初聖体を拝領する少女のために、1880年代ないし 1890年代のフランスで制作されたアンティーク・シャプレ(ロザリオ)。トランスルーセント(半透明)の白色ガラス製ビーズによる美しい品物です。金属製のクルシフィクス、クール(センター・メダル)、チェーンはブロンズまたは真鍮製で、銀めっきを施しています。
本品のクルシフィクスは、打ち出し細工によるブロンズ製コルプス(キリスト像)をシンプルなラテン十字に鑞付け(ろうづけ 溶接)し、全体に銀めっきを掛けています。コルプスの頭上に表されることが多いティトゥルス(TITULUS 罪状書き、INRIの札)と、ときに中央交差部に表される光背はいずれも省略され、たいへんすっきりとした印象のクルシフィクスに仕上がっています。
祈る手に触れられて磨滅した優しい丸みと、歳月を経た物だけが獲得する美しい古色が、真正のアンティーク品ならではの趣きを醸します。本品のクルシフィクスは小さいながらもしっかりと丁寧に作られており、溶接の剥離等の問題が一切無い良好な保存状態です。
シャプレ(仏 chapelet 数珠、ロザリオ)のセンター・メダルを、フランス語でクール(仏 cœur)と呼びます。クールとは心臓のことです。五連のシャプレでロザリオを祈ると環状部分を三周(現在は四周)することになります。ロザリオの祈りを信仰生活の血液と考えると、ロザリオを爪繰る祈りがクールを通過して円環的に進行する様子は、あたかも血液が心臓を通って循環する様(さま)に似ています。
センター・メダルはフランス語では「クール」(cœur 「心臓」「ハート」の意)と呼ばれ、心臓型をはじめとするさまざまな形態を取ります。本品のクールは大きな帳(とばり)が開いた形で、頂部にフルール・ド・リス(fleur de lys 百合文)をあしらった冠を戴いています。この帳、あるいは帳を模した壁龕(へきがん)型装飾は、ヨーロッパの聖堂内や街角において、聖母像や聖母子像を安置したくぼみ(龕 がん)を模(かたど)っています。壁龕頂部のフルール・ド・リスは百合と同じく神に選ばれた聖母の象徴であり、天の元后たる聖母の権威をも象徴しています。
聖母はキリスト者の鑑(かがみ本)であり、初聖体を拝領する少女たちにとって最良の手本です。それゆえに本品にあしらわれた百合(フルール・ド・リス)は少女たちに純潔を勧めるとともに、野の百合の美しさによって物欲を戒め、神の摂理と調和する信仰を求めています。
壁龕の中の聖母は、球体の上に蛇を踏みつける無原罪の御宿りとして表されています。写真ではよくわかりませんが、聖母の背景には細密なクロスハッチによる魚子(ななこ)模様が施され、光を柔らかく反射しています。聖母が両手に嵌めた指輪から降り注ぐ恩寵の光は、受胎告知の際に「お言葉通りこの身に成りますように」と答えて救いを受け容れたマリアが、天地を繋ぐ恩寵の器であることを表しています。
(上・参考画像) Piero della Francesca, "Madonna della Misericordia", 1444 - 1464, olio e tempera su tavola, 273 x 330 cm, Il Museo Civico
di Sansepolcro
壁龕を思わせる本品のクールには、帳(とばり)が懸かっています。「ミゼリコルディア(憐れみ)の聖母」の大きなマントを連想させる帳は、聖母の憐れみを象徴します。
「ミゼリコルディア(憐れみ)の聖母」とは聖母像の一類型で、大きなマントの下に多数の人々を庇護する姿を描きます。上の写真はピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero
della Francesca, 1412/17 - 1492)による「ミゼリコルディアの聖母」で、画家がボルゴ・サンセポルクロのミゼリコルディア信心会から
1444年頃に注文を受け、1464年までに制作した多翼祭壇画の中央パネルに描かれています。ボルゴ・サンセポルクロ(Borgo Sansepolcro 現サンセポルクロ
Sansepolcro)はアペニン山中、トスカナ州アレッツォ県にある町で、ピエロ・デッラ・フランチェスカの出身地です。
クール(センター・メダル)の裏側には、表(おもて)面と同様の縁取りがあり、その中に「インマクラータ・マリア」(羅 IMMACULATA MARIA 無原罪のマリア)を表す
"IM" と十字架のモノグラム(組み合わせ文字)が刻まれています。本品のクールの意匠は、表裏とも不思議のメダイに大きく重なります。
トランスルーセント(半透明)の白色ガラスを使いた本品のビーズは、パート・ド・ヴェール(仏 la pâte de verre)の技法を用い、たいへんな手間をかけて制作されています。 天使祝詞(アヴェ・マリア)のビーズの直径はおよそ八ミリメートル、主の祈りのビーズの直径はおよそ九ミリメートルですが、ひとつひとつが手作りであるために、形とサイズにばらつきがあります。
聖母を象徴する色とは、聖母において重視される属性を象徴する色に他ならず、時代によって異なります。中世の画工が描く聖母は、黒や焦げ茶色等、暗色の衣を着ていました。これはマーテル・ドローローサとしての属性が強調されたためであり、暗色の衣は喪衣でした。しかるにゴシック期に青の評価が高まると、聖母のマントは青く描かれることが増え、ルネサンス期以降は青が聖母の色として定着しました。これは知の象徴性を獲得した青が、セーデース・サピエンティアエ(羅 SEDES SAPIENTIÆ 上智の座、まことのケルビムの座)としての聖母に相応しい色と考えられたからでしょう。
しかるに 1854年12月8日、ローマ司教(教皇)ピウス九世が「無原罪の御宿り」を教義として宣言すると、聖母の着衣は白く描かれることが増えました。クール(センター・メダル)に刻まれた蛇を踏みつける聖母の姿と、裏面のモノグラム「インマクラータ・マリア」と相俟って、本品の真っ白なビーズ、ならびに当初は銀めっきが掛けられていた金属部分が、その白さによって聖母の無原罪性を象徴しています。
実際に使用されていたアンティーク・ロザリオは、金属同士が擦れ合うことによりチェーンの特定の部分が摩滅して、破断しやすくなっている場合があります。しかしながら本品のチェーンには破断が無いだけでなく、将来の破断を引き起こす摩滅箇所もありません。実用上、美観上とも問題は一切無く、たいへん良好な保存状態です。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、保存状態は極めて良好です。ビーズに欠損や特筆すべき破損は無く、金属部分の強度にも問題はありません。純粋なガラス工芸として見ても極めて美しい白色パート・ド・ヴェールのビーズに、聖母マリアの無原罪性を象徴的意味を担わせ、初聖体の少女の純潔と重ね合わせた本品は、工芸技術としての水準が高いのみならず、信心具としての精神性の点でもたいへん優れた作例です。