聖大ヤコブ
St. James the Greater




(上) Albrecht Durer, St. James the Apostle, 1516. tempera on canvas. Galleria degli Uffizi, Firenze


【新約聖書カノン(正典)におけるゼベダイの子、大ヤコブ】

 十二使徒のなかには、ゼベダイの子聖ヤコブとアルファイの子聖ヤコブがいます。

 ゼベダイの子聖ヤコブは、使徒であり福音記者でもある聖ヨハネの兄で、父ゼベダイ、弟ヨハネとともに、ガリラヤ湖で漁師をしていました。シモン・ペトロとアンデレの兄弟が召命を受けた直後に、ヤコブとヨハネの兄弟も召命を受け、キリストの最初の弟子に加えられました。(マタイによる福音書 4:18-22) ゼベダイの子聖ヤコブは、ヘルモン山でイエズスが変容されたときに、ペトロ、ヨハネとともに立ち会ったのをはじめ、福音書と使徒言行録にたびたび登場します。

 アルファイの子聖ヤコブは、使徒パウロが「主の兄弟」(ガラテア書 1:19)、「柱と目される主だった人々」のひとり(同 2:9)と呼んだ人で、西暦70年にエルサレムが破壊されるまで、聖都の教会で信徒を指導しました。福音書にはあまり記述がありませんが、新約聖書正典である「ヤコブの手紙」の著者と考えられています。

 ゼベダイの子聖ヤコブとアルファイの子聖ヤコブを区別するために、ゼベダイの子ヤコブを大ヤコブ (James the Greater, Jacques le Majeur)、アルファイの子ヤコブを小ヤコブ (James the Less, Jacques le Mineur) と呼んでいます。ふたりのヤコブはいずれも重要な人物ですが、ゼベダイの子ヤコブのほうを大ヤコブと呼ぶのは、先に召命を受けて使徒となったからです。


 大ヤコブはヘロデ・アグリッパ (Marcus Julius Agrippa, B.C. 10 - 44 A.D.) によって斬首され、殉教した最初の使徒となりました。(使徒言行録 12: 1-2)

(下) Francisco de Zurbarán y Salazar (1598 - 1664), Martirio de Santiago, 1639, oil on canvas, Museo del Prado, Madrid




【スペインにおける宣教者、聖ヤコブ】

 古くからの伝承によると、キリストが昇天した後、使徒たちは各々が世界のどの地域に布教するかを相談し、大ヤコブはスペインの担当となりました。西暦40年1月2日、聖ヤコブがサラゴサで宣教していたときに、エブロ川の岸辺にある柱のうえに聖母マリアが出現したと伝えられています。柱があった場所には、現在、ヌエストラ・セニョラ・デル・ピラル(柱の聖母)のバシリカが建っています。

(下) Nicolas Poussin, The Virgin of the Pillar Appearing to St James the Greater, 1628 - 30, oil on canvas, Musée du Louvre, Paris



 同じく伝承によると、聖ヤコブは西暦44年にエルサレムで殉教したあと、弟子たちの手でガリシアに運ばれ、サンティアゴ・デ・コンポステラに埋葬されました。アストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, c. 760 - 842) の時代に、あるガリシアの修道士が星 (STELLA) によってコンポステラ (Compostella i. e. CAMPUS STELLAE) に導かれ、聖ヤコブの遺骸を見つけたといわれています。聖ヤコブの墓所には、現在、サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂が建っています。


 聖ヤコブがスペインで宣教を行ったというこの伝承が事実であるかどうか、意見は分かれています。イエズス会の聖人伝学者たちが1643年に第一巻を刊行し1940年に完結した月ごとの聖人伝「アクタ・サンクトールム」("ACTA SANCTORUM") において、スペインにおける聖ヤコブの伝承は事実とされています。しかし高名な聖人伝学者デュシェーヌ神父 (Abbe Louis Marie Olivier Duchesne, 1843 - 1922) をはじめ、これに反対する学者も多くいます。

 「ローマ人への手紙」15章において、使徒パウロは「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」(20節)と書き、そのすぐあとでイスパニアで宣教を行う希望を述べています。(24節) 聖パウロのこの記述は、スペインにおける聖ヤコブの伝承と矛盾するように思えます。


【スペイン語における「サンティアゴ」という名称について】

 なお「聖ヤコブ」をスペイン語で「サンティアゴ」(Santiago) といいますが、これはラテン語サンクトゥス・ヤコブスが訛ったものです。

   SANCTVS IACOBVS (SANCTUS JACOBUS) → Santiago

 俗ラテン語および中世スペイン語において、この語形変化は次のようなプロセスで起こります。

・対格 SANCTUMから、連続する黙音[kt]の[k]が脱落する。UMの[m]は弱化したうえ消失し、[u]は次に続く母音[ja]に同化吸収されて消失する。すなわち SANCTUM → * Sant-

・対格 JACOBUM の語尾UMの[m]が弱化したうえ消失したのちに、[u]が[o]に変化する。また中世スペイン語において、母音にはさまれた無声子音は有声化するという規則に従い、Cの音[k]が[g]になる。さらに同じく中世スペイン語において、母音にはさまれた有声子音は消失するという規則に従いB[b]が消失して、この前後の[o]が融合する。すなわち JACOBUM → * iago


【聖ヤコブの図像学】

 聖ヤコブは縁の広い帽子をかぶり、大きな外套を羽織った中世の巡礼者の姿で表されることが多くあります。手には巡礼の杖を持ち、杖には水を入れたひょうたんを提げる鉤(金具)が付いています。また帽子あるいは外套にはサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の徴であるイタヤガイ (coquille St. Jacques, Jakobsmuschel) が付いています。



(上) Georges de la Tour. St. James the Greater, 1615 - 1620 失われた原作の模写

(下) Carlo Crivelli, St. James the Greater




 聖ヤコブ図像のもうひとつの典型は、サンティアゴ・マタモロス(Santiago Matamoros ムーア人の殺戮者としての聖ヤコブ)としての姿です。伝説によると、アストゥリアス王ラミロ1世 (Ramiro I de Asturias, c. 790 - 850) の軍と、コルドバのカリフに率いられたムーア軍(イスラム軍)の間で、844年5月23日に「クラビホの戦い」(Batalla de Clavijo) と呼ばれる戦闘がありました。このとき白馬に乗った聖ヤコブが現れてムーア人たちを殺戮し、戦闘を勝利に導いたといわれます。

(下) Giovanni Battista Tiepolo (1696 - 1770), St James the Greater Conquering the Moors, 1749/50, oil on canvas, 317 x 163 cm, Museum of Fine Arts, Budapest



(下) サンティアゴ・デ・コンポステラの北側翼廊の礼拝堂にあるサンティアゴ・マタモロス像



(下) クロモリトグラフィ(多色刷り石版)によるカード 19世紀後半 フランス




 キリスト教国スペインの守護聖人、サンティアゴ・マタモロスは、スペイン帝国が新大陸に進出すると、現地の神々と異教徒を征服するサンティアゴ・マタインディオス(Santiago Mataindios インディオの殺戮者としての聖ヤコブ)として崇められるようになり、その図像は新大陸に溢れます。

 サンティアゴ・マタインディオス


 19世紀に新大陸でスペインに対する反乱が起こると、聖ヤコブはスペインの暴政に対して現地の人々を守る守護聖人とされ、サンティアゴ・マタエスパニョレス(Santiago Mataespañoles スペイン人の殺戮者としての聖ヤコブ)の図像が製作されました。

(下) 「サンティアゴ・マタエスパニョレス」 銀製、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼博物館蔵






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