鹿
cerf, biche, faon




(上) 川を泳ぎ渡る鹿(五頭のうち、先頭から三頭)。ラスコー洞窟(Grotte de Lascaux)に描かれたオーリニャック文化(旧石器時代時代後期、45,000年ないし 35,000年前)の壁画。


 鹿は人間の身近にいる動物種のひとつであり、アジアとヨーロッパのみならず、北アフリカやアメリカにおいても多様な象徴的意味を担います。立派な角の牡鹿(おじか)は威厳があり、角が毎年生え変わります。また鹿は発情期の繁殖行動が激しい動物です。これらの特徴ゆえに、鹿は多くの神話において再生と豊穣を象徴します。鹿は野牛等他の動物とともに先史時代の洞窟壁画にもよく描かれます。鹿は最も高貴な猟獣でもあり、中世の写本を飾る多数の細密画にも頻出します。


【鹿の枝角の象徴性 ― ナチュールが有する「生み出す力」の象徴、性と生殖の象徴、権力と高貴さの象徴】

 牡鹿(おじか)の枝角は春先に脱落しますが、夏の終わりに再び生え始め、秋の繁殖期を迎える前に急速に成長します。鹿の年齢が上がるにつれて、角に生じる枝の本数も増加します。鹿は短期間のうちに.立派な角を生じるゆえに、先史時代以来、神秘的な力を持つ動物として崇められてきました。




(上) マグダレニアン文化(後期旧石器時代 17,000年ないし 12,000年前)の洞窟壁画に見られるシャーマン un chaman, la grotte des Trois-Frères, Montesquieu-Avantès, Ariège, Languedoc-Roussillon-Midi-Pyrénées


 小説家、政治家であり、アカデミー・フランセーズ会員でもあったピエール・モワノ(Pierre Moinot, 1920 - 2007)は、1987年の共著「アントロジ・デュ・セル」("Anthologie du Cerf" 「鹿の名作集」)の前書きにおいて、鹿の角はナチュールが有する『生み出す力』の象徴であり、性と生殖の象徴であり、権力と高貴さの象徴でもあると論じています。

 ピエール・モワノの論述を下に示します。日本語訳は筆者(広川)によります。筆者の和訳は正確さを主眼としつつも、フランス語をこなれた日本語に移すように心がけたため、逐語訳にはなっていません。


     Voici donc l'animal porteur d'une forêt de symboles, tous apparentés au domaine obscur de la force vitale.     それゆえこの動物、すなわち鹿が登場することになる。鹿は数多くの深遠な象徴性を有するが、それらの象徴性はいずれも「生命が持つ力」という知られざる領域に続いている。
     Et d'abord ses bois, cette ramure dont le nom, la forme et la couleur semblent sortir des arbres et que chaque année élague comme un bois sec, chaque année les refait pour donner la preuve visible que tout renaît, que tout reprend vie ;    最初に角を取り上げて考察する。鹿の角をフランス語で「ボワ」(bois 原意「木」「林」)と呼ぶが、この枝分かれした角の呼び名、形状、色彩は、あたかも樹木から生じるように思える。枝角は毎年枯れ枝のように脱落し、再び生えてくる。鹿の枝角が脱落し、再びできる様子は、全てのものが生まれ変わるということ、全てのものが復活するということを、目に見える形で明示してくれる。
     par la chute et la repousse de ces os branchus qui croissent avec une rapidité végétale, la nature affirme que sa force intense n'est qu'une perpétuelle résurrection, que tout doit mourir en elle et que pourtant rien ne peut cesser.    すなわち、この枝分かれした骨質の角は、植物が成長するような速さで伸び、脱落しては、また生える。枝角の脱落と再生を見れば、ナチュールが物を生み出す強い力が、永遠に繰り返す復活に他ならないということ、またすべてのものはナチュールが持つ生み出す力のうちに死ぬ運命にあるが、それにもかかわらず存在することを止めはしないと分かる。
     Aussi a-t-elle lié les bois du cerf à l'élan dont elle est tout entière la pérennité. La profusion de la sève qui les nourrit rejoint en lui la richesse de la semence, de sorte qu'il représente l'immémoriale vigueur fécondante, la puissance d'une inlassable sexualité. Son brame les met en scène d'une façon qui frappe l'imagination des hommes.    ナチュールが有する生み出す力は、永遠に発出し続ける。ナチュールは鹿の枝角をこの発出に結び付けた。ナチュールから豊かに発出する精気が鹿の枝角を育てるわけだが、この精気は鹿の角において大量の精液と合流する。それゆえ鹿は、豊穣をもたらす太古の精力を表し、何者にも服さない性の力をも表す。発情した鹿の啼き声を聞いて、人間は想像力に強い刺激を受け、鹿に関してこのように考えたのだ。
     Aussi a-t-on pris l'animal comme l'expression de la virilité, et par là de la puissance, puis de la suprématie. Pendant des siècles, cerf et seigneur ont été voués l'un à l'autre, il a été fait noble, un interdit frappait sa viande, son braconnage était puni de mort. Seuls les rois des hommes pouvaient chasser le roi des forêts.    人間は鹿を男性的なたくましさの顕れと考え、さらに力の顕れ、権力の顕れと見做した。何世紀もの間、鹿と領主は切っても切れない関係にあった。鹿は高貴な存在とされ、鹿肉は禁じられた。鹿の密猟は死を以て罰せられた。人間のなかで王である者たちだけが、森の王を狩ることができるのであった。


