聖アンナ
Ste. Anne




(上) Georges de La Tour.The Newborn, or St. Anne and the Virgin in Linen, oil on canvas, Art Gallery of Ontario, Toronto


 聖アンナは聖母マリアの母ですが、正典福音書には言及がありません。聖母が出生したいきさつや聖母の幼時の物語は「ヤコブ原福音書」(羅 protoevangelium Jacobi) に詳しく記されています。


【正典福音書が記述するイエス・キリストの家系】

 新約聖書は二十七巻の独立した書物を一冊にまとめたものです。二十七巻のうち最初の四巻はイエス・キリストの伝記となっており、これを福音書といいます。福音(ふくいん)とは「良い知らせ」という意味です。正典福音書は「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福書書」、「ヨハネによる福音書」の四書ですが、このうち「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の三書は似通った視点で書かれており、内容が大きく重なります。これら三つの福音書を「共観福音書」といいます。「ヨハネによる福音書」は共観福音書と矛盾しませんが、共観福音書に収録されていない独自の内容が多く、同じ出来事に関しても異なる視点から記述されています。

 共観福音書はアラム語によるペトロの口述をマタイが文書化し、これが原資料となったと伝承されます。最初に現在の形で成立したのは、ギリシア語による「マルコによる福音書」です。現在私たちが手にしているギリシア語の「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」は、ギリシア語の「マルコによる福音書」を骨格とし、これにQ資料(独 Logienquelle Q)に基づく肉付けをして、それぞれが想定する読者層に合わせたものと考えられています。Q資料という名称は、ドイツ語のクヴェッレ(独 die Quelle 泉、源)に由来します。


 「マルコによる福音書」は洗礼者ヨハネの宣教で始まりますが、「マタイによる福音書」は一章一節から 17節でイエス・キリストの家系を示し、イエスの誕生の記述に繋げます。「ルカによる福音書」は洗礼者ヨハネの誕生から説き起こし、三章二十三節から 38節でイエスの家系を示します。イエスの家系の記述に関して「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」を比べると、二つの奇妙な点に気付きます。

 奇妙な点のひとつめは、「マタイによる福音書」に見られる記述の不自然さ、あるいは技巧性です。すなわち「マタイによる福音書」は代々の家系を三つの群に分けて記述しているのですが、第一群をアブラハムからダヴィデまで十四代、第二群をダヴィデの子ソロモンから数え始めてエコンヤまで十四代、第三群は再度エコンヤから数え始めてイエスまで十四代とし、「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(1:17 新共同訳)としています。第三群を冒頭のエコンヤを再度数えて十四世代とするのは強引ですし、そもそも世代の数が同数ずつの三群に綺麗に分かれること自体にも不自然さを感じます。

 マタイの記述を仔細に検討すると、三節から四節にかけて「ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを(儲けた)」とあり、ヘツロンとアミナダブは間に一代(アラム)を隔てていますが、「ルカによる福音書」の記述(ルカ 3:33)を確認すると、ヘツロンとアミナダブは間に二代(アルニ、アドミン)を隔てています。また八節に「ヨラムはウジヤを(儲けた)」とあり、このウジヤはアザルヤと同じ人物ですが、「歴代誌 上」(3: 10 - 14)で「ソロモンの子孫は子がレハブアム、孫がアビヤ、更にアサ、ヨシャファト、ヨラム、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ、アザルヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤと続く。」(新共同訳)と記録されていて、ヨラムとアザルヤの間の三世代(アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ)が省略されていることがわかります。

 すなわちマタイは第一群においてアブラハムからダヴィデを十四代としますが、ここには本来もっと多くの世代が含まれなければなりません。第二群、第三群についても「マタイによる福音書」は「ルカによる福音書」よりも少ない人数を挙げているうえに、第二群の最後と第三群の最初を重複させ、同一人物(エコンヤ)を二度数えています。

