百合(ゆり)のシンボリズム
la symbolique du lys/lis




(上) M. バウアー作 アール・ヌーヴォー様式のオラトワール 「アヴェ・マリア 白百合の聖母」 フランス 19世紀末から20世紀初頭 当店の商品です。


 ヨーロッパの美術や文学に最も多く登場する百合は白百合でしょう。よく知られているように、白百合はキリスト教の象徴体系において「純粋さ」「罪の無さ」「純潔」「処女性」を表します。しかしながら百合にはさまざまな色がありますし、百合が象徴性を担うのはキリスト教においてのみではありません。

 本稿ではギリシア・ローマ神話を含めた多面的な相の下(もと)に、広義の百合が有する象徴性を論じます。百合の象徴性を網羅的に論じることは到底不可能で、限られた数の例に即したごく簡易な記述となりますが、身近な美術作品、文学作品等において百合が担う主要な意味は概ねカバーしたつもりです。


【広義の百合】

 現代では通常「百合」とは呼ばれない植物が、かつては形状の類似のゆえに「百合」(リス、リリー 仏 lys, lis 英 lily)と呼ばれる場合がありました。「フルール・ド・リス」のあやめ、及び「リリー・オヴ・ザ・ヴァレー」と呼ばれるスズランは最もよく知られた例です。

・フルール・ド・リス

 剣のような三つの花弁を束ねた紋章を、フランス語で「フルール・ド・リス」(fleur de lys)、すなわち「百合の花」と呼んでいます。ヨーロッパで紋章が使われるようになるのは12世紀前半ですが、「フルール・ド・リス」は紋章において最も愛好され頻用された植物で、特にフランスの幾つかの地域、オランダ、バイエルン、トスカナをはじめとする諸地域で、貴族から農民まであらゆる階層の紋章として広く用いられました。

 「フルール・ド・リス」を紋章に採用した最も著名な例としては、青い背景に金色の百合(フルール・ド・リス)を散らしたフランス国王の紋章が挙げられます。(註1) 下に示した絵はルイ13世の宰相リシュリューの下で活躍した画家フィリップ・ド・シャンペーニュ (Philippe de Champaigne, 1602 - 1674) による作品で、フランス王国を聖母に奉献するルイ13世を描いています。国王は金のフルール・ド・リスを散らした青いマントを着ています。


(下) Philippe de Champaigne, "Le vœu de Louis XIII à la Vierge", 1638




 フィレンツェの百合、すなわち開花して雄蕊を伸ばしたフルール・ド・リスもよく知られています。(註2) 下の写真はドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオレ聖堂)のフルール・ド・リスで、二頭のアグヌス・デイの間に置かれています。フィレンツェの百合は市章にもなっています。





 盛期中世に制作された聖母マリアの図像には、「フルール・ド・リス」があしらわれた例が多くみられます。この場合の「フルール・ド・リス」は、百合の花の代わりに描き込まれています。本文で後述するように、百合が聖母の象徴とされるのは、旧約聖書の恋の歌「雅歌」 2章 2節の聖句「おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花」に拠ります。

 「フルール・ド・リス」がもともと何を模(かたど)っているのかについては諸説がありますが、あやめの花の図案化であるとする説が有力です。「百合」という言葉を聞いて「あやめ」を真っ先に思い浮かべる現代人はいないと思いますが、あやめ(アヤメ科の各種植物)は最新の植物分類学においてもユリ目(もく)に属するゆえに、あやめを「リス」(lys 百合)と呼ぶことは、必ずしも科学的妥当性を欠くとはいえません。

 「フルール・ド・リス」に関する詳しい説明を読むには、ここをクリックしてください。


・スズラン

 スズラン (Convallaria majalis) は、英語で「リリー・オヴ・ザ・ヴァレー」(lily of the valley 「谷間の百合」の意)または「メイ・リリー」(May lily 「五月の百合」)といいます。フランス語では「ミュゲ」(muguet 「スズラン」 原意は「薫り高い花」)または「ミュゲ・ド・メ」(muguet de mai 「五月のミュゲ」の意) ですが、英語からの借用に基づく「リス・デ・ヴァレ」(lys des vallées 「谷間の百合」の意)という名称も使われます。(註3)

