ポンマンの聖母
Notre Dame de Pontmain
1871年1月17日、フランス北西部のペイ・ド・ラ・ロワール地域圏マイエンヌ県にある人口数百人の小村ポンマン (Pontmain) において、数人の子供たちに対して聖母マリアが出現しました。
【聖母が出現した当時のマイエンヌの状況】
1870年から 1871年にかけてフランスとプロシアの間で普仏戦争が戦われました。この戦争における戦闘で、フランスは敗北に次ぐ敗北を重ね、多数の戦死者と捕虜を補うために、軍事訓練などまともに受けたことのない若者たちが次々に徴兵され、戦場へ送り出されてゆきました。
ポンマンの住民も例外ではありません。村の若者たちは出陣前に告悔と聖体拝領を済ませ、村の司祭ミシェル・ゲラン神父は彼らを聖母マリアに捧げたのちに出陣させました。
1871年1月までに、ドイツはフランス全土の3分の2を支配下に納めていました。フランスはこの年の 1月10日から12日にかけて戦われたル・マン
(Le Mans) の戦いで再び敗北し、フランス西部の抵抗はほぼ終わりました。同月 17日はパリがプロシアに包囲された日ですが、この同じ日にドイツ軍はマイエンヌ県の県都ラヴァル
(Laval) に到達し、ラヴァルを守備するフランス軍と市民たちは恐慌状態に陥りました。
【ポンマンにあける聖母出現】
この日の夕方6時頃、ラヴァル近郊ポンマンに住む12歳の少年ウジェーヌ・バルブデット (Eugène Barbedette) と10歳の弟ジョゼフ
(Joseph Barbedette) は納屋で飼葉用のハリエニシダを挽いていました。このとき父親も一緒にいましたが、近所の女性ジャネットが訪ねてきて父親と世間話を始めたため、退屈したウジェーヌは納屋の外に出て、天気を確かめようと空を見上げました。
すると数十メートル離れた向かいのギドコック家の屋根付近で、空に浮かぶ星々が融けて無くなるように見えたかと思うと、ギドコック家の屋根よりも少し遠く、屋根よりも6メートルほど高い空中に、突然美しい女性が姿を現しました。女性は金色の星がちりばめられた鮮やかな青色の丈の長い衣を着て、金色のリボン飾りが付いた青いサンダルを履いていました。髪は黒いヴェールに完全に覆われていて、そのヴェールは肘の辺りまで届いていました。また赤い線が入った金の冠を被っており、ちょうど不思議のメダイの聖母のようなポーズでウジェーヌに向かって両手を差し出してほほえみました。
不思議のメダイ la medaille miraculeuse 当店の商品です。
父親と話していたジャネットが納屋から出てきたので、ウジェーヌは空を指差して示しましたが、ジャネットには何も見えませんでした。二人の声を聞いて父親とジョゼフも納屋から出てきて空を見上げましたが、父親には何も見えず、ジョゼフにはウジェーヌに見えているのと同じ女性が見えました。母親が呼ばれましたが何も見えず、何事かと集まってきた村の大人たちにも何も見えませんでした。
ウジェーヌとジョゼフが空を見つめたまま動こうとしないので、村の学校の教師をしていた修道女が呼ばれましたが、この人にも何も見えませんでした。そこで3人の子供たちが呼ばれ、そのうちのふたり、当時
11歳の少女フランソワーズ・リシェ (Françoise Richer) と 9歳の少女ジャンヌ=マリ・ルボス (Jeanne-Marie Lebosse)
には女性が見えました。次にもうひとりの教師である修道女とゲラン神父が呼ばれましたが、この二人にも女性は見えませんでした。しかし6歳の少年ウジェーヌ・フリト
(Eugene Friteau) には見えました。また母親に抱かれた当時2歳の女の子オギュスチーヌ・ボワタン (Augustine Boitin)
も、子供たちに見えている女性の方へ手を伸ばし、喜んでいる様子を示しました。
フランスの古い小聖画。当店の商品です。
ゲラン神父はその場で直ちに祈祷会を始め、プロシア軍が迫るなか、大人たちは
ロザリオの祈り、
マーグニフィカト、
聖母の連祷、「穢れ無く罪無く」 (Inviolata)、「キリストのいとも慕わしき御母よ」(O Mater Alma Christi Carissima)、再び「穢れ無く罪無く」、
「サルヴェー、レーギーナ」を次々と唱えました。すると、青い楕円形と、火がついていない4本のろうそくが、聖母を取り囲むように現れ、心臓の位置には赤い十字架が現れました。聖母は悲しげな表情になりましたが、村人たちが熱心に祈るにつれて微笑みを取り戻し、ゆっくりと大きくなりました。また聖母を囲む楕円も大きくなり、星の数が増えました。聖母の足元には横に細長い旗のような物が開いて、文字が現れました。"MAIS"
"PRIEZ" "MES ENFANTS" "DIEU VOUS EXAUCERA EN PEU
DE TEMPS"(祈りなさい、子供たちよ。神はあなた方の祈りをすぐに聞き入れてくださいます) "MON FILS"
"SE LAISSE TOUCHER" (わが息子は憐れんで心を動かします)
次に村人たちが「望みの御母よ、慕わしき御名よ、我らがフランスを守りたまえ。我らのために祈りたまえ」(Mère de l'Espérance,
dont le nom est si doux, protégez notre France. Priez, priez pour nous.)
