稀少品 摩滅によって宗教性を高めた信心具 《アビラの聖テレジアのメダイ 20.0 x 12.4 mm》 優しい手触りのフランス製アンティーク 二十世紀前半または中頃


突出部分を含むサイズ 縦 20.0 x 横 12.4 mm



 一方の面にアビラの聖テレサを、もう一方の面にカルメル山の聖母を浮き彫りで表したアンティーク・メダイユ。二十世紀の中頃以前にフランスで制作された品物です。





 一方の面には祈祷台を前にしたアビラの聖テレサ(Santa Teresa de Ávila, 1515 - 1582)が彫られています。テレサは十字架の聖ヨハネとともにカルメル会を改革した十六世紀スペインの修道女で、サンタ・テレサ・デ・ヘスス(西 Santa Teresa de Jesús イエスの聖テレサ、イエズスの聖テレジア)の名でも知られます。

 アビラの聖テレサは 1562年、自身の聴罪司祭であるドミニコ会士ガルシア・デ・トレド(García de Toledo, O. P., 1515 - 1590)から、報告書の作成を命じられました。この報告書は同年6月に完成しましたが、テレサは1565年までかかって多くの出来事や内面的な事柄の叙述を加筆し、我々に伝わる自叙伝を完成しました。自叙伝29章10節から14節で、テレサは神を求める魂の苦しみについて記しています。11節の末尾には「詩編」42編2節が引用され、「鹿が湧水を求めるように(我が魂も主を憧れ慕う)」(Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum !)と書かれています。テレサによるとこの苦しみは神ご自身によって与えられた恩寵です。この苦しみは10節において心臓を貫く矢に譬えられ、13節において矢の幻視が詳述されています。13節によると、数度にわたって経験した幻視において、テレサは自分の左に小柄でたいへん美しい、ケルブと思われる一人の天使を見ました。天使は先に火がついているように思われる長い金の矢を持っており、それで聖女を何度も刺しました。天使の矢は心臓を貫き、臓腑にまで差し込まれて、聖女の内に神への愛を燃え上がらせました。





 十六世紀に生きたテレサにとって、心臓は単なる循環器ではなく、ミクロコスモスである人体の太陽でした。このような思想は二十一世紀の我々には奇妙に感じられても、近世人にとっては自明のことでした。テレサよりも少し後の時代の医学者であるウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578 - 1657)も、心臓を目的因(羅 CAUSA FINALIS)すなわち神の下で働く作出因と考えています。そのような心臓に点火する天使の矢は、テレサに愛の苦しみを与えるとともに、永遠の生命に導く神の恩寵であったことがわかります。

 本品の浮き彫りにおいて、テレサの許(もと)に現れた小柄な天使は右手に長い矢を持ち、その先端でテレサの心臓を突き刺しています。自叙伝29章13節によると、聖女は天使の矢に貫かれたときに激しい痛みに呻きましたが、その痛みはあまりにも快く、これが終わることを聖女は望みませんでした。これは神と魂の間に為されたあまりにも快い愛の交歓であり、霊的な苦しみでしたが、肉体もその苦しみに与(あずか)りました。しかしながらこの苦しみが恩寵であったことは、本品のメダイにおいても天使の左手が祝福の形を取っていることで示されています。

 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。数知れぬ祈りを呼吸した本品は表面の銀めっきが剥がれ、細部が摩滅して暖色の真鍮が大きく露出しています。手触りも滑らかで、長きに亙って実用されたアンティーク品ならではの趣を見せています。このように摩滅した状態は個々のアンティーク品が有する固有の歴史性の可視化であるとともに、とりわけ不可視の幻視を描写した本品のような作品において、摩滅の無い新品に勝る長所となっています。すなわち本来不可視であるはずの幻視を可視化した作品は、ともすればキッチュ(独 kitsch 俗悪)なボンデュズリ(仏 bondieuserie 神様趣味)に堕す危険を孕みます。しかしながら細部が十分に摩滅するならばかかる危険性は取り除かれ、彫刻家が作品に込めた宗教的精神がいわば可視的に抽象されるのです。




(上・参考写真) Gian Lorenzo Bernini, "L'Estasi di santa Teresa d'Avila", 1647 - 1652, marmo, 350 cm, la Capella Cornaro, Chiesa di Santa Maria della Vittoria, Roma


