カブラル・アントゥネス作 嬰児マリアと受胎告知のマリア 聖母生誕二千周年記念大型メダイユ アントゥネス芸術の集大成


直径 89.3 mm   最大の厚さ 11.7 mm   重量 285.8 g

ポルトガル  1985年



 聖母の生誕二千周年を記念して、カブラル・アントゥネス (José Maria Cabral Antunes, 1916 - 1986) が1985年に制作した美しいメダイユ。カブラル・アントゥネスは 20世紀ポルトガルにおける最も優れたメダイユ彫刻家ですが、そのアントゥネスが生涯の終わりに制作した本品は、アンティネスがその生涯を賭けて追求した彫刻芸術の集大成となっています。メダイユとしては非常に大きく、89.3ミリメートルの直径、最大 11.7ミリメートルの厚み、285.8グラムの重量があります。





 一方の面には、もはや若くはない両親、ヨアキムとアンナのもとに生まれたマリアが、生後八十日の嬰児として浮き彫りにされています。三人を囲むように、ポルトガル語で「処女マリアの誕生」(Nascimento da Virgem Maria) と記されています。


 当時のイスラエルでは、女性が出産した後に、エルサレム神殿において二種類の宗教的儀式が行われました。そのひとつめは、「新生児を神に奉献する儀式」です。女性が第一子を生んだ場合、それが男の子であれば、「出エジプト記」 13章 2節の規定により、「神のもの」として聖別、奉献されます。奉献されると言っても、人間の場合は生贄にするのではなく、「民数記」 18章 15 - 16節に規定されている「銀五シェケル」の献金を納めて、いわば神から買い戻すのです。イエスについても行われたこの儀式については、「ルカによる福音書」 2章 22節以降に描写されています。

 ふたつめの儀式は、出産に伴う出血によって宗教的な穢れを帯びた産婦が、清めの期間を経た後にエルサレム神殿に出向き、もはや穢れていないことを祭司から宣言してもらう「清めの儀式」です。月経や出産に伴う出血によって女性が一時的に穢れるとする考えは、日本を含む世界中のあらゆる地域に見られます。イスラエル民族の場合、「レビ記」 12章の規定により、男の子を産んだ女性は40日間、女の子を産んだ女性は80日間、穢れた状態にあると考えられていました。マリアが生まれた当時、イスラエルの女性は、「レビ記」12章の定めにより、40日または80日の清めの期間が過ぎた後、エルサレム神殿に行って、神殿東側の「婦人の庭」に面するニカノル門の前で、生贄を捧げる「清めの式」を受けました。





 このメダイユの浮き彫りにおいて、両親の足下には生贄用と思われる二羽の鳩を入れた籠が置かれていますから、一家がエルサレム神殿に出向いている場面を描写していることがわかります。マリアは女の子ですから、上記の儀式のひとつめ、すなわち神殿への奉献は行われません。したがって一家が神殿を訪れているのは、アンナがマリアを生んで八十日が過ぎ、「レビ記」 12章 6節から 8節の規定によって、「清めの儀式」を受けに来ているのだとわかります。「レビ記」 12章 6節から 8節には次のように書かれています。

     男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(新共同訳) 


 「処女マリアの誕生」(Nascimento da Virgem Maria) と記されているように、この作品の主題は「マリアの誕生」であって、「アンナの清め」ではありません。しかしながら新生児が女の子の場合には神殿奉献のように劇的な儀式は行われないので、アンナの「清めの儀式」が奉献の儀式の代わりに描写され、神の御前(みまえ)におけるマリアの特別な地位を暗示しています。

 カブラル・アントゥネスはキリスト教関連の作品を多く手掛けるメダイユ彫刻家で、旧約聖書に関しても正確な知識を持っていました。イエスは男子であったゆえに、初子(ういご 第一子)として神殿に奉献されましたが、女の子であるマリアが神殿に奉献されないことも知っていました。それゆえカブラル・アントゥネスは「レビ記」12章 6節から 8節に基づいて「アンナの清め」を描き、これをイエスについて芸術家たちが作品化した「神殿奉献」に相当する描写としています。すなわち、「産婦の清め」はアンナのみに関わる事柄ですが、カブラル・アントゥネスはこの作品にマリアとその両親の三名を登場させることで、「イエスの神殿奉献」を髣髴させる作品に仕上げているのです。