 「谷間の百合」という名称は、後述のヴルガタ訳「雅歌」 2章 1節にある「リーリウム・コンヴァッリウム」(LILIUM CONVALLIUM ラテン語で「谷間の百合」の意)という語に由来します。「リーリウム・コンヴァッリウム」は16世紀初めのドイツで「スズラン」と同一視され、このことが元になって英語の「リリー・オヴ・ザ・ヴァレー」がスズランを指すようになったと考えられています。(註4) 「リリー・オヴ・ザ・ヴァレー」が「スズラン」の意味で文献に初出するのは、筆者の手許の OEDによると、1538年です。しかしながらスズランはパレスティナに自生しないゆえに、現代の聖書学では、「雅歌」において「リーリウム・コンヴァッリウム」とラテン語訳されたヘブル語の植物名は、実際にはアネモネを指すと考えられています。

 なおスズランは植物系統学に基づく最新の分類ではクサギカズラ目 (Asparagales) とされていますが、ごく近年までユリ目ユリ科 (Liliales, Liliaceae) に分類されてきました。したがって、「雅歌」の「リーリウム・コンヴァッリウム」がスズランではないとしても、スズランを百合の仲間と考えること自体は学術的に妥当であったといえます。16世紀のヨーロッパ人が「谷間の百合」(リーリウム・コンヴァッリウム)をスズランと解釈したのは、ヨーロッパに自生するスズランが、半日陰を好む「百合」であるからでしょう。


 フランスの絵葉書。20世紀初頭のもの。


【ギリシア・ローマの多神教における百合】

 百合は聖書をはじめとするユダヤ・キリスト教文献のみならず、ギリシア・ローマ神話にも登場します。いくつかの例を挙げます。

・ヒュアキントスと、「禁断の愛」を象徴する百合

 オウィディウスによると、アポロンの恋人であった美少年ヒュアキントスはアポロンが投げた円盤に当たって死んでしまいましたが、その血からは美しい「百合」、ヒュアキントスが生え出でました。この故事ゆえに百合は禁断の愛の象徴です。

 美少年と同じ名を持つこの花「ヒュアキントス」(Ὑάκινθος) については、具体的にどの植物種を指すのか定説が無く、諸家によってマルタゴンユリ(Lilium martagon 赤い小さな百合の一種)、あやめ等、数種の植物と同定されています。マルタゴンユリはユリ目ユリ科ユリ属のれっきとした「ユリ」ですし、あやめもユリ目に属する広義の百合です。


(下) アルフォンス・ミュシャ 「ヒヤシンス姫」 Alphonse Mucha, "Princesna Hyacinta", 1911, chromolithographe, 1175 x 785 mm




・ペルセフォネ、ナルキッソスと、スイセン

 スイセン属 (Narcissus) の各種植物は、系統学に基づく最新の分類おいてクサギカズラ目ヒガンバナ科とされていますが、ごく近年までユリ目ユリ科 (Liliales, Liliaceae) に分類されてきました。

 オウィディウスの「メタモルフォーセース(変身)」第五巻によると、ゼウス (Ζεύς) とデーメーテール (Δημήτηρ) の娘であるペルセフォネー (Περσεφόνη) は、薫り高いクチベニズイセン (Narcissus poeticus) を友人たちとともに摘んでいるときに、ゼウスの兄弟ハーデース(ハーイデース ᾍδης)に攫(さら)われて地下の世界に連れて行かれました。

 下の写真はボルゲーゼ宮にあるベルニーニ (Gian Lorenzo Bernini, 1598 - 1680) の大理石彫刻「ペルセフォネーの略奪」です。この作品を完成したとき、ベルニーニは23歳でした。


(下) Gian Lorenzo Bernini, "Il Ratto di Proserpina", 1621 - 22, marmo, 255 cm, Galleria Borghese, Roma





 また「メタモルフォーセース」第三巻によると、美少年ナルキッソス (Νάρκισσος) は自分に恋い焦がれるニンフ、エーコー (Ἠχώ) を冷たくあしらい、エーコーは悲しみのあまり声だけになってしまいます。美少年はこの冷酷さゆえに復讐の女神ネメシス (Νέμεσις) の怒りを買い、水面に映った自分の姿に見とれて死に至ります。


(下) Il Caravaggio, "Narciso", .c. 1594 - 96, olio su tela, 110 x 92 cm, La Galleria Nazionale d'Arte Antica, Roma




