ロザリオの歴史
l'Historique du Rosaire




(上) ベル・エポック後期のフランス 初聖体の少女を守る無原罪の聖母のシャプレ 精緻な透かし彫りによるクルシフィクスとクール オパール色のパート・ド・ヴェール 全長 47 cm フランス 十九世紀末から二十世紀初頭 当店の商品


【ロザリオの語義】

 ロザリオ(伊 rosario)、ロサリオ(西 rosario)、ロゼール(仏 rosaire)の語源はラテン語のロサーリウム(羅 ROSARIUM 薔薇の園)ですが、転じて聖母に捧げる薔薇の花環を指すようになりました。五連のロザリオを指すフランス語シャプレ(仏 chapelet)の語源はシャペル(仏 chapelle)で、この語はラテン語カッパ(羅 CAPPA 頭巾)に縮小辞を付けたカペッラ(羅 CAPELLA)に由来します。カペッラの原意は聖マルタンの外套ですが、これを安置した礼拝堂をもカペッラと呼ぶようになり、さらに礼拝堂で用いる数珠をシャプレと称するようになりました。シャプレは広義の語で、キリストに祈るための数珠、及び諸聖人に執り成しを求めるための数珠を含みます。なおあらゆる環状のシャプレはクーロンヌ(仏 couronne 冠)とも呼ばれています。

 我が国ではロザリオの一語にこれらすべてを含めています。しかしながら本稿「ロザリオの歴史」では、聖母に祈る十五連または二十連のロゼール、及び五連のシャプレの成立と発展を扱います。したがって本稿に言うロザリオはこの二種(ロゼール及び五連のシャプレ)を指します。


【ロザリオの歴史】

 ロザリオの祈りは現在の形を取るまでに長い歴史を辿りました。百五十回の短い祈りが唱えられ始めたのは十世紀、天使祝詞が成立したのは十五世紀、三つの玄義が成立したのは十六世紀、これに四つ目の玄義が加わったのが二十一世紀(2002年)です。


1. ベネディクト会クリュニー修道院から始まった百五十回の祈り



(上) 十三世紀のクリュニー修道院。クリュニー修道院はフランス革命で破壊され、現在は付属聖堂翼廊の南側だけが残存しています。


 クリュニー(Cluny ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)はフランス東部にある小さな町です。910年、ここに創立されたベネディクト会クリュニー修道院はクリュニー会の本院となり、西ヨーロッパ各国に千を超える支部修道院を置いて、絶大な勢力を誇りました。

 クリュニー修道院では修道士たち、修道女たちによる祈りの合唱を重視し、修道院を現世における天国にしようと考えました。「ヨハネの黙示録」五章九節ではテトラモルフと二十四人の長老が、十四章三節では十四万四千人の聖徒たちが、十五章三節及び四節では二匹の獣とその像及び獣の名の数字に勝った者たちが(註1)、祈りつつ讃美の歌を歌っています。クリュニー修道院ではこれらの聖句を解釈して、天国では諸聖人と天使たちが常に神を讃美しつつ、すべての人のために執り成しの祈りを捧げていると考えました。

 クリュニーでは修道士、修道女をそれぞれ二つのグループに分けました。すなわち肉体労働に携わるグループと、祈りに専念するグループです。後者に属する修道士および修道女はラテン語「詩編」百五十編を毎日合唱し、修道院内に天上のエルサレムを先取りしました。

 いっぽう学が無く肉体労働に向いていると思われる者たちは労働修士となって、厨房係や門番、農作業係の務めを果たしました。しかしながら労働修士は単なる労働者ではなく修道者であって、日々の修道生活に祈りは必須です。彼らはラテン語「詩編」を合唱することはありませんでしたが、やがて個々人が日に百五十回の主祷文を唱える習慣が定着しました。労働修士たちが始めたこの習慣はクリュニー修道院全体に広まり、他の修道会にも広まり、さらに広く社会に浸透してゆきました。