(下・参考画像) ルーベンスが 1612 - 1614年に制作したアントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画。右側パネルに「イエスの神殿奉献」が描かれています。




 ここで疑問が浮かびます。マリアの両親の名前や誕生のいきさつについて、正典福音書には記録がありません。マリアの幼時に関する美術作品は、新約外典「ヤコブ原福音書」(Protevangelium Iacobi ) が典拠となります。「ヤコブ原福音書」にはヨアキムとアンナが貧しかったというような記述は無く、むしろヨアキムはたいへん裕福で、神殿においても他人の倍の捧げ物をしていたと書かれています(「ヤコブ原福音書」 1章 1節)。アンナには召使がいますし(同 2章 2節)、妻の懐妊を天使から告げられたヨアキムは、神殿への捧げ物にする十頭の子羊、十二頭の子牛、百頭の雄羊を、羊飼いからその場で調達しています(同 4章 3節)。

 それにもかかわらず、カブラル・アントゥネスはこの作品において、「レビ記」が貧者の捧げ物と規定する「二羽の鳩」を、ヨアキムとアンナに捧げさせています。「レビ記」 12章 8節には次のように書かれていたことを思い出してください。

     なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖(あがな)いの儀式を行うと、彼女は清められる。(新共同訳) 


 「ヤコブ原福音書」によるとヨアキムは裕福でした。キリスト教関係の作品が多い芸術家カブラル・アントゥネスは、「ヤコブ原福音書」をはじめとするアポクリファ(外典)についても知悉していたと思われ、実際この作品においても、ヨアキム・アンナ夫妻を立派な身なりに彫っています。アポクリファをよく知っていたのであれば、当然のことながら、カブラル・アントゥネスはカノン(聖書正典)の内容にも通じていたでしょう。それなのになぜ、このメダイユにおいて、カブラル・アントゥネスはヨアキム・アンナ夫妻に、「一頭の子羊と一羽の鳩」ではなく、「二羽の鳩」を神殿に捧げさせているのでしょうか。


 ここで注目したいのは、鳩が有する象徴性と、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」 1章 16節に書いた「福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」という言葉です。

 まず「鳩」に関してですが、この鳥は「神との和解」の象徴です。「創世記」 8章の記述によると、神の怒りで惹き起された洪水の豪雨が治まった後、ノアは最初に烏(からす)、次に鳩を箱舟から放ちますが、大地が水に被われていて降りる地面が無かったので、いずれもすぐに箱舟に戻ってきました。その7日後、ノアが二度目に鳩を放つと、鳩は夕方になって箱舟に戻りました。鳩は嘴(くちばし)にオリーヴの葉を咥(くわ)えていたので、水が引き、地面が顔を出し始めたことがわかったのでした。「創世記」 8章8 - 12節を、新共同訳によって引用します。

       ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。 更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーヴの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。


 イタリアのモザイク画 1250年頃


 したがってヨアキムとアンナの足下にいる鳩は、「神との平和」を象徴します。ところでカブラル・アントゥネスはなぜ「二羽の鳩」を彫ったのでしょうか。ヨアキムが裕福であるならば、「一頭の子羊と一羽の鳩」を彫るべきではなかったでしょうか。

 この疑問を解く手がかりとなるのが、先ほど引用した「ローマの信徒への手紙」の言葉です。「ローマの信徒への手紙」はパウロ書簡のなかでも最も重要なもので、1章 1節から 15節は挨拶となっており、先に引用した 16節「福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」という言葉を以て核心的論述が始まります。ここでいうギリシア人とは異邦人、すなわち選民ユダヤ人ではない異民族のことです。


 旧約の時代、神と人の間は「罪」と「穢れ」が障壁となって隔てられていました。この障壁を除くべく、「穢れ」に関しては上記のような清めの期間が設けられ、「罪」に関しては生贄が捧げられましたが、生贄は神の子羊イエス・キリストの前表に過ぎず、これを以て「罪」、すなわちエヴァによってもたらされた原罪を拭い去ることは不可能でした。しかしながらキリストが十字架上に受難し、救世を達成し給うたことによって、パウロが言うようにユダヤ人もギリシア人も、ただ信じれば救われる時代が到来しました。

