十字軍
croisades / crusades




(上) Francesco Hayez, Crusaders Thirsting near Jerusalem, 1836 - 50, oil on canvas, Palazzo Reale, Torino


 11世紀の終わりから約200年間に亙り、フランスと神聖ローマ帝国を中心とする西ヨーロッパのカトリック世界は、聖地エルサレムを奪還するという目的で、東方のイスラム世界に対して数次に亙る軍事遠征を行いました。この軍事行動を総称して「十字軍」(英 crusade、仏 croisade) と呼びます。(註1)

 十字軍が行われるようになった端緒は、セルジュク朝トルコがアナトリアに勢力を広げ、東ローマ皇帝がローマ教皇に支援を訴えたことでした。十字軍はカトリック教会の呼び掛けによって始まった運動であり、教会は十字軍に従軍する者に贖宥(註2)を与えました。十字軍に従軍した当事者たちは自身を巡礼者と看做し、「キリストの戦士たち」(milites Christi)、「聖ペトロの忠臣たち」(fideles sancti Petri) 等と自称していました。(註3) このように建前上、あるいは十字軍に従軍した一般の人々の心性においては、宗教が強い動機となっていたために、純粋な宗教的心情に衝き動かされて準備も無いままに出発し、多数の少年少女を含む参加者が死んだり奴隷に売られたりした「少年十字軍」(註4)のような悲劇も起こりました。

 一方、十字軍を実際に推し進めるうえで、宗教心と同様に、あるいはそれ以上に大きな原動力となったのは、政治的、経済的動機でした。そのことが如実に現れたのが、悪名高い第四回十字軍です。


【第一回十字軍に至る時代的背景】

 ローマ帝国がキリスト教化した時代以来、聖地エルサレムとその周辺はキリスト教徒の勢力圏でしたが、7世紀にイスラム教徒が当時東ローマ帝国に属していたシリアを征服して以来、パレスチナ一帯におけるイスラムの勢力は強まる一方でした。

 1009年、エジプトのファーティマ朝第六代カリフ、ハーキム (al-Hakim bi-Amr Allah, 985 - 1021) の命により、聖墳墓教会が破壊されました。次のカリフは東ローマ帝国が多額の権利金を支払うことを条件に聖墳墓教会の再建を認めましたが、巡礼に訪れるキリスト教徒に危害が加えられる例が相次ぎ、東ローマ帝国内の反イスラム感情は高まりました。


 一方西ヨーロッパにおいては、8世紀に西ゴート王国がウマイヤ朝に滅ぼされて以来、イベリア半島からイスラム教徒を追い出してキリスト教徒の勢力圏を回復しようとするレコンキスタ(reconquista 国土回復運動)が連綿と続いていました。しかるにカトリック教会には、「自衛のため、及び奪われた財産を取り返すための戦争は正義の戦いである」という考え方が、聖アウグスティヌス以来受け継がれていました。この考え方に基づいて、1063年、教皇アレクサンデル2世(Alexander II 在位 1061 - 1073)はレコンキスタを全面的に支援して「聖ペトロの旗」(vexillum Sancti Petri) の使用を許し、また戦死する者には贖宥を与えました。

 また10世紀にフランク王国が滅亡(註5)して群雄割拠の状態となると、力が支配する世の中となり、騎士たちは教会や民衆を襲って掠奪を働くようになりました。そこで989年のシャルー公会議と994年のル・ピュイ公会議において「神の平和」(Paix de Dieu) が提言され、やがて教会や貧民、女性への掠奪行為、特定の場所や期間における戦闘行為は破門を以って禁じられるようになりました。この「神の平和」運動は、好戦的な騎士階級とその私兵たちが自国内で武力を行使することを禁じたという点で、外敵に対する武力行使である十字軍へとつながるひとつの要因と考えられています。

 さらにこの時代は叙任権闘争及びグレゴリウス改革の時代と重なります。教会内部の綱紀粛正を図るグレゴリウス改革の精神は一般社会にも影響を及ぼし、「使徒的生活」を実践する集団、すなわち貧しく清らかな生活をしつつ福音宣教に励む集団が多く現れました。彼らは復活したイエズスのことば、すなわち「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書 28章 19 - 20節)という言葉を文字通り実行しようとし、福音宣教の熱意に燃えていました。(註6)


 以上において具体的に述べた状況をまとめると、次のようになります。

・キリスト教の聖地であるエルサレムやアンティオキアを異教徒たちが不当に占拠し、巡礼に訪れるキリスト教徒に危害を加えていた。

・カトリック教会は「自衛のため、及び奪われた財産を取り返すための戦争は正義の戦いである」と考えていた。イベリア半島をイスラム教徒から取り戻す戦いにおいて、教会は外敵に対する武力行使を承認し、戦死する者に贖宥を与えていた。