2. シトー会の聖母崇敬と、ロザリオの誕生



(上) ル・トロネ修道院 小説家でもあった建築家フェルナン・プイヨン(Fernand Pouillon, 1912 - 1986)は、ル・トロネ修道院の建設を題材に名作「粗い石」("Les Pierres sauvages", 1964)を書きました。いずれもシトー会のル・トロネ修道院、セナンク修道院、シルヴァカン修道院は、プロヴァンスの三姉妹(仏 les trois sœurs provençales)と呼ばれています。


 1098年に創設されたシトー会では聖母への崇敬が重視され、同会に属するほとんどの修道院は聖母の称号に基づいて名付けられました。五世紀以来、マリアは主に女王として崇敬されてきましたが、シトー会の神学者クレルヴォーの聖ベルナール(Bernard de Clairvaux, 1090 - 1153)はマリアの母性を重視しました。「ノートル=ダム」(仏 Notre-Dame われらの貴婦人)という称号はベルナールの考案によりますが、これは特定の場所の領主夫人に対比させた「われら全員の貴婦人」、すなわち「われらの尊き御母」という意味に他なりません。

 シトー会は母としてのマリアを重視しましたが、この特徴は祈り方にも反映しています。すなわち一日に百五十回唱えられていた主祷文の一部を、シトー会では天使の挨拶(天使祝詞の前半)に置き換えたのです。十二世紀には今あるような形の天使祝詞は未だ成立していませんでしたが、シトー会では天使祝詞の冒頭「めでたし 聖寵充ち満てるマリア。主、御身とともにまします」を以て主祷文に置き換え、さらに「御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエスも祝せられ給う」と続けることもありました。天使の挨拶の最後には、イエスの聖名が唱えられました。

 一日百五十回の主祈文は、十三世紀末までに百五十回の「天使の挨拶」(天使祝詞の前半)に置き換わりました。この百五十回を数える信心具として数珠(ロザリオ)が考案されたのも、十三世紀のことです。



3. 托鉢修道会第三会及びベギン会に、「天使の挨拶」が導入される



(上) 手仕事に勤しむベギン会員たち ベルギー北西部ガン(ヘント)、モン=サン=タマン(Mont-Saint-Amand)のベギナージュ(ベギン会修道院)にて。二十世紀初頭の絵葉書から。


 十三世紀半ばの西ヨーロッパでは、清貧を旨として会員による財産私有を認めず、施しによって生きる幾つかの修道団体が設立されました。フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会、カルメル会がこれに当たり、托鉢修道会(羅 ORDINES MENDICANTES)と総称されます。十四世紀になると托鉢修道会の宣教活動を通して、とりわけ第三会会員をはじめとする俗人の間に「天使の挨拶」の祈りが広まって行きました。


 十三世紀のラインラント(独 die Rheinlande ライン河沿岸地方)では、ベギン会の活動が盛んでした。ベギンは修道誓願を立てずに俗人の身分のまま、ベギナージュ(仏 béguinage)と呼ばれる施設に共住し、修道生活を送る篤信の人々で、圧倒的多数が女性でした。わが国の史学用語では男女ともにベギン会と呼んでいますが、ドイツ語で女子の姉妹団をベギーネン(独 die Beginen)、男子の兄弟団をベガルデン(独 die Brgarden)といいます。フランス語では姉妹団がベギーヌ(仏 les béguines, f. pl.)、兄弟団がベガール(仏 les bégards m. pl.)またはベガン(仏 les béguins m. pl.)です。

 ベギン会では神秘主義的黙想が重視されており、これがラインラント神秘主義の源泉となって、ドミニコ会士のマイスター・エックハルト(Meisrer Eckhart, c. 1260 - c. 1327)、およびやはりドミニコ会士であった二人の弟子、ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse, c. 1295 - 1365)とヨハネス・タウラー(Johannes Tauler, c. 1300 - 1365)が出ました。しかしながら彼らの思想が異端とされたことで、ベギン会に新しい信仰の指針が必要となり、「天使の挨拶」の祈りが導入されました。

