アビラの聖テレサ
Santa Teresa de Ávila, Santa Teresa de Jesús, 1515 - 1582




(上) François Gérard, "Ste. Thérèse" (détails), 1827, huile sur toile, 172 x 63 cm, Infirmerie Marie-Thérèse , Paris


 アビラの聖テレサ(Santa Teresa de Ávila, 1515 - 1582)は女子跣足カルメル会を創始した修道女で、サンタ・テレサ・デ・ヘスス(Santa Teresa de Jesús イエスの聖テレサ、イエズスの聖テレジア) とも呼ばれます。跣足(せんそく)とは裸足という意味です。

 1209年、当時カルメル山に住んでいた隠修士たちのために、エルサレム総大主教の聖アルベルトゥス( Sant'Alberto di Gerusalemme, 1149 - 1214)がカルメル会の会則を書きました。しかしながらこの会則には多様な解釈ができる部分があったので、聖サイモン・ストック(St. Simon Stock, c. 1164 - 1265)とカルメル会の総参事会は教皇庁に助言を求め、教皇インノケンティウス四世(Innocentius IV, c. 1180/90 - 1254)によって、1247年に会則が修正されました。修正された会則によると、十字架称讃の祝日(9月14日)から復活祭までのおよそ半年間は、病人を除いて肉食が禁じられました。しかるにこの会則は 1432年に大きく緩和され、肉食の禁止は週三回とされました。

 聖テレサが入会した当時のカルメル会では、緩和された会則に従って修道生活が行われていました。しかしながら聖女は跣足カルメル会を創始するにあたってインノケンティウス四世時代の会則を採用し、これに加えて粗末な衣を着、靴を履かず、貧しい食事をし、硬いベッドを使い、鞭打ちの苦行をするなど、カトリック教会の中でも最も厳しい禁欲的修道会を作り上げました。


 アビラの聖テレサは、シエナの聖カタリナ、リジューの聖テレーズ、ビンゲンの聖ヒルデガルトと並んで、教会博士に叙せられた四人の女性のひとりです。アビラの聖テレサの祝日は10月15日です。なおリジューの聖テレーズは洗礼名(俗名)と修道名が同じでしたが、テレーズという修道名を選んだのはアビラの聖テレサに倣うためでした(註1)。



【アビラの聖テレサの自叙伝より】



(上) "Ste. Thérèse d'Avila", Gilles Demarteau, 1722 - 1776


 アビラの聖テレサは 1562年、自身の聴罪司祭であるドミニコ会のガルシア・デ・トレド(García de Toledo, O. P., 1515 - 1590)師から、これまでの人生と修道生活に関して報告書を作成するように命じられました。この報告書は同年6月に完成しましたが、テレサは1565年までかかって多くの出来事や内面的な事柄の叙述を加筆し、我々に伝わる自叙伝を完成しました。この自叙伝は何人もの神学者に検閲され、内容に問題無しとされました。

 自叙伝の叙述は 1562年までで終わる一方、テレサは 1582年まで生きます。聖女は四十九年のあいだカルメル会の修道女でしたが、最後の二十一年間は自ら設立した跣足カルメル会で過ごしました。自叙伝の記述は跣足カルメル会の設立の頃までで終わっていますので、妻女の生涯のうち最後の二十年は自叙伝に記録されていません。

 「イエズスの聖テレジア自叙伝」("Vida de Santa Teresa de Jesús")及びシルベリオ版の註に基づいて、聖女の生涯を以下に略述します。シルベリオ版は同名の神父(P. Silverio de Santa Terea, C. D)による聖テレサの著作の校訂版で、最も信頼できます。


・幼少期

 アビラの聖テレサ、俗名テレサ・サンチェス・デ・セペダ・ダビラ・イ・アウマダ (Teresa Sánchez de Cepeda Dávila y Ahumada) は、1515年3月28日、スペイン中部の町アビラ(Ávila カスティジャ・イ・レオン州アビラ県)で、改宗ユダヤ人の子孫である父と、その再婚相手である母の元に生まれました。母は九人の子供を産み、テレサは第三子で長女でした。この母はテレサが十三歳のときに亡くなっています。

