カタリ派
cathares



(上) モンセギュール(Montségur)と、山頂の砦 フランスの古い絵葉書


 十二世紀半ばから十四世紀初頭にかけて、カトリック教会とは異なる独自の教区を作り、聖書にのみ基礎を置いて敬虔な信仰生活を実践したキリスト者の集団がありました。彼らは「カタリ派」(仏 les cathares)と呼ばれています。カタリ派の本拠地は南西フランスのラングドック(Languedoc)を中心とする南フランス及び北イタリアですが、北方のフランス王国やライン川以東にも信徒の集団が分布していました。


【「カタリ派」という名称の起源】

 カタリ派に属する信徒を、ラテン語ではカタル(CATHAR 単数主格)、カタリー(CATHARI 複数主格)、フランス語ではカタール(単数形 cathare 複数形 cathares 単複の発音は同じ)といいます。しかるに歴史学において、この呼称は 1950年代以降に一般化したものにすぎません。カタリ派信徒は自らを「善き男」(仏 un bon homme)、「善き女」(仏 une bonne femme)と呼んでいました。カタル、カタリーという自称は、カタリ派自身の手による文書では確認できません。異端審問の記録においても彼らは単に「ハエレティキー」(羅 HÆRETICI 異端者たち 註3)と呼ばれ、カタリ派という呼称は現れません。

 ラテン語の呼称「カタル」(複数形 カタリー)は、ギリシア語で「混じりけが無い、純粋な」という意味の形容詞「カタロス」(καθαρός 男性単数主格)、「カタラ」(καθαρά 女性単数主格)、「カタロイ」(καθαροί 複数主格)に由来します。この語が分離派を指す最初の用例はカイサレアのエウセビオスによるもので、「教会史」においてノヴァティアヌス派(註1)を指しています。カイサレアのバシレイオスは、モンタヌス派(註2)を指すのにこの語を使っています。

 「混じりけが無い、純粋な」というカタロイの語義は、それ自体としては決して悪い意味ではありません。しかしながらノヴァティアヌス派、モンタヌス派はいずれも異端派とされて主流派からは排除の対象となりました。それゆえカタロイ、カタリーという呼称には「忌むべき異端者ども」という侮蔑的色合いが感じられます。

 十一世紀末になると、当時のフランスで最高水準の知識人であった教会法学者、シャルトル司教イヴ(Yves de Chartres, c. 1040 - 1115)の著書に、「カタリー、すなわち清浄者と自称する者たち」(羅 his qui nominant seipsos catharos, id est mundos)への言及が見られます。シュトリュート(Strüth ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡)にあるシェーナウ修道院のベネディクト会士エクベルト・フォン・シェーナウ(Eckbert von Schönau, c. 1120 - 1184)は、1164年頃、アウグスティヌスの「諸々の異端について、クォドウルトデウスに与える書」(羅 "DE HÆRESIBUS AD QUODVULTDEUS")を大幅に引用し、「カタリ派駁論」(羅 "SERMONES CONTRA CATHAROS")を著しています。同書によると、当該の異端派はゲルマニアではカタリーと呼ばれています。1200年頃には作者不詳の著作「ロンバルディアのカタリ派異端について」(羅 "DE HÆRESI CATHARORUM IN LOMBARDIA")が、1241年頃にはモネタ・ダ・クレモナ(Moneta da Cremona, c. 1180 - ?)の「カタリ派を駁す」(羅 "ADVERSUS CATHAROS")が、それぞれ現れました。十三世紀半ばには、カタリ派からカトリックに転向して異端審問官となったレニア・サッコーニ(Rainier Sacconi, + 1262)が「カタリ派大全」(羅 "SUMMA DE CATHARIS")を著しています。

 以上の経緯から分かるように、カタリ派という呼び方はカトリック側によるものです。


【客観的なカタリ派研究の始まり】

 十二世紀に入ると、カタリ派と同様の教義を有する信仰上の集団が西ヨーロッパ各地に出現し、様々な名前で呼ばれました。カトリック教会はこれらの集団を異端派と看做して徹底的に迫害し、火刑や戦闘で数えきれない人々を殺害しました。その無慈悲さは十字軍が行った殺戮や、豊臣秀吉と徳川幕府が切支丹に加えた迫害と変わるところがありません。

 数十年前までのカタリ派研究は常にカトリック教会の視点に立って行われ、公平性を大きく欠いていました。これは宗教者にあるまじき残虐行為を弁解したいという心理も働いていたでしょうが、客観的資料に基づく最も実証的な研究でさえ護教的色彩を帯びていたのは、資料の偏りのために止むを得ない事でもありました。カタリ派信徒は絶滅に追い込まれ、豊富であったはずのカタリ派側の文書も徹底的に破壊、焼却されたゆえに、実証的研究が利用できるのは異端審問の記録などカトリック側の資料のみであったのです。このような状況の下では、カタリ派に対する客観的評価は期待すべくもありませんでした。

 しかしながら二十世紀になってカタリ派自身による数点の文書が発見され、カトリックの色眼鏡を通さない客観的研究が可能になると、カタリ派の真の姿が見え始めました。ようやく判明したカタリ派の姿は福音的プロテスタント教会そのものであり、先駆的宗教改革者といえる人々であったことが分かりました。

 カタリ派をはじめとする中世の分離派は通常「異端」「異端派」と呼ばれ、宗教改革期の分離派は「プロテスタント」「改革派」「ルター派」等と呼ばれます。十二世紀のブルターニュに現れて救世主エウムを自称したエオン・ド・レトワール(Eum/Éon de l'Étoile, + 1150)のような邪教の徒はいつの時代にも存在しますが、十世紀から十二世紀に異端者とされた人々を後世のプロテスタントと比べると、両者はカトリック教会から分離した時期が異なるだけであって、信仰上の主張はまったく共通しています。本稿でも異端という語を使いますが、中世の異端者は決して邪教徒ではなく、正統的信仰の分離派、いわば早生まれのプロテスタントであることを認識する必要があります。