・その一方で教会は旧フランク王国において、国内での武力行使を厳しく制限し、騎士たちは力を持て余していた。

・グレゴリウス改革の影響で「使徒的生活」を実践する多くの集団が生まれ、外国に出かけて異教徒を改宗させようという機運が高まっていた。


 これらの要因が重合して、11世紀末のヨーロッパにおいて十字軍運動が生まれる機は熟していたということができます。



【十字軍の直接的なきっかけ】



(上) クレルモン教会会議で十字軍勧説の説教をする教皇ウルバヌス2世。写本挿絵より。

 ヨーロッパのキリスト教会はこの少し前、1054年に、ローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会と、コンスタンティノープル総主教を首長とするギリシア正教会に分裂してしまいました。

 ところが1071年、東ローマ帝国はマラズギルト (Malazgirt/Manzikert) の戦いでセルジュク・トルコに惨敗した結果、その領土はアナトリア(小アジア半島)西部と首都コンスタンティノープルのみとなりました。この事態を受けて東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカス (Michael VII Doukas, 1050 - 1071- 1078 - 1090) は、1074年、教皇グレゴリウス7世 (Gregorius VII, c. 1020 - 1073 - 1085) に使者を送り、救援を要請しました。

 しかしながらグレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 (Heinrich IV, 1050 - 1106) を相手に叙任権闘争を戦っており、両者は敵対関係にありましたので、東ローマ皇帝からの要請に関して教皇が神聖ローマ皇帝に支援を求めることはなく、十字軍が組織されることはありませんでした。

 それから21年が経った 1095年の初春、ピアチェンツァ公会議に出席していた教皇ウルバヌス2世 (Urbanus II, c. 1035 - 1088 - 1099) のもとに、オスマン・トルコに圧迫される東ローマ皇帝アレクシオス1世 (Alexios I Komnenos, 1056 - 1081 - 1118) からの使者が到着し、再びローマ教会に援けを求めました。

 この時の教皇ウルバヌス2世は先代教皇グレゴリウス7世に引き立てられた人物であって、グレゴリウス改革の継承者として叙任権闘争を継続し、神聖ローマ皇帝と対立を続けていました。しかし東ローマの要請に応えるならば、1054年に分裂した教会はふたたび統合されるであろうと思われ、また聖都エルサレムをはじめとするパレスチナ地域がローマ・カトリックの勢力圏になれば、ローマがコンスタンティノープルに対して首位性を主張するうえで有利であろうとも思われたのです。(註7) そこでウルバヌス2世は、神聖ローマ皇帝に頼らずに、フランス国内で兵士を集めてレヴァント(東部地中海沿岸)に遠征を行うことを決断し、第一回十字軍が敢行されました。



【十字軍のもたらしたもの】



(上) Eugene Delacroix, The Entry of the Crusaders into Constantinople, 1840, oil on canvas, 498 x 410 cm, Musée du Louvre, Paris

 1095 - 1099年に行われた第一回十字軍の結果、レヴァントには四つのラテン国家、すなわちエルサレム王国(1099 - 1291年)、エデッサ伯領(1098 - 1149年)、アンティオキア公国(1098 - 1268年)、トリポリ伯領(1102 - 1289年)が生まれましたが、いずれも14世紀初めまでにイスラムにより再征服されました。


 十字軍は民衆の信仰心を高めるとともに、異教徒に対する怒りを掻き立てました。西ヨーロッパにおいて、これは反ユダヤ感情の爆発となり、第一次十字軍の開始と時を同じくして、中世で最も大規模なユダヤ人虐殺を惹き起こしました。またエルサレムのユダヤ人もイスラム教徒と同様に、ほとんど全員が殺されました。

 さらに十字軍はレヴァント地域に住むキリスト教徒の地位を上げるのではなく、かえって不利な立場に追い込みました。
 レヴァント地域において、イスラム教徒とキリスト教徒はもともと平和に共存していました。そこにフランク人たちがキリスト教の大義を掲げて侵入し、破壊と虐殺を行ったのです。イスラム教徒から見れば、侵入者であるフランク人も、もともとレヴァントに住むキリスト教徒も、同じキリスト教徒です。それゆえレヴァントのキリスト教徒の立場は悪くなり、イスラム支配勢力による迫害を惹き起す結果となったのでした。

 クレルヴォーの聖ベルナールが勧説した第二回十字軍の参加者たちはエルサレムを目指すのではなく、異教徒であるヴェンド人(ゲルマン人に隣接して住むスラヴ人)を征討することを望み、聖ベルナールはこれに同意して、ヴェンド十字軍が行われました。しかしヴェンド人の反撃に遭った十字軍は、結局解体してしまいます。ヴェンド人を馴致することが不可能であると悟ったドイツ諸侯のあいだには、この結果、エルベ川以東への東方植民運動が生まれることになります。

 また、十字軍によって東西教会が統合され、ローマの首位性が確立すると考えたウルバヌス2世の思いとは裏腹に、東方教会と西方教会、あるいはビザンティンと西ヨーロッパの関係は、第四回十字軍によって決定的に悪化し、修復は不可能になりました。