 テレサの両親はいずれも信仰深く、また父はカスティジャ語(スペイン語)で書かれた数巻の本を持っていました。敬虔な家庭での教育と父の信心書の影響を受けて、テレサは六歳のときに一つ上の兄ロドリゴとともに町を出て、サラマンカへの道に向かいました。彼らは喜捨を乞いながら旅をしてイスラムの地に至り、そこで殉教するつもりだったのです。しかしながらふたりは父方の叔父に見つかって連れ戻され、母に叱られました。

 殉教の計画が実行不可能と分かると、二人は隠修者(独住修道者)になる決心をし、家の庭に隠修の小屋を造ろうとして小石を積み上げましたが、壁はすぐに崩れてしまい、二人は途方にくれました。この頃のテレサは自分にできるだけの施しをし、また好きなだけ祈ること、特にロザリオを祈ることを望みました。他の女の子たちと遊ぶときは、一緒に修道女になって修道院ごっこをするのがお気に入りでした。


・少女期から二十三歳頃まで

 テレサの母は信仰深い人である一方で、騎士物語を読むのも好きでした。母の影響を受け、父に隠れて騎士物語に読み耽った少女テレサは、着飾って手と髪の手入れをし、香水を付け、他人から褒めらることを喜ぶようになりました。またテレサはほんの少し年上の従兄たちと仲良くなって、彼らを喜ばせるような話をし、従兄たちが好きな女の子のことやその他の無益な話に耳を傾けるのでした。

 テレサは十三、四歳のときに母を亡くしましたが、おそらくこの頃よく家に遊びに来ていた親類に軽薄な少女がいて、テレサは彼女と親しくなりました。この少女はテレサのあらゆる楽しみに付き合ってくれたので、テレサの方でも彼女の誘いに乗って虚栄と無駄話に付き合う羽目になり、この娘ともう一人の少女からずいぶんと悪い影響を受けてしまいました。父はこれを心配して、テレサが十七歳のとき、娘をアビラのアウグスチノ会修道院(Convento de Nuestra Señora de Gracia)に預けました。

 当初テレサは修道院の生活を嫌悪していましたが、早くも数日後には有徳の生活を快いと感じ始めました。しかしながらテレサは一年半後に重病にかかり父の家に帰らなければならなくなりました。病気から快復した後、テレサは父方のおじを訪ねて数日間滞在しました。このおじは後に全財産を棄てて聖ヘロニモ会(ORDO SANCTI HIERONYMI O.S.H.)に入った信仰深い人で、当時十八歳のテレサはこの人から強い印象を受け、修道生活への召命を意識するようになりました。テレサは修道女になる希望を父に明かしましたが、娘を失いたくない父はなかなか許しを与えてくれませんでした。

 テレサは22歳の頃にアビラのカルメル会御托身修道院(註3)に入会しました。入会当初の一年間テレサは病気がちであったので、療養のため一時的に修道院を出ましたが、不適切な治療のために病状は却って昂進しました。修道院を出て三か月後、テレサは父の家に連れ戻され、1538年8月、23歳のときに病者の塗油を施されました。聖女は死んだと思われて、既に準備されていた墓穴に危うく埋葬されるところでした。テレサは病状がこれほどまでに重いにもかかわらず、自ら願い出て修道院に戻りました。修道院に戻ってから八か月間は相変わらずの重態が続き、健康を取り戻すにはさらに二年を要しました。


・念祷



(上) 《アビラの聖テレサ シャルル・ルタイユ 図版番号 109》 全面エングレーヴィングによる高精細カニヴェ 11.9 x 78 mm フランス 1840年代初頭 当店の商品です。