【中世西ヨーロッパにおける分離派の歴史】

1. 紀元千年頃の西ヨーロッパと、分離派教会の登場

 「カタリ派」という名称の起源を説明した節では、記述が教父時代から中世盛期まで飛びましたが、これは偶然ではありません。全体の流れを掴むために単純化して述べるならば、中世初期に分離派(異端派)は存在しなかったのです。すなわちキリスト論、三位一体論など意見が分かれがちな神学上の問題については、様々な教会会議を経て古代のうちに決着が付き、カトリック教会(ἡ καθολικὴ ἐκκλησία ギリシア、東欧、近東の教会を含む公同の教会)は安定期に入りました。中世初期は農業の生産性が低く、生活が苦しい時代でしたが、宗教の教義に直接的に関わるような社会的危機はありませんでした。

 しかるに世の終わりと考えられた紀元 1000年、あるいは 1033年が近づくと、ヨーロッパ社会は大きな不安に襲われました。カロリング朝の断絶に伴って勢力を増した諸侯は農民に重税を課し、また略奪や戦争を繰り返すことで農村や教会に大きな被害を与えました。諸侯と臣下は騎士ですが、この時代には騎士道が未だ成立しておらず、騎士(仏 chevaliers)と言ってもその実態は野盗、野武士に過ぎませんでした。このような状況に危機を感じたフランスの司教たちは、989年のシャルー教会会議以降、数次に亙る教会会議で「神の平和」(仏 la paix de Dieu 註4)を推し進めました。

 「神の平和」は強欲な領主に対抗しようとする運動であり、その限りで良識に適うことのように思えます。しかしながら「神の平和」運動が領主に対して禁じたのは、近隣の領主との戦闘や、武力による略奪でした。逆に言えば教会は平和的手段による収奪、すなわち恣意的で重いタイユ税や、領主が所有する設備の強制使用料による収奪を、教会は禁止しなかったし、むしろ領主側に立ちました。民衆の立場から見ればカトリック教会は平和主義とは言っても領主側に立っているのであって、領主と同様、抑圧者であるに過ぎません。

 隆盛を誇るクリュニー会が端的に示すように、支配階級と一体である教会は権威主義的であるとともに、多大な富を占有していました。また奇跡を起こすという聖像や聖遺物への崇敬を説いていました。カトリック教会のこのような在り方に反発する人々は、聖書に立ち返ることを目指し、使徒を範として清貧に生き、聖職者の贅沢な生活や聖職売買を非難し、聖像や聖遺物への崇敬、聖体の実体変化、幼児洗礼を否定し、水による洗礼に替えて按手(註5)を行いました。1022年、オルレアン司教座聖堂サント=クロワの参事会員十二名がこのような主張を持つ異端者として裁かれました。彼らはサント=クロワで最も学識ある聖職者たちでしたが、教会史上で初めて火刑に処されました。火刑は異端者のみに行われる形であり、最後の審判の際に異端者が復活することを許さないという教会の決意を表します。


2. 十二世紀における分離派の再興



(上) "Bernard de Fontaine Abbé de Clairvaux", une gravure exécutée en 1846


 十世紀後半から西ヨーロッパ各地に起こった分離派あるいは異端派の運動は、十一世紀後半のグレゴリウス改革期に沈静化します。しかしながら十二世紀初頭になると、西ヨーロッパ各地で異端派(分離派)が復活しました。バイエルン、シュタインフェルト修道院のエウェルウィヌスは 1143年、クレルヴォーのベルナールに書簡を送り、ケルンで捕縛された異端派について詳述しています。同書簡によると、異端者たちは質素な生活をする平和主義者で、聖餐は行うが聖体の実体変化を認めず、按手を以て水の洗礼に代えていました。ラインラントのベネディクト会士エクベルト・フォン・シェーナウの「カタリ派駁論」(既出 1164年頃)によると、これらの異端派はゲルマニアでカタリー、フランドルでピフレース(PIPHLES)、ガリアでティスラン(tisserands 織工)と呼ばれます。

 エウェルウィヌスから書簡を受け取った数か月後の 1145年6月、教皇特使を率いてラングドック(註6)を訪れたクレルヴォーのベルナールは、書簡に書かれていたケルンの異端者と同様の「アルビの異端者たち」、すなわちカタリ派を見出します。このときベルナールは多数の分離派(カタリ派)信徒をカトリックに引き戻すことに成功しましたが、1165年にはロンベール(Lombert オクシタニー地域圏タルヌ県)において再び分離派が興隆しました。

 カルカソンヌ出身の十七世紀の歴史家ギュイヨーム・ベス(Guillaume Besse)が 1660年に著わした「ナルボンヌ公候伯史」("Histoire des ducs, marquis et comtes de Narbonne, autrement appellez Princes des Goths, Ducs de Septimanie, et Marquis de Gothie: Dedié à Monseigneur l'Archevesque Duc de Narbonne", Paris, Antoine de Sommaville, 1660)によると、1167年、トゥールーズの分離派教会の働きかけにより、サン=フェリクスで分離派の教会会議(仏 le synode de Saint-Félix)が開かれました(註7)。教会会議の議長はボゴミール派(註8)のコンスタンティノープル司教ニキンタ Niquinta(または、ニケタス Nicetas)が議長を務めました。


3. カストルムの小領主たちの下で繁栄したカタリ派

 十二世紀頃にはイタリアからラングドック、ガスコーニュにかけて、カストルム(羅 CASTRUM 砦、要塞)と呼ばれる村が多数存在していました。カストルムでは丘の頂上に領主の館があり、領民の住居がそれを取り巻き、最外周には城壁が築かれます。1167年に分離派教会会議が開かれたとされるサン=フェリクスも、そのようなカストルムのひとつです。北フランスではゲルマンの慣習法が効力を持ち、領主が有する土地や権利は長男のみが相続しました。これに対して南フランスでは領主の子供たちが共同領主になりました。丘の頂上の城館が手狭になると、彼ら共同領主たちはカストルム内部で村民と同じ空気を吸って暮らし、互いに馴染み合いました。