 上の日本語訳では、「ナチュール」(nature)を「自然」と訳すことを避けました。フランス語「ナチュール」はラテン語「ナートゥーラ」(NATURA)を語源とします。「ナートゥーラ」は「ナースコル」(NASCOR 生み出す)の名詞形ですが、「ナースコル」の元の語形は「グナースコル」(GNASCOR) で、この語の語根 gen- は印欧基語において「生成」「産出」を表し、ラテン語「ギグノー」(GIGNO 生み出す)、ギリシア語「ゲンナオー」(γεννάω 生み出す、生ませる)、「ギグノマイ」(γίγνομαι 生まれる)の他、「ゲヌス」(GENUS 出生)、「ゲネシス」(γένεσις 生成)等もこの語根を有します。したがってラテン語「ナートゥーラ」(NATURA)は、ギリシア語「ピュシス」(φύσις)と同様に、「生み出す力」という意味です。ラテン語の原意はフランス語「ナチュール」にも受け継がれていますから、訳出においてはこの語が持つ力動的な意味合いを尊重するように心がけました。


 シャルル六世の紋章


 鹿と領主のつながりに関して言えば、鹿は十五世紀にフランス王室の紋章に取り入れられます。シャルル六世(Charles VI, 1368 - 1380 - 1422)は有翼の鹿を紋章とし、この鹿はシャルル七世(Charles VII, 1403 - 1422 - 1461)、ルイ十二世(Louis XII, 1462 - 1498 - 1515)の紋章にも引き継がれます。




(上) "The Wilton Diptych", c. 1395 - 1399, tempera on wood, 53 x 37 cm each, the National Gallery, London


 同時代のイギリスでは、リチャード二世(Richard II, 1367 - 1377 - 1399 - 1400)が草地にやすらう白鹿を紋章に採り入れます。上の写真は「ウィルトン・ディプティック」の扉の外側で、右側にリチャード二世の白い鹿が描かれています。「ウィルトン・ディプティック」は国際ゴシック様式のイギリスにおける作例としてよく知られており、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されています。


【ケルト神話と鹿頭神ケルヌンノス】

 ガロ・ロマン期から十六世紀に至る膨大なコレクションで知られるパリのクリュニー美術館(le Musée national du Moyen Âge - Thermes et hôtel de Cluny)に、「ル・ピリエ・デ・ノート」(仏 le Pilier des Nautes ノートの柱)と名付けられた石製の四角柱が収蔵されています。ここでいう「レ・ノート」とは、もとルテティアと呼ばれていたパリで、セーヌの水運に従事していた船主たち(仏 les nautes de Lutèce)のことです。「ル・ピリエ・デ・ノート」はティベリウス帝時代(A. D. 14 - 37)の遺物で、ルテティアの船主の組合がユピテルに捧げた記念柱です。




(上) Philippe de Champaigne, "Le vœu de Louis XIII à la Vierge", 1638


 1638年2月10日、三十年戦争でスペインと交戦していたフランス国王ルイ十三世(Louis XIII, 1601 - 1643)は、跡継ぎの息子が生まれればフランスを聖母に捧げ、またパリ司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・パリ)にピエタの絵、ならびに新しい主祭壇と一群の彫刻を寄進するという誓いを立て、同年9月5日、後のルイ十四世となる男の子が無事に産まれました。ルイ十三世の誓いを果たすため、司教座聖堂では土木工事が行われ、1711年3月16日に主祭壇の定礎が行われましたが、「ル・ピリエ・デ・ノート」はこの工事の際に発掘されたものです。