 ベギン会は 2013年に最後の女性会員が亡くなり、消滅しました。



4. デーウォーティオー・モデルナと、「天使の挨拶」



(上) 「デー・イミターティオーネ・クリスティー」(イミターティオー・クリスティー) 1948年のラテン語版 本書はデーウォーティオー・モデルナの流れを汲む最も重要な作品で、現代まで読み継がれています。当店の商品。


 十四世紀のブルゴーニュ公領ネーデルラントでは、共住兄弟団・姉妹団(仏 les frères et sœurs de la vie commune)とヴィンデスハイム律修参事会(仏 la Congrégation de Windesheim 羅 Canonici Regulares Sancti Augustini Vindesemensis, CRV)が中心となり、デーウォーティオー・モデルナ(羅 DEVOTIO MODERNA 現代的信心)と呼ばれる信仰改革運動が興隆しました。デーウォーティオー・モデルナにおいてはアウグスティヌスからハインリヒ・ゾイゼに至る宗教書研究、毎日幾度も行われる瞑想、秩序立った方法で実行される祈りを重視しており、また福音書の場面に身を置く瞑想も奨励されました。このような信仰の在り方に、「天使の挨拶」の祈りはよく馴染みました。

 カルトゥジオ会(仏 l'Ordre des Chartreux 羅 ORDO CARTUSIENSIS)はデーウォーティオー・モデルナに強く共感し、これを修道生活に取り入れていました。ラインラントにある幾つかのカルトゥジオ会修道院では、百五十回の「天使の挨拶」のそれぞれに、イエスに関する異なる言葉が付加されるようになりました。付加されたのは、たとえば「御身の胎の実イエスも祝されたり。イエスはベツレヘムに生まれ給へり」、あるいは「御身の胎の実イエスも祝されたり。イエスは十字架にて死に給へり」というような文言で、福音書の場面に身を置いて黙想する援けとなりました。このような中間段階を経て、十五世紀初頭頃に「天使の挨拶」に後半部分が付け加えられ、現在の天使祝詞が成立しました。



5. ドミニコ会とロザリオ信心会



(上) 稀少品 ノートル=ダム・デュ・ロゼール ロザリオの聖母の大型メダイ ラングドック、ドミニコ会プルイユ女子修道院 直径 25.0 mm フランス 1910 - 30年代 当店の商品


 ロザリオの祈りに三つの玄義を導入したのは、ブルターニュ出身のドミニコ会士アラン・ド・ラ・ロシュ(Alain de La Roche OP, c. 1428 - 1475)と考えられています。

 ブルターニュからパリに出たアラン・ド・ラ・ロシュは、ジャコバン派修道院に入って神学教師となり、北フランスのリール(Lille 現オー=ド=フランス地域圏ノール県)とドゥエー(Douai 同左)、北ベルギーのガン(ヘント Gand/Gent 現オースト=フランデレン州)、北ドイツのロストック(Rostock 現メクレンブルク=フォアポンメルン州)で教鞭を執りました。アランは聖母に深く帰依しており、1470年、ドゥエーにおいて「聖母と聖ドミニコ信心会」(仏 le Confrérie de la Vierge et de Saint Dominique)を設立しました。翌 1471年、アランは天使祝詞の重要性に関する論文で神学博士号を得ました。アランは晩年にフランス、フランドル、ザクセンを巡ってロザリオ信心の普及に尽力し、1475年9月8日、オランダのズヴォレ(Zwolle 現オーファーアイセル州)で没しました。墓所は当地のドミニコ会修道院付属聖堂にあります。

 アランの影響を受けたケルンのドミニコ会修道院長が、最初のロザリオ信心会を創設し、これを皮切りに各地のドミニコ会がロザリオ信心会を設立しました。1485年にはローマのドミニコ会本部がロザリオ信心会設立の責任機関となり、これによってドミニコ会がロザリオ信心の普及に最重要の役割を果たすことになりました。カタリ派と闘う聖ドミニコに対して聖母が直々にロザリオを授け、これを広めるように求めたとされる伝承は、ドミニコ会が中心となってロザリオを広めるにあたり、創作された説話です。