 「マタイによる福音書」の記述がこのように技巧的である理由は、同福音書の特性に求めることができます。「ルカによる福音書」は異邦人向けに書かれたゆえに、数に関するユダヤの宗教的象徴体系を考慮せず、ただ歴史的事実に基づいて祖先の世代を列挙しています。これに対して「マタイによる福音書」はユダヤ人向けであるゆえに、イエスの祖先の数をユダヤ教徒にとって重要な宗教的意味のある「七」に関連付けているのです。「マタイによる福音書」が四十二代の人名を挙げるに当たり、三つのグループに分けて十四代ずつ記述する理由も、アブラハムからイエスに至る世代の数が神聖数「七」と密接に関連することを、いっそうわかりやすく示すためと考えられます。


 イエスの家系の記述に関して奇妙な点のふたつめは、両福音書に共通する先祖の名が大きく異なることです。すなわち両福音書が挙げるアブラハムからダヴィデまでの人名は概(おおむ)ね一致していますが、ダヴィデよりも後の代の人名はイエスの祖父に至るまで大きく相違し、イエスの父ヨセフに至ってようやく一致します。

 ヨセフの父の名前が両福音書で異なる理由として、主に二つの説が考えられています。ひとつの説は、「申命記」二十五章五節から十節に規定されたレヴィラト婚(仏 lévirat)に理由を求めます。「申命記」の当該箇所を、新共同訳により引用します。

5.  兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
6. 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
7.  もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」
8. 町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、
9. 義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。
10. 彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。
「申命記」 25: 5 - 10 新共同訳


 ヨセフの父の名前が両福音書で異なるのがレヴィラト婚のせいであるとすれば、ヨセフの父として名前が挙げられているふたりの男性のうち、片方が生物学上の父、もう片方が法律上の父であることになります。生物学上の父とは、ヨセフの法律上の父(元々ヨセフの母と結婚していた男性)の兄弟のことです。ヨセフの法律上の父はヨセフを儲ける前に亡くなり、ヨセフの母は夫の兄弟(生物学上の父)と再婚して、ヨセフを産んだことになります。


 ヨセフの二人の父を説明する第二の説は、二人の内の一方を実父、もう一方を義父(妻マリアの実父)とする考えです。この説では「マタイによる福音書」がヨセフの家系を、「ルカによる福音書」がマリアの家系を、それぞれ記述していると考えられています。

 二世紀に成立した「ヤコブ原福音書」によると、マリアの父の名はヨアキム、母の名はアンナです。「ルカによる福音書」がこれと整合するとすれば、エリはおそらくエリアキムの別名であり、「ヤコブ原福音書」ではヨアキムと呼ばれていることになるでしょう。エリアキムという人名は、「マタイによる福音書」一章十三節に出てきます。


【「ヤコブ原福音書」及び「レゲンダ・アウレア」におけるヨアキムとアンナ】

 「ヤコブ原福音書」によると、アンナと夫ヨアキム (Joachim) は裕福で敬虔な夫妻でした。ふたりは子供が無いことを嘆いて、ヨアキムは荒野に天幕を張って四十日四十夜の断食をし、アンナは夫の不在と子供が無いことを嘆いて月桂樹の下で哀歌を歌っていました。するとふたりの所にそれぞれ主の使いが現れてアンナが懐妊することを告げ、ヨアキムは妻のもとに戻って喜び合いました。やがて月が満ち、アンナに女の子が生まれます。二人は娘をマリアと名付け、マリアが3歳になると神殿に捧げました。マリアは十二歳になるまで神殿で養育され、天使の手から食物を受け取って育ちました。


 十三世紀の聖人伝「レゲンダ・アウレア」(羅 LEGENDA AUREA)によると、アンナはヨアキムと死別した後、クロパあるいはクレオパ (Clopas/Cleophas)、次いでソロマス (Solomas) と結婚し、それぞれの結婚によって聖母マリア、クロパの娘マリア (注 *1)、サロメと呼ばれるマリア (注 *2) を生んだとされました。

*1 正典福音書において、クロパの娘マリアはヨハネ伝 19:25に一度だけ出てきます。この箇所はギリシア語原テクストにおいて "Maria he tou Klopa"、ヴルガタ訳において "Maria Cleopae" といずれも属格を用いて表されており、現行の聖書では通常「クロパの妻マリア」と訳されています。