(上) ル・ピリエ・デ・ノートに彫られたケルヌンノス


 「ル・ピリエ・デ・ノート」は石を彫った四つのブロックで構成されます。これらのブロックを積み上げて柱を復元した場合に、上から二段目となるブロックには、一つの面に「ケルヌンノス」というゴール人の神が彫られています。




(上) Gundestrupkedlen (details), The National Museum of Denmark, Copenhagen


 ケルヌンノスの属性に関する文献記録は残っていませんが、「ケルヌンノス」(Cernunnnos)という神名はケルト語で「美しき角を持つ者」という意味と考えられ、「ル・ピリエ・デ・ノート」においても、酷似した神名ゆえに同一の神と考えられる他の神像においても、頭部に鹿の角を持つ姿で表されています。  旧約聖書において、は「神の力」を象徴します。ケルヌンノスの角も、おそらく、この神の力を表していると考えられます。

 上の写真は「グンデストルップの大釜」(丁 Gundestrupkedlen)の一部です。「グンデストルップの大釜」は紀元前 150 - 50年に制作された直径 69センチメートルの銀器で、器の周囲にはケルトの神々と動物たちの群像が打ち出されています。「グンデストルップの大釜」に文字は打ち出されていませんが、頭部に鹿の角を有する神はケルヌンノスと考えられます。「グンデストルップの大釜」において、ケルヌンノスは右手(向かって左手)にトルク(仏 torque ケルトの装身具)を持ち、牡鹿を従えています。トルクは頸にも掛かっています。左手には蛇をつかんでいます。

 ケルヌンノスは男性的な力を表す神であり、女性である地母神を補完する存在として信仰されたと考えられます。またケルヌンノスは誕生と死と復活を繰り返す神であり、再生を司りました。すなわちケルヌンノスは冬至に生まれ、春の終わりに結婚し、夏至に死に、サウィン(Samain, Samhain, Samhuinn, Sauin 註1)になるとワイルド・ハント(死者の行列 註2)に加わって復活する、というサイクルを永遠に繰り返します。

 「ガリア戦記」第六巻十八章によると、ゴール人(ガリア人)は自分たちがディース・パテル(羅 DIS PATER 父なるディース)の子孫であると考えていました(註3)。ディース・パテルは冥府の神プルートあるいはオルクスの古名です。フランスの歴史学者アンヌ・ロンバール=ジュルダン(Anne Lombard-Jourdan, 1909 - 2010)は、2009年の著書「ゴール人の鹿神ケルヌンノス」(Anne Lombard-Jourdan, Alexis Charniguet, "Cernunnos, dieu Cerf des Gaulois", éd. Larousse, 2009)において、カエサルが言う「ディース・パテル」はケルヌンノスを指すと論じています。


 ケルヌンノスの図像は二世紀の作例を最後に姿を消します。しかしながらケルト文化が盛んなブルターニュには鹿に騎乗した姿で表される聖人たち(註4)があり、これらの聖人はケルヌンノスがキリスト教化された姿と考えることができます。また同じくブルターニュで崇敬される動物の守護聖人聖コルネリ(Saint Cornély)も、ケルヌンノスがキリスト教化された姿と考えられています。


【西ヨーロッパのキリスト教文化と鹿】

 「フィジオログス」(希 Φυσιολόγος 羅 PHISIOLOGUS 註4)は二世紀あるいは四世紀のキリスト教徒の間で流布していた伝承を文書化した書物ですが、この本において鹿はキリストの象徴とされています。キリストを象徴する鹿が二世紀の聖エウスタキウス(St, EUSTACHIUS)と七世紀の聖ユベール(St. Hubert de Liège, c. 656 - 727)に出現したことはよく知られていますが、五世紀の聖パトリック(St. Patrick d'Irlande, c. 385 - 461)、七世紀の聖ベッガ(Ste. Begge/Begga d'Andenne, + 693 中ピピンの母)、十世紀の聖エリディ(Ste. Hélidie/Élidie)の聖人伝にも、キリストの化身というべき鹿が登場します。