 カストルム内部には分離派の修道院もありました。カトリックの修道院は人里離れたところにありましたが、分離派の修道院は村民が生活するカストルムの内部にあって学校や施療院としても機能していました。分離派修道院に柵は無く、男女の修道者たちは村民と自由に交流していました。カストルム内部では領主階級の人々も村民に混じって暮らしていましたから、領主階級からも多数の人々が分離派修道者となりました。領主階級はカストルム住民の手本と看做されていましたから、この階級に属する人々が分離派修道者になると、一般の住民にも大きな影響がありました。

 カストルムの小領主たちが分離派を支持したのには、大きな理由がありました。彼らは領主、貴族とは言っても実際には貧しく、村民からカトリック教会に納められるはずの十分の一税を私物化することで、ようやく領主らしい生活を成り立たせていました。カストルムの小領主たちから見れば、自らは働かずに村民に献金を要求し、贅沢な生活をするカトリックの聖職者たちは、利害が対立する敵に他ならなかったのです。一方二元論に立つ分離派は、自分たちが生きるために働きはしましたが、悪なる存在である現世の富に関心を持たず、領主や村民に献金を求めることもありませんでした。また女性に関して言えば、フランス南西部にはカトリックの女子修道院はほとんどありませんでしたから、信仰深い女性たちは挙(こぞ)って分離派の修道者となりました。

 このような事情により、1145年にクレルヴォーのベルナールたちがアルビで、1165年にカトリックの聖職者たちがロンベールで、それぞれ分離派の司教たちと公開討論を行った際も、この地方の貴族たちは分離派を支持しました。分離派に対する支持は、より高位の貴族にも広がってゆきました。ロジェ二世(Roger II Trencavel ou Roger II de Béziers, 1149/1150 - 1194)は 1167年から 1194年までベジエ、カルカソンヌ、アルビの領主(仏 vicomte 副伯)であった人物です。ロジェ二世自身は分離派ではなく、トゥールーズ伯レモン五世(Raymond V de Toulouse, 1134 - 1194)の娘アデライド(Adélaïde de Toulouse, c. 1158 - 1200)を妻としていましたが、義父レモン五世がクレルヴォー修道院長アンリ・ド・マルシ(Henri de Marcy, c. 1136 - 1189)を招いて分離派追放を図った時も、妻とともに公然と分離派を援護し、自身の宮廷から分離派を追放しなかったばかりか、分離派の小領主ベルトラン・ド・セサック(Bertrand de Saissac)を息子の家庭教師兼摂政に任じました。レモン五世の息子であり、父の死後にトゥールーズ伯となったレモン六世(Raymond VI de Toulouse, 1156 - 1222)も、自身は分離派ではありませんでしたが、父の時代とは一転して、トゥールーズの分離派に寛容な態度で臨みました。


【分離派に対する迫害の本格的組織化】

 上述したようにラングドックの分離派は領主の庇護を受け、十三世紀初頭まで平穏に暮らしていましたが、同時代に他地域に住んでいた分離派信徒は、各地においてカトリック教会による苛烈な迫害の犠牲となっていました。

 1157年にランスで開かれたカトリックの教会会議では異端者を告訴する際の手続きが定められました。1184年11月1日から四日間に亙ってヴェローナで開かれた教会会議はカタリ派を断罪し、ワルド派の創始者ピエール・ワルド(Pierre Valdo/Valdès, 1140 - 1217)を破門しました。ロンバルディアのフミリアーティ(羅 HUMILIATI 伊 Umiliati)、アルナルド・ダ・ブレシア(Arnaldo da Brescia, 1090 - 1155)の弟子であるアルナルド派、ミラノのパタリーニ(伊 patarini)もこの教会会議で断罪され、迫害の対象となりました。教会会議の最終日である11月4日に発せられた教書「アド・アボレンダム」(羅 AD ABOLENDAM 「異端を廃絶するために」)は司教の下での異端審問制度を創設し、教皇の世上権によって処罰される異端を示し、異端者は死罪に値するとの宣言とともに、全ての領主が異端者の捜索と排除に加わることを求めました。

 ヴェローナ教会会議以降、異端者とされたヨーロッパ各地の分離派信徒たちは次々に火刑に処せられました。1198年には野心的な性格のインノケンティウス三世(Innocentius III, 1161 - 1198 - 1216)が三十七歳の若さで教皇位に登りましたが、ラングドックの分離派(カタリ派)は当地の領主から庇護を受けており、以前と変わらず平穏に信仰生活を送っていました。


【アルビジョワ十字軍】

 ナルボンヌ(Narbonne オクシタニー地域圏オード県)のシトー会修道院サント=マリ・ド・フォンフロワド(l'abbaye Sainte-Marie de Fontfroide)は、分離派勢力圏におけるカトリックの橋頭堡です。同修道院のシトー会士ピエール・ド・カステルノー(Pierre de Castelnau, c. 1170 - 1208)は 1203年にインノケンティウス三世から教皇特使に任じられ、分離派の勢力を殺(そ)ぐべく、使徒的生活を送りながら南フランスで巡回宣教を行いました。グスマンの聖ドミニコも、ピエールに同行したことがあります。

 当時アルル(Arles プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルル県)はトゥールーズ伯レモン六世の領地でした。レモン六世は分離派の抑圧に非協力的であったので、ピエール・ド・カステルノーはレモン六世に破門を宣告しましたが、その直後の 1208年1月15日、アルル近郊のトランクタイユ(Trinquetaille)において、レモン六世の臣下に暗殺されました。この事件を受けて、1209年6月18日、トランクタイユからおよそ十五キロメートル離れたサン=ジル(Saint-Gilles オクシタニー地域圏ガール県)の修道院(註9)に司教会議が招集され、インノケンティウス三世は十字軍、すなわち武力によるラングドック制圧を求めました。時を置かずに実施されたこの軍事行動を、アルビジョワ十字軍(仏 lacroisade contre les albigeois, 1209 - 1229)といいます。アルビジョワ(仏 les albigeois)とはフランス語で「アルビの住民たち」という意味ですが、ここではラングドックの分離派(カタリ派)を指しています。




