生命の泉なるエウカリスチア 幼子イエスと神の子羊、洗礼者ヨハネ アール・ヌーヴォーのカニヴェ 版元不明

 Enfant Jésus. Agnus Dei et Jean le Baptiste, éditeur inconnu


106 x 67 mm

フランス  19世紀末頃



 19世紀末のアール・ヌーヴォー期にフランスで制作されたカニヴェ。「キリストの受難により、永遠の新しい命が人間に与えられた」というキリスト教信仰の核心を、伝統的美術様式のうちに形象化しています。

 本品の特色を表現様式に関して見ると、切り紙細工に見られる写実的な植物文様、及び左右非対称の有機的曲線に、日本美術の強い影響を読み取ることができます。

 内容に関しては、現世・来世の次元の違いを技法の違いに反映し、現世に受肉し給うたイエスを版画で、神の住まう天上及び来世の楽園を切り紙細工とエンボスで表しています。イエスが持つ葡萄の果汁は、聖心から滴る血の隠喩です。その真上と真下には、「三位一体」と「生命の水」を配置しています。縦の直線上に配置されたこれら三つの要素、すなわち「三位一体」、「聖心」、「生命の水」は、次元を超越する「救世の軸」であり、版画と切り紙細工を有機的に連関させて、カニヴェのテーマを明らかにしています。

 裏面では、「受難の完全な再現であるエウカリスチアは、魂が生きるために必要な糧である」ことが、イエスの言葉の形を取って述べられています。





 楕円形に近い本品は、縁だけでなくほぼ全体が切り紙細工で飾られています。切り紙細工の最下部にある泉水からは、豊かな量の水が湧出するとともに、活き活きとした植物が生え出で、鳥たちがさえずっています。天上の三角形は三位一体の象徴で、テトラグランマトン (τετραγράμματον)、すなわち神の名を表すヘブル語アルファベットの四文字 (יהוה YHWH) が記されています。植物をはじめとする各モティーフは、切り紙の細密さと相俟って、立体的なエンボス(型押し)が施されているために、実物を見るかのような再現性を有します。





 咲き乱れる花々のあいだに鳥が遊ぶ図柄は、古典古代以降の地中海沿岸に広く分布します。この種の図柄が邸宅の壁に描かれている場合は上流階級の田園趣味を窺(うかが)わせますが、墓室の床や壁面、聖堂に描かれている場合、異教徒、キリスト教徒を問わず、死後の魂が住まう楽園を描写しています。

 上の画像は楽園の風景を描いた5世紀のモザイク画で、ナポリ近郊の礼拝堂にあります。生命の水から生え出ているのは生命樹で、葡萄の木として表されています。楽園の鳥は死者の魂、あるいはいつか死すべき人間の魂を表しています。死すべき人間の魂は、花々が咲き乱れる楽園において生命の水を飲み、永生あるいは再生に与(あずか)ります。




(上) ウジェーヌ・アンドレ・ウディネ作 大型メダイユ 「わが肉を食らひ血を飲む者は永遠の命を得べし」 1854年 (部分) 当店の商品です。


 上に示すのは洗礼記念のメダイユ彫刻で、19世紀のフランスにおける作例です。二羽のが水を飲む姿は、キリスト者が洗礼の水によって再生に与かり、永遠の生命を得ることを意味します。このメダイユには「わが肉を食らひ血を飲む者は永遠の命を得べし」(Celui qui mange ma chair et boit mon sangue a la vie éternelle, et je le ressusciterai au dernier jour.) という「ヨハネによる福音書」 6章 54節の言葉が刻まれています。水盤の水を飲む鳥は、キリストの血を飲んで永遠の生命を得るキリスト者の魂を象徴しています。楽園において「生命の水」を飲む鳥、という古代ローマ美術以来のテーマがキリスト教文化に取り入れられて、あたかも地下水脈のように途絶えることなく伝えられていることがわかります。

 「生命の水」は壺や水盤等に溜まった水として描かれる場合もありますが、キリスト教美術においては動かない溜まり水よりもむしろ常に湧き出す泉として表現されることが多くあります。新しい水を湧出し続ける泉は新生、再生の象徴です。上のメダイユ彫刻においても、本品(カニヴェ)の切り紙細工におけると同様に、「生命の水」は豊かに湧き出す泉水として表現されています。





 美術史のコンテクストから明らかなように、本品の切り紙細工は古代以来の地中海美術の伝統を受け継いでいます。泉水から豊かに湧き出しているのは、「生命の水」に他なりません。また二羽の鳥はキリストに救われて永生を得た人間の魂に他なりません。


 切り紙細工の植物は、楽園の花や果実を表しています。葡萄、百合、薔薇を判別できますが、これらの植物種がキリスト教美術において豊かな象徴性を担うことは指摘するまでもありません。