 カトリック教会はトリエント公会議において対抗宗教改革の方法を論議し、美術作品の力を積極的に救霊に役立てることを確かめました。ベルニーニの「聖テレサの脱魂」はそのもっとも有名な例であり、本品をはじめとするメダイや聖画像の自然主義的描写もこれと同一の路線上にあります。しかしながら聖なる出来事を眼前に見るかのような自然主義的図像は、即物的な思考しか持たない大衆への迎合であって、宣教のための方便に過ぎません。それは宗教に関心を持つ契機ではあり得ても、宗教への関心がその水準に留まるならば、物質界を超えて神に近づくことは決してできないのです。初期キリスト教が聖画像を厳しく禁じた理由は、まさにここにあります。

 六世紀初頭頃の重要な教父である偽ディオニウス・アレオパギタによると、幻視には三つの段階があります。三つの段階のうち最も水準が低いのは肉体の目による幻視です。しかしながら自然主義的な聖画像を見て連想されるような肉眼による幻視を、聖テレサは一度も経験しませんでした。聖女が経験したのは恩寵に満たされた魂が神から注賦(羅 INFUSIO)される想像的幻視、及び知性による神の直観(羅 INTUITIO)で、これらの幻視は第二、第三の段階に属します。

 テレサの自伝を読むと、聖女はキリストや聖母、天使だけでなく、諸聖人、亡くなったばかりの神父、悪魔などを頻繁に幻視しています。しかしながら聖女はそれらを肉体の目で見たのではありません。亡くなった人が肉体の目に見えたのであれば、それは写真にも写るような幽霊、現代人の言う心霊現象でしょう。悪魔が目に見えたのであれば、それは高熱等による譫妄、あるいは精神疾患でしょう。テレサはそれらの幻視を目で見ることは決してありませんでした。イエスも聖母もその他の人物や悪魔も、聖女はすべてを心眼で感じ取ったのです。そして最終的には地上に居ながらにして至福直観を得たと考えられています。聖女が経験したこれらの幻視は肉眼によるものではなく、当然のことながら不可視であって、それがどのような経験であったのかは聖女本人にしかわかりません。われわれにせいぜい出来ることは、自叙伝の言葉を手掛かりに、聖女の経験を想像することだけです。我々の想像と、聖女が実際に経験した神秘体験との隔たりは限りなく大きいはずですが、テレサ本人ならざる我々は、それで一応の満足を得るしかありません。

 このように考えるとき、もともとの自然主義的描写が全ての細部を失うまで摩滅したメダイは、聖人ならざるわれわれが、テレサの心眼にわずかでも近づく助けになってくれることに気付きます。筆者(広川)は摩滅したアンティーク美術品の価値について別稿に論じ、細部を失った図像を鑑賞するとき、人は細部を想像力によって補い、そうすることによって美の創造に参与できると述べました。特に宗教美術に関してこれに付け加えるならば、不可視の精神性は細部を捨象した表現でしか喚起され得ないという事実によって、摩滅したメダイや剥落した聖画像は大きな宗教的価値を獲得します。一見すると不思議なことに思えますが、保存状態が悪くて美術品としての価値が下がれば下がるほど、信心具としての価値がいっそう高くなるのです。聖女の幻視を主題にした本品は、まさにその好例といえます。





 もう一方の面には幼子イエスを抱くカルメル山の聖母が彫られています。聖母は数々の称号を有しますが、本品メダイにおいてカルメル山の聖母がアビラの聖テレサと組み合わされているのは、いうまでもなくテレサがカルメル会の修道女であるからです。

 幼子イエス・キリストは母の胸に抱かれ、母と微笑みを交わしつつこちらを振り向いています。幼ない男の子の愛らしい姿ですが、後光の十字架と、受難のテオトコスを思い起こさせる姿勢が痛々しく感じられ、神の愛が見る者の胸に迫るとともに、アブラハムやヨブにも勝るマリアの信仰が思い起こされます。マリアの冠のフルール・ド・リスすなわち百合は神の摂理への信頼あるいは信仰を表し、マリアがその信仰ゆえに神に選ばれたことをも表しています。カルメル山の聖母に執り成しを求める祈りが、聖母子を取り巻くようにラテン語で記されています。

