ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレリッツ
Luise von Mecklenburg-Strelitz, 1776 - 1810
Josef Maria Grassi,
"Luise von Preußen", 1804, Eigentum des Hauses Hohenzollern, Schloß Charlottenburg, Berlin
(上) 「ルイーゼ・フォン・プロイセン」 ヨーゼフ・マリア・グラッシ (Josef Maria Grassi, 1757 - 1838) の原画に基づくクロモリトグラフ。
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ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレリッツ (Luise von Mecklenburg-Strelitz, 1776 - 1810)
はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (Friedrich Wilhelm III, 1770 - 1840) の王妃で、ドイツ統一を成し遂げたヴィルヘルム1世
(Wilhelm I, 1797 - 1888) の母にあたります。高い教養と類い稀な美貌の持ち主でしたが、1810年、34歳の若さで肺炎で亡くなりました。ドイツでは「ケーニギン・ルイーゼ」(Königin
Luise ルイーゼ王妃)と呼ばれ、現在でも親しまれています。
ルイーゼが王妃であったのはナポレオン戦争の時代ですが、プロイセンがナポレオンに敗れ、ベルリンに入城するナポレオンを市民が歓呼して迎えるという国家的危機のなか、ルイーゼはフランスとの講和、交渉にあたり、柔弱な国王以上に愛国的な働きを見せて、ナポレオンに「美しき敵」と呼ばれたと伝えられます。
【ルイーゼ妃の生涯】
ルイーゼはドイツ北部、メクレンブルク=シュトレリッツ公国の貴族で、1794年に公位を継ぐことになるカール2世 (Karl II, Herzog
zu Mecklenburg, 1741 - 1816) を父とし、父カール2世の最初の妻であるフリーデリケ (Friederike Caroline
Luise von Hessen-Darmstadt, 1722 - 1782) から生まれた六人目の子供です。
ルイーゼが6歳であった1782年、母フリーデリケは産褥で亡くなります。ルイーゼの父カール2世は、この2年後の1784年、亡き夫人の妹であるシャルロッテ
(Charlotte Wilhelmine Christiane Marie von Hessen-Darmstadt, 1755 - 1785)
と再婚しますが、翌年に男児カール (Karl Friedrich August, Herzog zu Mecklenburg-Strelitz)
を生んだ際、この人も産褥死します。それゆえカール2世は自身の義母マリア・ルイーゼ (Maria Luise Albertine von Leiningen-Dagsburg-Falkenburg,
1729 - 1818 註1) に子供たちの養育を任せました。
ルイーゼは家庭教師によってフランス語で教育された結果、フランス語を母国語よりも良く使いこなすようになりました。宗教教育はルター派の牧師によって行われ、慈善施設を訪問することが度重なりました。自身が幼時に母を亡くした経験から、ルイーゼは母の無い子供たちを憐れみ、祖母から注意を受けるほど多くの施しを与えました。
ルイーゼが17歳となった1793年当時、プロイセンは啓蒙専制君主として知られるフリードリヒ大王 (Friedrich II von Preußen,
1712 - 1786) と、大王から王位を継いだ甥フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (Friedrich Wilhelm II, 1744 -
1797) の下で、発展を遂げていました。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の長男で、次代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世となるべき同名の息子は23歳で、結婚適齢期でした。
ルイーゼの父カール2世の兄で、当時メクレンブルク=シュトレーリッツ公であったアドルフ・フリードリヒ4世 (Adolf Friedrich IV,
1738 - 1794) は、メクレンブルク=シュトレーリッツ公家とプロイセン王家の関係強化を狙い、ルイーゼに命じて、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の宮廷を訪ねさせました。輝くように美しい17歳のルイーゼは、伯父の思惑通り王子の眼に留まり、同年のクリスマス・イヴに結婚式が執り行われました。またルイーゼのプロイセン行き同行した妹フリーデリケ
(Friederike Karoline Sophie Alexandrine, 1778 - 1841) もプロイセン王子ルートヴィヒ (Ludwig
von Preußen, 1773 - 1796) の眼に留まり、姉の二日後に結婚しています。
