神に向かう愛のカニヴェ 「おとめ殉教者 聖フィロメナ」 (シャルル・ルタイユ 図版番号 475) 柔らかな光に輝くグラヴュールの名品 125 x 83 ミリメートル

Sainte Philomène, Vierge et Martyr, Ch. Letaille, direction  pl. 475. E. Boumard, Éditeur Pontifical, Successeur, Paris


フランス  1873年以降



 十九世紀初頭に墓所が発見され、前世紀半ばまで公的崇敬の対象であった少女、ローマの聖フィロメナのカニヴェ。1873年以降、十九世紀末頃までの期間にフランスで刷られた品物で、稀少な完品です。裏面にフランス語の祈りが書かれています。





 本品は切り紙細工風の美しい透かしがある良質の無酸紙を使用しています。表(おもて)面は最上部にフランス語で「カタコンブ・ド・サント・プリシル ― ロム 1802」(仏 Catacombes de Ste. Priscille - Rome 1802 「聖プリスキッラのカタコンベ ローマ、1802年」)の文字があり、ローマの聖フィロメナの全身が大きく描かれています。聖女がまとう純白の衣は、十三歳で殉教したフィロメナの清らかな処女性を可視化しています。波打つ長い髪に薔薇の冠(ロゼール、ロザリオ)を戴き、まなざしを天に向けるフィロメナは、二本の矢を持つ左手を錨の上部に添え、十字架を持つ右手を高く掲げています。

 フィロメナの墓所を塞ぐテラコッタの板には、錨と二本の矢が描かれていました。イエスのマリア・ルイザ修道女(Maria Luisa di Gesù)は1833年に聖フィロメナが殉教する様子を幻視しましたが、錨と二本の矢は幻視の中でフィロメナの受苦と関連付けられました。それゆえ錨と二本の矢は聖フィロメナのアトリビュート、すなわち聖フィロメナの絵や彫刻において、聖女を同定するために造形される事物となっています。


 しかしながらイエスのマリア・ルイザ修道女の幻視を離れて考えるならば、フィロメナとともに聖画に描き込まれた三つの事物は、キリスト教の枢要徳である信望愛(「コリントの信徒への手紙 一」十三章十三節)を表しています。すなわち十字架は言うまでもなく信仰の象徴です。錨は希望を象徴します。矢は異教の古典古代以来、愛を象徴します。矢が象徴する古典古代の愛は本来クピードー(エロース 性愛)であってカリタース(アガペー キリスト教的慈愛)ではありませんが、ウェヌスの花であったはずの薔薇が換骨奪胎されて無原罪の聖母ロサ・ミスティカ)を象徴するに至ったのと同様に、クピードーの矢も大きな変容を遂げてカリタース(神の愛)の象徴となりました。ベルニーニ作「聖テレサの恍惚」において、ケルブが聖女に向ける矢は神の愛を象徴します。


(下) Gian Lorenzo Bernini, "L'Estasi di santa Teresa d'Avila", 1647 - 1652, marmo, 350 cm, la Capella Cornaro, Chiesa di Santa Maria della Vittoria, Roma




 イエスのマリア・ルイザ修道女の幻視は史的事実を反映しているとは考えられませんが、向きを違えた二本の矢の解釈は示唆的です。発射された矢が神威によって飛翔中に向きを変える説話は世界に広く分布し、神話学では「ニムロドの矢」という類型名が付けられています。このタイプの説話は西洋に多いだけでなく、東洋にも数多く分布します。

 インドにおける「ニムロドの矢」としては、「賢愚経」巻一に、阿闍世王が恒伽達(ごうがだつ)を射殺しようと試みる話が見られます。恒伽達は阿闍世(あじゃせ)王の宰相が恒河天神に祈って得た子で、王妃と侍女たちが脱いだ衣を盗もうとして見つかり、王の前に引き立てられました。阿闍世はこれを射ようとしますが、三度試みても矢は反転して王自身に向かい、恒伽達を射ることができません。これに恐れを抱いた王は、神通力の由来を恒伽達に尋ねました。「法句譬喩経」巻四には、優填王が第一王妃を射殺しようと試みる話が見られます。第一王妃は敬虔な仏教徒でしたが、第二王妃に讒訴されて王の怒りを買いました。優填はこれを射ようとしますが、何度試みても矢は反転して王自身に向かい、妃を射ることができません。仏の力を目の当たりにした王は恐れを抱き、自ら妃の縛めを解きました。記紀によると、国譲りの際、天穂日命(あめのほひ)に次いで出雲に派遣された天若日子(あめのわかひこ)は、大穴牟遅神(おおなむち)の娘を得て当地に留まりました。天若日子に任務を思い出させるため、高天原からは雉の鳴女(きじのなきめ)が遣わされましたが、天若日子は雉を射殺し、雉を射た矢は高天原に達しました。高御産巣日神(たかみむすび)は矢を投げ返し、天若日子は邪心ゆえにその矢に貫かれて死にました。




