hoc pacto fiunt hic generationes & similiter tempestatum & meteororum ortus, a solis circulari motu, accessu, recessu.     これは円環的な動きといえる。アリストテレスによると、空気と雨は諸天体の円環的運動に倣うが、それと同様である(註15)。具体的に言えば、湿った土は太陽に温められて蒸気を出し、上方へと上げられた蒸気は凝縮し、雨へと凝縮されて再び降下し、土を湿らせる。水の循環はこのようにして為される。また太陽も円環運動、近接、後退を行っていて、嵐やさまざまな大気現象はその円環運動に起因する(註16)。
         
     Sic verisimiliter cotingat in corpore, motu sanguinis, partes omnes sanguine calidiori perfecto, & vaporoso, spirituoso, (ut ita dicam) alimentativo, nutriri, foveri, vegetari: Contra in partibus sanguinem refrigerari, coagulari, & quasi effetum reddi, unde ad principium, videlicet, Cor; tanquam ad fontem sive ad lares corporis, perfectionis recuperandae causa, revertitur: ibi calore naturali, potenti, fervido, tanquam vitae thesauro, denuo colliquatur, spiritibus, & (ut ita dicam) balsamo praegnans, inde rursus dispensatur, & haec omnia a motu & pulsu cordis dependere.     これと同じく、血液が動かされると、身体において次のことが起こる。すなわち熱く、完全で、蒸気的で、精気がある血液、言わば滋養的な血液によって、すべての部分が栄養を与えられ、温められ、賦活される(註17)。一方いくつかの部分で血液は冷やされ、凝縮され、言わば消耗した状態に戻る。そして明らかに、そこから源なる心臓へと回帰する。完全性を回復するために、泉へと、あるいは身体の守護神へと、回帰するのだ(註18)。心臓は生命が仕舞われている場所であるから、血液はそこで、自然本性的、支配的、沸騰的な熱によって再び液化し、精気と、こう言っても良いならば、バルサムに満たされて、そこから再び分配される。これらすべては心臓の動きと拍動によって起こる(註19)。
         
      Ita cor principium vitae & sol Microcosmi (ut proportionabiliter sol Cor mundi appellari meretur) cujus virtute, & pulsus sanguis movetur, perficitur, vegetatur, & a corruptione & grumefactione vindicatur: suumque officium nutriendo, fovendo, vegetando, toti corpori praestat Lariste familiaris, fundamentum vitae author omnium; sed de his convenientius, cum de hujusmodi motus causa finali speclabimur.     このように、心臓は生命の源、ミクロコスモスの太陽である。一方、同様の表現をすれば、太陽は世界(マクロコスモス)の心臓と呼ばれ得る。心臓の力と拍動により、血は動かされ、完成され、賦活されるとともに、腐敗と凝固から守られる(註20)。心臓の務めは養い、温め、賦活することであるから、家を守護するこの神(心臓)は、体全体の統率者である。心臓は生命の基礎であり、すべての作出者なのだ。しかしながらこれらの事柄については、心臓がこのように動かされる目的因について思弁される際に論じるのが、いっそうふさわしいであろう(註21)。
         