 カブラル・アントゥネスがこの作品に浮き彫りにした「二羽の鳩」は、「神と和解したユダヤ人及びギリシア人(異邦人)」を表しています。キリストの贖いにより、ユダヤ人も異邦人も同じように神に受け容れられるようになったことを、同種の二羽の鳩によって表しているのです。下に示したのは19世紀メダイユ彫刻で、救いを得た者たちの魂を「二羽の鳩」で表しています。


(下) ウジェーヌ・アンドレ・ウディネ作 大型メダイユ 「わが肉を食らひ血を飲む者は永遠の命を得べし」 1854年 (部分) 当店の商品です。




 さらに旧約時代の生贄はキリストの前表に他ならないゆえに、カブラル・アントゥネスは鳩の姿によってイエス・キリストを表していると考えることもできます。そのように解釈するならば、このメダイユは「ヨアキムとアンナ」「マリア」「イエス」の三世代像となり、16世紀のドイツで流行した「アンナ・ゼルプドリット」(Anna Selbdritt アンナとマリアとイエスを一緒に描いた像)を現代に蘇らせたものと見ることができます。





 メダイユのもう一方の面には受胎告知のマリアが浮き彫りにされています。マリアは胸に両手を当てて祈りのポーズを取り、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(「ルカによる福音書」1章 38節)と答えています。


(下) Fra Angelico, "l'Annunciazione di San Giovanni Valdarno", 1430 - 1432, tempera su tavola, 195 x 158 cm, il Museo della basilica di Santa Maria delle Grazie, San Giovanni Valdarno




 聖母を囲むように、ポルトガル語で「聖母生誕二千周年」( BIMILENÁRIODO NASCIMENTO DE NOSSA SENHORA) と書かれています。このメダイユが制作されたのは 1985年です。マリアの生誕を紀元前15年としたのは、イエスの生誕を西暦 0年とし、このときのマリアの年齢を15歳として、逆算により求めたものです。マリアが生まれた実際の日付は分かりませんが、教会暦では9月8日が「聖母マリアのご誕生の祝日」とされています。

 本品は 89ミリメートルの直径があるうえに、マリアの浮き彫りはたいへん立体的で、生身のマリアを眼前に見るかのような迫力があります。





 プロテスタントと違って、カトリックでは聖母マリアを大切にしますが、それは受胎告知の際、マリアがガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたからです。プロテスタント思想においては、人間は善を為すことができません。人間にできるのは、罪を犯すことだけです。しかるにカトリックにおいては、人間は善を為す自由を有すると考えられています。神は救いを強制せず、マリアは自由意志を以って、全人類のために救いを受け入れるという善を為したのです。カブラル・アントゥネスはこの作品において、マリアが人類のために救いを受け容れた瞬間をブロンズに固定し、永遠の記念としています。





 本品はポルトガルが生んだ20世紀最大の彫刻家カブラル・アントゥネスが生涯の終わりに制作した「白鳥の歌」と呼ぶべき作品です。プラトンは処刑前日のソクラテスを描いた対話篇「パイドン」においてソクラテスとシミアスの対話を記していますが、従容(しょうよう)として死に臨むソクラテスは自らを白鳥になぞらえ、次の内容の言葉を語っています。

 「白鳥はアポロンの僕(しもべ)であるから予言の能力を持っている。白鳥は死期を迎えたことを悟ると、神の許へ行けることを喜んで、生涯で最も美しい歌を歌うのだ。」("Phaedo" 84e - 85b)

 「聖母生誕二千周年記念メダイユ」の完成から数か月後の翌年4月、カブラル・アントゥネスは故郷コインブラで亡くなります。ルネサンスやバロックの画家は愛着ある作品に自分の肖像を描き入れることがよくありました。このメダイユにおいて新生児マリアの足下にいる鳩は、自分がもうすぐ神の御許に帰ることを知っていたカブラルが、キリスト者の魂を象徴する鳥に仮託して、最後の作品に彫りこんだ自身の姿ではなかったでしょうか。





58,000円 販売終了 SOLD

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