サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂
Cathedral de Santiago de Compostela, Santiago de Compostela, Galicia





 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂はイベリア半島の北西の端、ガリシア自治州の州都サンティアゴ・デ・コンポステラ(註1)にあるスペイン最大のロマネスク式(ファサードはバロック式)聖堂です。ここにはスペインの守護聖人使徒大ヤコブ(ゼベダイの子ヤコブ)の墓があるとされ(註1)、エルサレム、ローマに並ぶカトリック巡礼の聖地となっています。


聖堂の歴史

 伝承によると、大ヤコブが西暦44年にエルサレムで殉教したあと、その遺骸は弟子たちの手でガリシアに運ばれ、サンティアゴ・デ・コンポステラに埋葬されました。この地に大ヤコブの墓があることはその後忘れ去られていましたが、アストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, c. 760 - 842) の時代に、あるガリシアの修道士が星 (STELLA) によってコンポステラ (Compostella i. e. CAMPUS STELLAE 註2) に導かれ、聖ヤコブの遺骸を見つけたといわれています。

 聖ヤコブの墓所には、9世紀初めにアルフォンソ2世が最初の聖堂を建てました。アストゥリアス・レオン・ガリシアの王アルフォンソ3世 (Alfonso II de Asturias, c. 848 - 910) は古い聖堂を取り壊し、899年、より大きな初期ロマネスク様式聖堂を建てました。
 しかしこの聖堂は、997年、コルドバのウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)のアル=マンスール (Muhammad ibn Abi-Amir al-Mansur billah, 914 - 1002) が率いるイスラム軍によって放火されて全焼し(註3)、聖堂の扉と鐘は奪われて、コルドバの大モスク(コルドバのメスキータ、現コルドバ司教座聖堂 Catedral de Santa Maria de Cordoba)に運ばれました。

 1075年、カリクストゥス本 Codex Callixtinus (「聖ヤコブの書」Liber Sancti Jacobi)に言及のある「優れたる老建築家ベルナルドゥス」(mirabilis magister Bernardus senex) の監督の下、現在のロマネスク式聖堂の建設が始まりました。サンティアゴ・デ・コンポステラは聖堂建設中の1075年12月、教皇ウルバヌス2世 (Urbanus II, 1042 - 1099) の命により、それまでのイリア=フラビア(Iria-Flavia 現在のパドロン Padron)に替わって司教座となり、1100年には大司教座となっています。聖堂が完成したのは 1128年です。

 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂は、同時期の建築であるトゥールーズの修道院付属聖堂サン=セルナン (Saint-Sernin, c. 1080 - c. 1120) とまったく同一のプランで建てられています。またいずれもロマネスク建築であるコンクの修道院付属聖堂サント=フォワ (Sainte-Foy de Conques)、リモージュの修道院付属聖堂サン=マルシアル (Saint-Martial de Lomoges)、トゥールのサン=マルタン (Saint-Martin de Tours) で使われた建築技法も、 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂において応用されています。 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂を筆頭とするこれら五つのロマネスク聖堂は、当時最も多くの巡礼者が集まった聖地で、いずれも大きな勢力を有しました。

聖堂内部

 司教座聖堂の内部は 97 x 67メートル、高さ32メートルの規模を誇ります。身廊、翼廊ともに側廊に囲まれ、側廊の真上にはトリビューンが設けられています。また後陣には放射状祭室(半円弧上に配置された礼拝堂)を伴う周歩廊があり、両翼廊の東側にも祭室(礼拝堂)が置かれています。これらは巡礼路様式の聖堂、すなわちサンティアゴ・デ・コンポステラ、サント=フォワ・ド・コンク、サン=マルシアル・ド・リモージュ、サン=マルタン・ド・トゥールに共通の特徴です。



(上) サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂 平面図


 司教座聖堂身廊部及び翼廊部の穹窿は半円筒ヴォールトで、これは側廊の交差ヴォールトによって補強されています。

 巨大な身廊部を照らす光源は側廊部およびトリビューンの窓、交差部の採光塔しかなく、聖堂内の大部分は昼間でも薄暗くなっています。これに対して後陣の穹窿には、これを取り巻くようにいくつもの丸窓が設けられてクリアストーリとなっており、祭壇には光が降り注いでいます。主祭壇には天蓋(バルダキノ baldaquino)が架けられています。


 ロマネスク聖堂において、建物を構成する各部分の大きさの比率や形には象徴的な意味があります。

 大きさの比率に関するわかりやすい例としては、13世紀の大建築家ヴィラール・ド・オンヌクール (Villard de Honnecourt, c. 1175 - c. 1250) の画帳にあるシトー会の聖堂のための平面図が挙げられます。この平面図において後陣と身廊の長さの比は 1:2 となっていますが、これはソロモンの神殿における内陣(至聖所、後陣)と外陣の比が20アンマ対40アンマ、すなわち 1:2 であることを思い起こさせます。(列王記上 6: 16, 17)