     Hinc cum venae sint viae quaedam et vasa deferentia sanguinem, duplex est genus ipsarum, cava et aorta, non ratione lateris (ut Aristoteles), sed officio; et non (ut vulgo) constitutione (cum in multis animalibus, ut dixi, in tunicae crassitie vena ab arteria non differat), sed munere et usu distincta.     それゆえ、血管はある種の通路であり、血液を運ぶ管であるから、血管の類には二つあって、それは大静脈と大動脈である。これら二つの血管は、アリストテレスが考えたように、位置する側が単に異なるだけではない。この二種類がある理由は、役割によるのである。また一般の人々は、これら二つの血管が構造において異なると考えているが、多くの動物においては、すでに述べた通り、血管壁の厚さにおいて静脈は動脈と異ならない[し、ヒトも例外ではない]ゆえに、[これら二つの血管は、]果たす機能と使われ方が異なるのだ(註22)。
     Vena et arteria ambae a veteribus venae non immerito dictae sunt (ut Galenus annotavit), eo quod haec, videlicet arteria, vas est deferens sanguinem e corde in habitum corporis, illa sanguinem ab habitu rursus in cor;    静脈と動脈は、古(いにしえ)の人々により、両者とも「静脈」と言われた。ガレーノスもそのように注釈している。しかしこれは故なきことではなかった。後者すなわち動脈は血液を心臓から全身に運ぶ管であり、静脈は血液を全身から再び心臓へと運ぶ管であり、[心臓と全身をつないでいるという点において、両者は共通しているからだ。(註23)]
     haec via a corde, ad cor usque illa; illa continet sanguinem crudiorem, effetum et nutritioni jam redditum idoneum, haec coctum, perfectum, alimentarium.    後者(動脈)は心臓から発する通り道であり、前者(静脈)は心臓に到する通り道である。前者(静脈)には、より一層完全性が低く、消耗し、いまや滋養を与えられるべき血液、すなわち[心臓へと]戻される血液が入っている。後者(動脈)には、熱せられ、完成され、滋養となる[血液が入っている。(註24)]


 ふたつのコスモス(希 κόσμος 秩序ある世界)、すなわちマクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(宇宙の縮図としての人体)の間に並行関係を認めるのは、古代以来のヨーロッパで普遍的に見られる思想です。ふたつのコスモスの間に並行関係が成り立つのは、ウィリアム・ハーヴェイにとっても自明のことでした。上に訳出した第八章の後半で、ハーヴェイは「このように、心臓は生命の源、ミクロコスモスの太陽である。一方、同様の表現をすれば、太陽は世界(マクロコスモス)の心臓と呼ばれ得る」(Ita cor principium vitae & sol Microcosmi, ut proportionabiliter sol Cor mundi appellari meretur.)と書き、また心臓を「生命の基礎、すべてのものの作出者」(fundamentum vitae author omnium)と呼んでいます。

 ハーヴェイにとって心臓は太陽に比せられる存在であり、ミクロコスモスの頂点に位置します。またすべてのものの作出者でもあります。その一方でハーヴェイは、「しかしながらこれらの事柄については、心臓がこのように動かされる目的因について思弁される際に論じるのが、いっそうふさわしいであろう」(de his convenientius, cum de hujusmodi motus causa finali speclabimur.)とも書いています。この言葉から、ハーヴェイの心臓は、作出因ではあっても目的因ではないことが分かります。

 ハーヴェイは解剖生理学者であって、哲学者ではありません。それゆえ「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」において、ハーヴェイは形而上学的世界観を直接的に論じてはいません。しかしながら同書の記述はハーヴェイの形而上学的世界観に裏打ちされています。ハーヴェイの世界観によれば、マクロコスモスとミクロコスモスを超越した次元に、目的因なる神がおられます。そして太陽と心臓は、この目的因の下で、それぞれのコスモスのデーミウールゴス(希 δημιουργός 作り手)として働いているのです。


 心臓が単なるポンプではなく生命の座であるとすれば、恋人や配偶者に先立たれた人が、愛する人の心臓とともにありたいと願うのは自然なことでしょう。別稿「心臓に関するレファレンス」では、伝承に基づくと考えられる「デカメロン」所収の物語と、レンヌ(Rennes ブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県)の修道院跡地で発掘された鉛製容器入りの心臓を、「愛する者とともにある心臓」の例として取り上げています。



 註1 Huc usque de transfusione sanguinis e venis in arterias, & de viis, per quas pertranseat, & quomodo ex pulsu cordis, transmittatur dispenset?
         直訳 これまでに、静脈から動脈への血の流入について、また血が流れる道筋について、さらに心臓の拍動によって血がどのように移送されるのか[ということ、及び心臓が血液を](どのように)配分するのか?[ということ]。
         