【ユダヤ・キリスト教における百合 1. 聖書】

 白百合はキリスト教の象徴体系において「純粋さ」「罪の無さ」「純潔」「処女性」を表しますが、それ以外に次のような意味も併せ持ちます。

・「神に選ばれた者」を象徴する百合

 スズランの項で述べたように、ヴルガタ訳「雅歌」 2章 1節には「リーリウム・コンヴァッリウム」(LILIUM CONVALLIUM 谷間の百合、野の百合) という語が出てきます。「雅歌」 2章はたいへん美しいので、1節から 6節をノヴァ・ヴルガタと新共同訳により引用します。2節は若者の歌、それ以外は乙女の歌です。


    NOVA VULGATA      新共同訳 
  1.  Ego flos campi
et lilium convallium.
    わたしはシャロンのばら、
野のゆり。
         
  2. Sicut lilium inter spinas,
sic amica mea inter filias.
  おとめたちの中にいるわたしの恋人は
茨の中に咲きいでたゆりの花。
         
  3. Sicut malus inter ligna silvarum,
sic dilectus meus inter filios.
Sub umbra illius, quem desideraveram, sedi,
et fructus eius dulcis gutturi meo.
    若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
森の中に立つりんごの木。
わたしはその木陰を慕って座り
甘い実を口にふくみました。
  4. Introduxit me in cellam vinariam,
et vexillum eius super me est caritas.
    その人はわたしを宴の家に伴い
わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。
  5. Fulcite me uvarum placentis,
stipate me malis,
quia amore langueo.
    ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。
わたしは恋に病んでいますから。
  6. Laeva eius sub capite meo,
et dextera illius amplexatur me.
    あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。


 「雅歌」が何を表すのかについては、歴史上様々な説が唱えられてきました。紀元一世紀頃までの古い時代には、雅歌の内容を字義どおりに捉えて男女の性愛を謳ったものとする素朴な考え方もありました。それ以降の時代の諸説は「雅歌」を比喩的に捉えるのが普通ですが、比喩の対象について諸説は一致しませんでした。たとえば 12, 13世紀には「若者」と「乙女」をそれぞれ能動知性、受動知性とする説が有力でしたし、マルティン・ルターは政治的な文脈で解釈を行いました。

 現代の聖書解釈学の標準的な説では、「雅歌」の若者は神、乙女は神に選ばれ愛されるユダヤ民族を表すと考えられています。上に引用した 2章2節では、異民族に囲まれたユダヤ民族を、茨に囲まれた美しい百合にたとえています。新共同訳が「茨」と訳したヘブル語の植物名は、他の訳では「あざみ」とも訳されています。ノヴァ・ヴルガタの「スピーナ」(spina) は「棘(とげ)」という意味です。聖書において、棘のある植物は罪の呪い、すなわち罪ゆえに神の祝福を失った状態を象徴的に表します。このことはあざみ、茨、アカンサスに関する解説でも取り上げました。要するに、茨やあざみに囲まれた美しい百合は、神に愛される選民ユダヤ人を表しているのです。




(上) 「わたしは谷間の百合」(Je suis le lys de la vallée.) アール・デコ様式によるフランスの小聖画 当店の商品


 クレルヴォーの聖ベルナールは、キリスト教の立場から、「雅歌」の若者を「神」、乙女を「神に選ばれたマリア」と解釈しました。「雅歌」2章2節(おとめたちの中にいるわたしの恋人は茨の中に咲きいでたゆりの花)のこのような解釈に基づいて、薔薇に囲まれたマリア、あるいは百合とともに描かれたマリアの図像が多く制作されました。マリアの象徴あるいはアトリビュート(註5)は数多くありますが、百合は薔薇とともに最もよく目にするもののひとつです。

 「神に選ばれた者」のなかでも聖母マリアは特別な位置にありますが、キリストに付き従った使徒たち、殉教者たち、聖人たち、その他の信徒たちも「神に選ばれた者」であるといえます。それゆえ聖母マリアのみならず他の多くの聖人たちも、百合とともに描かれます。


・すべてを神に委ねる信仰を表す百合

 「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節、及び「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節において、イエズスは神の摂理への信頼を弟子たちに説いておられます。「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節をネストレ=アーラント26版、ノヴァ・ヴルガタ、新共同訳により引用します。