 十字軍がもたらしたプラスの面としては、アラビアから西ヨーロッパに学問が伝えられたこと、また東西の通商が盛んになったことが従来指摘されてきました。しかし近年では十字軍がこれらの事象の原因となったとは考えられなくなっています。



註1 1095 - 99年の第一回十字軍から 1271 - 72年に行われた遠征(第九回十字軍)まで、約200年間に九回(または八回)の十字軍を数えるのが慣例となっています。しかしこの分け方、数え方は恣意的で、ときには切れ目なく東方遠征が行われています。

 上述の九回に含まれない遠征も多くあります。たとえば後述の「少年十字軍」は、東方を目指してこの期間に行われた遠征でありながら、九回の十字軍のいずれにも含まれていませんし、南フランスのカタリ派に対して行われたアルビジョワ十字軍(1209 - 1229年)や、北ヨーロッパ及びバルト海沿岸に異教徒に対し12世紀から16世紀にかけて行われた北方十字軍も、大規模な軍事行動でありながら、やはり九回の十字軍には含まれていません。


註2 贖宥(しょくゆう)とは、既に赦された罪に関して、それに対する償い、すなわち現世における苦行や煉獄を免除されることです。


註3 十字軍に従軍した当事者たちは「教会の兵士」となることを誓い、その印として教皇の代理人から十字型の布を受け取って衣服に縫い付けました。「十字軍」という名前はこの布に由来します。ただし従軍した当事者たち自身は十字軍という言葉を使いませんでした。


註4 1212年にドイツで12歳あるいは14歳のニコラスという羊飼いが神の啓示を受けたとして、ケルンをはじめとする各地で遠征軍への参加を呼び掛けました。しかし食糧不足と病気のために多くの者が命を落とし、同年8月末、ニコラスの一行がジェノヴァに到着した時点で生存者は 7,000人に減っていました。死者はその倍近くに上ると考えられています。
 ニコラスはモーセの前で紅海が開けた(出エジプト記14章)のと同様に地中海が開けて、聖地までの道が出現すると約束していましたが、結局そのようなことは起こらず、ニコラスの「十字軍」は失敗に終わりました。

 同じく1212年、フランスではエチエンヌという羊飼いの少年がやはり神の啓示を受けたとして、多数の少年少女を含む 30,000人の民衆を率いて聖地を目指しました。マルセイユにたどり着いたエチエンヌの一行は、聖地行きの船に無償で乗船させるという商人の言葉に乗せられて7隻の船に乗り込みましたが、うち2隻は途中で難破し、残りの5隻に乗り込んだ者たちもアレクサンドリアで奴隷として売り飛ばされました。


註5 カール大帝からルイ1世に継承されたフランク王国は、ルイ1世の没後、三人の息子の間で分割されました。三つのフランク王国においてカロリング家はやがて弱体化し、カロリング家直系の国王が途絶えると、西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年に滅亡しました。


註6 叙任権闘争とは、司教及び修道院長を叙任する権限を俗人(すなわち領主、国王、皇帝)から取り戻すためにカトリック教会が行った闘争で、具体的にはグレゴリウス改革という形をとりました。叙任権を教会の手に取り戻すことと、教会内部の綱紀粛正を図ることが、グレゴリウス改革のふたつの柱でした。

 教会内部の綱紀粛正を図るうえで問題となったのが、シモニスト(聖職者の地位を金銭で手に入れた者)等堕落した聖職者から受けた秘蹟の有効性でした。

 キリスト教において救いに関わる最も重要な秘蹟である洗礼について考えると、これを授ける人はあくまでも神の代理人にすぎず、その人自身の徳によって受洗者を救うのではありません。したがって洗礼を授ける人の有徳、不徳は洗礼の効力に無関係であって、教皇や聖人によって授けられた洗礼も、異教徒や悪人によって授けられた洗礼も、その価値に何らの違いは無く、まったく同様に有効です。叙階に関しても同様のことがいえます。しかしグレゴリウス改革において、教皇グレゴリウス7世は正統教義を逸脱し、「堕落した聖職者によって執行された洗礼や叙階は無効である」という異端的な主張をしてまでも、教会内部の綱紀粛正を図りました。

 グレゴリウス改革の精神は一般社会にも影響を及ぼしました。堕落した聖職者を批判して貧しく清らかな生活をし、また福音宣教に励んで「使徒的生活」を実践する集団が多く現れたのです。急進的なグレゴリウス改革が終息すると、教会はこれらの集団に修道会としての認可を与えるなどして、教会内部に吸収すべく努めます。そしてこれを拒む者たちは、異端として徹底的に弾圧されることになります。


註7 1054年に起こった東西教会の大分裂にはいくつかの原因がありますが、そのひとつはローマ司教すなわち教皇による首位性の主張でした。




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