マーテル・ドローローサ 悲しみの聖母
BEATA MARIA VIRGO PERDOLENS, aut MATER DOLOROSA




【上】 Bartolomé Esteban Murillo, Mater Dolorosa (details), El Museo del Prado, Madrid


 正典福音書のなかで、聖母マリアが大きな悲しみに遭う場面が七回あります。悲しみの聖母(マーテル・ドローローサ)とは、「聖母の七つの悲しみ」と呼ばれるこれらの出来事に心を痛める聖母のことで、通常七本の剣で心臓を刺し貫かれ、悲しむ表情を見せる聖母の図像で表されます。南ヨーロッパでは聖金曜日前の行列に悲しみの聖母像が持ち出されることが多くあります。

 近現代の文学作品とは異なり、聖母をはじめとする福音書の登場人物の情動について、福音記者は何も語っていません。福音書は神が定め給うた救済の経綸(けいりん οἰκονομία)が如何に実現したかの記録です。しかるに人間の情動は神の経綸に無関係で、前者は後者に如何なる影響も及ぼしません。それゆえ福音書に登場する個人の情動について、福音記者が全く記録を残していないのはむしろ当然のことです。福音記者が語る喜びや悲しみは、人の心の在り方が神の意思に適うかどうかを言っているのであって、個人の偶発的・一過的な情動のことではありません。

 しかしながら福音書の登場人物も生身の人間である以上、実際には情緒を表に現わしていたはずです。古代教会において厳格であった典礼は、十一、二世紀以降にはいわば軟化して一般信徒にも馴染み易いものとなり、その過程で生身の女性である聖母の情動、すなわち「聖母の喜び」、「聖母の悲しみ」が語られるようになりました。

 悲しみの聖母の祝日は、当初は聖母のしもべ会でのみ祝われていましたが、1814年にローマ教皇ピウス七世がこれをラテン典礼教会全体に広めました。当初は9月の第3日曜日が悲しみの聖母の祝日でしたが、1913年にローマ教皇ピウス十世が日付を9月15日に固定し、今日に至っています。





 「聖母の七つの悲しみ」はすべて正典福音書に記述された出来事です。以下に関連箇所を引用します。日本語テキストはすべて新共同訳によります。


1. 幼子イエスに関するシメオンの預言

関連テキスト ルカによる福音書 2章34 - 35節

 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

(下) Rembrandt Harmenszoon van Rijn, Simeon in the Temple (details), 1631, Mauritshuis Royal Picture Gallery, The Hague




2. エジプトへの逃避

関連テキスト マタイによる福音書 2章13 - 15節

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。




3. 三日のあいだ少年イエスとはぐれたこと

関連テキスト ルカによる福音書 2章43 - 45節

 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

(下) Frans Francken I (1542 - 1616), Jesus in the Temple, 1587, oil on wood, 250 x 220 cm, Onze-Lieve-Vrouwekathedraal, Antwerp




4. 十字架を背負って歩くイエスと出会ったこと

関連テキスト ルカによる福音書 23章27節

 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。

(下) Simone Martini, "le portement de la Croix", 1333, Tempera sur bois, 25 × 16 cm, musée du Louvre, Paris 画面左下の青い衣の女性が聖母。その奥で両腕を挙げているのはマグダラのマリア




5. イエスの十字架のもとに立ったこと

関連テキスト ヨハネによる福音書 19章25 - 27節

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

(下) Matthias Grünewald, Crucifixion (The Isenheimer Altarpiece), 1510-15, oil on wood, Musée d'Unterlinden, Colmar




6. 十字架から降ろしたイエスの遺体を抱きとめたこと

関連テキスト マタイによる福音書 27章57 - 58節

 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。

(下) Pietro Lorenzetti, Deposition (details), 1330 - 40, fresco, Lower Church of San Francesco, Assisi




7. イエスの遺体を埋葬したこと

関連テキスト ヨハネによる福音書 19章40節

 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。



【美術表現におけるマーテル・ドローローサ】



(上) 逸名彫刻家による芸術水準のメダイユ 《エッケ・ホモーと悲しみの聖母》 直径 23.7 mm 厚さ 3.3 mm 重量 5.4 g フランス 1920 - 30年代 当店の商品


 「ヨハネによる福音書」十九章にはイエスがローマ兵たちに侮辱され、ローマの総督ピラトによって群衆の前に引き出され、十字架に付けられて死に、十字架から降ろされて墓に葬られたことが記録されています。十九章二十五節から二十七節には次のように書かれています。

   25    イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
   26   イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
   27   それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


 福音書の唯一の目的は、救済の経綸を明らかにすることです。すなわち福音書は文芸作品ではないゆえに登場人物の感情には無関心で、わずかな例外を除き、喜怒哀楽はほとんど描写されません。上の引用箇所にも人物の感情は一切描写されていません。