    Nestle-Aland 26. Auflage NOVA VULGATA 新共同訳
  25  Διὰ τοῦτο λέγω ὑμῖν, μὴ μεριμνᾶτε τῇ ψυχῇ ὑμῶν τί φάγητε [ἢ τί πίητε,] μηδὲ τῷ σώματι ὑμῶν τί ἐνδύσησθε: οὐχὶ ἡ ψυχὴ πλεῖόν ἐστιν τῆς τροφῆς καὶ τὸ σῶμα τοῦ ἐνδύματος;   Ideo dico vobis: Ne solliciti sitis animae vestrae quid manducetis, neque corpori vestro quid induamini. Nonne anima plus est quam esca, et corpus quam vestimentum?    「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
  26  ἐμβλέψατε εἰς τὰ πετεινὰ τοῦ οὐρανοῦ ὅτι οὐ σπείρουσιν οὐδὲ θερίζουσιν οὐδὲ συνάγουσιν εἰς ἀποθήκας, καὶ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ οὐράνιος τρέφει αὐτά: οὐχ ὑμεῖς μᾶλλον διαφέρετε αὐτῶν;   Ideo dico vobis: Ne solliciti sitis animae vestrae quid manducetis, neque corpori vestro quid induamini. Nonne anima plus est quam esca, et corpus quam vestimentum?   空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
  27  τίς δὲ ἐξ ὑμῶν μεριμνῶν δύναται προσθεῖναι ἐπὶ τὴν ἡλικίαν αὐτοῦ πῆχυν ἕνα;   Quis autem vestrum cogitans potest adicere ad aetatem suam cubitum unum?   あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
  28  καὶ περὶ ἐνδύματος τί μεριμνᾶτε; καταμάθετε τὰ κρίνα τοῦ ἀγροῦ πῶς αὐξάνουσιν: οὐ κοπιῶσιν οὐδὲ νήθουσιν:   Et de vestimento quid solliciti estis? Considerate lilia agri quomodo crescunt: non laborant neque nent.   なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
  29  λέγω δὲ ὑμῖν ὅτι οὐδὲ Σολομὼν ἐν πάσῃ τῇ δόξῃ αὐτοῦ περιεβάλετο ὡς ἓν τούτων.   Dico autem vobis quoniam nec Salomon in omni gloria sua coopertus est sicut unum ex istis.   しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
  30  εἰ δὲ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ σήμερον ὄντα καὶ αὔριον εἰς κλίβανον βαλλόμενον ὁ θεὸς οὕτως ἀμφιέννυσιν, οὐ πολλῷ μᾶλλον ὑμᾶς, ὀλιγόπιστοι;   Si autem fenum agri, quod hodie est et cras in clibanum mittitur, Deus sic vestit, quanto magis vos, modicae fidei?   今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
  31  μὴ οὖν μεριμνήσητε λέγοντες, Τί φάγωμεν; ἤ, Τί πίωμεν; ἤ, Τί περιβαλώμεθα;   Nolite ergo solliciti esse dicentes: “Quid manducabimus?”, aut: “Quid bibemus?”, aut: “Quo operiemur?”.   だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
  32  πάντα γὰρ ταῦτα τὰ ἔθνη ἐπιζητοῦσιν: οἶδεν γὰρ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ οὐράνιος ὅτι χρῄζετε τούτων ἁπάντων.   Haec enim omnia gentes inquirunt; scit enim Pater vester caelestis quia his omnibus indigetis.   それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
  33  ζητεῖτε δὲ πρῶτον τὴν βασιλείαν [τοῦ θεοῦ] καὶ τὴν δικαιοσύνην αὐτοῦ, καὶ ταῦτα πάντα προστεθήσεται ὑμῖν.   Quaerite autem primum regnum Dei et iustitiam eius, et haec omnia adicientur vobis.   何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
  34  μὴ οὖν μεριμνήσητε εἰς τὴν αὔριον, ἡ γὰρ αὔριον μεριμνήσει ἑαυτῆς: ἀρκετὸν τῇ ἡμέρᾳ ἡ κακία αὐτῆς.   Nolite ergo esse solliciti in crastinum; crastinus enim dies sollicitus erit sibi ipse. Sufficit diei malitia sua.   だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