と歌うと、聖母は両手を肩の高さに挙げて、村人たちの歌に合わせて楽器を奏でるかのように指を動かしました。足元の横幕は消え、聖母は微笑んでいました。何かを話すかのように口許が動きましたが、言葉を聞き取ることはできませんでした。
次に聖母は再び表情を曇らせて、赤い十字架を胸の前に掲げました。この十字架は二支十字、すなわち最上部の罪状書きが横に伸びて第二の横木状になった十字架で、上部の白い罪状書きあるいは横木には、イエズス・キリスト
(JESUS-CHRIST) と書かれていました。聖母は胸の前に十字架を持ったまま、子供たちのほうへ体を屈めました。聖母の衣に輝く星のひとつが衣を離れて、聖母の周りにある4本のろうそくに火をつけ、聖母の頭の上に移動しました。
修道女の一人が
「アヴェ・マリス・ステッラ」を唱えると、聖母が手にしていた赤い十字架は消えて、代わりに聖母の両肩に白い十字架が現れました。ゲラン神父が夕べの祈りを唱えるように村人たちを導くと、皆は跪き、熱心に祈りました。聖母の足元に白い大きなヴェールが現れ、徐々に上に移動して聖母を隠してゆき、冠まで隠れると、すべては消えて、普段と変わらない夜空だけがありました。聖母の出現が終わったのは夜9時頃でした。
希望の星、救いへの導き手である「海の星の聖母」(マリス・ステッラ MARIS STELLA あるいは ステッラ・マリス STELLA MARIS)
【聖母出現後の経緯】
ちょうどこの頃、ラヴァルからポンマンへ進軍する準備を進めていたプロシア軍のフォン・シュミット将軍 (Karl Johann von Schmidt,
1817 - 1875) は、ラヴァル攻略を中止せよとの命令を司令部から受け取り、聖母出現の5日後にあたる1月22日にプロシア軍は撤退を開始しました。1月24日には外務大臣ジュール・ファーヴル
(Jules Claude Gabriel Favre, 1809 - 1880) がヴェルサイユにビスマルク (Otto von Bismarck,
1815 - 1898) を訪れて和平交渉が始まり、1月28日に休戦協定が締結されて、各地の戦闘は終息しました。4月初旬にはポンマンから出陣していった38名の兵士たちも全員無事に村に帰還し、6月17日には聖母に感謝するミサが行われました。
聖母を見た子供たちは教会当局によって徹底的な調べを受け、1872年2月2日に、ラヴァル司教ヴィカール師 (Msgr. Casimir-Alexis-Joseph Wicart, 1799 - 1879) によってポンマンでの出来事が真正の聖母出現であると認められて、その崇敬が承認されました。
ローマ教皇ピウス11世 (Pius XI, 1857 - 1939) 及びピウス12世 (Pius XII, 1876 - 1958) はポンマンの聖母に捧げるミサと聖務日課を制定し、またピウス12世はポンマンの聖母の像が金の冠を戴冠すべきことを宣言しました。戴冠式は
1934年7月24日、パリ大司教ヴェルディエ師 (Jean Cardinal Verdier, 1864 - 1940) により行われました。
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