*2 イエスが十字架に架けられたとき、その場にいた女性たちの名前は、正典福音書によると下の表の通りです。(表記はいずれも新共同訳による)

マタイ 27:56 マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母
マルコ 15:40 マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ
ルカ 記述なし
ヨハネ 19:25 マグダラのマリア、イエスの母マリア、その姉妹であるマリア(クロパの妻)

 マルコ伝 6:3によるとヤコブとヨセはイエスの兄弟とされていますので、上の表の「ヤコブ(小ヤコブ)とヨセフ(ヨセ)の母マリア」とは、聖母マリアのことであると考えられています。したがってサロメと呼ばれるマリアは、ゼベダイの子らの母と同一、あるいは聖母の姉妹であるマリア(クロパの妻)と同一である可能性があります。


【聖アンナの図像学】

 中世末期までの図像において、聖アンナの図像は「ヤコブ原福音書」及びそれに依拠した「レゲンダ・アウレア」に取材した表現、すなわち《アンナへの受胎告知》や《黄金の門で出会うヨアキムとアンナ》等において表されます。

(下) Giotto, Annunciation to St Anne (from Scenes from the Life of Joachim), 1304 - 06, fresco, 200 x 185 cm, Cappella Scrovegni, Padua



(下) Giotto, Meeting at the Golden Gate, 1304 - 1306, fresco. Capella degli Scrovegni, Padua




 聖アンナは聖母の母として、すべて母性的なるものの根源であるということができます。キリストという「胎の実」(FRUCTUS VENTRIS) を宿した聖母を花であるとすれば、聖アンナはその花が咲く生命の木そのものといえるでしょう。

 このような思想を受けて、1480 - 1520年頃のドイツにおいて、「アンナ・ゼルプドリット」 (Anna Selbdritt) と呼ばれる図像が流行します。「アンナ・ゼルプドリット」とは「3人目の人物アンナ」というほどの意味で、この種の図像においては聖アンナ、聖母マリア、幼子イエスがしばしば三位一体の図像と重なるかのような形式で表現されました。


(下) Albrecht Duerer, Virgin and Child with Saint Anne, 1519, oil on wood, 60 x 50 cm, The Metropolitan Museum of Art, New York




【「聖なる一族」の図像に見る家庭婦人の模範としての聖アンナ】

 中世後期から宗教改革期の都市市民にとって、アンナを中心とする大家族は善き家庭の模範でした。ハルバーシュタットの司教ハイモ(ハイモ・フォン・ハルバーシュタット Haymo von Halberstadt, 778 - 853)によると、アンナはヨアキムと結婚して聖母マリアを産み、ヨアキムの死後にクレオパと再婚して別のマリア(ヨハネ 19:25の "Maria Cleopae" 新共同訳聖書では「クロパの妻マリア」)を産み、クレオパの死後サロマスという男性(新共同訳聖書では女性サロメ)と結婚してまだ別のマリアを産みました。アンナが三度の結婚によって多くの子孫を得たとするこの説は、少なくとも民衆レベルでは広く受け入れられ、アンナを中心に「聖なる一族」を描く作品が数多く制作されました。




(上) Lucas Cranach der Ältere, „Die Heilige Sippe“ (Torgauer Altar), 1509, Mischtechnik auf Lindenholz, 45 x 120 cm, 100 x 120 cm, 45 x 120 cm,.Städelsches Kunstinstitut und Städtische Galerie, Frankfurt am Main 床のタイルをはじめ幾何学図形を多用した画面には、遠近法を強調的に使用したルネサンス絵画の特徴が表れています。


 上の写真はルーカス・クラナッハ(父)が 1509年に描いた三翼祭壇画で、「聖なる一族」( „Die Heilige Sippe“)を図像化した一例です。一説によると、この作品はドイツ東部トルガウ(Torgau ザクセン州ノルトザクセング郡)のマリア教会(Marienkirche)のために制作されたとも言われます。