  REGINA DECOR CARMELI ORA PRO NOBIS.  カルメルの美しき女王よ、我らのために祈りたまえ。


 1209年、当時カルメル山に住んでいた隠修士たちのために、エルサレム総大主教の聖アルベルトゥス( Sant'Alberto di Gerusalemme, 1149 - 1214)がカルメル会の会則を書きました。しかしながらこの会則には多様な解釈ができる部分があったので、聖サイモン・ストック(St. Simon Stock, c. 1164 - 1265)とカルメル会の総参事会は教皇庁に助言を求め、教皇インノケンティウス四世(Innocentius IV, c. 1180/90 - 1254)によって、1247年に会則が修正されました。修正された会則によると、十字架称讃の祝日(9月14日)から復活祭までのおよそ半年間は、病人を除いて肉食が禁じられました。しかるにこの会則は 1432年に大きく緩和され、肉食の禁止は週三回とされました。

 聖テレサが入会した当時のカルメル会では、緩和された会則に従って修道生活が行われていました。しかしながら聖女は跣足カルメル会を創始するにあたってインノケンティウス四世時代の会則を採用し、これに加えて粗末な衣を着、靴を履かず、貧しい食事をし、硬いベッドを使い、鞭打ちの苦行をするなど、カトリック教会の中でも最も厳しい禁欲的修道会を作り上げました。

 聖サイモン・ストックがカルメル山の聖母からスカプラリオを受け取った当時のカルメル会は、教皇インノケンティウス四世が定めた厳格な会則に従っていました。アビラの聖テレサが復活させたのは、聖サイモン・ストック時代の会則です。したがってスカプラリオを持ったカルメル山の聖母は、アビラの聖テレサのメダイに最もふさわしい聖母像です。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。こちらの面も突出部分が摩滅し、温かみのある色合いの真鍮が露出しています。

 テレサはたびたび聖母を幻視しました。テレサの幻視は全て心眼によるものであって、他の人の目でも見えるような形で聖母が現れたのではありません。したがってテレサが聖母のどのようなイメージを感じ取ったのかは、聖女本人ならざる我々にはまったくわかりません。


 ファビシュによる大理石の聖母


 ここで筆者が思い出すのは、マサビエルの岩場に安置されたルルドの聖母像のことです。ルルドの少女ベルナデット・スビルーは十数回にわたって聖母を幻視し、周囲には何百人もの野次馬が集まりましたが、聖母の姿はベルナデットにしか見えませんでした。それでも脱魂状態のベルナデットの手にろうそくの炎が三十分以上当たり続けてもやけどをしなかったり、聖母に命じられてベルナデットが素手で掘り当てた泉の水で奇跡的治癒が続発したりしたために、カトリック教会はルルドでの出来事を真正の聖母出現と認定せざるを得なくなりました。聖母が出現したルルドの岩場には、高名な彫刻家ジョゼフ・ユーグ=ファビシュによる大理石の聖母像が安置されました。

 ジョゼフ=ユーグ・ファビシュ(Joseph-Hugues Fabisch, 1812 - 1886)は偉人の胸像や多数の聖人像、祭壇彫刻の作者です。バジリク・ノートル=ダム・ド・フルヴィエールの鐘楼に立つ金色の聖母像も、ファビシュの作品です。1863年9月17日、ファビシュはベルナデットと面会して聖母に会ったときの様子を聞き取り、翌日からスケッチに取り掛かりました。九月二十日にはベルナデットとともに岩場に出向き、聖母出現の窪みに厚紙のスケッチを立てて印象を確かめています。ファビシュはリヨンに戻って十一月になって試作品を完成した後、すぐに大理石像の制作に取り掛かりました。翌年三月三十日、ファビシュは完成した大理石像とともにルルドを訪れました。ところがベルナデットはファビシュの像を見て「こんなのじゃない」と言います。後になってファビシュはこのときのことを振り返り、「私の芸術家人生で最大の悲しみであった」と述懐しています。しかしながらベルナデットの否定的な反応は公には伏せられ、この五日後の四月四日、大理石の聖母像は十万人以上が参加する行列に運ばれて、マサビエルの岩場に安置されました。




(上) Notre-Dame de Grâce, vers 1340, tempera sur panneau de cèdre, 35,7 × 25,7 cm, Cathédrale Notre-Dame de Grâce, Cambrai


