サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院
El Real Monasterio de Santa María de Guadalupe, Guadalupe, Cáceres




(上) サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院 正面ファサードと広場


 スペイン中西部でポルトガルと接するエストレマドゥラ自治州は、北のカセレス県と南のバダホス県に分かれます。カセレス県の東部にあるグアダルペ(Guadalupe)は人口二千人余りの小さな町ですが、イベリア半島においてサンティアゴ・デ・コンポステラに次ぐ重要な巡礼地、サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院(西 El Real Monasterio de Santa María de Guadalupe, Guadalupe, Cáceres)を擁し、スペイン語圏をはじめとする全世界のカトリック信徒にその名を知られています。

 伝承によると、十三世紀末か十四世紀初頭頃、グアダルペ川の近くで聖母が牧童に出現し、地中に隠された聖母像を掘り出すように命じました。サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院は聖母像発見の場所に建てられており、地中から見つかったとされる聖母像「サンタ・マリア・デ・グアダルペ」は、現在修道院に安置されています。伝承によると、この聖母像は聖ルカの作で、コンスタンティノープルからローマを経てセビジャに送られた後、イスラムの支配から逃れたセビジャの司祭たちによって、714年頃にグアダルペの山中に秘匿されました。しかしながら実際の「サンタ・マリア・デ・グアダルペ」はロマネスク様式による黒い聖母で、杉材でできています。像の制作年代は十二世紀と考えられています。

 サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院は十三世紀から十八世紀にかけて建設されたため、ゴシック様式、ムデハル様式、ルネサンス様式、バロック様式、新古典様式が混淆しています。1993年にはユネスコの世界文化遺産に選ばれています。


「グアダルペの聖母」の伝承

 中世以降の伝承によると、聖母子像を初めて描いた人物は福音記者ルカでした。この伝承に基づき、ヨーロッパの古い聖母像はルカが描いたり彫ったりしたものであるとされることが多くあります。グアダルペ修道院に安置されている古い聖母像「ヌエストラ・セニョラ・デ・グアダルペ」(Nuestra Señora de Guadalupe グアダルペの聖母)についても、史実と創作が混淆した同様の伝承が存在します。

 グアダルペ修道院の伝承によると、聖ルカは小アジアで亡くなってこの聖母像と共に埋葬され、四世紀中頃にコンスタンティノープルに移された後、教皇ペラギウス二世(Pelagius II, c. 520 - 579 - 590)によって当地に派遣されていたグレゴリウスにより、582年にローマに移葬されました。590年にペラギウス二世が亡くなると、グレゴリウスは次の教皇に選ばれ、大教皇グレゴリウス一世(Gregorius I, c. 540 - 590 - 604)を名乗ります。グレゴリウス一世はコンスタンティノープルから持ち帰った聖母像を教皇の礼拝堂に安置して深く崇敬しました。590年にローマに疫病が流行すると、グレゴリウス一世はこの聖母像の行列を催しましたが、このときハドリアヌス廟(サンタンジェロ城 castellum sancti Angeli)の上に大天使ミカエルが現れ、血に染まった剣を拭って鞘に納める様子が目撃されました。聖母の執り成しによって神の鞭が納められたことを知ったグレゴリウス一世は、聖母像への帰依を深めました。

 大教皇グレゴリウス一世の時代、セビジャの大司教を務めていたのは聖レアンドロ(Leandro de Sevilla, c. 534 - 596)でした。大教皇は、レアンドロの弟であるサン・イシドロ(Isidoro de Sevilla 註1)を通じ、聖ルカ作の聖母像を大司教に贈りました。聖母像がローマからセビジャに運ぶ船は酷い嵐に遭いましたが、聖母の加護によって無事にセビジャに到着し、聖母像は大司教レアンドロに迎られて、司教座聖堂に安置されました。アラブ人は711年にセビジャを征服しましたが、聖母像はこのときまで司教座聖堂にありました。714年頃、セビジャから逃れた数名の聖職者が、セビジャから持ち出した聖母像といくつかの聖遺物をグアダルペ川に近いアルタミラ山地(la Sierra de Altamira)のふもと、ラス・ビジュエルカス(Las Villuercas グアダルペを含む地域)に隠しました。聖母像の存在はそのまま忘れられ、五百数十年が経ちました。