 描写されていないからと言って、感情の動きが無かったことにはなりません。描写の有無と、実際の感情の有無は別問題です。しかしながら通常の文学作品を読むときと同様の感覚で上記引用箇所を読むならば、十字架のそばに立つ女性たちは悲しんでいなかったかのようにも感じられます。


 実際のところ古代から十世紀の神学者たちは、イエスが十字架刑に処せられるのを見ても、聖母は動揺せず涙も流さなかったと考えました。なぜならばマリアは普通の母親、普通の女性ではなく、アブラハムやヨブに勝る信仰の持ち主であり、早ければ受胎告知のときから、遅くともシメオンによる「悲しみの剣」の預言を聴いてから、救済史におけるイエスの役割を理解していたと考えられていたからです。当時の神学者から見れば、イエスの受難に際してマリアが悲しんだと考えるのは、聖母を冒瀆するにも近いことでした。

 典礼上の日割りにおいて土曜日がマリアの日とされるのも、マリアの信仰が堅固であったとする思想に基づきます。イエス・キリストは金曜日に受難し、日曜日に復活し給いました。土曜日はその間の日であり、キリストの弟子たちが信仰を失いかけていたときに当たります。マリアはこのときもイエスが救い主であるとの信仰を失わなかったゆえに、土曜日がマリアの日とされたのです。




(上) 多色刷り石版による写本風小聖画 《カンポカヴァッロの悲しみの聖母 Beata Vergine Addolorata di Campocavallo》 112 x 62 mm ソチエタ・リトグラフィカ・サン・ジュゼッペ、モデナ(イタリア) 1911年 当店の商品 この聖画において、聖母の表情に悲しみはうかがえません。


 そうは言っても息子が十字架上に刑死したとすれば、慈母は死ぬほどの悲しみを味わったと考えるのが人情でしょう。教父時代にはキリストの受難にも動じなかったとされていた聖母は、中世の受難劇において、恐ろしい苦しみと悲しみを味わう母として描かれるようになります。十二世紀の修道院において聖母の五つの悲しみが観想され、1240年頃にはフィレンツェにマリアのしもべ会が設立されました。同じ十三世紀には、ヤコポーネ・ダ・トーディ(Jacopone da Todi, c. 1230 - 1306)がスターバト・マーテル(羅 "STABAT MATER")を作詩しています。十四世紀初頭にはイエスの遺体を抱いて離さない聖母像が表現されるようになりました。聖母の悲しみの数は十四世紀初頭に七つとなって定着しました。

 十五世紀になると、十字架の下に立ったマリアはその苦しみゆえに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)であるとする思想が力を得ました。マリアを共贖者と見做すのは主にフランシスコ会の思想で、ドミニコ会はこれに抵抗しました。しかしドミニコ会はマリアが悲しまなかったと考えたわけではありません。トマス・アクィナスの師で、トマスと同じくドミニコ会士であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, + 1280)は、預言者シメオンの言う「剣」(ルカ 2: 35)をマリアの悲しみの意に解し、キリストが受け給うた肉体の傷に対置しました。




(上) レットゲンのピエタ Die Röttgen Pietà, c. 1350, Holz, farbig gefaßt, 89 cm hoch, Rheinisches Landesmuseum, Bonn


 十四世紀初頭に出現したイエスの遺体を抱く聖母像を、美術史ではピエタ(伊 Pietà)と呼んでいます。ピエタは絵画にも表されますが、最初は彫刻として制作されました。十三世紀までの聖画像では、十字架から撮り下ろされたイエスの遺体はただ地面に横たえられていましたが、ピエタのマリアはイエスを膝の上に取り上げ、ひしと抱きしめました。イタリア語ピエタの原意は「憐み」「信仰」で、ラテン語ピエタース(羅 PIETAS 敬神、忠実)が語源です。ピエタース(羅 PIETAS)の語根 "PI-" を印欧基語まで遡ると、「混じりけが無い」「清い」という原義に辿り着きます。

 教父たちは聖母マリアが混じりけの無い信仰を有した故に、その信仰は無条件的であり、イエスの受難を目にしても聖母は悲しまなかったと考えました。これに対してピエタの図像を生み出した十四世紀の人々は、聖母が死ぬばかりに悲しんだと考えました。イタリア語ピエタには「肉親に対する親愛の情」という意味が加わる一方で、印欧基語に遡る「清らかさ」のニュアンスも失っておらず、古代の教父たちが説く純粋な敬神に、ゴシック期らしい人間味の加わった語となっています。