          文末に並置された動詞 transmittatur と dispenset について。前者は受動相で、主語は「血液」(sanguis)である。すなわち transmittetur は、「血液が移送される」との意味である。いっぽう後者は受動相(dispensetur)ではなく能動相(dispenset)であるから、主語は「心臓」(cor)と考えざるを得ない。すなわち「心臓が[血液を]配分する」という意味であろう。心臓と血液の関係を表すのに、ハーヴェイは能動相の動詞と受動相の動詞を並置混用しており、非常に分かりにくい文体である。
         
          huc-usque, adv. ここまで
         
 註2 de quibus, forsan sunt aliqui, qui, antea aut Galeni authoritate, aut Columbi, aliorumue rationibus adductis, assentiri se dicant mihi;
         直訳 これらの事柄について、あるいはガレノスの権威に基づき、あるいはコルンブスや他の人々の論に導かれて、自分たちは先に同意する、と私に向かって言う人々も、おそらくいる。
         
          ここで名前が挙がったコルンブス(Columbus)とは、パドヴァ大学教授レアルド・コロンボ(Realdo Colombo, c. 1515 - 1559)を指す。レアルド・コロンボは肺循環の発見者であり、ハーヴェイの先駆者である。
         
          なおここに「諸々の動物における心臓の動きと血液に関する解剖学的考察」第八章を引用・訳出するにあたり、筆者(広川)は 1628年の初版本を用いたのだが、この初版本には印刷の誤りが多い。この文でも aliorumque の "q" が脱落して、aliorumue になっている。他の箇所では二語が続けて書かれ、一語のようになっている。綴りや正書法に関するこのように明らかな誤りは、その都度の断りなく筆者が訂正した。

 ハーヴェイのラテン文は、動詞の相が混用されたり、省略すべきでない語が省略されたりしていて、非常に分かりにくい。ハーヴェイ自身が悪文家であったのは確かだが、印刷業者にも責任の一端が在ると思われる。原稿に書かれていた語が、初版では印刷されずに脱落している場合があるかもしれない。
         
          forsan = forsitan, adv. おそらく [fors + sit + an]
          antea, adv. 先に、より早く ※ ここでは「ハーヴェイの議論を聞くまでもなく」の意。
         
 註3 nunc vero, de copia & proventu istius pertranseuntis sanguinis, quae restant, (licet valde digna consideratu) cum dixero; adeo nova sunt, & inaudita,
         直訳 しかしながら心臓を通るこの血液の量と出所に関して、残っている事どもは、十分な考察に価するにせよ、これから述べるように、これまでになく新奇で聞かれたこともないようなものである。
         
          consideratus, us, n. ハーヴェイはこの語を第四変化名詞とし、consideratio に替えている。意図する意味はわかるが、consideratus という第四変化名詞は筆者が知る限り正式なラテン語には存在せず、少なくとも非常に稀である。
         
 註4 ut non solum ex invidia quorundam, metuam malum mihi, sed verear, ne habeam inimicos omnes homines tantum consuetudo,
         直訳 それゆえ私は或る人々の憎悪に発する私への害を怖がるのみならず、全ての人々をただ慣習によって敵に回すのではないかと恐れる。
         
          "tantum consuetudo"(慣習のみによっても)とは、「通説に反することを述べた結果、慣習に逆らうこととなり、それだけの理由で」、すなわち「新しいことを述べるというだけの理由で」という意味。
         
 註5 aut semel imbibita doctrina, altisque defixa radicibus, quasi altera natura, apud omnes valet, & antiquitatis veneranda suspicio cogit.
         直訳 あるいは同時に、吸収され、また深い根によって模られた教えは、あたかも別の自然本性のように、すべての人々の元で価値を有し、また古い時代の尊重されるべき事どもを[人々に]強いるのだと、私は考える。
         
          名詞節 "imbibita .. cogit." を導く ut が無いので戸惑うが、ハーヴェイは "ut non solum ..." の ut で、名詞節 "imbibita ... cogit" の ut を兼ねさせたつもりなのだろう。あるいは印刷業者のミスによって、二度目の ut が脱落したのかもしれない。
         
 註6 Utcumque iam iacta est alea, spes mea in amore veritatis, & doctorum animorum candore:
         直訳 いずれにせよ、骰(さい)は既に投げられた。私の希望は真理への愛、及び学識有る[人々]の魂が有する率直さのうちに[ある]。
         
 註7 Sane cum copia quanta fuerat, tam ex vivorum, experimenti causa, dissectione, & arteriarum apertione, disquisitione multimoda;
         直訳 実際のところ、証拠のために[行った]生体解剖及び動脈の切開により、多様な探求に関して多くのことが存したのであるが、
         