 まず第一に、葡萄はオリーヴやイチジクと並んで、メシアの到来を象徴する木でもあります。「ヨハネによる福音書」 15章 1 - 10節において、イエスは弟子たちに対して葡萄の木のたとえ話を語り、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。このたとえ話において、葡萄の幹はイエスを、葡萄の枝はイエスの弟子(キリスト者)を、農夫は父なる神を象徴しています。新共同訳により、該当箇所を引用します。


      「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 (「ヨハネによる福音書」 15章 1 - 10節 新共同訳)



 次に百合は、キリスト教の象徴体系において「純粋さ」「罪の無さ」「純潔」「処女性」を表しますが、良く知られているこれらの意味以外に、「神に選ばれた身分」を象徴します。「雅歌」 2章において、ソロモンは次のように謳っています。1節から 6節をノヴァ・ヴルガタと新共同訳により引用します。2節は若者の歌、それ以外は乙女の歌です。


        NOVA VULGATA    .... 新共同訳 
               
    1.    Ego flos campi
et lilium convallium.
    わたしはシャロンのばら、
野のゆり。
             .  
    2.   Sicut lilium inter spinas,
sic amica mea inter filias.
  おとめたちの中にいるわたしの恋人は
茨の中に咲きいでたゆりの花。
             .  
    3.  Sicut malus inter ligna silvarum,
sic dilectus meus inter filios.
Sub umbra illius, quem desideraveram, sedi,
et fructus eius dulcis gutturi meo.
    若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
森の中に立つりんごの木。
わたしはその木陰を慕って座り
甘い実を口にふくみました。
    4.   Introduxit me in cellam vinariam,
et vexillum eius super me est caritas.
    その人はわたしを宴の家に伴い
わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。
    5.   Fulcite me uvarum placentis,
stipate me malis,
quia amore langueo.
    ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。
わたしは恋に病んでいますから。
    6.   Laeva eius sub capite meo,
et dextera illius amplexatur me.
    あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。



 最後に薔薇は、本来五枚の花弁を有するゆえに、赤い薔薇はキリストが受難の際に負い給うた五つの傷、すなわち両手、両足、脇腹の傷を象徴します。キリスト受難の象徴であるということは、神の愛の象徴であるということでもあります。本品の切り紙細工は楽園の風景をテーマに制作されていますが、これに対してカニヴェ中心部の版画は、キリストの受難をテーマとしています。切り紙細工の薔薇には、カニヴェ中央部の版画が表す「キリストの受難」と、周辺部の切り紙細工が表す「楽園」「永遠の生命」を有機的に関連付ける役割が与えられています。この関連付けにより、後者がキリストの受難によってこそもたらされることが明らかになります。





 本品の版画は葡萄を手にする幼子イエスと、葡萄から滴る果汁を杯に受ける洗礼者ヨハネを描いています。イエスよりも半年分だけ年長の洗礼者ヨハネは、やはり幼子の姿で表されています。イエスの左下(向かって右下)に描かれているのは、アグヌス・デイ(AGNUS DEI 神の子羊)です。

 イエスが葡萄をちょうど胸の高さに持ちあげているために、葡萄から滴る果汁は、聖心から滴る血を思い起こさせます。イエスは受難の直前、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をなさった際に、パンを弟子たちに与えて「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言い、また葡萄酒を弟子たちに与えて「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と告げ給いました。(「マタイによる福音書」 26章 26 - 29節) この版画で葡萄から滴る汁は、人間の罪が赦されるために、救い主が十字架上で流し給うた血を表しています。







 本品の版画はイエスの衣と足下の一部をグラヴュール(エングレーヴィング)で、それ以外の部分をオー・フォルト(エッチング)の線とスティプル(点描法の点)で表しています。

 幼子イエスとヨハネの肌は、衣の部分よりもいっそう細かな肌理(きめ)を実現するために、線ではなく点描で描かれています。上の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。目、鼻、口はそれぞれ 1ミリメートルほどの極小サイズですが、大きなサイズの絵画に劣らない丁寧さで、自然な表現が為されています。イエスの目は白目と黒目が描き分けられているのみならず、虹彩と瞳孔も判別できます。軽く開いた唇の間からは前歯が覗いています。ヨハネの顔もこれに劣らず、瞼(まぶた)の膨らみや幼子の柔らかい唇があたかも触れて感じられるかのような巧みさで描き出されています。これらの驚くべき表現は、1ミリメートルあたり最大数十個のスティプルによって為されています。

 イエスの衣の明るい部分は並行する線で、それよりも少し明度の低い部分はクロスハッチで、最も暗い部分はインク溝を太く深くすることで表しています。衣の裾(すそ)に近い部分は、平行線の間、もしくはクロスハッチでできるひとつひとつの菱形の中心に点を入れて、胸の辺りよりもわずかに明度を抑えています。下の写真は実物の面積をおよそ百倍に拡大しており、イエスの足指のすべてに爪が描かれていること、子羊の目においても虹彩と瞳孔が描き分けられていることがわかります。





