ノートル・ダム・ド・パリ
Notre-Dame de Paris




 シテ島の東の端に位置するノートル・ダム・ド・パリはパリ大司教の司教座聖堂です。この聖堂はフランスにおけるゴシック建築の精華であり、その建設期間はゴシック期全体に亙っています。南北の袖廊にふたつずつある直径13.1メートルの薔薇窓はヨーロッパでも有数の大きさですし、フライング・バットレス(飛び梁)を採用した最初期の建築物としても知られています。1844年から1864年にかけてヴィオレ=ル=デュク (Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 79) による修復を受け、今日の姿になっています。


【ノートル・ダム・ド・パリの建設】

・前史 ― 4世紀から 1160年

 ノートル・ダム・ド・パリが立っている場所には、もともとローマ多神教の神殿があり、その神殿がやがて取り壊されて、4世紀に聖ステファノ (St. Étienne) に捧げられたバシリカ式の教会堂が建ったと考えられています。このバシリカは当時としてはたいへん大きな建築物で、モザイク壁画で飾られ、身廊は4列の大理石製列柱によって5つに分かれていました。西側のファサードは現在のノートル・ダム・ド・パリよりも40メートルほど西にあって、高さも39メートルと現在のノートル・ダム・ド・パリに劣りませんでした。また北側にはサン=ジャン・ル・ロン (St. Jean le Rond) と呼ばれる洗礼堂が付属していました。

 聖ステファノ聖堂は数々の戦乱に耐えて6世紀に亙って建ち続けましたが、1160年、この年にパリ司教に就任したモーリス・ド・シュリ (Maurice de Sully, + 1196) が、より大きな聖堂の建設を決定しました。この頃のヨーロッパは貨幣経済の発展にともなって都市の人口が急増し、パリの人口も 1180年の 25,000人から、1220年には 50,000人と、イタリアを除くヨーロッパで最大規模の都市となっており、これまでの聖堂では市民たちを収容しきれなくなってきていたのです。

・主要部分の建設 ― 1163年から 1250年

 1163年、国王ルイ7世の臨席のもと、当時サンスに亡命中であったローマ教皇アレクサンドル3世によってノートル・ダム・ド・パリの定礎が為されました。聖堂の主要部分はパリ司教モーリス・ド・シュリ及びモーリスに続くパリ司教オドン・ド・シュリ (Odon de Sully, ou Eudes de Sully, +1208) の時代に、名前が伝っていない4人の監督のもとで建設されました。

 まず1163年から1182年にかけてアプス(後陣)と回廊、クワイア(聖歌隊席)が建設されました。
 クワイアの献堂後、1182年に身廊の建設が最も西側寄りの部分から始まりますが、身廊の建設は4番目のベイで休止します。1208年にファサード(西側入り口)の基礎部分が着工され、1218年にはファサードを支える身廊の工事が再開されます。ファサードの薔薇窓は 1220年から 1225年にかけて製作されました。

【下】 西側のファサード




 1230年頃には採光性を改善するために北側の窓の拡張工事が行われ、また側廊の上階であるトリビューン(階上廊)の上にテラスが設けられました。さらにフライング・バットレスと、各バットレス間の小礼拝堂が建設され、1240年には南側の鐘楼、1250年には北側の鐘楼が完成しました。

・残りの部分の建設 ― 1250年から 1350年頃

 1250年に北側鐘楼が落成したことで聖堂はいちおうの完成を見、以後 1345年にかけて装飾的部分の製作や部分的な手直しが行われました。

 この頃には翼廊の南北の門がすでに完成していました。しかし門はロマネスク様式であったため、聖堂の残りの部分との調和に問題がありました。そこでパリ司教ルノー・ド・コルベイユ (Renaud de Corbeil, 在職 1250 - 1268) .は翼廊の門をゴシック様式に造りかえる決定を下します。

 まず 1258年から 1265年まで工事監督を勤めたジャン・ド・シェル (Jean de Chelles, + 1265) のもとで翼廊が北に、次いで南に伸ばされ、翼廊北側のファサードと薔薇窓が完成しました。

 1265年にジャンが亡くなると監督職はピエール・ド・モントロー (Pierre de Montereau, + 1266/67) に引き継がれて翼廊南側のファサードと薔薇窓が完成し、またいくつかの礼拝堂と赤の門も建設されました。

【下】 翼廊南側の薔薇窓




 次の監督ピエール・ド・シェル (Pierre de Chelles) は聖歌隊席の仕切りやアプス(後陣)のフライング・バットレス、聖歌隊席と身廊の間の高廊を建設し、1296年には後陣にあるいくつかの礼拝堂の建設を始めました。

【下】 ノートル・ダム・ド・パリ後陣のフライング・バットレス




 これらの礼拝堂を完成したのは 1318年にピエールを継いだジャン・ラヴィ (Jean Ravy, fl. c. 1300 - 50) です。ジャンは聖歌隊席部分のフライング・バットレスの建設を始め、聖歌隊席の仕切りの仕上げにも取り掛かっています。
 1344年にジャンから監督職を引き継いだ甥ジャン・ル・ブテイエ (Jean de Bouteiller) は聖歌隊席の彫刻を製作しました。
 1363年に彼から監督職を引き継いだレモン・デュ・タンプル (Raymond du Temple, fl. c. 1360 - 1405) が聖歌隊席の仕切りを初めとする残りの部分を完成しました。


ノートル・ダム・ド・パリの改築と破壊 ― 17・18世紀

・アンシアン・レジーム期

 ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) の治世であった17世紀の終わりから18世紀にかけての時代、ゴシックは時代遅れの陰鬱な様式と看做され、ノートル・ダム・ド・パリを取り壊して古典様式あるいは新古典様式の聖堂を再建しようとする動きが高位聖職者の間でも強まりました。