 テレサは自叙伝の第十章から二十七章で、念祷について詳しく語っています。念祷は口祷に対する語で、心の中で祈ることです(註4)。修道女テレサにとって心の内面は何よりも大切ですが、聖女の生涯の通時的叙述に馴染む事柄ではないので、本稿では該当箇所の解説を省きます。


・神秘体験

 自叙伝27章で、テレサは自分の右側にイエスの臨在を確かに感じた神秘体験を語っています。27章2節によると、最初の幻視は聖ペトロの祝日に、念祷をしている際に起こりました。28省1節によると幻視は断続的に数日間続き、イエスの声を聴いたわけでも姿を見たわけでもないが、聖女はイエスの臨在をこの上なく確かなこととして感じたのでした。次いでテレサはイエスの手を見、次にイエスの顔を見た、と28章の冒頭に書き記しています。これとは別に27章の特筆すべき内容として、アルカンタラのペドロ修道士(註5)のことが述べられています。

 28章3節で、テレサは聖パウロの祝日のミサ中にイエスの全身を見たと書き記しています。これはおそらく 1558年1月15日の出来事と考えられています。テレサは続く4節で、これらの幻視は神から注賦(羅 INFUSIO)された想像的幻視(註6)であり、肉眼の目ではなく霊魂の目で見られたと語っています。神秘主義神学の用語でいえば、テレサは照明(羅 ILLUMINATIO)の段階に属する幻視を体験したことになります。しかしながら聴罪司祭をはじめ周囲の人々はテレサの身に起こっていることを神からの恩寵とは思わず、却って悪魔の惑わしであると判断し、テレサは誤解に苦しみました。

 29章2節によると、照明の段階の幻視は二年半続きました。同4節によると、大抵の幻視においてイエスは復活の栄光の姿で現れ給いました。しかしながらテレサが周囲の無理解と迫害のさなかにあるとき、主はご自身の傷を示し、復活後の体でありつつも受難の姿やゲツセマネでの姿で出現されることがありました。同5節によると、テレサは自身の左側に聖ペトロと聖パウロがいて聖女を守っているのをはっきりと見ることも、たびたびありました。




(上) Gian Lorenzo Bernini, "L'Estasi di santa Teresa d'Avila", 1647 - 1652, marmo, 350 cm, la Capella Cornaro, Chiesa di Santa Maria della Vittoria, Roma


 29章10節から14節で、テレサは神を求める魂の苦しみについて記しています。11節の末尾には「詩編」42編2節が引用され、「鹿が湧水を求めるように(我が魂も主を憧れ慕う)」(Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum !)と書かれています。テレサによるとこの苦しみは神ご自身によって与えられた恩寵です。この苦しみは10節において心臓を貫く矢に譬えられ、13節において矢の幻視が詳述されています。

 13節によると、数度にわたって経験した幻視において、テレサは自分の左に小柄でたいへん美しい、ケルブと思われる一人の天使を見ました。天使は先に火がついているように思われる長い金の矢を持っており、それで聖女を何度も刺しました。天使の矢は心臓を貫き、臓腑にまで差し込まれて、聖女の内に神への愛を燃え上がらせました。聖女は激しい痛みに呻きましたが、その痛みはあまりにも快く、これが終わることを聖女は望みませんでした。これは神と魂の間に為されたあまりにも快い愛の交換であり、霊的な苦しみでしたが、肉体もその苦しみに与(あずか)りました(註7)。聖女のこの神秘体験は、カルメル会とスペインの全司教区において8月27日に記念されています。

 上に述べたように、この幻視が起こったとき、テレサは極度の苦痛と快感を同時に感じました。厳しい苦行の際などに、肉体的な苦しみが霊的喜びと共存するのは普通のことです。しかしながらテレサの場合、激しい霊的な苦しみと極度の霊的喜びが同時に共存したのです。テレサはこれがどういうことなのか理解できずに苦しみました。自叙伝30章5節によると、テレサが苦しみ悩む様子を見た信仰深い未亡人は聖女を自宅に呼んで八日間滞在させ、ちょうどこのときアビラに滞在していたフランシスコ会士アルカンタラの聖ペドロ(註5 前出)と引き合わせました。30章5節から7節によると、ペドロはテレサが置かれた状態を完全に理解し、自身の体験に基づいて聖女に全てを説明し、励ましました。