 6章 28節において、新共同訳が野の「花」と訳している語は、ギリシア語原文では「クリナ」 (κρίνα) となっています。「クリナ」は「クリノン」(κρίνον) の複数対格形で、「クリノン」はギリシア語で「白百合」(Lilium candidum) を指します。この語はノヴァ・ヴルガタにおいて「リリア」(LILIA) と訳されています。「リリア」は「リリウム」(LILIUM 百合)の複数対格形です。

 「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節に並行する「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節を確かめると、27節には次のように記されています。


    Nestle-Aland 26. Auflage NOVA VULGATA 新共同訳 
  27 κατανοήσατε τὰ κρίνα πῶς αὐξάνει: οὐ κοπιᾷ οὐδὲ νήθει: λέγω δὲ ὑμῖν, οὐδὲ Σολομὼν ἐν πάσῃ τῇ δόξῃ αὐτοῦ περιεβάλετο ὡς ἓν τούτων.   Considerate lilia quomodo crescunt: non laborant neque nent; dico autem vobis: Nec Salomon in omni gloria sua vestiebatur sicut unum ex istis.   野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


 ここでもやはり、新共同訳が野原の「花」と訳している語は、ギリシア語原文では「クリナ」で、明らかに「白百合」を指しています。ノヴァ・ヴルガタでも「リリア」(LILIA 百合)となっています。

 要するに福音書のこの個所で、イエズスは神の摂理への信頼、信仰を説くために、栄華を極めたソロモン王の装いにも勝る「白百合」の美しさを引き合いに出しておられます。それゆえ白百合は神への深い信頼、確固たる信仰の象徴とされるようになりました。


 受胎告知画には白百合が描かれる場合が多くありますが、この白百合は「処女マリアの純潔」と「神の花嫁として選ばれたマリアの地位」を表すとともに、天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(「ルカによる福音書」1章38節)と答えたマリアの無条件的信仰をも、重層的に表しています。

 下に示したのはテイト・ギャラリーに収蔵されているダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの受胎告知画で、聖霊のとともに、ガブリエルがマリアに差し出す白百合が描かれています。この作品は「エッケ・アンキッラ・ドミニー」("ECCE ANCILLA DOMINI" ラテン語で「わたしは主のはしためです」の意)と名付けられています。


(下) Dante Gabriel Rossetti, "ECCE ANCILLA DOMINI", 1849 - 53, 73 x 42 cm, Tate Gallery, London




【ユダヤ・キリスト教における百合 2. ドイツ神秘主義】

 ドイツ神秘主義を代表する思想家のひとり、アンゲルス・シレジウス (Angelus Silesius, 1624 - 1677) は、1657年に初版が出て 1675年に増補された詩集「ケルビムの如き旅人」(„Cherubinischer Wandersmann“) において、天国の至福(至福直観)を百合に譬えています。「百合について」(„Von den Lilien“) と題された作品(第四の書 98)をドイツ語原文と日本語訳で示します。なお下に引用したテキストはカルル・ハンゼル版「アンゲルス・シレジウス 韻文による作品集 全三巻」、日本語訳は筆者(広川)によります。ドイツ語のテキストは韻文ですが、筆者の訳は韻文になっていません。


    Von den Lilien   百合について 
       
    So oft ich Lilien seh, so oft empfind ich Pein
Und muß auch bald zugleich so oft voll Freuden sein.
  百合を見るたび私は苦痛を感じるが、
それとともに、きっとすぐに喜びに満たされる。
    Die Pein entstehet mir, weil ich die Zier verlorn,
Die ich im Paradies von Anbeginn gehabt.
  苦痛が起こるのは、私が美を失うとき。
楽園にて初めから有していた美を失うとき。
    Die Freude kommt daher, weil Jesus ist geborn,
Der mich nun wiederum mit ihr aufs neu begabt.
  イエズス生まれ給うゆえ、そこから喜びが来たる。
イエズスはいま再び、私に新しく美を与え給うたゆえに。(註6)

 „Cherubinischer Wandersmann“, viertes Buch, 98
  (Angelus Silesius: „Sämtliche poetische Werke in drei Bänden“. Band 3, Herausgegeben und eingeleitet von Hans Ludwig Held, Carl Hanser Verlag, München 1952, S. 122)