 しかしながらこのように大きな聖堂を取り壊して建て替えるには、天文学的な費用が必要です。当時の社会的風潮は宗教に関心が向かわず、教会の財政を支える王侯貴族たちも自身の豪奢な暮らしを支える費用を必要とし、かつてのような多額の献金を教会に対して支出しませんでした。それゆえノートル・ダム・ド・パリに対して行われた改築の範囲も、この時代に改築が行われた他の聖堂の例と同様に、それほど費用がかからない部分的な改築に留まりました。

 建築家ロベール・ド・コット (Robert de Cotte, 1656 - 1735) は17世紀の終わりから、聖歌隊席と身廊の間の高廊、内陣の聖職者席、聖歌隊席の仕切りの浅浮き彫りを取り壊し、さらに先王ルイ13世の誓い(*注)を果たすために、いくつかの墓所も取り壊しました。

*注 ルイ13世 (Louis XIII, 1601 - 1643) は 1638年、跡継ぎの息子が生まれたら、フランス王国を聖母に捧げ、ノートル・ダム・ド・パリに新しい主祭壇と一群の彫刻を寄進するという誓いを建てました。その年の9月に、後のルイ14世となる男の子が無事に産まれ、ルイ13世はフランスを聖母に捧げましたが、ノートル・ダム・ド・パリへの寄進の誓いを果たさないまま亡くなりました。

【下】 Jean Auguste Dominique Ingres, Assomption et Vœu de Louis XIII, 1824



 さらに 1756年には堂内の明るさを確保するために中世のステンド・グラスが取り壊されて無色のガラスに取り替えられ、壁が明るい色に塗り替えられました。ただし薔薇窓は難を逃れています。またこの頃に教会の依頼を受けた建築家スフロ (Jacques-Germain Soufflot, 1713 - 1780) によって、行列の天蓋を通しやすくするために、中央入り口のタンパン「最後の審判」の一部を為すまぐさ石(アーチ最上部の石材)が取り除かれました。

・フランス革命期

 フランス革命の時代には数々の破壊行為があり、門を飾る彫刻のほとんどが大きな被害を受けました。西側入り口のファサードにあるユダヤの王たちの像もフランス国王と間違えられて頭部を切り離されましたが、王たちの頭部は 1977年の発掘調査で多くが見つかり、現在はクリュニー博物館 (Musée National du Moyan Âge) に収められています。

【下】 La Galerie des Rois, Notre-Dame de Paris




 また主祭壇は理性の女神の祭壇とされて、1793年11月10日にはそこで理性教 (Culte de la Raison) の礼拝が行われ、まもなくパリにおけるカトリックの礼拝は禁じられて、ノートルダム・ド・パリは食糧倉庫として使われるようになりました。


ノートル・ダム・ド・パリの修復 ― 19世紀

 1801年、ローマ教皇ピウス7世とフランスの第一執政ナポレオン・ボナパルトの間にコンコルダート(政教条約)が結ばれ、、ノートル・ダム・ド・パリは 1802年4月18日にカトリック教会へ返還されました。しかし聖堂の荒廃はあまりにもひどく、完全な取り壊しも検討されるようになりました。

 ノートル・ダム・ド・パリを深く愛する文豪ヴィクトル・ユゴーはこの事態を憂慮し、1831年に小説「ノートル・ダム・ド・パリ」を書いて、この聖堂に対する国民とパリ市民の関心を高めようとしました。小説「ノートル・ダム・ド・パリ」はたいへんな評判を呼び、ユゴーが願ったとおりに、ノートル・ダム・ド・パリの保存と修復に大きく貢献することとなりました。

 ノートル・ダム・ド・パリの修復と改築は、サント・シャペルの修復で実績を認められた二人の建築家、ジャン=バチスト=アントワーヌ・ラシュ (Jean-Baptiste-Antione Lassus, 1807 - 1857) およびウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク (Eugene Viollet-le-Duc, 1814 - 1879) の手に委ねられ、1845年に始まりました。計画には聖堂の修復とともに聖具室の増設も含まれていましたが、資金が不足したために 1850年に工事が中断し、計画の見直しが幾度も行われました。1857年にラシュが亡くなったあとも工事は続き、1864年5月31日、ヴィオレ=ル=デュクが修復を完了させました。

 この二人の特に優れた業績として挙げられるのが彫刻の修復で、彫刻家ジョフロワ=ドショーム (Adolphe-Victor Geoffroy-Dechaume, 1816 - 1892) の指揮のもと、優秀な彫刻家たちに、聖堂の外まわりを飾る100体以上の大型彫刻を製作させました。それらの作品はノートル・ダム・ド・パリと同時代に建てられたアミアン、シャルトル、ランスの各聖堂に見られる彫刻作品を参考にしたもので、このうち尖塔基部を取り巻く12体の銅像はジョフロワ=ドショーム自身の手による優れた作品です。

【下】 尖塔基部の銅像群




 修復を終えたノートル・ダム・ド・パリは、1864年3月31日、パリ大司教ジョルジュ・ダルボワ師 (Mgr. Georges Darboy, 1813 - 1871) によって献堂されました。ダルボワ師は 1863年から 1871年にパリ・コミューンで殺害されるまでパリ大司教を勤めた人です。大司教の殉教は、モンマルトルにあるサクレ・クールのバシリカが建設されるきっかけとなりました。


 ノートル・ダム・ド・パリはその後パリ・コミューンと二度の世界大戦を経験しましたが、大きな被害はありませんでした。1990年からは石材の風化による褐色の着色、及び石膏による石材表面の黒ずみを除去する修復作業が行われ、現在まで続いています。




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