・新修道院計画のきっかけとなった地獄の幻視

 自叙伝31章 1節から11節に記録されたテレサの幻視には、悪魔が頻繁に登場します。これらの幻視の際、聖女は悪魔を退散させるために聖水を用いるのが常でした。またテレサはたびたび人前で脱魂状態に陥りました。当時のカルメル会は教皇エウゲニウス四世(Eugenius IV, 1383 - 1431 - 1447)が 1431年に出した勅書によって会則が緩和されており、多くの修道院は俗人の訪問を受け入れていました。アビラのカルメル会御托身修道院にも上流社会の人々がtたびたび訪れ、頻繁に幻視を体験するテレサを聖女と讃えました。自身の罪深さを強く自覚していたテレサはそのことが耐え難く、同じカルメル会でもアビラより厳格な修道生活が行われ、厳しい禁入制を実施している遠隔地の修道院に移籍したいと考えましたが、聴罪司祭はこれを許しませんでした。

 自叙伝32章において、テレサは地獄の幻視を記録しています。この幻視の後、聖女は地獄に落ちるべき霊魂を救うために出来る限りのことを為したいと強く願うようになりました。幻視で垣間見た地獄に比べれば、いかに大きな地上の苦しみも何でもないことと思えました。それゆえ聖女は32章9節に書いているようにカルメル会の原始会則に立ち戻り、厳格な外出禁止と禁入制を敷く修道院で、清貧の生活を送りたいと考えました。実際アビラのカルメル会御托身修道院からは、アルカンタラの聖ペドロの勧めに従って数人の修道女がフランシスコ会に移籍し、最初はバジャドリド、次にマドリッドに行って、フランシスコ会の原始会則に従って生活していました。

 当時、御托身修道院にはテレサのいとこで当時17歳のマリア・デ・オカンポ(Maria de Ocampo)という娘が寄宿していました。1560年7月16日はカルメル山の聖母の祝日でしたが、この日の夕暮れ、17歳のマリアは従姉テレサに対し、フランシスコ会の跣足修道女(原始会則に従う修道女)たちのように生活したいのであれば、そのような修道院を創立すればよい。自分はそのために自分の持参金一千デュカを提供する、と言いました。このときテレサとマリアの他に四人の修道女とマリアの姉妹(寄宿生のエレオノラ・デ・セベタ)が居合わせましたが、みな同意見でした。テレサはこの件について親友の未亡人ギヨマール・デ・ウリョア(Guiomar de Ulloa)に相談しましたが、ギヨマール未亡人も新しい修道院のために年金を提供すると言ってくれました。

 その後テレサは聖体拝領後にイエスを幻視しましたが、イエスはテレサを励まし、新修道院をサン・ホセ(西 San José 聖ヨセフ)に捧げるように命じ給いました。そこでテレサは事の経緯を手紙に認め、聴罪司祭に渡しました。聴罪司祭は管区長の判断を仰ぐようにテレサに命じました。管区長はテレサの計画に一旦賛成しましたが、後に反対に転じました。テレサの親友であるギヨマール未亡人は学徳とも優れたドミニコ会のペドロ・イバニェス師(Pedro Ibañez, O. P.)に自身が為しうる財政援助を説明し、管区長を説得してくれるように助力を仰ぎました。ギヨマール未亡人に可能な財政援助はそれほど大きな額ではなかったので、ペドロ・イバニェス師は当初テレサたちの計画に懐疑的でしたが、やがてその宗教的意義を評価し、テレサたちの側に立って管区長に執り成してくれました。

