普仏戦争時のフランスに出現したノートル=ダム・ド・レスペランス・ド・ポンマン(Notre-Dame de l'Espérance de Pontmain ポンマンの希望の聖母)の十字架。
(上) グスタフ・エバーライン作 「1807年のティルジットにおけるルイーゼ妃とナポレオン」 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルイーゼ妃の美貌によってナポレオンを懐柔しようと試みましたが、うまくゆきませんでした。
19世紀は帝国主義の時代で、列強はヨーロッパの内外で戦いを繰り広げました。19世紀初頭、ナポレオンに率いられたフランス軍は圧倒的な強さを見せて全ヨーロッパを席捲しました。当時弱小国であったプロイセン(ドイツ)はフランスの敵ではなく、ナポレオンは難なくベルリンに入城しました。1807年、プロイセンはティルジットの講和でフランスに対して
1億2,000万フランの賠償金を負い、これを払い終えるまでフランス軍の駐留を認めるという屈辱的な条約を結ばされました。
その後のフランス軍は旧態依然としたままでしたが、プロイセンは改革を重ね、1870年までに強大な国になっていました。同年7月19日に普仏戦争が始まったとき、六十数年前とは全く逆に、フランスはプロイセンの敵ではありませんでした。六か月後の1871年1月までに、プロイセンはフランス全土の三分の二を支配下に納めました。フランスはこの年の
1月10日から12日にかけて戦われたル・マン (Le Mans) の戦いで再び敗北し、フランス西部の抵抗はほぼ終わりました。パリはこれよりもずっと前、開戦二か月後の
1870年9月19日からプロイセンに攻囲されていましたが、1871年1月18日にはパリ近郊ヴェルサイユでドイツ帝国の樹立が宣言され、その後にパリは砲撃を受けることになります。
(上) ラ・サレットの聖母による預言を、普仏戦争の敗戦とコミューンの内乱に関連付けるカニヴェ。当店の商品です。
ドイツ帝国の樹立が宣言された日、プロイセン軍はフランス北西部ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏マイエンヌ県の県都ラヴァル (Laval) に到達し、ラヴァルを守備するフランス軍と市民たちは恐慌状態に陥りました。この日、ラヴァル近郊にある人口数百人の小村ポンマン
(Pontmain) において、子供たちに対して聖母マリアが出現しました。
フランスの古い小聖画。当店の商品です。
この日の夕方6時頃、ラヴァル近郊ポンマンに住む12歳の少年ウジェーヌ・バルブデットと10歳の弟ジョゼフが、地上から十数メートルの中空に浮かぶ聖母を目撃しました。二人の父親と親戚の女性もその場にいたのですが、二人の大人には何も見えません。修道女や主任司祭ゲラン神父が呼ばれ、村人たちも集まって来ましたが、大人たちには何も見えず、子供たちには聖母が見えました。
プロイセン軍が迫る中、村人たちはその場で祈り始め、天使祝詞、マーグニフィカト、聖母の連祷、「穢れ無く罪無く」 (Inviolata)、「キリストのいとも慕わしき御母よ」(O Mater Alma Christi Carissima)、再び「穢れ無く罪無く」、「サルヴェー、レーギーナ」を次々と唱えました。すると、青い楕円形と、火がついていない4本のろうそくが、聖母を取り囲むように現れ、心臓の位置には赤い十字架が現れました。聖母は悲しげな表情になりましたが、村人たちが熱心に祈るにつれて微笑みを取り戻し、ゆっくりと大きくなりました。また聖母を囲む楕円も大きくなり、星の数が増えました。聖母の足元には横に細長い旗のような物が開いて、次の文字が現れました。
"MAIS" "PRIEZ" "MES ENFANTS" "DIEU
VOUS EXAUCERA EN PEU DE TEMPS" 祈りなさい、子供たちよ。神はあなた方の祈りをすぐに聞き入れてくださいます。
"MON FILS" "SE LAISSE TOUCHER" わが息子は憐れんで心を動かします。
次に村人たちが「望みの御母よ、慕わしき御名よ、我らがフランスを守りたまえ。我らのために祈りたまえ」(Mère de l'Espérance,
dont le nom est si doux, protégez notre France. Priez, priez pour nous.)