 註8 (cum natura nihil faciens frustra, tantam magnitudinem, proportionabiliter his vasibus frustra non tribuerit)
         直訳 というのも、ナートゥーラは何事も無駄に為すことはないので、比較して[考えた]これほどの大きさを、これらの血管に対して無駄に与えていないであろう。
         
         "tribuerit" は、"tribueret"(tribuo の接続法未完了過去三人称単数)の間違いであろう。
         
 註9 tum ex concinno & diligenti valvularum & fibrarum artificio, reliquaque cordis fabrica, tum ex allis multis saepius mecum & serio considerassem, & animo diutius evolvissem:
         直訳 あるいは弁膜と心筋が有する正しく配された細心の巧みさと、心臓の残りの部分により、またあるいは一層たびたび他の多くの事柄により、私は自身[の心]とともに真剣に考え、いっそう長い時間をかけて熟考した。
         
         tum..., tum ... ...、あるいは... ※ 物事を列挙するときの言い方
         concinno, are, avi, atum, v. a. 正しく配置する
         diligens, entis, pres. p., p. a. 注意深い、細心の
         valvula, ae, f. dim. 弁膜
         fibra, ae, f  繊維、筋 ;(pl.)内臓
         considerassem, evolvissem は、接続法全分過去。
         evolvo, ere, volvi, volutum, v. a. 熟考する
         
 註10 quanta scilicet esset copia transmissi sanguinis, quam brevi tempore ea transmissio fieret,
         直訳 すなわち輸送される血液の量は如何ほどであるか、どれほど短い時間でその輸送が為されるかということ  ※ "considerassem & evolvissem" の直接補語となる名詞節。
         
 註11 nec suppeditare ingesti alimeti succum potuisse animadverterim; quin venas inanitas, omnino exhaustas, & arterias, ex altera parte, nimia sanguinis intrusione, disruptas, haberemus, nisi sanguis aliquo ex arteriis denuo in venas remearet, & ad cordis dextrum ventriculum regrederetur.
         直訳 摂取された食物の水分が[血液を]供給し続け得ないことに、私は注意を向けた。空にされ、全く汲み尽くされた静脈を、また他方では血液の過度な流入によって破られた動脈を、我々は持つことになろう。もしも血が何らかの仕方で動脈からもう一度静脈へと戻り、また心臓の右側の部屋に帰るのでなければ。
         
         suppedito, are, avi, atum, v. freq. a. et n. 与える、供給し続ける
         quin, conj. (否定文の後で) = qui/quae/quod non ※ 動詞は接続法。
         inanio, ire, ivi, itum, v. a. 空にする
         nimis, adv. 過度に
         nimius, a, um, adj. 過度な
         denuo, adv. 新たに、もう一度
         remeo, are, avi, atum, v. n. 戻る
         
 註12 Coepi egomet mecum cogitare, an motionem quandam quasi in circulo haberet, quam postea veram esse reperi, sanguinem e corde per arterias in habitum corporis, & omnes partes protrudi, & impelli, a sinistri cordis ventriculi pulsu,
         直訳 [血液は]円環を為すような何らかの動きを有しているのではないか、と私自身は考え始めた。私は後になって、そのような動きが本当であると見出した。[すなわち、私が見出したのは、]心臓の左の部屋の拍動により、血が心臓から動脈を通して、全身及びあらゆる部分に押しやられ、駆り立てられるということである。
         
         reperio, ire, repperi, repertum, v. a. 発見する、実証する、探求して見出す
         habitus, us, m. 有りよう、状態  ※ "habitus corporis" は「あるがままの体」「体の現状」の意であるが、ここでは "omnes partes"(すべての部分)に対置して、「全身」と訳した。
         