 形が持つ象徴性について最もわかりやすい例は、まるでビザンティン建築のような特異なロマネスク建築、ペリゴール周辺に見られる連続円蓋式聖堂でしょう。ペリグー司教座聖堂サン・フロン (Cathedrale Saint-Front de Perigueux) はそのひとつです。
 図形のシンボリズムにおいて、天界は完全な図形である円、これに対して地上は四角形で表されます。建築物において、このシンボリズムは、四角い壁に囲まれた四角い空間に円蓋を載せることにより実現されます。
 円蓋は神の座、天を象徴し、栄光のキリスト等の壁画でしばしば飾られます。これに対して四角い壁に描かれる壁画は受肉したキリストの公生涯や聖人の物語を主題にしています。ロマネスク聖堂において、この区別は常に厳格に遵守されます。

 したがって、サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂の身廊は薄暗く、後陣は穹窿(半円蓋)から降り注ぐ光に溢れている理由、その象徴的な意味は、自ずから明らかです。いくつもの円窓を穿たれて光り輝く後陣の穹窿は、神の座、天界を表しています。神は身廊を見渡す後陣の穹窿にいまして、地上の巡礼者たちを見渡しているのです。


【聖ヤコブのクリプト(地下聖堂)】

 主祭壇の真下には、聖ヤコブの墓所であるクリプト(地下聖堂)があります。ここがサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の最終目的地です。聖ヤコブのものとされる遺骸は、1884年、教皇レオ13世 (Leo XIII 在位 1878 - 1903) によって使徒大ヤコブの真正の遺体とされ、銀の聖遺物箱に入れてここに安置されました。

 祭壇は物を置くための台ではなく、生贄(いけにえ)を捧げるためのものです。旧約時代の祭壇では動物の生贄が捧げられていましたが、新約時代には日々のミサにおいて、キリストが生贄として捧げられるようになりました。キリストは最大の生贄ですが、殉教者もまた神に命を捧げた生贄ですから、殉教者の遺骸あるいは聖遺物は祭壇あるいはその周辺に安置されるのです。ときには殉教者の遺骸を納めた棺がそのまま祭壇とされることもありました。

 上記の理由で、主祭壇周辺こそが聖遺物の保管にふさわしい場所ですが、1589年、イギリス、オランダのプロテスタントによる破壊を免れるために、使徒の遺体は別の場所に隠され、その後長い間に忘れられていました。遺体が再発見されたのは 1879年のことでした。



西側ファサード

 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂の西側ファサードは、フェルナンド・デ・カサス・ノボア (Fernando de Casas Novoa, 1670 - 1750) が 1738年から 1750年にかけて製作したチュリゲラ様式 (西 El churrigueresco/churriguerismo, 仏 Le churrigueresque 註5) の装飾で飾られ、その装飾の細かさが金細工を連想させるゆえに、「金細工師の広場のファサード」(Fachada de la Plaza del Obradoiro 註6) と呼ばれています。

 ファサード中央の最上部に近い場所には聖ヤコブ像、その両側斜め下には巡礼の姿をした二人の弟子の像が据えられています。また、右(向かって左)側の塔には使徒の父ゼベダイ、左(向かって右)側の塔には使徒の母サロメと呼ばれるマリアの像があります。ゼベダイ像の両側斜め下には聖スザンナと洗礼者聖ヨハネの像、マリア=サロメ像の両側斜め下には聖バルバラと使徒小ヤコブの像があります。



サンティアゴ・デ・コンポステラをめぐる習俗

 中世のロンドンでは、ガリシアまで巡礼に出かけられない貧民のために、聖ジェイムズ(サンティアゴ)の祠がいくつも建てられていました。1920年代頃まで、毎年7月25日(聖ジェイムズの日)にロンドンの貧しい地区で見られたグロット・デイ(英 Grotto Day)の風習は、中世の祠の名残です。この日、子供たちは巡礼のイタヤガイの代用である蛎殻のほか、小石、木の葉、花、苔などでグロットと呼ぶ小さな囲いを作り、そのそばに跪いて「岩屋を忘れないで」と通行人に呼びかけながら、帽子に半ペニーほどの小銭を乞いました(註7)。

 ガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステラは中世ヨーロッパにおいてローマに並ぶ最大の巡礼地であり、ロンドンのグロットはこの聖地の代用として作られた小聖地です。近現代のヨーロッパで最大の巡礼地はおそらくルルドですが、各地のカトリック教会にはルルドのグロットが作られていて、中世ロンドンにおける聖ジェイムズのグロットと同様の役割を果たしています。我が国で伏見稲荷や諏訪社、八幡社が各地に勧請されたり、江戸市中のあちこちに富士塚が造られたりしたのも、これと同様の現象といえます。



註1 サンティアゴとは「聖ヤコブ」を表すスペイン語で、ラテン語サンクトゥス・ヤコブスが訛ったものである。

   SANCTVS IACOBVS (SANCTUS JACOBUS) → Santiago

 俗ラテン語および中世スペイン語において、この語形変化は次のようなプロセスで起こる。

・対格 SANCTUMから、連続する黙音[kt]の[k]が脱落する。UMの[m]は弱化したうえ消失し、[u]は次に続く母音[ja]に同化吸収されて消失する。すなわち SANCTUM → Sant-*