 中央パネルの中景には、向かって左から右にヨセフ、マリア、幼子を膝に乗せたアンナが描かれています。アンナ・ゼルプドリット(Anna Selbdritt)のイタリアにおける作例として、ルーヴル美術館が収蔵すレオナルド・ダ・ヴィンチの作品、「子羊のいる聖アンナと聖母子」(Leonardo da Vinci, "Sant'Anna, la Vergine e il Bambino con l'agnellino", c. 1510 - 1513, olio su tavola, 130 x 168 cm)がよく知られていますが、レオナルドの作品は成人である聖母マリアがアンナの膝に乗ってイエスに腕を差し伸べるという特異な構図で、視覚的安定性を欠いています。一方ルーカス・クラナッハの構図は自然であって、幼子をアンナの膝に乗せることで構図上の困難を解決しつつ、幼子イエスの腕を母に向かって差し伸べさせることで三世代のつながりを明示しています。

 中央パネルの後方壇上に描かれた三人の男性は、向かって左から順にヨアキム、クレオパ、サロマスです。美術史家ハンス・シュヴァルツェンスキ(Hanns Peter Theophil Swarzenski, 1903 - 1985)はヨアキムを画家自身、クレオパを神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世(Maximilian I., 1459 - 1519)、サロマスを法学者シクストゥス・エルファーフェン(Sixtus Oelhafen von Schöllenbach, um 1466 - 1539)の肖像と考えました。シュヴァルツェンスキによる同定はヨアキムとサロマスに関して異論がありますが、クレオパが神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世であることは諸家の意見が一致しています。

 中央の絵の前景で遊ぶ二人はふたとも男の子で、クレオパとの間に生まれたマリアの子供たちです。向かって左側のパネルに描かれているのは、アンナとクレオパとの間に生まれたマリア、その夫、二人の息子です。二人の幼児が少し大きく育った姿が、中央パネル前景の子供たちです。向かって右側のパネルに描かれているのは、アンナとサロマスとの間に生まれたマリア、その夫、二人の息子です。二人の幼児は大ヤコブと福音記者ヨハネです。


【家庭で教育を施す聖アンナ】

 上に示したルーカス・クラナッハの三翼祭壇画では、中央パネル中景に描かれた「アンナ・ゼルプドリット」群像のうち、聖母マリアの膝に本が置かれています。下に示す作品も同様の例です。これらは「知恵の座」(SEDES SAPIENTIAE) の聖母の図像に聖アンナを付加したように見えます。


(下) Tilman Riemenschneider, Enthroned Saint Anne with the Virgin and the Christ Child, c. 1490 - 95, sandstone, Mainfraenkisches Museum, Wuerzburg




 しかるに聖母マリアの膝ではなく、聖アンナの膝に本が載っている場合があります。家庭の中心であるアンナが、家庭の教育においてもまた重要な役割を果たしたはずだとの考えに基づいて、このような作品が制作されています。


(下) Gerard David. The St. Anne Alterpiece. c. 1500 - 1510, oil on panel, The National Gallery of Art, Washington, DC.




 中世に発展したもうひとつの図像として、幼いマリアに文字を教える聖アンナのモティーフが挙げられます。家庭における教育者としてアンナを描く十三世紀後半以降の図像には、マリアに読み書きを教える聖女が描かれています。


(下) anonymous, St. Anne teaching Mary to read, 1412 - 1428, stained glass window, All Saints North Street Church, York




 中世初期の西ヨーロッパ貴族社会において女性は男性よりも教養が高く、ラテン語の詩編を読むことができました。詩編は貴族女性を表す彫像のアトリビュートであり、実際のところ、中世盛期には制作された美しい時祷書(聖務日課書を俗人向けにしたもの)はほとんど全て女性のものでした。貴族の男が字を読めるようになるのは中世後期のことであって、女性は男性よりもずっと早く識字能力を身に着けたのです。

 中世初期の女性たちは、アンナから教育されるマリアの姿に自分たちを重ね合わせました。それゆえ「家庭における教育者」としてアンナを描いた作品において、アンナがマリアに読ませている本は詩編であると考えられます。