 註13 quemadmodum in pulmones per venam arteriosam a dextris; & rursus per venas in venam cavam, & usque ad auriculam dextram remeare,
         直訳 その様態は、[血が]右心室[の拍動]により、両肺へと 動脈性静脈を通して[押しやられ]、次いで静脈を通して大静脈へと[押しやられ]、最後に右心耳へと戻るのである。
         
         quemadmodum, adv. 如何にして、どのようにして;(関係的に) ...のように
         vena arteriosa 動脈性静脈  ※ 肺動脈のこと。
         vena cava 大静脈
         auricula dextra 右心耳
         remeo, are, avi, atum, v. n. 戻る  ※ この動詞は初版で "remeari" となっているが、"remeare" の誤りと判断してテキストを修正した。
         
 註14 quemadmodum ex pulmonibus per arteriam dictam venosam, ad sinistrum ventriculum ut ante dictum est.
         直訳 [また、]両肺から 静脈性と呼ばれる動脈を通して左心室へと[行く]。以上の事柄は、先に述べられた通りである。
         
         arteria venosa 静脈性動脈  ※ 肺静脈のこと。
         
 註15 Quem motum circularem eo pacto nominare licet, quo Aristoteles aerem & pluviam circularem superiorum motum aemulatus est.
         直訳 この動きを円環的と名付けることができる。アリストテレスは、空気と雨がいっそう高いところにある物どもの円環的な動きを見習う[と書いているが、]それと同様である。
         
         ※ この一文は、第八章(De copia sanguinis transeuntis per cor e venis in arterias, et de circulari motu sanguinis)で最も酷い悪文である。この文において、形容詞 "aemulatus" は「空気と雨」の補語となっているのだから、複数形(aemulati)を取らなければならない。また「空気と雨」が倣う手本となる「諸天体の円環運動」は、与格に置かれなければならない。"quo" 以下をまともなラテン文に直すと、次のようになる。
          quo, sicut Aristoteles dicit, aer et pluvia circulari superiorum motui aemulati sunt.
         
         「空気と雨」が形式所相動詞 "aemulor" の対格主語であるならば、「諸天体の円環運動」は "aemulor" の対格補語であるから、"circularem ... motum"(対格)で正しいが、その場合 "aemulor" は不定詞でなければならない。またこの不定詞を完了形にする理由は無い。したがって "quo" 以下を次のように書き直しても正しいラテン文になる。
          quo Aristoteles aerem & pluviam circularem superiorum motum aemulari dicit.
         
         pactum,i, n. 流儀、方法  pacto = modo
         circularis superiorum motum いっそう高いところにある物どもの円環的な動き  ※ アリストテレスの天動説において、諸天体が行う円運動のこと。
         aemulor, ari, atus sum, v. dep. 見習う、競う
         
 註16 Terra enim madida a sole calefacta evaporat, vapores sursum elati condensant, condensati in pluvias rursum descendunt, terram madefaciunt & hoc pacto fiunt hic generationes & similiter tempestatum & meteororum ortus, a solis circulari motu, accessu, recessu.
         直訳 というのも、湿った土は太陽に温められて蒸気を出し、上方へと上げられた蒸気は凝縮し、雨へと凝縮されて再び降下し、土を湿らせる。このような方法でこの生起が為される。諸々の嵐や大気現象の起源も、これと同じように、太陽の円環運動、近接、後退によって[説明される]。
         
         orior, iri, ortus sum, v. dep. n. 生ずる、発する
         ortus, us, m. 出現、発生、端緒、始まり、由来、起源
         
         ※ 註16と註17の節で、ハーヴェイは自然界(マクロクスモス)に見られる気象の円環運動を指摘し、人体(ミクロコスモス)における円環運動、すなわち血液の循環との間に並行関係を認めている。血液循環を説明するために気象の循環を持ち出したのは、説明の便宜のための単なる比喩ではない。この論述には、人体のうちに宇宙の縮図を見るハーヴェイの世界観が反映されている。
         