フリードリヒ・ヴィルヘルムとルイーゼの夫妻の長子は死産でしたが、その後九人の子供に恵まれ、うち七人が成人しました。第二子フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
(Friedrich Wilhelm IV, 1795 - 1861)、第三子ヴィルヘルムはプロイセン王及びドイツ皇帝ヴィルヘルム1世 (Wilhelm
I, 1797 - 1888)、第四子シャルロッテはロシア皇帝ニコライ1世の妃アレクサンドラ・フョードロヴナ (Alexandra Fjodorowna,
1798 - 1860)、第七子アレクサンドリーネはメクレンブルク=シュヴェリーン大公妃 (Alexandrine, Erbgrosherzogin
von Mecklenburg -Schwerin, 1803 - 1892)、第九子ルイーゼはオランダ王ヴィレム1世の次男フレデリックの妃
(Luise, Prinzessin der Niederlande, 1808 - 1870) となりました。
「プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」 ジャン=バプティスト・イザベ (Jean-Baptiste Isabey, 1767 - 1855)
によるミニアチュール
1797年11月16日、父王の逝去により、ルイーゼの夫がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世として即位しました。このときルイーゼが祖母に書き送った手紙には、これまで以上に慈善に勤(いそ)しめる喜びが綴られています。新国王はポーランド分割によって版図に加わった東プロイセンの巡幸にルイーゼ妃を同伴しました。従来の慣習では、国王の巡幸時、王妃は王宮に留まることになっていましたから、ルイーゼの同行は異例のことでしたが、国民は新国王夫妻を歓呼して迎え、女性たちはルイーゼ妃の服装を真似ました。王妃個人が広く国民の敬愛の対象となったのは、プロイセン史上初めてのことでした。
宮廷からも政治家たちからも敬愛を勝ち取ったルイーゼ妃は、夫フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を献身的に支えました。王は即位当初から妃に国事を相談し、ルイーゼはその優れた知性を以って夫を補佐しました。
第一共和政下でイタリア方面軍の司令官となったナポレオンは、1796年から1797年にかけて北イタリアでオーストリアと戦い、これを破って講和を結びました。ナポレオンはこの後エジプト遠征に着手しますが、ナイルの海戦でイギリス海軍に敗れ、帰国できなくなります。これを好機と見た諸国は第二次対仏大同盟を結び、1798年12月24日、フランスに対する戦争を開始します。
プロイセンはこの戦争に参加するように各国から要請されていました。徹頭徹尾平和主義者であったフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は参戦を拒否し、当初はルイーゼも、弱小国プロイセンがオーストリア、イギリス、ロシアに与(くみ)するならば、列強の思惑通りに利用されるだけだと考えていました。しかしながら1806年、ライン連邦の成立によってフランスの覇権がプロイセンの隣接地まで及ぶと、危機感を強めたルイーゼ、及びプロイセンの王族ルイ・フェルディナント
(Louis Ferdinand von Preußen, 1772 - 1806) は王を説得して、プロイセンは第四次対仏大同盟に参加し、遂にフランスと開戦します。
(上) エミール・ジャン・オラス・ヴェルネ (Emile Jean Horace Vernet, 1789 - 1863)「イエナの戦いにおけるナポレオン」
後には強大なドイツの盟主となるプロイセンも、1806年当時はフランスの敵ではなく、10月14日に行われたイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的な敗北を喫します。プロイセン軍が戦争を継続するのはほぼ不可能となり、またナポレオン自身が首都ベルリンに入城したため、国王一家はケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)、さらにメーメル(現在のリトアニア領クライプダ)まで逃げました。プロイセンは翌年7月のティルジット講和条約でエルベ川以西の土地とポーランドを失い、人口も半分以下になりました。課せられた賠償金は1億2,000万フランに上り、これを払い終えるまでフランス軍が駐留するという屈辱的な条項をも呑まざるを得ませんでした。
(上) グスタフ・エバーライン「1807年のティルジットにおけるルイーゼ妃とナポレオン」 Gustav Eberlein,
"Königin Luise und Napoleon in Tilsit 1807", 1899, Ostpreusisches Landesmuseum
講和の条件を交渉する際、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルイーゼ妃をティルジットに呼んで、妃の美貌によってナポレオンを懐柔しようと試みました。ルイーゼはプロイセンを救おうとして、予(かね)てから嫌悪していた敵ナポレオンとの面会に臨み、その足下に跪いて、譲歩を引き出すべく懇願を繰り返しました。ナポレオンはこれを拒否しましたが、ルイーゼの愛国的献身には感銘を受けました。またこの会見における王妃の様子を知ったプロイセン国民の間では、ルイーゼを敬愛する気持ちがこれまで以上に高まりました。
