イエズスの受洗
the baptism of Jesus




(上) Gérard David, "Altaarstuk van St.-Jan de Doper", 1505, Schilderij olieverf op hout, 128 x 97 cm, Groeningemuseum, Brugge


 共観福音書には、ヨハネがイエズスに洗礼を施した出来事が記録されています(マタイ 3: 13 - 17、マルコ 1: 9 - 11、ルカ 3: 21 - 22)。「ヨハネによる福音書」はこの出来事について詳述していませんが、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降(くだ)って、この方の上にとどまるのを見た。(1: 32)」との記述があります。「マタイによる福音書」 3章 13 - 17節をネストレ=アーラント26版のギリシア語原文、及び新共同訳により引用いたします。

     13. Τότε παραγίνεται ὁ Ἰησοῦς ἀπὸ τῆς Γαλιλαίας ἐπὶ τὸν Ἰορδάνην πρὸς τὸν Ἰωάννην τοῦ βαπτισθῆναι ὑπ' αὐτοῦ. 14. ὁ δὲ Ἰωάννης διεκώλυεν αὐτὸν λέγων, Ἐγὼ χρείαν ἔχω ὑπὸ σοῦ βαπτισθῆναι, καὶ σὺ ἔρχῃ πρός με; 15. ἀποκριθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν πρὸς αὐτόν, Ἄφες ἄρτι, οὕτως γὰρ πρέπον ἐστὶν ἡμῖν πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην. τότε ἀφίησιν αὐτόν.  ..  13. そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14. ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15. しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
         
     16. βαπτισθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εὐθὺς ἀνέβη ἀπὸ τοῦ ὕδατος: καὶ ἰδοὺ ἠνεῴχθησαν [αὐτῷ] οἱ οὐρανοί, καὶ εἶδεν [τὸ] πνεῦμα [τοῦ] θεοῦ καταβαῖνον ὡσεὶ περιστερὰν [καὶ] ἐρχόμενον ἐπ' αὐτόν: 17. καὶ ἰδοὺ φωνὴ ἐκ τῶν οὐρανῶν λέγουσα, Οὗτός ἐστιν ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν ᾧ εὐδόκησα.      16. イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17. そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 


 マタイによると、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説教し (3: 2)、ヨハネの許に集まる人々は罪を告白して洗礼を受けました (3: 6)。「天の国」とは「神の国」と同義で、万事において神の意思が完全に行われ、罪や悪が存在する余地の無い国のことです。そのような国の到来が近いゆえに、すべての人は罪を悔い改めて身を清めよ、とヨハネは説いたのです。洗礼を受けるべくヨハネの許に赴いたのは、自らの罪を自覚した人々でした。

 しかしながらイエズスは悔いるべき罪を持ちません。したがってヨハネから洗礼を受ける必要など無かろうと思われます。実際、ヨハネはイエズスに洗礼を施すことをいったんは断っています。それにもかかわらずイエズスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(15節)」とヨハネを説得し、洗礼を受け給いました。すると天が開けてイエズスに聖霊が降(くだ)り、これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が天から聞こえました。


 イエズスがヨハネから洗礼を受けるという一見不可解な出来事の意味を解く鍵は、上記引用箇所の15節(「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」)にあると思われます。

 上に記したように、ヨハネが説いた「天の国」とは神による統治が完全に確立された国の事ですが、ヨハネはこれを地上に実現される政治的な国家としてではなく、「メシアを信じる人々の心を神が統べ治め給う」状態を指して、精神的な意味に使っています。これが実現されるのは、ヨハネ自身が言う通り、人の心に聖霊が降る(「聖霊と火」による洗礼を授かる 註1)ことによってです。人の心に聖霊が降るとき、神の意思が完全に為されることになるのです。

 上記引用箇所の15節には「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(οὕτως γὰρ πρέπον ἐστὶν ἡμῖν πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην) .とありますが、この聖句のギリシア語を直訳すると、「すべての義が成就される (πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην) のは、我々にふさわしい」と言う意味です。しかるに「すべての義が成就される」とは、「神の意思が完全に為される」という意味に他なりません。

 すなわち、メシアの復活後、メシアを信じる人間(キリスト教徒)の心には聖霊が降るようになるわけですが、イエズスがヨハネから洗礼を受け給うた際、その上に聖霊が降ったのは、「キリスト教徒の心に聖霊が降り、神の意志が完全に為されるようになる(すべての義が成就される、神の国が到来する)」ことの範型であったと考えられます。


 またヨハネの側からいえば、ヨハネは「“霊”が鳩のように天から降(くだ)って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ 1: 32) ゆえに、イエズスをメシアであると確信しました。「ヨハネによる福音書」 1章 29 - 34節を新共同訳により引用します。

     その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。




(上) アンティーク小聖画 「神の子羊イエズス・キリスト」 詩篇40篇 7, 8節 多色刷り石版に金彩 105 x 70 mm フランス 1905年 当店の商品です。


 イエズスがヨハネから洗礼を受け給うた出来事に関するもう一つの解釈として、罪が無いイエズスがあたかも罪びとのように洗礼を受け給うたのは、「神の子羊」であるイエズスが、人の罪を背負って死に給うことの予型であるとも考えられます。「神の子羊」という言葉は上記引用箇所に初出します。「ペトロの手紙 一」 1章 18 - 19節には「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」と書かれています。「きずや汚れのない小羊」という句は、全燔祭の生贄に関する規定(「レビ記」 22章 19 - 25節)を思い起こさせます。



註1 ヨハネ自身の言葉は、共観福音書に次のように記録されています。

     わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(「マタイによる福音書」 3章 11節 新共同訳)
     
     わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。(「マルコによる福音書」 1章 8節 新共同訳)
     
      そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(「ルカによる福音書」 3章 16節 新共同訳)


 イエズスが授け給う洗礼について、上に引用した「マタイ」と「ルカ」では「聖霊と火で」、マルコでは「火で」、洗礼をお授けになる、と書かれています。「マタイ」と「ルカ」の言う「火」とは、聖霊のことです。「使徒言行録」 19章 1 - 7節には次のように書かれています。引用は新共同訳によります。

     アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。


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