(上) 銀製メダイユ 「聖ジル」 直径 15.5 mm 当店の販売済み商品


 八世紀の隠者聖ジル(St. Gilles, St. Ægidius, c, 640 - c. 720)は、狩人に追われた牝鹿を守り、手を矢に貫かれた姿で表されます。同様の説話は「宇治拾遺物語」にも収録されており、「龍門聖、鹿にかはらんとする事」(巻一ノ七)と題されています。

 なおわが国との関連で付言すると、古人は鹿を「紅葉鳥」と呼んで、啼き声を愛でました。室町時代の「蔵玉(ぞうぎょく)和歌集」には、「しぐれふる竜田の山の紅葉鳥 もみぢの衣きてや鳴くらん」の歌があります。




(上) Pisanello, "The Vision of Saint Eustace", c. 1438 - 1442, tempera on wood, 54.5 x 65.5 cm, the National Gallery, London


 聖エウスタキウスと聖ユベールに出現した鹿は、角の間にクルシフィクスが立っていました。毎年再生する鹿の角は永遠の生命の象徴、新生・復活の象徴であり、その象徴性において生命樹と同一視され得ます。一方、キリストの十字架は罪びとに生命を与える木ですから、これも生命樹に他なりません。したがって鹿の角はクルシフィクスと同一視されます。聖エウスタキウスと聖ユベールに出現した鹿の姿は、このことを一層はっきりと示しています。




(上) タイティア作 「鹿が活ける水を求めるように、わが魂は神に向かって叫びます」(ブアス=ルベル 図版番号 B.C.5) 詩編に基づく二色刷り石版画 フランス 1961年 当店の商品


 鹿は繁殖期に相手を求めて非常に大きな声で啼きます。このため、鹿は救われるべき罪びとの魂を探すキリストの象徴とされ、また「花婿」たるキリストを求める魂の象徴とも考えられました。鹿はまた、疲れを知らずに駆け回る性質によっても、「キリスト」あるいは「キリストを求める魂」の象徴と考えられました。

 アレクサンドリアのオリゲネスによると、羚羊(れいよう カモシカ)は鋭い視力を特徴とし、鹿はヘビの巣穴に鼻から息を吹き込んで、出てきたヘビを殺します。それゆえオリゲネスは「雅歌に関する第三説教」で、三位一体の第二のペルソナであるキリストを、そのテオリア(観想すなわち知的認識のはたらき)において羚羊に、その御業において鹿に譬えています。


 中世のヨーロッパにおいて、鹿は隠された真実の解明を助けてくれる動物とも考えられました。クローヴィス(Clovis, 466 - 481 - 511)は、507年春、アリウス主義の西ゴート王アラリック二世(Alaric II, + 507)を討つために、ヴィエンヌ川(la Vienne フランス西部を流れる川)の渡河を試みました。このとき牝鹿が浅瀬を教えたことで、クローヴィスは軍を進めることができ、ポワチエ近郊ヴイェ(Vouillé)にてアラリックを討ち取りました。またダゴベール(Dagobert, c. 602 - 629 - c. 639)は牡鹿によって殉教者聖ドニ(St. Denis de Paris, + c. 250)の聖遺物(遺体)の埋葬場所を示されました。パリの北五キロメートルにあるサン=ドニがその場所で、同所にあるバシリカ(la basilique Saint-Denis)はダゴベールの時代以来、フランス王家の墓所であり続けました。

 グリム童話の「マリアの子ども」(KMH 3)では、王様が狩の途中で鹿を追い、繁みを抜けて、妃となる少女を見つけます。物語のこの段階に限ってみれば、鹿は王様に道を示しただけです。しかしながら主人公である少女が真実を語り、救いと幸福を得るためには、王様との出会いが必要でした。そう考えれば、結果的に、鹿が少女を真実の開示へと導いたことになります。

 また鹿は力強さと再生の象徴であったゆえに、その革が棺衣として用いられることもありました。アヴィニヨンのフランス人教皇クレメンス六世(Clément VI, 1291 - 1342 - 1352)は派手好きで享楽的な人物でしたが、アヴィニヨン教皇宮殿に鹿の絵を描いた「鹿の間」(Chambre du cerf)を造らせました。クレメンス六世の死後、遺体は鹿の革に包まれて鉄の棺に納められ、この教皇の命によって造られたラ・シェーズ=デュー(La Chaise-Dieu オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県)の修道院(L'abbaye de la Chaise-Dieu)に埋葬されました。「トリスタンとイゾルデ」 Tristan und Isolde(トリスタンとイズー Tristan et Iseut)に登場する騎士モルオルト(Morholt d'Irlande)は、トリスタンとの決闘で負った傷によって死に、遺体は鹿の革に包まれました。