 註17 Sic verisimiliter cotingat in corpore, motu sanguinis, partes omnes sanguine calidiori perfecto, & vaporoso, spirituoso, (ut ita dicam) alimentativo, nutriri, foveri, vegetari:
         直訳 [気象に関するこれらの事柄と]同様に、血液が動かされることで、高温で完全で蒸気的であり、精気があり、言わば滋養的な血液によって、すべての部分が栄養を与えられ、温められ、賦活されるということが、身体においても起こるといえよう。
         
         verisimilis, e, adj. 真実らしい
         
 註18 初版テキストのラテン文 Contra in partibus sanguinem refrigerari, coagulari, & quasi effatum reddi, unde ad principium, videlicet, Cor; tanquam ad fontem sive ad lares corporis, perfectionis recuperandae causa, revertitur:
         初版テキストからの直訳 これに対していくつかの部分では、血が冷やされ、凝縮される。そして既に明言したように戻り、明らかに、そこから源なる心臓へと回帰する。完全性を回復するために、泉へと、あるいは身体のラレース(家の守護神)へと、回帰するのだ。
         
         ※ 初版テキストのラテン文は上記の通りだが、"quasi effatum" という表現が、統辞法の点でもコンテクストの点でも、たいへん不自然に感じられる。直前の文に対比させて考えれば、この句は "quasi effetum" の誤りではないか。註24を参照。
 これを "quasi effetum" と読み替えて訳せば、下のようになる。本稿本文ではラテン語テキストの当該箇所を修正して "quasi effetum" とし、修正したテキストに基づいて訳した。
         
         修正したテキストに基づく訳 これに対していくつかの部分で血液は冷やされ、凝縮され、言わば消耗した状態に戻る。そして明らかに、そこから源なる心臓へと回帰する。完全性を回復するために、泉へと、あるいは身体のラレース(家の守護神)へと、回帰するのだ。
         
         videlicet, adv. 明らかに
         
 註19 ibi calore naturali, potenti, fervido, tanquam vitae thesauro, denuo colliquatur, spiritibus, & (ut ita dicam) balsamo praegnans, inde rursus dispensatur, & haec omnia a motu & pulsu cordis dependere.
         直訳 [心臓は]生命の宝庫であるから、[血液は]そこ(心臓)で、自然本性的、支配的、沸騰的な熱によって再び液化し、精気と、こう言っても良いならば、バルサムに満たされる。[そして]そこから再び分配される。これらすべての事どもは、心臓の動きと拍動に依存する。
         
         denuo, adv. 新たに
         colliquesco, ere, liqui, v. n. 融ける、液化する
         ※ この箇所の文末は不定詞(dependere)で終わっており、定動詞を補う必要がある。"haec omnia" を主格と考えれば、"videntur" を補うのが良いであろう。"haec omnia" が "dependere" の対格主語であれば、"dico" 等を補うことになる。
         
 註20 Ita cor principium vitae & sol Microcosmi (ut proportionabiliter sol Cor mundi appellari meretur) cujus virtute, & pulsus sanguis movetur, perficitur, vegetatur, & a corruptione & grumefactione vindicatur:
         直訳 このように、心臓は生命の源、ミクロコスモスの太陽であり ― これと釣り合って、太陽は世界(マクロコスモス)の心臓と呼ばれるに値する ― 、その力と拍動によって、血は動かされ、完成され、賦活される。また腐敗と凝固から守られる。
         
         grumus, i, m. 積み重なり  ※ "grumefactio"(積み重なりの形成)を、血液の「凝固」の意に解した。
         
 註21 suumque officium nutriendo, fovendo, vegetando, toti corpori praestat Lar iste familiaris, fundamentum vitae author omnium; sed de his convenientius, cum de hujusmodi motus causa finali speclabimur.
         直訳 心臓の務めは養い、温め、賦活することであるから、家を守護するこの神(心臓)は、体全体の前に立つ。[心臓は]生命の基礎であり、すべての作出者である。しかしながらこれらの事柄については、[心臓の]このようなモトゥス(動かされること)が有する目的因について[思弁される]際に、いっそうふさわしく思弁されよう。
         
         ※ この文の主語は "Lar" である。"suumque officium ... vegetando" は絶対的奪格の句だから、"suoque officio ... vegetando" とすべきである。ハーヴェイの原テキストは、破格の悪文である。
         ※ この文において、ハーヴェイは心臓を全てのものの「アウクトル」(auctor 作出者)と呼ぶとともに、「目的因」(羅 causa finalis)という哲学用語をも持ち出している。「アウクトル」はアリストテレスが「フィジカ」第二巻三章で言及する「作出因」を連想させるし、「目的因」はアリストテレスが同所で論じる四つのアイティア(希 αἴτια 原因)のひとつである。

