聖ヘロニモ会
La Orden de San Jerónimo o La orden jerónima, ORDO SANCTI HIERONYMI O.S.H.


 サンタ・マリア・デル・パラルの修道士たち。古い絵葉書より


 聖ヘロニモ会(La Orden de San Jerónimo, Ordo Sancti Hieronymi O.S.H.) はカセレス出身のフェルナンド・ジャネス・デ・フィゲロア修道士が創設し、1373年、グレゴリウス十一世(Gregorius XI, c. 1336 - 1370 - 1378)によって認可された観想修道会です。「聖ヘロニモ」(サン・ヘロニモ San Jerónimo)とは、ストリドンの聖ヒエロニムスのことです(註1)。聖ヘロニモ会の最初の修道院は、ルピアナ(Lupiana カスティジャ=ラ・マンチャ州グアダラハラ県)にある男子修道院サン・バルトロメ(el monasterio de San Bartolomé de Lupiana)です。

 グアダラハラ出身のペドロ・フェルナンデス・ペチャ修道士は、1374年、トレド近郊ラ・シスラに、聖ヘロニモ会の女子修道院サンタ・マリア(el Monasterio de Santa María de la Sisla, 1374 - 1835)を開きました。ラ・シスラのサンタ・マリアは二番目にできた聖ヘロニモ会の修道院であり、聖ヒエロニムスに従ったふたりの聖女、パウラとその娘エウストキウムを範とします。ペドロ・フェルナンデス・ペチャ修道士は、フェルナンド・ジャネス・デ・フィゲロア修道士と共に、聖ヘロニモ会の創設者と見做されています。


【フェルナンド・ジャネス・デ・フィゲロア師とペドロ・フェルナンデス・ペチャ師】

 フェルナンド・ジャネス・デ・フィゲロア修道士(Fray Fernando Yáñez de Figueroa, c. 1332 - 1412)の父はカスティジャ国王アルフォンソ十一世の宮廷に使える高位の廷臣でした。このためフェルナンドはアルフォンソ十一世の嗣子ペドロと共に宮廷で教育を受け、王子ペドロが国王ペドロ一世(Pedro I, 1334 - 1350 - 1369)として即位すると一旦これに仕え始めましたが、すぐに宮廷を辞しました。ペドロ一世はフェルナンドを王室付司祭及びトレド司教座聖堂参事会員とし、聖職録を与えましたが、間もなくフェルナンドはトレドの南南西およそ三十キロメートルにある山間の地エル・カスタニャル(El Castañar)に移り住み、そこに集まる隠修士たちとともに禁欲生活を始めました。

 いっぽうペドロ・フェルナンデス・ペチャ修道士(Fray Pedro Fernández Pecha, ca. 1326 - 1402)は、アルフォンソ十一世の協力者として急速に頭角を現しつつあるグアダラハラの貴族の子として生まれました。ペドロはアルフォンソ十一世とペドロ一世の宮廷に仕え、結婚して四人の息子を儲けました。大規模な商取引も行い、アルマデン(Almadén 現カスティジャ=マンチャ州西部)の水銀鉱山にある数か所の竪抗を十年間に亙って貸し出しています。しかしながら1366年にペドロはマドリ近郊ビジャエスクサ(Villaescusa)に集まっていた隠修士たちに加わりました。ビジャエスクサの隠修士たちはエル・カスタニャルから移って来た人たちでしたが、隠修士の数が増えたためにより広い場所に写る必要が生じました。ペドロの家系はルピアナ(Lupiana 現カスティジャ=ラ・マンチャ州グアダラハラ県)に多くの地所を持っており、ここの山中にはペドロの伯父に当たる騎士ディエゴ・マルティネス・デ・ラ・カマラ(Diego Martínez de la Cámara, + 1338)が建てた修道院がありました(註2)。ペドロは騎士ディエゴの甥に当たりましたから、ここの修道院付司祭となることを希望して認められ、1370年にルピアナに移りました。


 現代人は教会と修道院を一体のもののように考えがちですが、中世西ヨーロッパにおいては決してそうではありませんでした。西ヨーロッパの教会や修道院はしばしば世俗領主のものであり、そのような教会や修道院に属する司祭や修道士は、小作人や農奴と同様に、領主の財産に過ぎませんでした。宗教界の有力者が俗人であることも少なくなく、司教や修道院長、果ては教皇でさえも、出身家系の利益しか考えない俗悪な人物である場合が多くありました。状況が最も酷かったのは十世紀頃です。このような状況の下で真剣に神を求めるならば、修道者は教会の上層部と対立せざるを得ません。