  ファビシュは優れた彫刻家であり、リヨン高等美術学校の教授でもありました。ファビシュが自信を以て制作した作品がベルナデットの気に入らなかったのは一見したところ不思議にも思えますが、これは仕方のないことでした。筆者(広川)はジュエリー制作の注文も承っていますが、お客様から満足がいただけずに困った経験があります。「尊敬する先輩が身に着けていたジュエリーと同様のものを作って欲しい」というご依頼でしたが、私はそのジュエリーの実物も写真も見ていません。絵と言葉で説明されて、苦労の末に指示通りの物を作っても、注文主は「まったく違う」と言って満足しません。しかしながら実物見本がある場合はともかく、注文主の頭の中に漠然とあるイメージと同じものを、他人が作れるわけがないのです。

 ファビシュの聖母像に関しても、これと同じことが言えます。ファビシュはベルナデットの頭にあるイメージを具象化しようとしたわけですが、ベルナデットは心眼で聖母を幻視したのであって、聖母は現実に(レアリテルに、物体として)ルルドに出現したわけではありません。ベルナデットがマサビエルの岩場で聖母を幻視している間、周囲には何百人もの見物人が集まりましたが、ベルナデット以外の人に聖母は見えませんでした。さらに、ベルナデットは自分が見ている物が聖母であるとは思わず、かといって何を見ているのかもわからずに、出現物を現地のビゴール方言でアケジョ(aquello あれ)と呼んでいました。ベルナデットはカトリックとして育ちましたから、ルルドの聖母が聖画や聖像で見るような姿をはっきりと顕わしていれば、自分が聖母の出現を目撃していると分かったはずです。しかしながら岩場に幻視した「あれ」は明瞭な輪郭を持たず、ベルナデット自身さえ、その正体を知らなかったのです。

 ファビシュには最も美しい聖母像を作ろうという意気込みがありました。作るべき像のイメージを話し合う際、ファビシュは数々の複製画をベルナデットに見せて、意見を聞いています。この事実からも、ファビシュが伝統に沿って表現された聖母像を前提としていたことがわかります。ちなみにこのときベルナデットは、カンブレ司教座聖堂ノートル=ダム・ド・グラスにある「憐みの聖母」(Notre-Dame de Grâce)のイコンに目を留め、自分が見た聖母とは違うが、僅かに似たところがあると言いました。しかしながらどの点がどう似ているのかということはベルナデットにしかわからなかったし、言葉にして説明するのは不可能だったでしょう。





 上に述べたルルドの例でもわかるように、肉眼によるのではない幻視を図像化することはできません。どれほど優れた芸術家の手によっても、その芸術家が幻視を経験した人とは別人である限り、幻視の図像化は原理的に不可能なのです。したがってアビラの聖テレサ自身ではないメダイユ彫刻家が、聖テレサの心眼を通して幻視を形象化することはできません。メダイを見る我々も、極めて不十分ながら各自の心眼によって、聖テレサの幻視をはるかに思い描くしかできません。このような状況を踏まえて考えるとき、細部が摩滅したメダイが美術品ではなくむしろ信心具として、聖女の幻視により近い位置にあることがお分かりいただけるでしょう。

 人間の知性と言語表現をはるかに超えた神に関する出来事を、不可能を承知で図像化しようと試みるならば、ミニマリスティックな表現によるしかありません。本品の浮き彫りは元々伝統的図像表現を踏襲しており、ミニマリズムの作品ではありませんが、細部が摩滅して失われたことにより、人間の知性を超えた宗教的事象の表現に、図らずも一歩近づいています。


 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きく感じられます。







 カトリック教会は四人の女性に教会博士の称号を贈っていますが、アビラの聖テレサはそのうちのひとりです。このように重視される聖人にもかかわらず、アビラの聖テレサのアンティーク・メダイは数が極端に少なく、ほとんど手に入りません。十九世紀後半から二十世紀半ば頃までのフランスでは優れたメダイが数多く制作されましたが、この時代のフランスにおいても聖テレサのメダイはほとんど制作されませんでした。

 本品は二十世紀前半または中頃のフランスで制作された稀少なアンティーク品です。両面の摩滅はひとつひとつのアンティーク品が有する歴史性の証しであるとともに、この摩滅こそが信心具としての価値或いは有用性を高めています。お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。





本体価格 24,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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