 ハーヴェイにとって、心臓は決して単なるポンプではなかった。ハーヴェイの心臓はマクロコスモスにおける「太陽」と同等の位置を占める。太陽と心臓は「第一動者」(primum movens 生成変化するコスモスが到達点として目指す純粋現実態)そのものではないが、第一動者の次の位置にあって、マクロコスモスとミクロコスモスの守護神として機能する。

 「心臓がこのように動かされる目的因」(hujusmodi motus causa finali motusは属格)という表現からは、第一動者が心臓を動かし、心臓がミクロコスモスを動かすという宇宙論的秩序が了解される。この文の記述は、ハーヴェイが心臓の機能に形而上学的意味付けを行っていたことをはっきりと示している。
         
 註22 Hinc cum venae sint viae quaedam et vasa deferentia sanguinem, duplex est genus ipsarum, cava et aorta, non ratione lateris (ut Aristoteles), sed officio; et non (ut vulgo) constitutione (cum in multis animalibus, ut dixi, in tunicae crassitie vena ab arteria non differat), sed munere et usu distincta.
         直訳 それゆえ、血管はある種の通路であり、血液を運ぶ管であるから、血管の類は二通りである。[その二つとは、]大静脈と大動脈である。[この二種類がある理由は] ― アリストテレスが[考えた]ように ― 側面の理由によるのではなく、役割によるのである。また ― 一般の人々が[考えている]ように ― 多くの動物においては、すでに述べた通り、血管壁の厚さにおいて静脈は動脈と異ならないゆえに ― 構造においてではなく、責任と使用が異なるのだ。
         
         ratione lateris 側面の理由によって  ※ 「二つの血管の位置する側が単に異なるだけではなくて」の意。ヒトの下大静脈は正中線の右側に、下行大動脈は正中線の左側に位置する。
         tunica, ae, f. 層、膜
         crassities, ei, f. = crassitudo, dinis, f. 厚さ、密度
         
 註23 Vena et arteria ambae a veteribus venae non immerito dictae sunt (ut Galenus annotavit), eo quod haec, videlicet arteria, vas est deferens sanguinem e corde in habitum corporis, illa sanguinem ab habitu rursus in cor;
         直訳 静脈と動脈が、両者とも、古(いにしえ)の人々により、― ガレノスが注解した如くに ― 不当にではなく「静脈」と言われた。というのも、後者すなわち動脈は血液を心臓から全身に[運ぶ管であり]、前者(静脈)は血液を全身から再び心臓へと運ぶ管なのだ。
         
         ※ "eo quod" に導かれる節で、古代医学が静脈と動脈を混同した背景が述べられている。 "eo quod" の節の主旨は、要するに、「心臓と全身を繋ぐ血管である点において、静脈と動脈は共通する」ということ。
         
 註24 初版テキストのラテン文 haec via a corde, ad cor usque illa; illa continet sanguinem crudiorem, effoetum (sic.) et nutritioni jam redditum inidoneum (sic.), haec coctum, perfectum, alimentarium.
 
         ※ 初版テキストのラテン文は上記の通りだが、"effoetum" は "effetum" の、"inidoneum" は "idoneum" の誤りであろう。それぞれの箇所を "effetum", "idoneum" と読み替えて訳せば、下のようになる。本稿本文ではラテン語テキストの当該二箇所を修正して "effetum", "idoneum" とし、修正したテキストに基づいて訳した。
         
         修正したテキストに基づく訳 後者(動脈)は心臓から[発する]通り道であり、前者(静脈)は心臓まで[到達する通り道]である。前者(静脈)は、より一層完全性が低く、消耗し、いまや滋養に適した(すなわち、滋養を与えられるべき)[心臓へと]戻される血液を中に入れている。後者(動脈)は、熱せられ、完成され、滋養となる[血液を中に入れている。]
         
         idoneus, a, um, adj. 適した
         coquo, ere, coxi, coctum, v. a. 熱する、熟させる
         alimentarius, a, um, adj. 食物の、滋養物の



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