パリ外国宣教会
La société des Missions étrangères de Paris (MEP)




(上) Charles de Coubertin (1822 - 1908), Le Départ des Missionaires, 1868 (Salon de 1869), chapelle des Missions étrangères, rue du Bac, Paris 註


 パリ外国宣教会 (La société des Missions étrangères de Paris, MEP) はその名の通りパリに本拠を置き、外国への宣教、すなわち外国に教会を設立し、その地の司教のもとで聖職者を育てることを目的とする団体です。パリ外国宣教会は代牧区司教のもとで福音宣教に携わるべく派遣された司祭によって構成されます。パリ外国宣教会は各地の代牧区司教がパリに擁する代理人の合議のもと、その指揮を受ける宣教者の団体であって、修道会ではなく、その会員が修道者と看做されることもありません。

 最初、パリ外国宣教会の宣教師になるのは司祭のみでしたが、1840年以降は神学生も受け入れるようになりました。またもともとは布教聖省の決定によって教区司祭がパリ外国宣教会に派遣されていましたが、1917年に教会法が改正されて以降は独自に総長を選び独自の会則を制定する自律的性格を強めました。


 キリスト教は歴史上のあらゆる宗教のなかで、とびぬけて多くの殉教者を出しており、33年から 1900年までの殉教者数 1400万人、20世紀の殉教者数 2600万人、あわせて4000万人といわれています。イエズス会やフランチェスコ会とならんで、パリ外国宣教会も極東地域で非常に多くの殉教者を出しました。


【パリ外国宣教会 殉教の歴史】

 1861年にハノイで殉教したジャン=テオファン・ヴェナール師


 パリ外国宣教会の歴史は 1663年、パリ外国宣教会本部が現在置かれているバック通りの同じ場所に、「外国宣教学院」(Séminaire des Missions étrangères) が設置されたことに始まります。この頃イエズス会士アレクレンドル・ド・ロド (Alexandre de Rhodes, 1591 - 1660) は教皇アレクサンドル7世に働きかけて、3人の代牧区司教を含む17人をフランスからアジアに派遣し、現地の政治に関与せず、現地の習俗に馴染む現地出身の聖職者を現地の教会のために育てる計画を始めました。アジアへの航海には二年の月日を要し、このとき派遣された17人のうち、司教 1人を含む 8人が旅の途中で亡くなりました。

 1700年までにトンキン(ベトナム北部)、コーチシナ(ベトナム南部)、カンボディア、タイで 40,000人以上が洗礼を受け、タイのアユタヤには神学校が設立されました。さらにベトナムには女子修道会ができ、ベトナム人司祭 33名が叙階されました。1776年には教皇庁の要請により、イエズス会に代わってインド南部で布教するようになりました。

 任地に定着する傾向のあったイエズス会の宣教師たちとは対照的に、パリ外国宣教会の宣教師たちは積極的に新しい土地に行き、信者獲得に努めました。会の活動はフランス革命の際に停滞しましたが、それでも1700年代の終わりには司教6人に現地人司祭 135人、神学校は9箇所を数えました。また信徒数は 30万人で、毎年 3,000人から 3,500人が受洗していました。

 1800年代に入ると布教聖省の財政援助のため、また汽船の実用化やスエズ運河が開通したこともあって、パリ外国宣教会は急速に発展しました。フランス・カトリック教会が革命の痛手から立ち直るにつれて、パリ外国宣教会には熱意溢れる若い司祭たちが入会しました。革命後に「外国宣教学院」が再開したのは 1815年のことですが、入会してくる宣教師たちは大部分が地方の貧しい家庭の出身で、その多くが近親者の反対を押し切り、ときにはひそかに家を出た若者たちでした。それゆえ若者同士は強い絆で結ばれていました。

 教皇グレゴリウス16世は 1831年に日本と朝鮮を、1838年に満州を、1841年にマレーシアを、1846年にチベットとアッサムを、1849年に中国の3地域を、1855年にビルマを、パリ外国宣教会に任せました。

 パリ外国宣教会の活動が盛んになるにつれ、布教地で宗教的迫害を受けることも多くなりました。ヴェトナム、中国、朝鮮では、フランス人宣教師、現地人司祭、現地の平信徒を含め、それぞれ数百人規模の殉教者が出ました。下のリストにあるフランス人聖職者たちは、ヴェトナムと中国で殉教した人たちのごく一部です。