・対格 JACOBUM の語尾UMの[m]が弱化したうえ消失したのちに、[u]が[o]に変化する。また中世スペイン語において、母音にはさまれた無声子音は有声化するという規則に従い、Cの音[k]が[g]になる。さらに同じく中世スペイン語において、母音にはさまれた有声子音は消失するという規則に従いB[b]が消失して、この前後の[o]が融合する。すなわち JACOBUM → iago*

 なお十二世紀当時はコンポステラだけでなく、ハンガリー、シャマリエール(Chamalières オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ピュイ=ド=ドーム県)、クータンス(Coutances ノルマンディー地域圏マンシュ県)、サン=セーヌ(Saint-Seine ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ニエーヴル県)にも聖大ヤコブの遺体があるとされていた。「コーデクス・カリクスティーヌス」(羅 CODEX CALIXTINUS カリクストゥス本)別名「リベル・サンクティー・ヤコビー」(LIBER SANCTI JACOBI 聖ヤコブの書)は、サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼案内である第五巻において、聖大ヤコブの遺体を安置すると称するコンポステラ以外の聖地を激しく非難している。


註2 聖遺物発見の経緯に関するこの伝承は、コンポステラという地名がラテン語の「星の原」(羅 CAMPUS STELLAE) に由来するという民間語源説に沿って形成されている。

 コンポステラの実際の語源は、墓所を指すラテン語 COMPOSITA TERRA (原意「整地された地所」)を省略してCOMPOSITA一語で表し、その語幹COMPOSIT-に縮小辞 -ela を付けたものと考えられる。コンポステラという地名はガリシア以外のスペイン本土及び新大陸にも分布する。コンポステラが墓所の意味であるならば、キリスト教以前の宗教において霊力が宿る場所とされ、やがて聖ヤコブ伝説と結びついて聖地になっていったのも、自然な成り行きと考えられる。

 フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路は天の川(仏 la Voie lactée 乳の川)をたどるゆえに、コンポステラが星の原という意味ではないにしても、サンティアゴ巡礼には天の川のイメージが容易に結びつく。アルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」には、宝石のような小品、「星」("Les Etoiles") が収録されている。


註3 聖堂は石造建築であるが、初期ロマネスク建築において天井まで石造であったのは多くの場合内陣のみで、身廊および翼廊の天井は木造であった。後に技術が進歩するとこれらの部分にも石造の穹窿を架けることが可能になるが、穹窿が石造であっても、その上に棟木を置いて屋根を架けていた。また鐘楼の骨組みも木造であるのが普通であった。


註4 この扉と鐘は1236年にコルドバを攻略したカスティリア王フェルナンド三世 (Fernando III, el Santo, 1201 - 1252) によってメスキータから奪い返され、トレド司教座聖堂 (Catedral de Santa Maria de Toledo) に運ばれた。


註5 チュリゲラ様式は十八世紀のスペイン・バロック建築において隆盛を見た。過剰とも思える装飾ゆえに悪趣味の極致とも評されるが、バロック芸術の到達点として興味深い建築様式である。

 下の写真はチュリゲラ様式の名前のもととなったホセ・ベニト・デ・チュリゲラ (Jose Benito de Churriguera, 1665 - 1725) が、1693年に製作したサラマンカのサン・エステバン教会の主祭壇衝立(ついたて)で、紀元前 586年にバビロニアにより破壊されたソロモン神殿の柱(ボアズとヤキン)に想を得た太い捻り柱(いわゆるソロモンの柱)と、濃密な枝葉装飾を特徴とする。ソロモンの柱はベルニーニ (Giovanni Lorenzo Bernini, 1598 - 1680) が 1623年から 1633年にかけてヴァティカンのサン・ピエトロに製作した天蓋付き椅子、バルダッキーノ (baldacchino) にも採用されている。ボアズとヤキンについては「列王記 上」 7: 15 - 22に記述がある。



 次の写真はナルシソ・トメ (Narciso Tome, c. 1694 - 1742) と4人の息子が1729年から 1732年にかけて製作した礼拝堂の祭壇衝立エル・トランスパレンテ(西 el Transparente)で、トレド司教座聖堂の周歩廊にある。エル・トランスパレンテという名前は、この祭壇衝立が、聖体を安置するタベルナクルムに光が降り注ぐように作られていることに由来する。




註6 oiro はガリシア方言で金(カスティリア語の oro)のこと。


註7 A. R. ライト著 堀川哲夫訳 「イギリスの民俗」(民俗民芸双書 84) 岩崎美術社 1981年 本文70ページ、及びこの箇所の註66(165ページ)

 著者のライト氏(Arthur Robinson Wright, 1862 - 1932)は特許局で働く傍ら五千冊にも上る民俗学の本を集めて研究し、英国民俗学会(the Folklore Society)の会長にも選ばれた。邦訳書「「イギリスの民俗」の原書は 1928年に発行された「イングランドの民俗」("English Folklore")で、当時の新聞記事や裁判記録、口コミなどに基づいて書かれており、戦間期のイングランドにおけるフォークロアの貴重な記録となっている。




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