 レコンキスタの時代であった十三世紀末か十四世紀初頭、カセレス(Cáceres 現エストレマドゥラ自治州カセレス県)のあたりに住む牧童が、夕方になって牧群を集めているとき、一頭の牝牛がいなくなっていることに気づきました。牝牛を探して森に入ると、やがて人気のない小川に行きあたりました。さらに三日間歩き続けると、探していた牛が死んでいるのが見つかりました(註2)。せめて牛の革を使おうとして、牧童が小刀で牛の胸に十字の切れ込みを入れたところ、牝牛は生き返って立ち上がりました。このとき聖母が出現し、牧童に対して次のように語りました。

      恐れる必要はありません。わたしは人の救い主であられる神の母です。この牝牛を群れに連れ帰って村に戻り、自分が見たことを司祭たちに話しなさい。私があなたを遣わします。あなたがいま立っているところに司祭たちを連れてきて、この岩の下の、牛が倒れていた場所を掘らせなさい。そうすればわたしの像が見つかります。地中から取り出した像は他の場所に移さずに、小屋を作って安置しなさい。いずれこの場所には名高い聖堂と大きな町ができます。

 聖母はこう語り終えて姿を消しました。牧童が見ると、生き返った牛は木の下で草を食べており、胸の傷は治って十字の痕になっていました。牧童は聖母に命じられたとおりにカセレスに戻り、この出来事を司祭に報告しました。司祭への報告を終えた牧童が家に帰ると、妻が泣いていました。たったいま息子が亡くなったのです。牧童が悲しみを聖母に委ねて祈ると、息子は生き返りました。この奇跡は町中に伝わり、司祭たちは聖母の出現が真実であることを確信しました。

 司祭たちは牧童に従って険しい山道を通って奇跡の場所にたどり着きました。岩の下を掘ったところ、聖母像と幾つかの物品、及び像の由来を記した書き物が見つかりました。像が見つかった場所には隠修の小屋が建てられ、像はそこに安置されました。御出現と聖母像の発見はグアダルペ川付近で起こったので、見つかった聖母像は「グアダルペの聖母」と呼ばれるようになりました。

 なお聖母の出現を受けた牧童の名前「ドン・ヒル・デ・サンタ・マリア」(Don Gil de Santa María 聖マリアのヒル氏)は、ディエゴ・デ・エシハ(Diego de Ecija)修道士の著述に初出します。ディエゴ修道士は 1467年から1534年までサンタ・マリア・デ・グアダルペ修道院に在籍し、修道院の歴史について記録を残した人物です。グアダルペ修道院に伝わる 1710年の文書では、牧童の名前は「ヒル・コルデロ」(Gil Cordero)となっています。


サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院の歴史

 十四世紀から今日に至るサンタ・マリア・デ・グアダルペ修道院の歴史は、大きく三つの時期に分かれます。リンクをクリックすると、該当する時期に関する解説をお読みいただけます。

  I.   プリオラト・セクラルの時代 1320 - 1389年
       
  II.   聖ヘロニモ会修道院の時代
     
      II - 1 聖ヘロニモ会への移行 1389 - 1394年
      II - 2 全盛期 1389 - 1562年
      II - 3 危機 1563 - 1707年
      II - 4 中興 1710 - 1786年
      II - 5 閉鎖と追放 1786 - 1835年
       
  III.   聖フランスシコ会修道院の時代 1908年から現在


 聖母子像「サンタ・マリア・デ・グアダルペ」発見の地にできたグアダルペ修道院は、1389年に聖ヘロニモ会に受け継がれ、十六世紀半ばまで同会の下で大いに繁栄しました。大勢の人々によるグアダルペの聖母への崇敬こそが、グアダルペ修道院が得る収入の基盤でした。グアダルペにおける聖母崇敬は、巡礼及び奇跡から切り離すことができません。

 しかしながら十六世紀になると、増加する巡礼者のイメージは悪くなりました。とりわけ1570年代以降、カスティジャにおける広汎な階層が貧窮し、社会を不安定にしました。巡礼者と貧者は多くの場合に同一視されました。このためカスティジャに住むほとんどの人は、巡礼者に対して同情よりも警戒心を抱きました。しかるに巡礼という中世的な信仰のあり方こそが、グアダルペの聖母への崇敬を構成する最も特徴的な要素のひとつでした。