 しかしながら一旦説得された管区長は、テレサたちが新修道院のために見つけた建物を契約しようとした前日に再び反対に転じました。テレサは聴罪司祭から叱責され、同僚の修道女たちの多くからも白い目で見られて孤立しましたが、完全な従順を以て聴罪司祭に従いました。その間もテレサはたびたびイエスを幻視して、新修道院の実現を主から約束されていましたので、不安は感じませんでした。一方ペドロ・イバニェス師とギヨマール未亡人はローマに手紙を送るなどして、新修道院を実現させようと引き続き尽力してくれていました。イバニェス師は二年余りの間トリアノス(Trianos)のドミニコ会修道院に退きましたが、その後は再びアビラに戻りました。

 この頃テレサの聴罪司祭はアビラのイエズス会修道院から派遣されていましたが、同修道院ではこの頃院長が交替しました。新院長のガスパル・デ・サラザル師(Gaspar de Salazar)師はテレサと面会しました。やがて聖女の計画が神の意志であると悟った新院長は、テレサに新修道院の計画を進める許可を与えました。


・新修道院の始まり



(上) el convento de San José de Ávila 現在のサン・ホセ修道院。創立当初のサン・ホセは現状から想像できないほど小さく、貧しい小屋にすぎませんでした。


 聖女の妹フアナ・デ・アウマダ(Juana de Ahumada)は俗人であり、アビラから西北西に70キロマートルあまり離れたアルバ・デ・トルメス(Alba de Tormes カスティジャ・イ・レオン州サラマンカ県)で結婚生活を送っていました。テレサはフアナの夫を介してアビラに小さな家を買ってくれるように依頼し、不思議な経緯で手に入ったお金を妹に渡しました。テレサはその家に住まわせた妹夫妻をたびたび訪ねて、新修道院の設立を極秘裏に準備しました。一方テレサの弟ロレンソ・デ・セペダ(Lorenzo de Cepeda)はアメリカ大陸に渡って成功を収めていました。テレサは修道院用の家を買ったものの内装に費やすお金がありませんでしたが、ちょうどこのときロレンソからの仕送りが届き、内装職人への支払いを無事に済ませることができました。

 教皇ピウス四世(1499 - 1559 - 1565)は 1562年2月7日付で小勅書を発し、新修道院サン・ホセのために年金を捧げると言っていたギヨマール未亡人とその母アルドンサ・デ・グスマン(Aldonza de Guzman)が、新修道院と財産を共有することを許可していました。こうすれば修道院は未亡人たちの年金を受け取ることができるからです。しかしながら自叙伝33章15節によると、テレサはアッシジの聖キアラの祝日にこの聖女を幻視します。テレサはアルカンタラの聖ペドロに励まされて、聖クララ会と同様に、臨時に得られる施しのみによって修道院を運営する決心を固めます。この願いは 1562年12月5日付で教皇庁内赦院から認められました。

 さらに自叙伝33章14節から15節によると、テレサはアビラにあるドミニコ会聖トマス修道院付属聖堂(el Real Monasterio de Santo Tomás de Ávila)のサンティシモ・クリスト礼拝堂において聖家族を幻視し(註8)、聖母は新修道院をカルメル会ではなくアビラ司教の管轄下に置くように命じ給いました。自叙伝36章2節によると、当時のアビラ司教アルバロ・デ・メンドサ師(Alvaro de Mendoza)は安定した財政基盤を持たないテレサの新修道院を管轄することに気が進みませんでしたが、アルカンタラの聖ペドロに勧められて御託身修道院にテレサを訪ね、意見を変えました。以後司教はテレサのカルメル会改革に全面的に協力することとなります。なおアルカンタラの聖ペドロはこの直後の 1562年10月18日にアビラのアレナスで亡くなりました。