 老いた世界が 1033年に近づき、終末思想が人心を脅かした十一世紀は、グレゴリウス改革の時代でした。教皇グレゴリウス七世(Gregorius VII, 1020 -1073 - 1085)はカトリック教会の刷新を試み、宗教に介入する世俗権力、及び教会の内なる堕落と戦います。しかしながら教会が真面目になったこの時代においても、真剣に神を求める人々は、教会から排除される危険がありました。なぜならば堕落した聖職者たちと絶縁して使徒的生活を送ろうとした人々は、しばしば異端派として苛烈な追及に遭ったからです。このような歴史的経緯により、修道会の設立を望む者は教皇の認可を得る必要がありました。教皇から認可を得ることで、新たな修道会は異端派でないと証明され、修道会としての活動を許されるのです。

 ペドロ・フェルナンデス・ペチャ、ペドロ・ロマン(Pedro Román)の両修道士はアヴィニヨンに行き、1373年10月15日、教皇グレゴリウス十一世(Gregorius XI, c. 1329 - 1370 - 1378)から、聖アウグスティヌス会則に基づく「聖ヘロニモ会」会則と修道服の認可、及び修道院四か所の開設許可を得ました。同教書には、ルピアナのサン・バルトロメ及び付属する数棟の建物と所有地を聖ヘロニモ会の最初の修道院とすべく命じられていました。聖ヘロニモ会の初代会長にはペドロ・フェルナンデス・ペチャ師が選ばれ、修道誓願を立てる際に、「ペドロ・デ・グアダラハラ」を名乗りました。ペドロ・デ・グアダラハラ修道士の親族、及び当地の有力者たちが、聖ヘロニモ会を経済的に援助しました。聖ヘロニモ会を支えた有力者としては、軍人であり詩人としても知られるサンティジャナ侯イニゴ・ロペス・デ・メンドサ(Iñigo López de Mendoza, primer marqués de Santillana, 1398 - 1458)が最もよく知られています。

 ペドロ・デ・グアダラハラ修道士は、聖ヘロニモ会設立後、一年の間サン・バルトロメの修道院長を務め、フェルナンド・ジャネス・デ・フィゲロア修道士に院長職を譲りました。ふたりの創設者はそれぞれが亡くなるまで聖ヘロニモ会の発展に尽力し、同会はイベリア半島全域に広がりました。


 エストレマドゥラの聖地に建つサンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院(el Real Monasterio de Santa María de Guadalupe)は、1389年に聖ヘロニモ会の修道院になりました。1535年、高名な建築家アロンソ・デ・コバルビアス(Alonso de Covarrubias, 1488 - 1579)の設計により、グアダルペ修道院で増築工事が行われました。このときの建物はスペイン盛期ルネサンスの宝と見做されています。

 十九世紀前半のスペインには近代的自由主義の嵐が吹き荒れました。国王フェルナンド七世の妃マリア・クリスティナ・デ・ボルボン(María Cristina de Borbón, 1806 - 1878)は、夫王の没後、自身の長女である幼少の女王イサベル二世の摂政を 1840年まで務めましたが、マリア・クリスティナに仕える財務大臣フアン・アルバレス・メンディサバル(Juan de Dios Álvarez Mendizábal, 1790 - 1853)は、教会財産の没収(西 Desamortización Eclesiástica)を断行しました。四百五十年以上に亙って王侯たちに支えられてきた聖ヘロニモ会でしたが、1836年3月8日、ヘロニモ会士たちは強制的に還俗(げんぞく 俗人の身分に戻ること)させられました。グアダルペ修道院では修道士たちに七年間の音楽教育を施していたので、俗人に戻った修道士たちは、多くが音楽関係の仕事に就きました。

 聖ヘロニモ会の男子修道院が強制的に解散させられた一方で、女子修道院は存続し、男子修道院復活のために活動を続けました。1925年、ローマの聖座は聖ヘロニモ会の復活を認可し、セゴビア(Segovia カスティジャ=レオン州セゴビア県)に同会の男子修道院サンタ・マリア・デル・パラル(el Monasterio de Santa María del Parral)が開かれました。現在のヘロニモ会は、唯一の男子修道院サンタ・マリア・デル・パラルと、十七か所の女子修道院で構成されています。



註1 カスティジャ語(標準スペイン語)の「ホタ」(J)は、喉音(こうおん 喉の奥で出す音)の一種、詳しくは軟口蓋摩擦音で発音されます。発音記号は[x]で、ドイツ語「バッハ」(Bach)の語尾と同じ音です。[x]は日本語に無い音ですのでカタカナ表記で正確に再現できませんが、ハ行に比較的近く聞こえますから、"Jerónimo" を「ヘロニモ」と表記しています。

註2 当時、世俗の領主が修道院用に土地や建物を寄進して、自身と一族の救いを修道士たちに代祷させ、自身の死後は修道院に埋葬させることが多く行われていました。ペドロの伯父も隠修士たちに執り成しの祈りをさせるため、1330年、ルピアナにある山の高所に、使徒聖バルトロマイ(サン・バルトロメ San Bartolomé)に捧げた修道院を建てました。騎士ディエゴは修道士たちの祈りの恩恵に与るべく、死後この場所に埋葬されました。


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