(下) 透かし細工による銀無垢メダイ 《家庭における教育者アンナと、恩寵に照らされたマリア》 アール・ヌーヴォー様式による大型の作例 36.7 x 22.8 mm フランス 1900年頃 当店の商品です。





【フランスにおける聖アンナ崇敬】

・プロヴァンス

 「ヤコブ原福音書」は二世紀に成立しましたが、フランスをはじめとする西ヨーロッパには、十字軍をきっかけにして聖アンナへの崇敬が伝わりました。アヴィニヨンやオランジュと同じ県内にある南仏プロヴァンスの小都市アプト(Apt プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴォクリューズ県)の司教座聖堂サンタンヌ(La cathédrale Sainte-Anne d'Apt)には、聖アンナの聖遺物(遺体)及び「聖アンナのヴェール」があって、西ヨーロッパで最も古い聖アンナの聖地となっています。

 伝承によると、聖アンナの聖遺物(遺体)はマグダラのマリアマリア・ヤコベ、マリア・サロメ、ラザロとともにフランスにもたらされ、しばらくマルセイユにとどまった後、アプトの初代司教オスピス(St. Auspice)によって洞穴に隠されました。貴族ジャン・ド・ニコライ(Jean de Nicolaï)の聖務日課書にある 1532年の記録によると、シャルルマーニュがアプトを訪れて盛大なミサが挙げられた際、家来の息子が脱魂状態に陥りました。この人は盲目の聾唖者でしたが、アンナの聖遺物(遺体)のありかを示し、シャルルマーニュがその場所を掘らせたところ、聖アンナの棺がヴェールを掛けられた状態で見つかりました。しかしながら以上の伝承は明らかな作り話であって、アプトの聖アンナに関する史料は十二世紀以前に遡ることができません。それゆえアプトに伝わる聖アンナの遺物は十字軍が運んできたものと考えられます。アプトの聖遺物は聖アンナの上半身で、遺体の他の部分は各国の王や各地の教会に贈られています。サンタンヌ・ドーレサンタンヌ・ド・ボープレの聖遺物も、サンタンヌ・ダプトから分与されたものです。


 洗礼者ヨハネの母エリサベトと同様に、アンナは結婚後二十年以上経っても子供ができませんでした。そこに生まれたのがマリアです。それゆえアンナは子供を授けてくれる守護聖人とされました。

 太陽王ルイ十四世の母で、聖女と同じ名前のアンヌ・ドートリシュ(Anne d'Autriche, 1601 - 1666)は 1816年にフランス王ルイ十三世の妃となりましたが、不妊に苦しみ、1623年、アプトに参詣しています。1638年、二十二年の不妊の後、遂に長子が生まれると、子供はルイ・ディユドネ(Louis Dieudonné 神が与え給うたルイ)と名付けられました。後のルイ十四世です。アンヌ・ドートリシュは 1660年にアプトを再訪し、多額の寄進を行っています。一方夫王ルイ十三世はルイ・ディユドネの誕生を感謝してパリ司教座聖堂ノートル=ダム(ノートル=ダム・ド・パリ)に祭壇を寄進し、フランスを聖母に捧げました


・ブルターニュ






(上) ブルターニュのパルドン祭 1890年頃の彩色フォトグラヴュア 画面サイズ 23 x 18 cm 当店の商品です。


 聖アンナはブルターニュにおいて篤く崇敬されています。

 ブルトン語で書いた作家アナトール・ル・ブラーズ (Anatole Le Braz, 1859 - 1926) が蒐集した伝説によると、聖アンナはブルターニュ地域圏フィニステール県にある海辺の小村プロネヴェ=ポルゼ (Plonevez-Porzay) の出身で、冷酷な領主に嫁ぎました。夫は子供嫌いで、アンナが妊娠してマリアを生むと母子を城から追い出し、母子はトレファンテク (Trefuntec) の海岸から天使が導く舟に乗って、ガリラヤにたどり着きます。娘のマリアはガリラヤで成長し、後にイエスを生みます。アンナはその後ブルターニュに戻り、ドゥアルヌネ(Douarnenez)の入り江に面したラ・パリュ(la Palue)、現在のプロネヴェ=ポルゼ(Plonévez-Porzay ブルターニュ地域圏フィニステール県)に居を定めて、祈りと慈善の生活を送りました。イエスはペトロとヨハネを伴ってラ・パリュにアンナを訪ね、祖母の求めに応じて泉を湧出させました。