(上) 大きめの手彩色アンティーク版画 《神に愛の微笑みを向けるアビラの聖テレサ イエズスの聖テレジア》 フランス 1818 - 1837年頃 当店の商品です。


 1562年8月24日、サン・ホセ(聖ヨセフ)修道院が秘密裏に発足しました。この日新修道院では、テレサ、及びテレサの同僚である御托身修道院の二名の修道女、その他数名の立ち会いの下、四名の志願者が着衣しました。志願者たちに修道衣を与えたのは、アビラ司教から派遣されたガスパル・ダサ(Gaspar Daza)神学博士でした。博士は新修道院でミサを捧げ、聖体を安置しました。

 自叙伝36章11節によると、秘密裏に行われた新修道院の設立は、御托身修道院とアビラの街全体にまもなく知れ渡り、テレサは御托身修道院の院長からすぐに修道院に戻るように命じられました。御托身修道院に戻ったテレサが説明を尽くしたせいで院長の心は和らぎました。管区長からは厳しい叱責を受けましたが、テレサがすべての事情をはっきりと説明すると、アビラの町の騒ぎが収まり次第、新修道院に戻る許しが与えられました。新修道院があまりにもみすぼらしいばかりか適切な財政的基盤も持っていないことを問題と見たアビラ市は、議員たちと参事会員たちを集めて8月29日と30日に会議を開き、新修道院はすぐに取り壊すべきだとの意見が続出しました。アビラ市はこの問題について宮廷に報告し、王室顧問官からは報告書の提出と関係者の出頭を求めてきました。テレサの側からはゴンサロ・デ・アランダ神父とガスパル・ダサ博士が弁護に立って、アビラ市も態度を徐々に軟化させました。

 テレサが新修道院サン・ホセに決定的に移り住んだ日付は不明です。このことを許可する書類の日付は1663年8月22日となっていますが、口頭での許可は既に四旬節には得られていました。伝承によるとテレサはサン・ホセ修道院に移る際、靴を脱いで裸足になりました。テレサが御托身修道院から持って来た物は鎖で編んだ苦行衣、鞭、つぎはぎだらけの古着が全てでした。このときテレサは家族の名を捨てて、自身の名をテレサ・デ・ヘスス(西 Teresa de Jesús イエスのテレサ)に変えました。

 新修道院サン・ホセで聖務が行われるようになると、施しで生活するというテレサの願い通りに多くの喜捨が集まり始めました。アビラ市が起こした訴訟も相次いで取り下げられました。


・自叙伝以後



(上) ジル・ドマルトー(Gilles Demarteau, 1729 - 1776)による「十字架の聖ヨハネ」 パリ、ラール・カトリークによる複製 当店の商品


 カルメル会の改革者としてテレサとともに名を挙げられる十字架のヨハネ(フアン・デ・ラ・クルス Juan de la Cruz, 1542 - 1591)は、テレサの自叙伝に出てきません。テレサが自叙伝に記しているのは 1562年6月までの出来事ですが、十字架の聖ヨハネがテレサと出会うのはこれより後の 1567年頃であるからです。十字架の聖ヨハネはこの出会いによって男子カルメル会の改革を志しました。カルメル会は女子と男子に分かれます。アビラの聖テレサは女子跣足カルメル会、十字架の聖ヨハネは男子跣足カルメル会の創始者です。十字架の聖ヨハネの有名な詩「霊の歌」(ハエン写本)をこちらに訳出いたしました。

 キリスト教の聖人の祝日は誕生日ではなく死去の日ですが、それは地上の死が天上に生まれることを意味するからです。キリスト教では生命に限りがある地上よりも、永遠の生を生きる天上を重視するゆえに、天上の誕生日ともいえる死去の日が聖人の祝日となっています。テレサが亡くなったのは 1582年10月4日の夜です。まさにこの夜、スペインは古代以来使われ続けたユリウス暦から、近代のグレゴリオ暦に移行しました。グレゴリオ暦の 1582年10月4日は、ユリウス暦で言えば 1582年10月15日に当たります。10月4日に亡くなったテレサの祝日が 10月15日であるのは、このような理由によります。