殉教者 殉教の日 殉教の場所 処刑の方法 列福した教皇と日付 列聖した教皇と日付
四川の使徒座代理区長デュフレス師
(Jean-Gabriel-Taurin Dufresse, 1750 - 1815)
1815年9月14日 中国 四川 斬首 レオ13世
1900年3月27日
ヨハネ=パウロ2世
2000年10月1日
ガジュラン師
(Francois-Isidore Gagelin, 1799 - 1833)
1833年10月17日 ヴェトナム フエ 絞殺 レオ13世
1900年3月27日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
マルシャン師
(Joseph Marchand, 1803 - 1835)
1835年11月30日 フエ 赤熱したやっとこで拷問死 レオ13世
1900年5月7日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
ジャカール師
(Francois Jaccard, 1799 - 1838)
1838年9月21日 クアンチ 絞殺 レオ13世
1900年3月27日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
コルネ師
(Jean-Charles Cornay, 1809 - 1837)
1837年9月20日 ハタイ 斬首の上、解体 レオ13世
1900年2月8日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
デュムラン=ボリ師
(Pierre-Rose-Ursule Dumoulin-Borie, 1808 - 1838)
1838年11月24日 ドンホイ 斬首 レオ13世
1900年5月27日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
シェフラー師
(Augustine Schoeffler, 1822 - 1852)
1852年5月1日 ソンタイ 斬首 ピウス10世
1900年5月27日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
ヴェナール師
(Jean-Théophane Vénard, 1829 - 1861)
1861年2月2日 ハノイ 斬首 ピウス10世
1909年5月2日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
ボナール師
(Jean-Louis Bonnard, 1824 - 1852)
1852年4月30日 ナムディン 斬首 ピウス10世
1909年5月7日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
ネロン師
(Pierre-Francois Néron, 1818 - 1860)
1860年11月3日 ソンタイ 斬首 ピウス10世
1909年5月2日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
キュエノ師
(Étienne-Théodore Cuenot, 1802 - 1861)
1861年11月14日 ビンディン 斬首 ピウス10世
1909年4月11日
ヨハネ=パウロ2世
1988年6月19日
シャドレーヌ師
(Auguste Chapdelaine, 1814 - 1856)
1856年2月29日 中国 広西 斬首 レオ13世
1900年3月27日
ヨハネ=パウロ2世
2000年10月1日
ネエル師
(Jean-Pierre Néel, 1832 - 1862)
1862年2月18日 貴州 髪を馬に結んで引きずり回してから斬首 ピウス10世
1909年3月2日
ヨハネ=パウロ2世
2000年10月1日

(下) マルシャン師の殉教(1835年11月30日・左)と、コルネ師の殉教(1837年9月20日・右)



(下) デュムラン=ボリ師の殉教 1838年11月24日




 「殉教者の血は教会の種である」とのテルトゥリアヌスの言葉どおり、殉教者が多く出た教区からはより多くの青年たちが宣教師に志願して殉教者となりました。たとえば上の表のガジュラン師、マルシャン師、キュエノ師はいずれもブザンソン出身ですし、コルネ師、ヴェナール師はポワチエ出身です。



註 パリ外国宣教会の礼拝堂に架かっているシャルル・ド・クーベルタンの作品、「出発する宣教師たち」。画面の向かって右、ズワーヴ兵と握手しているのは、ソウルで斬首され殉教した聖ジュスト・ド・ブルタニエール (St. Just de Bretenières, 1838 - 1866)。右端で椅子に掛けているのはドミニコ会のラコルデール神父 (P. Henri-Dominique Lacordaire, 1802 - 1861)。宣教師のひとりを抱擁しているのはシャルル・グノー (Charles Francois Gounod, 1818 - 1893)。グノーはパリ外国宣教会のオルガニストを勤めており、1851年には「使徒たちの女王に捧ぐ ― 宣教師たちの出発のための歌」("à la Reine des Apôtres - Chant pour le Dèpart des Missionnaires") を作曲しています。手前にいる二人の子供は、画家の娘マリと息子ピエール。画家自身の姿も左端に描かれています。



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