 イエスが湧き出させたの傍らには礼拝堂サンタンヌ・ラ・パリュ(la chapelle Sainte-Anne-la-Palud)が建てられて、病者と貧者の避難所となりました。ここはブルターニュの聖アンナにまつわる最古の巡礼地で、伝承によるとその歴史を六世紀初頭に遡ります。フランス革命が起こるまで、サンタンヌ・ラ・パリュ礼拝堂はランデヴェネック(Landévennec ブルターニュ地域圏フィニステール県)の聖ゲノレ修道院(l'abbaye Saint-Guénolé de Landévennec)に属していました。なりました。聖ゲノレ修道院は 1793年に廃院になり、荒れるに任されましたが、1950年にベネディクト会系スビヤコ会(仏 la congrégation de Subiaco Mont-Cassin 羅 CONGREGATIO SUBLACENSIS, Cong. Subl. O.S.B.)が地所を購入し、同年から 1965年にかけて新聖堂が建設されました。毎年八月の最後の終末には大勢の巡礼者が集まり、当地で大パルドン祭(Le grand Pardon)が行われています。サン=タンヌ=ラ=パリュの大パルドン祭は千数百年の伝統を誇り、ブルターニュのパルドン祭のなかでも最古のものです。




(上) イヴ・ニコラジク フランスの小聖画(部分) 当店の商品です。


 また別の伝承によると、アンヌ・ドートリシュが最初にアプトを訪れたのと同じ 1623年から翌年にかけて、聖アンナはモルビアン県オーレ (Auray) の農夫イヴ・ニコラジク (Yves Nicolazic, 1591 - 1645) に対して何度も出現し、自分(聖アンナ)にゆかりの地である彼の村に、聖アンナに献じた礼拝堂を建設することを求めました。1625年3月7日、自身に対する聖アンナの出現を証明するために、ニコラジクは大勢の村人が見守る場で地中から一体の像を掘り出します。この像は後に当地のカプチン会の修道士たちによって手が加えられて聖アンナの像として認知されるようになり、やがてヴァンヌ司教は当地における聖アンナ崇敬と礼拝堂建設を許可しました。

 礼拝堂が建てられたニコラジクの村はサン=タンヌ=ドーレ (Sainte-Anne-d'Auray) と呼ばれて、聖アンナはブルターニュの守護聖人となりました。この地で毎年行われるパルドン祭はブルターニュのパルドン祭のなかでも最大の規模で、ルルドリジューに次ぐフランス第三の巡礼地となっています(註1)。


【守護聖人としての聖アンナ】

 聖アンナはフィレンツェ、ナポリ、インスブルック、ブルターニュ、ケベックの守護聖人です。

 また未婚の女性を守り、よき夫と子供を授ける守護聖人、妊産婦と子供の守護聖人、不妊に悩む女性の守護聖人、孫がいる女性の守護聖人です。金銀細工師、彫刻家、旋盤工、ブラシ・箒職人、手袋職人、メリヤス工、縫い子、レース編み女工、洗濯屋、毛梳き工、廃品処理業者、船乗り、鉱夫の守護聖人ともされています。

 聖アンナの祝日は、西方教会においては7月26日、東方教会においては7月25日です。



註1 かつてのアイルランドでは、教区の守護聖人の祝日に、パターン(英 pattern)と呼ばれる祝祭が盛大に行われた。アイルランドのパターン祭とブルターニュのパルドン祭は宗教的位置づけ、行事の内容、住民にとってお祭り騒ぎの日であることなど、いずれの点でもよく似ている。アイルランドのパターンは、ケルト文化の衰退や社会構造の変化に伴って次第に行われなくなった。



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