註1 テレサ(Teresa) はスペイン語、テレーズ(Thérèse) はフランス語で、このふたつは同じ名前を指します。テレサ、テレーズは、ラテン語ではテレジアです。テレジアという発音は中世のもので、古典ラテン語式に発音すればテレシアとなります。

 アビラの聖テレサをスペイン語で言うとサンタ・テレサ・デ・アビラ(西 Santa Teresa de Ávila)、ラテン語で言うとサンクタ・テレジア・アブレンシス(SANCTA TERESIA ABULENSIS) です。イエスの聖テレサをスペイン語で言うとサンタ・テレサ・デ・ヘスス(Santa Teresa de Jesús)、ラテン語で言うとサンクタ・テレジア・アー・イエースー(SANCTA TERESIA A IESU) です。

註2 テレサはドミニコ会のペドロ・イバニェス神父(P. Pedro Ibañez, O. P.)に命じられて、1562年に最初の自叙伝を書いた。同じ年、テレサの聴罪司祭であったドミニコ会のガルシア・デ・トレド神父(P. Barcia de Toledo, O. P.)は、最初の自叙伝をより詳しく書き改めるように命じ、テレサはこの命に従って詳しい自叙伝を 1565年に書き上げた。1562年に完成した自叙伝は失われ、現在まで伝わるのは 1565年に完成した自叙伝である。この自叙伝はテレサ自身による直筆の手稿が 1591年にエル・エスコリアル王立図書館に収められて、現在もそこにある。

註3 アビラの御托身の修道院(el Monasterio de la Encarnación)は 1479年に創立された。創立当初はカルメル会第三会の女性たちが共同生活を送るための家であったが、後に彼女らは第二会への入会を希望したため、正式な女子修道院となった。

註4 念祷する際の心的態度には黙想(羅 MEDITATIO)と観想(羅 CONTEMPLATIO)がある。黙想は神やキリストに関する事柄について言葉に出さずに考えること、観想は神の愛を心中に享受することである。黙想が知性と感情を能動的に働かせるのに対して、観想は神から齎される恩寵のイーンフーシオー(羅 INFUSIO 注賦)に魂を沈めることといえる。黙想と観想は互いに排除するものではなく、重なり合う。

註5 アルカンタラの聖ペドロ(San Pedro de Alcántara, 1499 - 1562)は優れた聖徳で知られたフランシスコ会士である。テレサは自叙伝27章の 17, 18節でペドロ修道士の苦行について述べ、19節で遠隔地のペドロ修道士が聖女の目の前に現れた出来事、また修道士が亡くなる際にも聖女に出現して別れを告げたことを記録している。

註6 ここでいう想像とは、心的イマーゴー(羅 IMAGO 像)の形式で啓示を受けることである。神秘家が自分の悟性を働かせて想像するという意味ではない。

註7 十六世紀に生きたテレサにとって、心臓は単なる循環器ではなく、ミクロコスモスである人体の太陽であった。このような思想は二十一世紀の我々には奇妙に感じられても近世人にとっては自明のことであり、テレサよりも跡の時代の医学者であるウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey, 1578 - 1657)も、心臓は目的因(羅 CAUSA FINALIS)すなわち神の下で働く作出因であると考えていた。そのような心臓に点火する天使の矢は、テレサに愛の苦しみを与えるとともに、永遠の生命に導く神の恩寵そのものであった。

 1591年にサラマンカで列福調査が行われた際、テレサの遺体は腐敗せずに芳香を放っていた。遺体から取り出された心臓は数か所に傷があり、傷の部分は焼けていたと伝えられる。テレサはスペイン西部アルバ・デ・トルメス(Alba de Tormes カスティジャ・イ・レオン州サラマンカ県)のカルメル会修道院(el Convento de Madres Carmelitas de la Anunciación)で亡くなったが、聖女の心臓は同院の付属博物館に安置されている。

註8 1561年8月15日の出来事である。



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