(上) "Simon IV de Montfort", gravure exécutée en 1846


 アルビジョワ十字軍を率いたのは、モンフォール=ラモリ (Montfort-l'Amaury イール=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県)の領主であるシモン・ド・モンフォール(シモン四世 Simon IV de Montfort, c. 1170 - 1218)と息子アモリ・ド・モンフォール(アモリ六世 Amaury VI de Montfort, 1192 - 1241)、及びフランス王フィリップ二世オーギュスト(Philippe II dit Auguste, 1165 - 1223)と息子ルイ八世ル・リオン(Louis VIII, dit le Lion, 1187 - 1226)、ルイ八世の息子ルイ九世(Louis iX, dit St. Louis, 1214 - 1270)でした。

 これに対して十字軍に立ち向かったのは、トゥールーズ伯レモン六世(Raymond VI de Toulouse, 1156 - 1222)と息子レモン七世(Raymond VII de Toulouse, 1197 - 1249 )、レモン六世の甥であるアルビ副伯レモン=ロジェ(Raimond-Roger Trencavel, 1185 - 1209)、フォワ伯レモン=ロジェ(Raymond-Roger de Foix, 1152 - 1223)、アラゴン王ペドロ二世エル・カトリコ(Pedro II de Aragón, apodado el Católico, 1178 - 1213)でした。


 アルビジョワ十字軍の最初の標的となったのは、モンペリエから南西に六十キロメートルほど離れた都市ベジエ(Béziers オクシタニー地域圏エロー県)です。シトー会本部修道院ノートル=ダム・ド・シトー(l'abbaye Notre-Dame de Cîteaux)の院長であり、後にナルボンヌ大司教となるアルノー・アモリ(Arnaud Amaury/Amalric, 1160 - 1225)は、1209年7月22日、二万人の兵を指揮してベジエを攻撃し、翌23日までの二日間に亙って殺戮と略奪の限りを尽くしました。

 当時のベジエの人口はおよそ一万人でした。十字軍の手によって殺された人の数は不明ですが、一説によると七千人と見積もられています。シトー会ハイスターバッハ修道院の院長ケザリウス(Caesarius von Heisterbach, c. 1180 - c. 1240)が著した「奇跡の書」(羅 "DIALOGUS MIRACULORUM")によると、指揮官アルノー・アモリ師は「分離派とカトリック信徒をどうやって見分けるのですか」と兵士たちに問われて、「みんな殺せ。神はご自身の民をご存知だから」(羅 Cædite eos. Novit enim Dominus qui sunt eius.)と答えました。「誤ってカトリック信徒を殺しても、彼らは天国に行けるから問題は無い」という意味です。アルノー・アモリ師が実際にこのように発言したかどうかは分かりませんが、当時のカトリック教会は異端者を殺しても罪にならず、その財産も自由に略奪しても構わないと教えていましたから、当時の考え方から言えば、修道院長の発言としてあり得ないことではありません。

 ベジエでの虐殺と略奪で始まったアルビジョワ十字軍は 1229年まで二十年に亙って続き、ラングドック地方は大きな災厄に見舞われました。ベジエの虐殺を逃れた人たちは五十キロメートルほど離れたミネルヴ(Minerve オクシタニー地域圏エロー県 註10)のカストルムに逃げ込みましたが、ここはシモン・ド・モンフォールによって 1210年に攻囲され、百四十人の分離派信徒が火刑に処せられました。翌 1211年、シモン・ド・モンフォールはカルカソンヌ近郊のレ・カセ(Les Cassés オクシタニー地域圏オード県 註11)で二百人の分離派信徒を、ラヴォール(Lavaur オクシタニー地域圏タルヌ県 註12)で四百人の分離派信徒を、それぞれ火刑に処しています。


 多数の都市やカストルムを陥落させた指揮官シモン・ド・モンフォールは、国王フィリップ二世により、1213年にアルビとベジエとカルカソンヌの副伯、1215年にトゥールーズ伯に任じられました。しかしながらシモン・ド・モンフォールは、1218年6月25日、トゥールーズ攻囲戦のさなかに、投石機の石弾に当たって死亡します。父シモンの死後、アモリ・ド・モンフォールが副伯位と伯位を継ぎましたが、この頃には十字軍側が戦闘で疲弊し、一旦陥落させた都市やカストルムもラングドック側に奪い返されていました。アモリが父から継いだ軍隊は、十字軍の開始時に比べて兵の数が減ったうえに、士気も低下していたのです。アモリは小規模な軍を率いてラングドック各地を巡り、いくつかのカストルムを攻め取りましたが、それらの戦果もトゥールーズ伯レモン七世にすぐに奪い返されました。

 1224年の年頭の時点でアモリ・ド・モンフォールの手勢は二十人ほどの騎士とその従者のみとなっていましたが、この頃の彼らはトゥールーズ伯とフォワ伯に攻撃されそうな情勢でした。ラングドック側から攻撃されれば持ちこたえられないことを悟ったアモリ・ド・モンフォールは、1224年1月14日、聖霊降臨節までの休戦協定に署名して、翌1月15日、イール=ド=フランスに向けて逃げ出しました。翌月、アモリ・ド・モンフォールは援軍の派遣を依頼すべくルイ八世に拝謁しましたが、ルイ八世はアモリ・ド・モンフォールをモンフォール=ラモリに任ずる代わりに、ラングドックの領地を王室に差し出すように求めました。アモリ・ド・モンフォールは王の提案に応じ、ラングドックの領地をあきらめました。