 キリスト教では、神を直観する(INTUEOR 註7)ことこそが、人間にとっての至福 (BEATITUDO) であると考えられています。人間の魂は原罪によって神から離れ、この至福直観を得られなくなりましたが、キリストが十字架上で人間の罪を贖(あがな)われたゆえに、人間の魂には至福直観へと至る道が再び開かれました。アンゲルス・シレジウスはこの詩において、「百合」を至福直観のアレゴリーとしています。

 「ケルビムの如き旅人」と同じ 1657年に初版が出て 1668年に増補された「魂の聖なる愉楽」(„Heilige Seelenlust, oder geistliche Hirtenlieder der in ihren Jesum verliebten Psyche“) では次のように謳っています。訳は筆者(広川)によります。


    Sagt an, ihr Lilien und Narzissen
Wo ist das zarte Lilien Kind?
告ぐべし。百合よ、水仙よ。
優しき百合の子、いずくにあるを。 
    Ihr Rosen, saget mir geschwind
Ob ich ihn kann bei euch genießen?
  汝ら薔薇の花々よ。我に疾(と)く語れ。
我、汝らのもとにて、彼の人とともに在るを得(う)や。
    Ihr Hyacinthen und Violen
Ihr Blumen, alle mannigfalt,
  汝ヒヤシンスよ、すみれよ。
汝らあらゆる花々よ。
    Sagt, ob ich ihn bei euch soll holen
Damit er mich erquicke bald?

 „Heilige Seelenlust“, erstes Buch, XII. 2.
  言ふべし。汝らのもとにて、我、彼の人に見(まみ)うるや。
彼の人の、我に命を与へむがため。


 アンゲルス・シレジウスはこの詩において、罪びとに神との平和をもたらす贖い主、罪びとを神の御許へと導き神とともに在らしめる救い主イエズスを、「百合の子」(das Lilien Kind) と呼んでいます。これは「至福直観をもたらす子」すなわち「救いをもたらす幼子」という意味でしょう。

 上の第四行にある「イーン・ゲニーセン」(ihn... genießen かの人を享受する)という表現は、ヒッポのアウグスティヌスにおける「フルオル」(FRUOR) の思想を思い起こさせます。アウグスティヌスは他者とのかかわり方を、「利用」(ウートル UTOR) と「享受」(フルオル FRUOR)に分けました。アンゲルスのドイツ語「イーン・ゲニーセン」は、ラテン語で言えば「エオー・フルイー」(EO FRUI = IESU FRUI)、すなわち主の御許に充足してやすらうという意味でしょう。




註1 14世紀の文学作品によって、フランス王室の「フルール・ド・リス」は三枚の花弁によって三位一体を表すとされ、また天使がクローヴィス (Clovis, c. 466 - 511) に「フルール・ド・リス」の紋章を与えたとされました。ヨーロッパで紋章が使われるようになるのは12世紀前半ですから、この説明は明らかに時代錯誤ですが、後にはこの説が広く信じられるようになり、王権神授説の補強に役立ちました。すなわち「フルール・ド・リス」をあしらったフランス王室の紋章は、王室が神と聖母の特別な加護の下にある証拠と考えられたのです。

註2 フィレンツェ市の紋章は、「フィレンツェ」(Firenze) という都市名が「花咲く都」(ラテン語「フロレンティア」 FLORENTIA) という意味であることに由来します。紋章において「花」といえば、真っ先に思い浮かぶのが「フルール・ド・リス」です。

註3 スズランの学名「コンヴァッラリア・マーイアーリス」(Convallaria majalis) は、ネオ・ラテン語で「五月」(MAIUS) に咲く「谷」(CONVALLIUM) の花、の意味です。フランス語「ミュゲ」(muguet) は「麝香」を表す古フランス語 (musque, musgue) に由来します。

註4 現代の標準ドイツ語では、スズランは「マイグレックヒェン」(das Maiglöckchen 「五月の小さなベル」の意)と呼ばれます。

註5 「アトリビュート」(英 attribute)とは、聖人の図像において、聖人とともに描かれる象徴的な付き物のことです。マルコのライオン、ルカの牛、ヨハネの鷲、殉教者とともに描かれるナツメヤシの葉や殉教の道具など。

註6 直訳 「いま再び美を伴う私を、イエズスは新しく生み給うたのだ。」

註7 「直観」(INTUITIO, intuition) とは、推論によらない知性認識のことです。「神の直観」は「神との合一」と言い換えることもできます。被造的知性(天使及び人間の知性)にとって、神を直観することは最高の幸福です。




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