6. レパントの海戦とロザリオの祝日 ピウス五世が三つの玄義を定める



(上) Paolo Veronese,."Battaglia di Lepanto", 1572/3, olio su tela, 169 x 137 cm, Gallerie dell'Accademia, Venezia (註2)


 十三世紀末に興ったオスマン帝国は 1453年にコンスタンティノープルを攻略して東ローマ帝国を滅ぼし、十六世紀に最盛期を迎えました。当時のオスマン帝国は地中海やバルカン半島をはじめ、全方位に拡張を続ける最強の帝国でした。強大なオスマン帝国を前にして、ヨーロッパのキリスト教世界は危機感を強めました。

 オスマン帝国は 1570年にキプロスを奪い、さらに全地中海の制海権を狙いました。ローマ教皇領、スペイン王国をはじめとするキリスト教諸国の艦隊は、1571年10月7日、レパント沖のイオニア海でこれを迎え撃ち、大きな勝利を収めました。オスマン帝国はレパントの海戦に大敗しても衰退したわけではありませんが、全地中海の制海権を握る野望は諦めざるを得ませんでした。

 レパントの海戦を前に、教皇ピウス五世(Pius V, 1504 - 1566 - 1572)はカトリック信徒に対し、聖母の執り成しを得るためにロザリオを祈ることを求めました。海戦の勝利を受けて、教皇グレグリウス十三世(Gregoruis XIII, 1502 - 1572 - 1585)は十月の第一主日をロザリオの聖母の祝日と定めました。後になって、ロザリオの聖母の祝日はレパントの海戦と同じ十月七日に固定されました。


 当初、ロザリオは天使祝詞十回を一連とし、連と連の間に一回の主の祈りを挟み、これを十五回同じように繰り返して祈られていました。しかるにピウス五世は、これまで同質的に繰り返されていた十五連を三つの玄義に分けました。すなわち最初の五連は喜びの玄義で、イエスの誕生と子供時代を黙想します。次の五連は苦しみの玄義で、イエスの受難を黙想します。最後の五連は栄えの玄義で、イエスの復活とその後の出来事を黙想します。三つの玄義を通じて連の祈り方は同じであり、主の祈りを一回唱えた後に天使祝詞を十回唱え、栄唱で締めくくります。天使祝詞を繰り返すことで、祈る人の心は聖母の御心と重なり合い、救い主イエスへと導かれます。



7. ティモテオ・リッチの「ロザリオ・ペルペトゥオ」



(上) 極稀少品 フランスにおけるロゼール・ペルペテュエル 《いとも聖なるロザリオの女王よ、我らのために祈りたまえ》 絶えざるロザリオ会のシャプレ 無原罪の御宿りと組み合わせた作例 真鍮とガラス 全長 45 cm フランス 二十世紀初頭 当店の商品


 フィレンツェ近郊ドミニコ会フィエゾーレ修道院(il convento di San Domenico)の院長であったティモテオ・リッチ師(P. Timoteo Ricci OP, 1579 - 1643)は、1629年、ロザリオ・ペルペトゥオ(伊 l'Associazione del Rosario Perpetuo 絶えざるロザリオ会)を創始しました。ロザリオ・ペルペトゥオはロザリオの祈りを広めることを目的にしており、本部はフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に置かれています。会員には俗人と聖職者の両方が含まれます。

 ロザリオ・ペルペトゥオの会員は、特定の日の特定の一時間のあいだ、単独または集団でロザリオの祈りを行います。それぞれの会員あるいは会員グループがどの日のどの時刻に祈るかは、会の本部から毎月下達される指示によります。祈りの行われるべき時刻は深夜や未明の時刻を含みます。この結果、いつもどこかで誰かがロザリオを祈っていることになります。ロザリオ・ペルペトゥオ(絶えざるロザリオ)という名称は、このような実践の在り方に基づきます。信徒が後退して絶えざる祈りを実践する方式は、我が国の時衆を想起させます(註3)。