 アモリ・ド・モンフォールの軍は戦闘に疲弊してラングドックから引き揚げたわけですが、ラングドック側とて事情は同じでした。十字軍によって多数の人々が殺され、国土は荒廃し、軍は疲弊していました。フランス国王ルイ八世は自身が亡くなる八か月前の 1226年3月、モー(Meaux イール=ド=フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県)での会議にトゥールーズ伯レモン七世を呼び出し、翌4月12日、パリ条約(またはモー条約 le traité de Paris/Meaux)を締結して、少年であったルイ救世に忠誠を誓わせるとともに、トゥールーズ伯領のおよそ半分をフランスに割譲させました。パリ条約により、トゥールーズ伯は自領内のカストルムを取り壊すこと、分離派を積極的に告発することを求められました。さらにレモン七世の子供は娘のジャンヌ一人でしたが、ジャンヌはフランス王ルイ九世の末弟であるポワチエ伯アルフォンス(Alphonse de Poitiers, 1220 - 1271)の妃となることに取り決められました。これは 1226年に割譲を免れた残りのトゥールーズ伯領も、レモン七世の没後にフランス王室の所領となることを意味しました。

 トゥールーズ伯、アラゴン王の有力な封臣(副伯)であったトランカヴィル家(la maison Trencavel)に関して言えば、 1209年8月15日にカルカソンヌ(Carcassonne オクシタニー地域圏オード県)が陥落して以来、同家の所領(註13)はモンフォール家のものになり、トランカヴィル家とその封臣はアラゴン王国に追放されていました。さらに上述の通り、シモンの息子アモリは 1224年に旧トランカヴィル領をルイ九世に献上しました。


【アヴェニョネの事件と、トゥールーズ伯による最後の抵抗】

 アルビジョワ十字軍が終結した 1229年の時点でフォワ伯領は独立を維持していましたが、トゥールーズ伯領とカルカソンヌをはじめとする旧トランカヴィル家領は完全に力を失い、フランス王に服属しました。ラングドックの分離派は当地の貴族によって守られていましたから、ラングドックがフランス領となったことは、分離派の信仰生活に甚大な影響を及ぼしました。すなわちラングドックの分離派は、日本の潜伏キリシタンとまったく同様に、地下教会(隠れた教会組織)を作りました。これに対してカトリック教会は、ドミニコ会とフランシスコ会による異端審問所を設立しました。フランス王国とカトリック教会からこのように抑圧されて、ラングドックでは民衆の不満が渦巻いていました。

 1242年5月28日、トゥールーズ近郊の村アヴィニョネ=ローラゲ(Avignonet-Lauragais オクシタニー地域圏オート=ガロンヌ県)において、ドミニコ会士ギュイヨーム・アルノー(Guillaume Arnaud)とフランシスコ会士エチエンヌ・ド・サン=チベリ(Étienne de Saint-Thibéry)による異端審問の法廷が開かれました。このとき追放貴族ピエール=ロジェ・ド・ミルポワ(Pierre-Roger IX de Mirepoix le jeune, c. 1194 - 1284 註14)に率いられた者たちが就寝中の異端審問官一行を斧で襲って、ギュイヨーム・アルノー、エチエンヌ・ド・サン=チベリを含む十一名を惨殺しました。この事件を引き金にして、ローラゲ(le Lauragais ミディ運河を中心に、トゥールーズ、カストル、カルカソンヌ、パミエに囲まれた地方)に民衆の蜂起が起こりました。好機を捉えたトゥールーズ伯レモン七世はフランス王国との戦争に突入しますが、強力な国王軍の前にトゥールーズ伯側の軍は敗走を続け、1243年5月、遂にルイ九世の軍門に降(くだ)りました。


【モンセギュール攻囲戦】

 1883年のエッチング

 モンセギュール(Montségur)はピレネー山中、フォワ伯領内にあったトゥールーズ伯領の飛び地です。モンセギュールは 1200年の時点で荒廃した状態であったと考えられていますが、1204年頃、ミルポワの分離派教会の聖職者が分離派の領主レモン・ド・ペレイユ(Raymond de Péreille, c. 1186 - ? 註15)にカストルムの再建を要望しました。トランカヴィル副伯、次いでトゥールーズ伯がシモン・ド・モンフォールの軍門に降ると、再建されたモンセギュールのカストルムは重要性を増しました。

 ギラベール・ド・カストル(Guilhabert de Castres)は 1226年から 1240年までトゥールーズの分離派司教であった人物です。1232年、領主レモン・ド・ペレイユはギラベール・ド・カストルの要請に基づき、トゥールーズに潜伏して活動を続けていた司教ギラベール、及び恐らくアジャンとラゼスの司教も受け入れて、モンセギュールを分離派の中心地としました。当時のモンセギュールは、人口およそ五百人のうち、二百人が分離派修道者であったと言われます。

 トゥールーズ伯がフランス国王に降伏した 1243年、カトリック側は分離派根絶のためにモンセギュールを攻略する方針を固め、カルカソンヌのセネシャル(仏 sénéchal 南フランスにおいて裁判などを行うフランス王の代官)であるユーグ・デ・ザルシ(Hugues des Arcis)を作戦の責任者に任じます。モンセギュールを偵察したユーグは、カストルムが険しい山頂にあるために正攻法で攻略できないことを見て取り(註16)、同年五月に攻囲を開始しました。しかしながらモンセギュールに立て籠もる分離派領主レモン・ド・ペレイユは容易に外部と連絡しており、攻囲が不完全であったことが分かります。ユーグ・デ・ザルシがモンセギュールの弱点を探しつつ攻囲を続ける一方で、レモン・ド・ペレイユがトゥールーズ伯(レモン七世)からの救援を待ちましたが、このときレモン七世は教皇から破門を解いてもらう必要があったので、レモン・ド・ペレイユに対してあからさまな軍事援助を行うことはできませんでした。このようにして事態に大きな進展が無いまま、1243年の夏と秋が過ぎ去りました。

 モンセギュールの頂上からおよそ一キロメートル離れたル・ロック・ド・ラ・トゥール(仏 le Roc de la Tour 塔の岩)に、分離派側の小さな砦がありました。1243年晩秋、砦を守る分離派の兵が寝ている間にユーグ・デ・ザルシの兵数名が梯子を使って砦を急襲し、守備兵たちの殺害に成功します。この砦を取ったことにより、ユーグ・デ・ザルシ側はモンセギュールのカストルムと同じ標高の陣地を手に入れました。同年11月、アルビ司教が増派兵を引き連れてモンセギュールに到着し、ル・ロック・ド・ラ・トゥールの陣地に投石機一基を設置します。この投石機により、モンセギュールのカストルムの城壁を破壊することが可能になりました。