註1 「サウィン」(Samain, Samhain, Samhuinn, Sauin)はケルト民族にとって最も重要な年中行事で、十月三十一日の日没から十一月一日の日没にかけて祝われます。ケルトの暦は一年を「暗い季節」と「明るい季節」に二分し、一年は「暗い季節」から始まります。「サウィン」は「暗い季節」の初めに行われる祭りであり、年の変わり目の儀礼であるとともに、神々の世界への入り口が開くときとも考えられています。


註2 「ワイルド・ハント」(英 wild hunt)または「シャス・ソヴァージュ」(仏 chasse sauvage)とは、生前の罪の報いとして、休息を許されずに放浪を続ける死者たちの軍団のことです。ウォルター・マップ(Walter Map, 1140 - c.1210)は 1181年から1193年頃にかけて書いた「宮廷人の無駄話について」("De nugis curialium")の第一部で、ハーラ・キング(Herla King ハーラ王)が率いるワイルド・ハントについて述べています。ハーラ王はケルト時代のブリテンの王で、神々と死者の国を訪れてワイルド・ハントを率いる王になったと伝えられます。

 ハーラ王はオーディン(ヴォータン)とも同一視されます。オーディンは吠える猟犬を伴ってワイルド・ハントを率い、嵐の夜に空を駆けるとされています。


註3 「ガリア戦記」の該当箇所(Julius Caesar, "Commentarii de Bello Gallico", VI, 18 前半部分)について、ラテン語原文と日本語訳を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Galli se omnes ab Dite patre prognatos praedicant idque ab druidibus proditum dicunt.    すべてのゴール人たちは、自分たちがディース・パテルから出た子孫であると主張している。さらに、このこと(訳注 この言い伝え)はドルイドたちからもたらされたと言っている。
     Ob eam causam spatia omnis temporis non numero dierum sed noctium finiunt; dies natales et mensum et annorum initia sic observant ut noctem dies subsequatur.    この理由(訳注 ゴール人は冥府神の子孫であるという理由)により、ゴール人たちはあらゆる経過時間を昼間の数ではなく夜の数で測る(訳注 直訳は「限る」)。またゴール人たちは誕生の日と月、及び年の始めを祝うが、その場合にも夜の後に昼が続くのである。

 上で「経過時間」としたのは、「テンプス」(TEMPUS)の訳です。ラテン語の「テンプス」は「時間」ですが、特に二つの出来事の間に経過する時間を指す場合があります。


註4 次の三人はブルターニュで崇敬される聖人で、いずれも鹿に騎乗した姿で表されます。

 聖エルボ(St. Herbot ou St. Hermelan)は歴史上実在した人物かどうかは不明で、カトリック教会から公式に認定された聖人ではありません。

 聖エデルン(St. Édern)は九世紀のアイルランドに生まれた隠修士で、ブルターニュに渡り、ブリイェク(Briec ブルターニュ地域圏フィニステール県)に庵と礼拝堂を建てました。あるとき狩人と犬に追われた鹿が聖人の衣に隠れて難を逃れ、以後聖人の元を離れなかったと伝えられています。聖エデルンはボランディストにも実在の聖人として認められています。祝日は8月26日です。

 聖テロ(Saint Théleau/Thélo/Teilo/Teliaw/Telo/Thélio/Télio/Théliau/Téliau/Télyo)は五世紀末から六世紀頃の人と伝えらえますが、歴史上実在した人物かどうかは不明で、カトリック教会から公式に認定された聖人ではありません。


註4 「フィジオログス」(希 Φυσιολόγος 羅 PHISIOLOGUS)は博物学的内容の文献で、二世紀あるいは四世紀頃の口承伝承をギリシア語で筆記したものです。「フィジオログス」という書名は、ギリシア語の正しい発音で表記するならば「ピュシオロゴス」で、「ピュシス(自然)のロゴス(言葉、学問)」、すなわち「自然の叙述」「ピュシスの学」という意味です。「フィジオログス」は五世紀頃にラテン語に訳されたのをはじめ、十指に余る言語に翻訳されて、中世ヨーロッパ世界に広く流布し、動植物に関してキリスト教世界で広く知られる伝承の拠り所となりました。



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