敗戦後、ルイーゼはプロイセンの王位を継ぐべき王子フリードリヒ・ヴィルヘルムの教育に力を注ぎ、また国政の機構と軍の改革を援けました。プロイセンは後に強国となり、普仏戦争でナポレオン3世に圧勝しますが、プロイセン発展の基礎はこの時代に築かれたものであり、有能な人物を見分けて夫王に進言し、改革に携わらせたルイーゼの功績はきわめて大きいといえます。
1810年、国王一家はケーニヒスベルクからベルリンに戻りましたが、王宮を飾る絵画や彫刻はナポレオン軍に掠奪されており、ルイーゼは悲しみに沈みました。同年、ルイーゼは生家であるメクレンブルク=シュトレリッツの城に、父であるメクレンブルク=シュトレリッツ大公カール2世を訪ねているときに、原因不明の体調不良に陥り、7月19日、夫王の腕の中で息を引き取りました。ルイーゼの死去を知ったナポレオンは、「プロイセン王は最高の大臣を失った」と語ったそうです。
Gustav Richter,
"Königin Luise", 1879, Wallraf-Richartz-Museum, Köln
(上) グスタフ・リヒター (Gustav Karl Ludwig Richter, 1823-1884) の油彩に基づく1887年のエングレーヴィング。
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【鉄製ジュエリーとルイーゼ勲章】
メクレンブルク=シュトレリッツの城からベルリンの王宮へと妃の遺体を移送する三日の間、プロイセンは悲しみに沈み、女性たちは黒い鉄製ジュエリーを身に着けて哀悼の意を表しました。
ナポレオンがロシア遠征に失敗すると、プロイセンは失地を回復すべく、1813年3月17日、フランスに宣戦します。この「ドイツ解放戦争」(Befreiungskriege)
で功労のあった軍人のために、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は「鉄十字勲章」(das Eiserne Kreuz) を創設しました。
「ドイツ解放戦争」では女性たちもまた活躍しました。プロイセン国内に駐留するフランス軍に対して蜂起する資金に充てるため、貴金属を供出するようプロイセンじゅうの女性たちに呼びかけが為され、女性たちはこれに応じて16万点もの金製ジュエリーを手放し、これを鉄のジュエリーに換えたのです。こうしてプロイセンには黒い鉄を素材にした独自のジュエリー文化が花開くこととなります。
ナポレオン軍は第六次対仏大同盟諸国の連合軍によって徐々に西方に追われ、ライプツィヒに戦力を集中させます。このライプツィヒで、1813年10月16日から19日にかけて「ドイツ解放戦争」の雌雄を決する戦闘が行われ、ナポレオン軍は二倍近い兵力の連合国軍に圧倒されて大打撃を受け、敗走しました。
プロイセンをはじめとする連合国軍は、1814年3月30日にパリへの攻撃を開始し、翌31日、パリは遂に陥落します。このときプロイセンの陸軍元帥ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー
(Gebhard Leberecht von Bluecher, 1742 - 1819) はパリ市門の前に立って、「遂にルイーゼ妃の敵(かたき)を取ったぞ」と歓喜の雄叫びを上げました。プロイセン軍の全員が同じ思いであったことでしょう。
この年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルイーゼ妃の誕生日(5月10日)に「ルイーゼ勲章」(der Königlich Preußische Louisenorden または Luisenorden) を制定し、対ナポレオン戦争に功績のあった女性に贈ることとしました。「ルイーゼ勲章」は女性のための鉄十字勲章ともいうべきものです。
謙譲で慈愛に満ちた人柄、妻としての貞淑さ、良き母としての徳、プロイセンとその国民を思う愛国心は、類(たぐ)い稀(まれ)な美貌と相俟(あいま)ってルイーゼ妃の人気を高めました。プロイセン国民はルイーゼ妃をプロイセンの美徳の化身として敬愛し、さらにはプロイセンそのものの象徴とも看做すようになりました。34歳の若さで亡くなったことにより、ルイーゼ妃の女性美は国民の記憶に永遠にとどめられ、妃は数々の映画や文学作品の題材になりました。
(上) Louise Muehlbach,
"Louisa of Prussia and her times", P. F. Collier & Son, New York, 1867 コンディション不良により非売品
註1 マリア・ルイーゼ侯爵夫人は現ノルウェー王ハーラル5世 (Harald V, 1937 - )、現スウェーデン王カール16世グスタフ (Karl
XVI Gustaf, 1946 - )、現デンマーク女王マルグレーテ2世 (Margrethe II, 1940 - )、現オランダ女王ベアトリクス (Beatrix, 1938 -
)、現ベルギー王アルベール2世 (Albert II, 1934 - ) 等、ヨーロッパ各国の君主、貴族の祖先にあたります。
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