 翌 1244年1月、モンセギュールの領主レモン・ド・ペレイユと、その娘婿のピエール=ロジェ・ド・ミルポワの許(もと)に、トゥールーズ伯レモン七世から軍事技師ベルトラン・ド・ラ・バカラリア(Bertrand de la Bacalaria 註17)が派遣され、国王軍に対抗する投石機数機を設置しました。しかしながら翌 2月、三か月に亙って投石機に攻撃された城壁がついに崩れます。戦意を喪失した領主レモン・ド・ペレイユは、分離派司教ベルトラン・マルティ(Bertrand Marti/Marty 註18)の同意を得てカストルムの明け渡しを決意します。条件の交渉は3月1日に行われ、ユーグ・デ・ザルシはレモン・ド・ペレイユとピエール=ロジェ・ド・ミルポワが求める次の条件を受け入れました。すなわち、カストルム明け渡しまで十五日の猶予を設けること。異端審問法廷に出頭することと引き換えに、アヴィニョネの殺害に関わった人々を含むモンセギュール側の騎士たちを赦免し、重罰を科さないこと。分離派の信仰を棄てるのと引き換えに、モンセギュールの住民を助命すること。分離派信仰を棄てない者は火刑に処されること。

 合意された協定通り、3月16日、カストルムは開城されました。協定によると棄教した一般信徒は助命されることになっていましたが、開城直前の 3月13日になって、領主の妻と娘、カストルムを守った騎士たちなどおよそ二十名の男女が司教から按手を受け、修道者になりました。ギョーム・ド・ピュイローランス(Guillaume de Puylaurens)の「年代記」("Cronica")によると、3月16日のモンセギュールには棄教を拒む二百ニ十五名の男女修道者がおり、彼らは杭で作った囲いの中に閉じ込められ、火を放たれて死にました(註19)。


【カタリ派のその後】

 モンセギュールで行われた集団火刑によってラングドックの分離派(カタリ派)は全ての指導者を失い、教会は壊滅しました。一部の信徒と修道者はイタリアに逃れ、当地で小規模な教会を作りました。

 十三世紀末、フォワ伯領の上流貴族であったピエール・オーティエ(Pierre Autier/Authié, PETRUS AUTERII)とギレム・オーティエ(Guilhem Autier/Authié)の兄弟は神の召命を受けてイタリアを訪れ、ラングドックから当地に逃れていた分離派修道者から按手を受けてラングドックに戻りました。二人はラングドックに地下教会を復活させるべく奮闘し、精力的な福音宣教と修道者の叙階を行いましたが、カトリック側は復活しかけた分離派教会の息の根を止めるべく、徹底的な異端捜索を行いました。

 1321年4月にはトゥールーズでピエール・オーティエが、1321年にはヴィルルージュ=テルメネス(Villerouge-Termenès オクシタニー地域圏オード県)でギレム・ベリバスト(Guilhem Bélibaste, c. 1280 - 1321)が、それぞれ火刑に処されました。彼らが死んだことで、按手を授けられる聖職者が居なくなりました。分離派の洗礼すなわち入信の儀式は按手によって行われます。分離派最後の修道者である彼らが亡くなったということは、按手を授ける者がいなくなったということであり、それはすなわち分離派教会の緩慢な死を意味しました。「カタリ派」と呼ばれたラングドックの分離派は、こうして完全に絶滅させられました。


【付論 フランシスコ会聖霊派への異端宣告と弾圧】



(上) Jean Paul Laurens (1838 - 1921), "L'Agitateur du Languedoc", gravée en 1887 par Auguste II Boular (1852 - 1927) pour "Les Amis des arts XIX"


 旧来の異端審問所は司教に従属していた故に、判決が司教区の利害に左右される恐れがありました。それゆえラングドックに新しく設立された異端審問所は、ドミニコ会とフランシスコ会に委ねられました。しかしながらこれら二つの修道会のうち、フランシスコ会は1280年頃までに、主流派である修院派(仏 conventuels コンベンツァル会)と、清貧に徹しようとする聖霊派(仏 spirituels)に分裂しました。両派の対立は十三世紀末から激化し、1318年にはあくまでも清貧を主張して教皇に従わない聖霊派フランシスコ会士四名が異端と宣告され、マルセイユで火刑に処せられるに至りました。

 聖霊派フランシスコ会(仏 franciscains spirituels)は異端審問制度を批判し、清貧と禁欲、使徒的生活を志す同志とも言うべき分離派(カタリ派)を修道院に匿いました。異端審問に反対した闘士として最もよく知られる聖霊派フランシスコ会士は、ベルナール・デリシウ(Bernard Délicieux, c. 1260 - c. 1320)です。ベルナール・デリシウは、1319年、異端審問を妨害した等の嫌疑により、ドミニコ会のベルナール・ギイ(Bernard Gui, c. 1261 - 1331)から有罪を宣告され、翌 1320年、カルカソンヌの獄中で亡くなりました。モンペリエ、トゥールーズ、ベジエには、ベルナール・デリシウの名を冠した街路があります。



註1 コルネリウス(Cornelius, + 253)が第二十一代ローマ司教に選ばれたとき、ノヴァティアヌス(Novatianus, + 258)は強く反発して自らローマ司教を名乗った。ローマ帝国による迫害で一旦信仰を棄てた者たちに関して、コルネリウスは司教がその罪を赦すことができると考えたが、ノヴァティアヌスは彼らが教会に復帰することを認めなかった。

註2 モンタヌス(Montanus)は二世紀のフリギアで活躍したキリスト教指導者で、極端に厳格な禁欲主義を唱えた。モンタヌス派は数百年に亙って存続した。

註3 ハエレティキーはラテン語の形容詞ハエレティクス(羅 HÆRETICUS)の複数形で、ハエレティクスは名詞ハエレシス(羅 HÆRESIS)に由来する。ラテン語ハエレシスはギリシア語ハイレシス(希 αἵρεσις)をラテン語式に書き換えたもの。ハイレシスは動詞ハイレオー(希 αἱρέω 取る)の名詞形で、「採用すること」「選び取ること」という意味である。この語は諸々の信仰上の事柄のうち、自分たちに都合の良いものを選び取る異端派の態度を表す。