 ヨハネが身に着けるラクダの毛衣と、神の子羊は、オー・フォルト(エッチング)により、動物の毛の密生が巧みに表現されています。オー・フォルトはグラヴュール(エングレーヴィング)が苦手とする細かく不規則な曲線を描くことが可能で、グラヴュールに比べて線そのものにも温かみがあります。動物の毛の表現には、オー・フォルトが有するこのような特性が活かされています。本品を制作したグラヴール(graveur 版画家)は、一つの画面において複数の技法を使い分け、最大限の効果を引き出しているのです。





 カニヴェの裏面にはイエスの言葉がフランス語で記されています。内容を下に示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Je verse du vin dans cette coupe afin qu'elle vous remplisse de joie en vous donnant la douce espérance de la rémission de vos péchés qu'il vienne rafraichir votre âme desséchée et qu'il coule en vous comme un fleuve de paix.    わたしがこの杯に葡萄酒を注ぐのは、この杯が罪の赦しという甘美なる希望を与えて汝を喜びで満たすためである。また葡萄酒が汝の渇ける魂を生き返らせるとともに、平安の川となって汝のうちに流れるためである。


 ミサは比喩や象徴ではなく、受難の完全な再現です。したがって現代に生きる人も、使徒たちと同じ過ぎ越しの食事に連なって、イエスから渡されたパンを食べ、葡萄酒を飲みます。これは渇いた魂が死なないために必要な食事である、とイエスは語り掛けています。エウカリスチアは人間の魂にとって、まさに生命の泉なのです。

 フランス語の人称代名詞「ヴ」(vous 汝、汝等) は、英語の「ユー」(you) と同様に、単数の意味にも複数の意味にも使われます。しかしながら上の文では、「汝の渇ける魂」(votre âme desséchée) が単数形であるゆえに、「ヴ」は「汝」(単数)として使われていることがわかります。「汝等」ではなく「汝」に呼びかけるイエスの言葉は、読む人にとって他ならぬ自分に向けられたものと感じられ、いっそう心に響きます。



 このカニヴェは三つの要素、すなわち「三位一体」、「聖心」、「生命の水」を縦の一直線上に配置しています。カニヴェを縦に貫くこの直線は、現世・来世の次元を超えた「救世の軸」であり、版画と切り紙細工を有機的に連関させて、「キリストの受難による救世」というテーマを明らかにしています。

 本品を縦に貫く「救世の軸」は、シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム西側正面の、最も南(向かって右)にある入り口を飾る彫刻群を思い起こさせます。




(上) シャルトル司教座聖堂西側の南入り口にあるタンパンと、二段のまぐさ石


 この入り口を飾る彫刻群は、キリストの受肉をテーマにしています。まぐさ石の下段左端にあるマリアへのお告げから始まり、エリサベト訪問、イエスの聖誕、羊飼いへのお告げへと物語が展開し、上段では幼子イエスの神殿への奉献が描かれています。

 二段のまぐさ石とタンパンを注意深く観察すると、中央を通る垂線上に、常にイエスがいることがわかります。まぐさ石下段において、幼子イエスは聖母が横たわるベッドの上方、祭壇の上に寝かされています。まぐさ石上段において、幼子イエスは神殿の祭壇に立っています。タンパンにおいて幼子イエスは聖母の膝の間にすわっていますが、聖母の膝も祭壇との類似性を有します。それゆえこの彫刻群は単なるイエスの幼少期の物語であるにとどまらず、ミサにおいて日々新たに捧げられる犠牲、キリストの御体である聖体の秘蹟を表していると解釈することができます。
 


 本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらずたいへん良好な保存状態です。本品のように繊細かつ大面積の切り紙細工は、大きく破損しているのが普通ですが、本品は稀少な完品です。本品の紙は中性紙ですので、百年以上の歳月にもかかわらず酸性紙のような劣化は起こっておらず、紙自体が劣化することは今後もありません。








 なお当店では別料金にてカニヴェ、聖画の額装を承ります。上の写真はフランス、セネラー社のモールディングを使用したラーソン・ジュール社の高級フレームに、ベルベット張りマットを合わせた額装例です。この額はアンティークの風合いを出したアール・ヌーヴォー様式の浮き彫り模様に縁どられ、3.5センチメートルの奥行があります。自立式、壁掛け式のいずれにもお使いいただけます。この額装の価格は、額、ベルベット、工賃、税すべて込みで 6,800円です。ベルベットの色は価格を変えずに変更できます。額装料金にカニヴェの商品代金は含まれません。

※ 写真の額は一点しかありません。この額を使った額装をご希望の方はお早めにご注文ください。写真の額が販売済みの場合は、別の額を使用して額装できます。





カニヴェの価格 28,000円 (税込、額装別)

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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