(上) Michelangelo Buonarroti, "La Pietà vaticana", 1497 - 1499, Marmo bianco di Carrara, 174×195×69 cm, la Basilica di San Pietro in Vaticano, Città del Vaticano


 数あるピエタ像のうち、もっとも有名な作品の一つは、ヴァティカンにあるミケランジェロのピエタでしょう。この像は 1972年5月、ハンマーを振るう狂人によって聖母の顔と片手が損壊されましたが、その後修復されて現在に至っています。

 マリアが十五歳の頃にイエスを産み、イエスが三十三歳で亡くなったとすると、この時のマリアは四十八歳ということになります。しかるに「ヴァティカンのピエタ」のマリアはこれよりもはるかに若々しい顔立ちです。聖母の外見が若過ぎる理由を訊かれて、ミケランジェロは処女だから若さを保っているのだと答えましたが、処女性と若さに関連性があるとは思えません。フェリス女子大学の弓削達教授は、あまりにも若いマリアは聖母ではなく、マグダラのマリアであろうと考えました。弓削教授の説にはローマ史学に裏付けられた説得力がありますが、筆者(広川)はピエタが宗教的主題の作品である以上、聖母が四十八歳という実年齢通りに表現される必要はないと考えます。




(上) Jan van Eyck, "De aanbidding van het Lam Gods", 1432, Olieverfschilderij, 340 × 440 cm, Sint-Baafskathedraal te Gent


 宗教に関わる作品にアナクロニズムはありがちですが、これは作者の不注意のせいではなく、作品が時間を超越し、いわば永遠の視点から作られているからです。聖母マリアに関して言えば、シリア語による新約外典「トラーンシトゥス・マリアエ」(羅 "TRANSITUS MARIÆ" マリアの死)には、聖母マリアが地上の生を終わるときに、キリストが旧約の義人たち、預言者たち、殉教者たち、証聖者たち、処女たち、天使たちを伴って降臨したと書かれています。この光景は「ゲントの祭壇画」中央パネル下段の「子羊の礼拝」を想起させます。

 「トラーンシトゥス・マリアエ」のテキストでキリストに伴われていた者のうち、旧約の義人たち、預言者たち、天使たちは良いとして、殉教者たち、証聖者たち、処女たちは明らかに時代錯誤でしょう。「トラーンシトゥス・マリアエ」の著者がこのことに気づかなかったはずはないので、この時代錯誤は永遠の相の下では問題にされていないのだと考えられます。




(上) ウィリアム・ブグロー作 「ラ・ヴィエルジュ・コンソラトリス」 慰めの聖母 コロタイプによるアンティーク小聖画 116 x 75 mm フランス 1890 - 1920年頃 当店の商品 自らもイエスを亡くして喪に服する聖母が、幼子を亡くした若い母を、イエスが不在の膝に乗せて慰めています。




(上) 「マリアを通してイエズスへ」 マリアの子ら会最初期のメダイ 26.1 x 19.0 mm フランス 十九世紀中頃 当店の販売済み商品


 子供や若者の死亡率が高かった時代の人々は、息絶えたイエスを抱いて嘆く聖母の姿、また悲しみの剣に心臓を刺し貫かれた聖母の姿を見て、心を激しく揺さぶられたに違いありません。人々はそこに共贖者(羅 CORREDEMPTRIX)の姿を見、自分たちと同様の苦しみに遭って悲しみ嘆く聖母は、最良の執り成し手(羅 MEDIATRIX)ともなりました。十一世紀から十二世紀にかけて、マリアは人と神を繋ぐ存在、すなわちこの世に救い主をもたらすとともに、救い主に至る道(「マリアを通してイエスへ」)でもある方となりました。




(上) ジェイムズ・ベルトラン作 「聖母子の前のマルガレーテ」 1876年 画面サイズ 縦 250 x 横 160 mm 当店の商品


 以上、宗教分野に関して述べましたが、マーテル・ドローローサは宗教を離れ、広い分野に影響を及ぼしました。上の写真のエングレーヴィングは、世俗文学及び世俗美術の分野でマーテル・ドローローサから生まれた作品の例です。

 ゲーテの「ファウスト」において、悪魔メフィストフェレスの力を借りて若返ったファウスト博士は信心深く清純な乙女マルガレーテ(グレーテ、グレートヒェン)を誘惑し、マルガレーテはファウストに身も心も捧げます。マルガレーテは母親を裏切って眠り薬を飲ませることをファウストに約束させられますが、町外れにある悲しみの聖母像を訪れて、聖母にすがって不安と悲しみを訴えます。3711行から 3713行、および 3728行から 3731行のドイツ語テキストを、筆者(広川)による和訳を添えて示します。筆者の和訳はこなれた日本語を心掛けたために、所により行の順序がテキストと食い違っています。

   3711   Was mein armes Herz hier banget,    私の哀れな胸がなぜ不安なのか、
   3712   Was es zittert, was verlanget,    何を恐れて何を願っているのか、
   3713   Weißt nur du, nur du allein!    ご存知なのはあなた様だけです。
         
   3728   Hilf! rette mich von Schmach und Tod!    お助けください。恥と死から、どうか私を救ってください。
   3729   Ach neige,    悲しみの聖母様!
   3730   Du Schmerzenreiche,    慈しみをもって、お顔を私の苦しみに
   3731   Dein Antlitz gnaedig meiner Not!    向けてくださいませ!