註4 メロヴィング家は臣下に封土を分け与えることで領地を失い、これによってメロヴィング朝が衰退した。カロリング朝が同じ轍を踏まないために、カール大帝は忠誠を誓う儀式(ルコマンダシオン 仏 recommandation)を導入するとともに、ミッシー・ドミニキー(羅 MISSI DOMINICI)またはゼントグラーフ(独 Sendgraf)と呼ばれる数人一組の使者を封臣の許に遣わして動向を監視させ、また年に一度は封臣を呼び出して戦闘に参加させた。また封土の所有は一代限りとし、臣下が亡くなるとその封土を返還させた。

 しかしながら大帝を継いだ息子ルイ一世の時代になると臣下に分け与えるべき土地と財産が不足し、戦闘の機会も減り、ミッシー・ドミニキーによる監視の仕組みも効率性を失った。カール大帝自身、封臣が亡くなってもその近親者に乞われれば封土を与えたままにしていたことも、カロリング家の領土喪失を加速させた。ルイ一世には四人の息子がおり、地位と領土をめぐって互いに対立したが、彼らは諸侯の支持を得るべく彼らに自治権を認めたので、カロリング家の弱体化と諸侯の強大化はいっそう進行し、十世紀にはフランス各地に多数の城が築かれた。

 カロリング家の軍は攻撃を主体に訓練されていた。しかるにこの頃の戦闘相手は主に機動性に富んだヴァイキングやイスラム教徒軍となり、カロリング軍はこれにうまく対応できず、実際の応戦は初校に委ねられた。ヴァイキングやイスラム教徒の侵入のみならず、領主間の戦争も多発していたので、領民は非常時に城壁内に避難するべく、城の周囲に居住した。諸侯が領民に及ぼす支配権はこのようにしていっそう強まった。

 諸侯は領民に兵役やタイユ(仏 taille 恣意的な重税)を課し、さらにバナリテ(仏 banalités)といって、領主が所有する水車、パン焼き窯、ブドウ圧搾機等の設備を高額で強制的に使用させた。サリ法典は自らの手による復讐を認め、これをフェーデ(faida, Fehde)と呼ぶが、領主からのフェーデを免れるために支払われる身代金も大きな収入源であった。領地の境界近くに住む住民に対する課税権や招集権を巡って、隣の領主との間に起こる戦争、相続に伴う争いで領主の子供の間に起こる戦争も頻繁に起こり、住民を脅かし苦しめた。

 領主の身勝手な振る舞いによって、教会も害を被った。領主が代替わりした場合、また戦争に勝った領主が領地を広げた場合、教会に寄進された土地が新領主の領地に囲まれることがあった。そのような場合に新領主はしばしば教会の領地も自分の領地であるかのように扱い、徴税税や住民の招集権など、自領と同等の領主権を行使しようとした。この時代の領主は多くの場合野盗と変わらず、武力に訴えて要求を貫き、教会財産の略奪に及ぶことも日常茶飯事であった。

 アキテーヌ公・ポワチエ伯ギュイヨーム四世(Guillaume IV d'Aquitaine, 935 - 995)の下、フランス中西部の町シャルー(Charroux ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ヴィエンヌ県)において 989年6月1日に教会会議が開かれた。この教会会議において、諸侯が貧民や聖職者への襲撃、収奪を中止することを求める運動が開始された。この運動を「神の平和」(仏 la paix de Dieu)という。司教たちは「神の平和」を合言葉に、以後数次の教会会議において要求を拡充し、破門の脅しを以て遵守を諸侯に誓約させた。「神の平和」運動に加わった司教区内に城塞を持つ諸侯は、1040年頃までに司教との誓約を結んだ。しかしながら「神の平和」運動に参加する司教の要求に、横暴な諸侯が素直に従うとは限らず、自領での略奪を認めるなどの譲歩が為される場合もあった。

註5 按手(あんしゅ)とは、新しく信徒となる者や聖職に就く者の頭に手を置き、その者に聖霊を伝える儀式のこと。

註6 「フランス」という地名はパリを中心とするイール=ド=フランス、すなわちオワーズ川(l'Oise)、マルヌ川(le Marne)、セーヌ川(le Seine)に囲まれた地域を指すのが本義であり、六角形のフランス本土全体のことではない。イール=ド=フランスはカペー家領の所在地であり、フランス王国の揺籃の地である。

 広義のフランス(六角形のフランス本土全体)で話される言語は、北フランスのオイル語(仏 la langue d'oïl)、南フランスのオック語(la langue d'oc)に大別される。オイル(oïl)、オック(oc)というのは「はい」という返事の言葉で、これを「オイル」と言うのがオイル諸語、「オック」というのがオック諸語である。オイルのイに付いている二つの点は、トレマ。われわれが「フランス語」と聞いて思い浮かべるイール=ド=フランス方言はオイル語の一種で、「ウイ」(仏 oui はい)は「オイル」が訛ったものである。

 オック語を話す地域をフランス語でオクシタニ(仏 Occitanie)、ラテン語でオクシタニア(羅 OCCITANIA)と呼ぶ。フランス語の形容詞はオクシタン(仏 occitan/occitane)またはオクシタニアン(仏 occitanien/occitanienne)。オクシタニは歴史的地方名であるとともに、現在行われている南西フランスの地域圏の名称でもある。

註7 ギュイヨーム・ベスの説明によると、1652年にトゥールーズ司教座聖堂の参事会員から羊皮紙文書を受け取った。それは 1223年または 1233年に筆写された三点のラテン語文書を要約したものである。オリジナル文書三点の内容は、1167年にサン=フェリクスで開かれた分離派教会会議の議事録、この教会会議でニケタスが行った説教、分離派のトゥールーズ、カルカソンヌ、アジャン各司教区の境界であった。