8. ポーリーヌ・ジャリコ

 ポーリーヌ・ジャリコ


 フランス革命を皮切りに市民革命や社会主義革命が続発した十八世紀、十九世紀は、カトリック教会にとって大きな試練の時でした。しかし教会の外的危機は、信仰の内的深化の契機ともなりました。ロザリオの祈りもその例に洩れません。

 十七世紀に設立されたロザリオ・ペルペトゥオは、十九世紀には往時に比べて勢いがありませんでした。カトリック信仰におけるロザリオの重要性に変化はありませんでしたが、信心会会員が深夜や未明の割り当てを素直に受け容れる時代は過ぎ去りつつあったのです。十九世紀の人々は、日常生活の中の信仰を、現代人よりも格段に重視しました。それでも近代化すなわち世俗化の波は人々の精神を徐々に浸食し、信仰の業を生活の都合よりも優先させる人は減りつつありました。

 リヨン生まれの女性で、ドミニコ会第三会会員であったポーリーヌ・ジャリコ(Pauline-Marie Jaricot, 1799 - 1862)は、ロザリオ・ペルペトゥオを現代化した信心会として、労働者階級のための信心会「ロゼール・ヴィヴァン」(仏 le Rosaire vivant 活けるロザリオ)を設立しました。ロゼール・ヴィヴァンでは十五名がひとつのグループを成します。グループの成員ひとりずつに、ロザリオの一連が割り当てられ、各人は自分が担当する連を毎日必ず祈ります。このように分担することで、そのグループは十五連のロザリオを毎日欠かさずに祈ることができます。

 ロゼール・ヴィヴァンの会員は深夜や未明に起き出す必要が無く、日常生活の合間に担当の連を祈るだけで済みました。アンシアン・レジーム期のロザリオ・ペルペトゥオ(ロゼール・ペルペチュエル)と比べて、会員の生活に及ぼす影響と負担は格段に小さかったのです。ポーリーヌ・ジャリコのロゼール・ヴィヴァンは、世俗化した近代人によく適合した信心の形態であったといえます。


 ロゼール・ヴィヴァンのもうひとつの目的は、宣教師たちを経済面で支えることです。ポーリーヌの兄フィレアス・ジャリコ(Philéas Jaricot, 1796 - 1830)はサン・シュルピス神学校を出てパリ外国宣教会から河南(南ベトナム)に派遣された人物ですが、ポーリーヌは未だ学生であった当時の兄から、宣教師たちの困難な生活について聞き及んでいました。リヨンは繊維工業が盛んで、ポーリーヌの姉夫婦は織物工場を営んでいましたが、ポーリーヌは信仰深かった姉夫婦と、その工場で働く女工たちから、宣教のための献金を集めるようになりました。しかしながら女工たちから集まる金額は小さかったので、「八日に1スー」の献金をする信心会を一般の人向けに設立しました。1スーは5サンチーム(1フランの二十分の一)で、無理なく寄付ができる金額です。このアイデアが功を奏して、ポーリーヌの宣教信心会は大いに力を発揮しました。

 ちょうどそのころ、ヌーヴェル=オルレアン(la Nouvelles-Orléans ニュー・オーリンズ)の使徒座司教代理イングレシ神父(le père Inglesi)を中心とする聖職者と俗人のグループが、宣教師への経済的支援を効率化すべく方法を探っていました。イングレシ師たちはリヨンにおけるポーリーヌの信心会に関心を示し、1822年3月3日、二つの信心会は合同を果たしました。新しい宣教信心会は発展を続け、1922年には教皇直属の宣教信心会(仏 l'Œuvre pontificale de la Propagation de la foi)となりました。



9. 十月がロザリオの月となる



(上) ルルドの聖母の手彩色カニヴェ 「ベルナデットとひとつになって、心の小さな巡礼を」 "Dévotion à N-D de Lourdes - petit pèrelinage de cœur en union à Bernadette", Ch. Letaille, pl. 417 106 x 71 mm フランス 1876 - 1890年頃 当店の商品