 社会が巡礼者を警戒するという新しい状況のもと、修道院が信徒から金品を集めることを一切許すべきでないという風潮が生まれました。グアダルペの聖母がスペインの宗教的慣習において果たす役割が縮小し、またグアダルペ修道院が人々に与える印象が悪化するにつれて、修道院に寄せられる布施や少額の寄付は減ってゆきました。グアダルペ修道院の印象が悪化した理由として、スペイン社会における修道士の役割が減り、社会的地位が低下したこと、グアダルペ修道院から派遣されるデマンダドレス(西 demandadores 地方を巡って喜捨を集める担当者たち)の中に、暴虐を働く者があったこと、多額の資産を保有するグアダルペ修道院への反感が挙げられます。さらに宮廷におけるグアダルペ修道院の影響力が低下したこと、カスティジャ国民の広い階層において経済状態が悪化したこと、グアダルペの聖母の信仰が広まるにつれて、この聖母の聖地とされる場所がグアダルペ以外にも幾つもできたこと。これらの要因が重なって、グアダルペ修道院が集める布施や寄付はますます減ってゆきました。ラス・ビジュエルカス(las Villuercas カセレス県東南端、グアダルペが属する地方)における聖母崇敬の中心地として有していた人気を失ったこと、及びグアダルペ修道院の管理と運営を行うヘロニモ会の働きを、イベリア、とりわけカスティジャの社会が評価しなくなったことが、グアダルペ修道院の経済的衰退を決定的にしました。カスティジャにおけるこのような社会情勢を背景に、十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて、グアダルペ修道院は経済的に弱体化しました。

 十八世紀に入るとカスティジャ全体の経済が好転し、少額貨幣及び現物による収入が増えました。これに伴って修道院の経営状態は改善し、グアダルペ修道院は中興期を迎えました。スペイン継承戦争(1701 - 1714年)後、グアダルペ修道院では不作の年に割高な穀物を購入しなくても済むように備蓄を開始し、1760年代初頭頃までには、各会計年度末までに備蓄された穀物量が、同年度に消費された穀物量を上回る年も出てきました。どの部署の備蓄も基準量を超えていたわけではありませんが、グアダルペ修道院共同体を全体としてみれば、穀物不足は解消されました。1779年から 1781年までの三年間を除けば、グアダルペ修道院共同体における穀物の備蓄量は、十七世紀末及び十八世紀初頭の備蓄量をはるかに凌いでいました。このように大量の穀物を備蓄できた事実は、グアダルペ修道院の財政状態が十八世紀に改善していたことを示しています。

 しかしながら1760年代以降、国王カルロス三世(Carlos III de España, 1716 - 1788)は王室の権力強化を目的に、カトリック教会の勢力を殺(そ)ぐべく改革に取り組みます。また 1808年から1814年にかけて、スペインではナポレオン軍を駆逐する独立戦争(西 la Guerra de la Independencia)が戦われましたが、この戦争中、グアダルペ修道院の牧群と農場は非常に大規模な破壊と盗掠に遭い、修道院はそのせいで著しく衰退しました。1833年からは王位継承を巡るカルリスタ戦争(西 las Guerras Carlistas)が起き、自由主義陣営に属するエストレマドゥラ理事会は、1835年9月5日、エストレマドゥラにある全修道院に閉鎖を命じました。こうしてグアダルペ修道院は五百年以上に及ぶ歴史を閉じました

 無住となったグアダルペ修道院は荒廃しましたが、1908年、フランシスコ会修道院として復活しました。グアダルペの聖母は 1928年に戴冠され、修道院付属聖堂は 1955年にバシリカとされました。1993年、グアダルペ修道院はユネスコの世界遺産(Patrimonio de la Humanidad)に登録されました。



註1 三十年に亙ってセビジャ大司教を務めたサン・イシドロ(聖イシドロ Isidoro de Sevilla, Isidorus Hispalensis, c. 556 - 636)は、「語源」("Etymologiae")をはじめとする膨大な著作で知られる優れた学識の教父であり、中世スペイン文明の父と呼べる聖人です。「コンスタンティヌスの寄進状」をはじめとする「偽イシドールス文書」の作者に擬せられたことでも知られています。

註2 動物に導かれて山中に聖地を見出す説話は、洋の東西を問わず広く分布します。ヨーロッパの事例としては、南イタリア、シポント近郊モンテ・ガルガノにおいて、いなくなった牛を探す牧童たちが大天使聖ミカエルの聖地を見出しています。わが国の霊山の開山伝承においても、伯耆大山では金色の狼、立山では熊、高野山では二頭の黒犬、英彦山では白鹿と鷹、羽黒山では三本足の烏が、それぞれ重要な役割を果たしています。




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