と歌うと、聖母は両手を肩の高さに挙げて、村人たちの歌に合わせて楽器を奏でるかのように指を動かしました。足元の横幕は消え、聖母は微笑んでいました。何かを話すかのように口許が動きましたが、言葉を聞き取ることはできませんでした。
次に聖母は再び表情を曇らせて、赤い十字架を胸の前に掲げました。十字架の最上部には白い横木があって、「ジェジュ=クリ」(JÉSUS-CHRIST)
と書かれていました。「ジェジュ=クリ」とはフランス語で「イエス・キリスト」という意味です。聖母は胸の前に十字架を持ったまま、子供たちのほうへ体を屈めました。聖母の衣に輝く星のひとつが衣を離れて、聖母の周りにある4本のろうそくに火をつけ、聖母の頭の上に移動しました。
修道女の一人が「アヴェ・マリス・ステッラ」を唱えると、聖母が手にしていた赤い十字架は消えて、代わりに聖母の両肩に白い十字架が現れました。ゲラン神父が夕べの祈りを唱えるように村人たちを導くと、皆は跪き、熱心に祈りました。聖母の足元に白い大きなヴェールが現れ、徐々に上に移動して聖母を隠してゆき、冠まで隠れると、すべては消えて、普段と変わらない夜空だけがありました。聖母の出現が終わったのは夜九時頃でした
本品はポンマンに出現した聖母が胸の前に掲げた十字架を模(かたど)っています。ラテン十字の最上部に二本めの腕木を有し、「ジェジュ=クリ」(JÉSUS-CHRIST)
の文字が書かれています。
クルシフィクスに取り付けられるキリスト像を「コルプス」といいます。「コルプス」(羅 CORPUS)はラテン語で、原意は「身体」です。この場合は「キリストの身体を模ったもの」という意味です。
コルプスの種類は多様で、エマイユ・パン(仏 émail peint エマイユ画)やインタリオ(伊 intaglio 陰刻)で描かれた作例、打刻あるいは鋳造により十字架と一体に作られた作例、別作のコルプスを十字架に取り付けた作例があります。別作して十字架に取り付けられるコルプスも、作りの丁寧さや立体性、取り付け方は様々です。
本品は別作した打ち出し細工のコルプスを、溶接によって十字架に取り付けています。十九世紀フランスで制作された打ち出し細工のコルプスは簡単な作りの場合が多いですが、本品のコルプスはたいへん細密で、キリストの顔かたちと表情、人体各部の比例、骨格と筋肉等、すべてが正確かつ丁寧に作られています。
十字架の裏面には次の言葉がフランス語で刻印されています。
Apparition de la Sainte Vierge à Pontmain, 17 janvier 1871 1871年1月17日 ポンマンにおける聖母ご出現
フランスではマルグリット=マリが列福された 1850年代頃から、17世紀以来の不信仰を悔いる「ガリア・ペニテーンス」(GALLIA PŒNITENS 悔悛のガリア)の精神的運動が盛んになりました。普仏戦争の惨敗とコミューンの混乱を経て、フランス人が前非を悔いる気持ちはいっそう強まり、モンマルトルのサクレ=クール教会をはじめとする聖心に捧げた諸聖堂の建設につながってゆきます。
当時のフランスの人々は、民族を襲った不幸を「天罰」あるいは「不信仰の報い」と捉える一方で、あたかも子供が母の愛を信じるように、聖母がフランスを取り為し給うことを信じました。実際、ポンマンの子供たちが読み取った聖母のメッセージは、決してフランスを見棄てずに執り成す母の愛が籠められていました。それゆえポンマンに出現し給うた聖母は「ノートル=ダム・ド・レスペランス」(Notre-Dame
de l'Espérance)、すなわち「希望の聖母」と呼ばれています。ポンマンにおいて聖母を目撃したのが神父でもなく修道女でもなく、子供たちであった事実は、子供が母を慕うように聖母を慕うものを、聖母は決して見棄てたまわないことを表しています。
ポンマンの聖母のクルシフィクスはめったに手に入らない品物ですが、とりわけ本品は当店がこれまでに扱ったなかで最も大きなサイズであり、保存状態もきわめて良好です。およそ百四十年前という古い年代にもかかわらず、特筆すべき問題は何もありません。珍しい形状のアンティーク・クロスとしても、フランス近現代史の実物資料としても、価値ある品物です。