 先に述べたように、レパントの海戦でトルコに勝利した10月7日はロザリオの祝日とされました。教皇レオ十三世(Leo XIII, 1810 - 1878 - 1903)はロザリオを重視し、ロザリオに関して十一もの回勅を出したことで知られています。このうち最初の回勅は 1883年の「スプレーミー・アポストラートゥース・オッフィキオー」(羅 "SUPREMI APOSTOLATUS OFFICIO" 「最高の使徒職の務めによって」)において、レオ十三世は十月をロザリオの月と宣言しました。

 ルルドに出現した聖母は少女ベルナデットに対して、ロザリオを祈るように求めました。このことゆえに、ベルナデットが幻視した聖母は「ロザリオの聖母」(仏 Notre-Dame du Rosaire de Lourdes)と呼ばれます。1908年10月、トゥールーズのドミニコ会はロザリオ巡礼団(仏 le pèlerinage du Rosaire)を組織して聖地ルルドを訪れました。以後現在に至るまで、毎年十月は最も大規模なルルド巡礼の月となっています。



10. 第二ヴァティカン公会議とロザリオ



(上) エキプ・デュ・ロゼールのロゴ


 1962年から 1965年まで開かれた第二ヴァティカン公会議以降、カトリック教会は現代社会に開かれた教会となるべく、対抗宗教改革時代からの方針を大きく転換しました。

 ドミニコ会トゥールーズ修道院のジョゼフ・エケム神父(P. Joseph Eyquem, 1917 - 1990)は、ポーリーヌ・ジャリコのロゼール・ヴィヴァンをヒントにして、1955年、エキプ・デュ・ロゼール(仏 les Equipes du Rosaire)と称する祈り会を創始しました。エキプ(仏 une équipe)はフランス語で班、チーム、グループを指しますから、エキプ・デュ・ロゼールは「ロザリオ・チーム」というほどの意味です。ロゼール・ヴィヴァンと同様に、エキプ・デュ・ロゼールのメンバーにはロザリオの一連が割り当てられ、毎日一回祈りを捧げます。これによってエキプごとに、十五連のロザリオが日々祈られることになります。

 エキプ・デュ・ロゼールという砕けた名前が示すように、これは形式張らない俗人の会です。月に一度の割合で、エキプの十五人が一人のメンバー宅に集まり、ロザリオの祈りや黙想を行いますが、成員の宗教はカトリック、非カトリックを問いません。これは「社会に開かれた教会」という第二ヴァティカン公会議の精神にも一致しています。エケム神父のエキプ・デュ・ロゼールは 1967年にフランス司教団から、1972年にドミニコ会から、それぞれ正式に承認されました。



11. 新玄義の導入



(上) Gérard David, "Altaarstuk van St.-Jan de Doper", 1505, Schilderij olieverf op hout, 128 x 97 cm, Groeningemuseum, Brugge 光の第一玄義であるイエスの洗礼


 2002年10月16日、教皇ヨハネ=パウロ二世は使徒的書簡「ロサーリウム・ウィルギニス・マリアエ(羅 "ROSARIUM VIRGINIS MARIÆ" 「おとめマリアのロザリオ」)を発して、従来のロザリオの祈りに五連を追加しました。この五連はイエスの公生涯を黙想しつつ祈るべきもので、光の玄義(羅 MYSTERIA LUMINOSA)と名付けられています。



12. まとめ

 ロザリオの起源に関するドミニコ会の伝承からは、完成した祈り方と信心具が、聖母から聖ドミニコに与えられたかのような印象を受けます。しかしながらロザリオは長い歴史のうちで徐々に発展してきた祈りであり、聖ドミニコの伝承は歴史的事実ではありません。

 これまでに示したように、主の祈りを百五十回繰り返す祈り方は、十世紀頃のベネディクト会クリュニー修道院の労働修士に起源を有します。この祈り方が広まった後、主の祈りを天使の挨拶に置き換えたのはシトー会で、信心具ロザリオもおそらくシトー会で生まれました。天使の挨拶を百五十回繰り返す祈りは、次いで各托鉢修道会、ベギン会、カルトゥジオ会等に普及します。天使祝詞を完成させたのも、カルトゥジオ会です。ドミニコ会がとりわけ強くロザリオと結びついたのは、そのあとのことです。