 上で「悲しみの聖母様!」としたのは、3730行「ドゥー、シュメルツェンライヒェ」の和訳です。ドイツ語のシュメルツェンライヒェ(独 Schmerzenreiche)は、「悲しみと苦しみに満ちた女性」と言う意味です。悲しみと苦しみの只中にあるグレートヒェンは、気持ちを分かって下さる方として、御自らも悲しみ苦しみ給うた聖母に祈り、すがっています。



【シドッチ神父とマドンナ・デル・ディト】




(上) シドッチ神父が所持していた聖母像 東京国立博物館蔵


 カルロ・ドルチの「マドンナ・デル・ディト」は、バロック期に描かれた悲しみの聖母としてよく知られています。「マドンナ・デル・ディト」は我が国に縁が深い聖母像でもあります。なぜならば、1708年に日本に潜入して捕らえられたイタリア人司祭、シドッチ神父(Giovanni Battista Sidotti, 1668 - 1714)が、「マドンナ・デル・ディト」の銅板油絵を所持していたからです。

 シドッチ神父は屋久島に上陸して発見され、薩摩藩によって長崎奉行所に護送されましたが、長崎奉行所にはキリシタンに関する充分な知識を持つ者がいなかったために、神父を取り調べることができませんでした。そこで神父は江戸に送られ、当時の日本で最高の知識人とも呼ぶべき新井白石の取り調べを受けることになります。白石は神父の取り調べを通して神父の人柄に感銘を受けるとともに、神父からの聞き取りによって世界の事情を知り、さらに切支丹の教えが当時一般に考えられていた邪宗では決してないこと、宣教師はヨーロッパによる日本侵略のためのスパイではないことを理解しました。その結果、白石は幕府への取り調べ報告書「羅馬人処置献議」において、次のような異例の答申を行います。

第一、本国へ返さるることは上策也 此事難きに以て易き歟

第二、かれを囚となしてたすけおかるる事は中策也 此事易きに以て難き歟

第三、かれを誅せらるることは下策也 此事易くして易かるべし


 白石はキリシタンを邪宗と見るのが間違いであること、またキリシタン信徒やバテレンを処刑したり棄教させたりするのが下策であることを、その明晰な頭脳を以って理解し、幕府に働きかけたのです。数十年前であれば確実に処刑されていたであろうシドッチ神父が、拷問を受けることもなく棄教もしないままに、二十両五人扶持を与えられ、茗荷谷の切支丹屋敷で身の回りの世話をされて生活するという異例の待遇を受けたのは、白石の答申の結果でした。しかしながらシドッチ神父の世話役であった五十歳代の夫婦が神父に感化されてキリシタンになったことが露見したために、神父は切支丹屋敷の地下牢に収容されて衰弱死します。神父が死に追いやられる結果となったことは、「かれを誅せらるることは下策也」と断言した白石にはさぞかし無念であったことでしょう。

 白石は「長崎注進羅馬人事」下巻に、シドッチ神父が所持していた「マドンナ・デル・ディト」のスケッチを残しています。シドッチ神父の「マドンナ・デル・ディト」は、現在は東京国立博物館に収蔵されています。


 シドッチ神父によってキリシタンとなった召使夫婦は名を長助、お春といい、いずれもキリシタンの子でした。おそらく子供時代に親から引き離され、切支丹屋敷で召し使われていたものと思われます。シドッチ神父よりも三十年ほど前、同じ切支丹屋敷に収容されたキャラ神父の世話をしたのも、長助とお春でした。キャラ神父は遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリゴ神父のモデルになった人です。

 キャラ神父に仕えたとき、長助とお春はキリシタンになりませんでした。しかしシドッチ神父の教えに耳を傾けた二人は、1714年、キリシタンになったことを自ら役人に届け出ました。二人は別々に牢に入れられ、いずれも二か月後に無くなっています。二人はまだ五十歳代でしたから、老衰で死んだはずはなく、過酷な扱いを受けたものと思われます。シドッチ神父が亡くなったのは、長助とお春の二か月後でした。シドッチ神父は四十六歳でした。



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