 1652年にトゥールーズ司教座聖堂の参事会員から受け取ったとする羊皮紙文書を、ギュイヨーム・ベスは「ニキンタ文書」(Charte de Niquinta)と名付け、「ナルボンヌ公候伯史」の巻末で公開した。これがサン=フェリクス分離派教会会議に関する唯一の資料である。しかしながらギュイヨーム・ベス自身も述べているように、1223年(または 1233年)に筆写されたオリジナル文書は失われており、ギュイヨーム・ベスの手に渡った文書の真正性には疑問がある。

 なお教会会議が開かれたサン=フェリクス(Saint-Félix)はトゥールーズの南東四十キロメートルにある町で、現在のサン=フェリクス=ローラゲ(Saint-Félix-Lauragais オクシタニー地域圏オート=ガロンヌ県)に当たる。

註8 ボゴミール派はブルガリアの司祭ボゴミール(Богомил)が十世紀に創始したグノーシス主義とマニ教の混淆宗教で、ブルガリアからセルビア、次いでボスミア、さらにバルカン半島の広い地域に普及した。ボゴミール派はローマ・カトリック教会からも正教会からも異端派と看做され、武力を以て排撃された。ボゴミール派とカタリ派は、水によらず按手によって洗礼を行う点が共通しており、前者の教義がアルメニアから移住したパウリキヌス派によって後者に移入されたと考える説もある。この説は主に九世紀のビザンティン人ペトロス・シケリオーテース(Πέτρος Σικελιώτης シチリアのペトロス)が書き残した資料に基づくが、ボゴミール派からカタリ派への教義伝播を裏付ける文書は見つかっていない。パウリキヌス派( Παυλικιανοί)はマニ教の影響を受けたアルメニアのグノーシス主義者である。

註9 サン=ジル修道院は宗教戦争で大きく破壊され、現在はピエール・ド・カステルノーの墓所である付属聖堂(l'Église abbatiale de Saint-Gilles du Gard)のみが残る。なおピエール・ド・カステルノーは、後に福者に列せられている。

註10 現在のミネルヴは人口百三十人ほどの小村であるが、「フランスで最も美しい村」(Les Plus Beaux Villages de France)のひとつに選ばれており、毎年三十万人以上の観光客を迎えている。

註11 レ・カセも山中の小村で、現在の人口は二百人あまりである。

註12 ラヴォールは現在の人口一万一千人ほどの小都市である。1450年頃から 1600年頃にかけてゲード産業が興隆振興し、ペイ・ド・コカーニュの中心都市として知られることになる。

註13 カルカソンヌ以外のトランカヴィル副伯領は、アグド(Agde オクシタニー地域圏エロー県)、アルビ(Albi オクシタニー地域圏タルヌ県)、アンビャレ(Ambialet オクシタニー地域圏タルヌ県)、ベジエ(Béziers オクシタニー地域圏エロー県)、ニーム(Nîmes オクシタニー地域圏ガール県)の各都市と、ル・ラゼス(Le Razès. オクシタニー地域圏オード県の地域名)。

註14 ピエール=ロジェ・ド・ミルポワ(Pierre-Roger IX de Mirepoix le jeune, c. 1194 - 1284)はフォワ伯の封臣で、ミルポワ(Mirepoix オクシタニー地域圏アリエージュ県)の領主であったが、パリ条約の結果 1229年に領地を失い、追放貴族・領主で構成される武装勢力に加わった。フランス王のラングドック支配に抵抗するこの騎士たちを、ファイディ(仏 les faydits/faidits)という。レモン六世、レモン七世、レモン・トランカヴィルもファイディである。ピエール=ロジェ・ド・ミルポワはモンセギュールを拠点とし、モンセギュール攻囲戦の際には守備側の重要人物となる。

註15 アヴィニョネで異端審問官一行を殺害したピエール=ロジェ・ド・ミルポワは、レモン・ド・ペレイユの女婿(じょせい 娘の夫)である。

註16 モンセギュールは巨大な岩塊であり、接近することがほぼ不可能な天然の要塞である。攻囲戦においてモンセギュールの守備に当たったのは僅か十五名の騎士と五十名ほどの兵士であったが、数千人の正規軍を相手に、およそ一年間に亙って持ちこたえることになる。

註17 ベルトラン・ド・ラ・バカラリア(Bertrand de la Bacalaria)は、フィジャック近郊の村カプドナック(Capdenac オクシタニー地域圏ロト県)の出身。ラ・バカラリア(la Bacalaria)は現在ではラ・ヴァカレリ(la Vacalerie)と呼ばれ、同村内の地名である。カプドナックは「フランスで最も美しい村」(Les Plus Beaux Villages de France)のひとつに選ばれている。

註18 ベルトラン・マルティ(Bertrand Marti/Marty)は、老齢のギラベール・ド・カストル(Guilhabert de Castres)から司教職を引き継いでいた。

註19 ギョーム・ド・ピュイローランス(Guillaume de Puylaurens, 1201/1202 - ?)はカトリック聖職者で、1253年と 1274年には異端審問官を務めている。1228年にカトリックのトゥールーズ司教フルク(Foulques de Toulouse, c. 1155 - 1231)に仕えていたことが知られている。ド・ピュイローランスという呼び名は、1237年から 1240年までピュイローランス(Puylaurens オクシタニー地域圏タルヌ県)の主任司祭であったことによる。

 同時代人によるアルビジョワ十字軍の記録として、韻文によるアルビジョワ十字軍の歌、ピエール・デ・ヴォー・ド・カルネ(Pierre des Vaux de Cernay)による「アルビ史」("Historia Albigensis", 1218)、ギョーム・ド・ピュイローランスの「年代記」("Cronica")の三点が挙げられる。このうち最初の作品はトルバドゥールの歌である。ピエール・デ・ヴォー・ド・カルネの「アルビ史」は聖人伝的色彩が濃い。 歴史記録として最も信頼が置けるのはギョーム・ド・ピュイローランスの「年代記」で、1145年から 1275年までを扱う。



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