 2002年に光の玄義が加わったことからもわかるように、ロザリオは未だ発展を続けています。これから数百年後に、ロザリオはどのような祈り方をされているでしょうか。



註1 「ヨハネの黙示録」十三章一節において海中から出た獣、および同書十三章十一節において地中から出た獣。獣の像については十四節と十五節、獣の名(六百六十六)は十八節に記されている。


註2 ヴェロネーゼの「レパントの海戦」はマニエリスム絵画の特徴が強く表れて、象徴と寓意に満ちている。画面上方には聖母を囲んで聖人たちが描かれている。聖母の右(向かって左)にいるのが聖ペトロ、そこから右に聖大ヤコブ、聖ユスティナ、聖マルコである。聖ユスティナと聖マルコの間にいて聖母に跪く白衣の乙女は、ヴェネツィア共和国の寓意である。





 聖ペトロは繋釈権の鍵によって判別できる。聖ペトロの繋釈権は「マタイによる福音書」十六章十三節から二十節、及びこれと並行のペリコペー(マルコ 8: 27 - 30、ルカ 9: 18 - 21)による。鍵が二本あるのは、義なる生き方によって煉獄を通らずに天国に迎えられる者たちが通る門の鍵と、ひたすら恩寵によって天国に入る者たちが通る門の鍵である。ヴェロネーゼの「レパントの海戦」において、聖ペトロはキリスト教側連合諸国の一つであるローマ教皇領の寓意である。

 聖大ヤコブは巡礼の姿がアトリビュートである。レパントの海戦ではスペイン王国が大きな役割を果たしたが、当時はスペイン王がガリシア王を兼ねていた。しかるにガリシアにはサンティアゴ・デ・コンポステラがあるから、聖大ヤコブは当時のスペイン王国の寓意である。聖母にもグアダルペの聖母のイメージが重ねられていよう。

 レパントの海戦があった十月七日は、聖ユスティナの祝日である。聖ユスティナは四世紀初頭に殉教したと伝えられる聖女で、パドヴァの守護聖人とされる。十五世紀初頭から十八世紀末まで、パドヴァはヴェネツィアの支配下にあった。

 聖ユスティナの右にいるのは聖マルコである。「マルコによる福音書」は荒野の場面から始まるゆえに、この福音記者のアトリビュートはアジアライオンである。ヴェロネーゼの作品においても、聖マルコはライオンを従えている。ヴェネツィア共和国の守護聖人である聖マルコは、白衣をまとうヴェネツィアを聖母に執り成している。

 アドリア海の乙女(伊 la Vergine d'Adria)と称されるヴェネツィア共和国は、ラ・レプッブリカ・セレニッシマ(伊 la Repubblica Serenissima)とも呼ばれ、十七世紀以来はこの呼称を正式な国名に採用した。セレニッシマは「この上なく輝かしい」という意味で、ヴェロネーゼの画中でも輝くように白い衣を着ている。常に誇り高きヴェネツィアも、聖母の前では跪き、敬虔に手を合わせている。ヴェロネーゼはこの作品をムラノ島の教会サン・ピエトロ・マルティーレ(San Pietro Martire 殉教者聖ペトロ)のために描いた。画中ではレパントの海戦においてヴェネツィアが果たした役割が強調されている。

 レパントの海戦時のキリスト教側連合は、上述の主要三か国すなわちローマ教皇領、スペイン王国、ヴェネツィア共和国に加え、ジェノヴァ共和国、トスカナ大公国、サヴォワ公国、ウルビノ公国、マルタ騎士団、聖ラザロ騎士団、聖ステファノ騎士会で構成されていた。聖ユスティナの真向かいにいる人物は、ジェノヴァ共和国以下の国々と騎士団の寓意である。


註3 室町時代までの我が国では一日を十二辰刻(しんこく)に分けた。一辰刻は現代の二時間に当たる。時衆(後の時宗)は一日を二辰刻ずつ六つに分け、僧尼が交代で六時礼賛、不断念仏を行った。



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