(上) 石版による小聖画 「あなたの愛の火を、私たちのうちに灯してください」 123 x 73 mm サント・クレール、ヴェルサイユ フランス 1940年代頃 当店の商品です。


 上に引用した「ニムロドの矢」は、すべての例において、的とされた人物の聖性により矢が反転しています。イエスのマリア・ルイザ修道女が幻視した矢の反転も、この点に関しては同様です。しかしながら本品の聖画において聖フィロメナが持つ二本の矢を「愛の象徴」と解するならば、カニヴェ表面の聖画と裏面の祈りとの間に緊密な有機的連関が生まれます。フィロメナに向かう矢は神と救い主の愛を、フィロメナから発する矢は神の愛の反映、すなわち神と救い主に向かう愛を、それぞれ可視化したものと考えることができます。

 ユダヤ・キリスト教の神は「在りて在る者」(希 ὄντως ὄν 「出エジプト記」三章十四節)すなわち必然的存在者であり、被造物に過ぎない人間とは隔絶した次元におられます。神と比べれば、我々は塵に過ぎません。人間は煙のように不確かなもので、神と同等の存在性を有しません。人間の存在性は全面的に神に依拠しています。一人一人の人間は、神の許しの下においてのみ辛うじて存在しています。無に等しいと言ってよい、まさに塵の如き人間が神に愛されるとき、その人の魂はエッセ(羅 ESSE 存在)の大洋の如き神に飲み込まれ、神の許しのもと辛うじて保持していた神の外側での存在性(羅 EXISTENTIA)は、神のエッセの内に溶解解消します。神の愛が火に譬えられるならば、愛される魂は愛の火に焼き尽くされて、自らが火になります。神の愛が矢に譬えられるならば、愛される魂は自らが矢となり、神に向かって飛翔します。





 本品のフィロメナは、世の終わりに復活する殉教者として描かれています。壁龕(へきがん 壁面の窪み)状の墓所は入り口アーチの要石(かなめいし アーチ最上部の迫石)にクリスムを有し、そこから歩み出る古代の少女は、墓から復活するイエス・キリストを髣髴させます。少女の足下には銘板があって、「サント・フィロメーヌ、ヴィエルジュ・エ・マルティル」(仏 Sainte Philomène, Vierge et Martyr おとめ殉教者、聖フィロメナ)と刻まれています。墓所の入り口の両側に活けてある白百合は、フィロメナが地上の命を落として守り抜いた純潔と、神による選びをその芳香によって象徴し、優しく包み込むような神の愛の光とともに、天上の世界へと歩み出すフィロメナを迎えています。

 聖画の下には次の言葉がフランス語で記されています。なおこの面の文字は活版ではなく、すべてグラヴュール(エングレーヴィング)によります。
 
 Sa tombe s'est trouvée pleine de vie et d'immortalité !  フィロメナの墓所には生命と不死が満ちていた。
 
 
 聖女フィロメナについては資料の裏付けが無く、殉教の日付も不明ですが、殉教聖人の祝日は、たいていの場合、聖人が殉教した日です。我々一般人は地上に生を享けた日付を誕生日として祝いますが、古代教会の人々は地上の誕生日を祝うことを恥ずべき異教的風習と考えました。真に重要なのは地上の生ではなく、むしろ天における永生です。そうであるならば真に祝うべきは天上に生を享けた日付であり、それは殉教の日付であると考えられたのです。「墓所に生命と不死が満ちていた」という一見したところ不可解な表現も、天上の生こそを重視する宗教的文脈において読み解けば納得がゆきます。
 
 この面の最下部、金彩の枠のすぐ下には、次の文字が刻まれています。
 
 Ch. Letaille, direction  pl. 475. E. Boumard, Éditeur Pontifical, Successeur, Paris  製版 シャルル・ルタイユ  図版番号 475  版元 パリ、E. ブマール 教皇庁御用達


 十八世紀のカニヴェは主にカルメル会の修道女が、まったくの手描きにより個人の信心業として制作する聖画でしたが、1830年代になると金属版インタリオによるカニヴェが普及します。シャルル・ルタイユは 1839年にパリで創業した版元で、十九世紀型カニヴェの製作を最も早期に始めた老舗のひとつです。シャルル・ルタイユは 1873年まで存続し、その後は E. ブマール・エ・フィス(E. Boumard et Fils)に社名を変更して、美しいカニヴェの制作を続けました。本品の版元名の表記からは、E. ブマールがシャルル・ルタイユ時代の版を引き継ぎ、これを再利用する形で、1873年以降に改めて刷られた聖画であることが分かります。





 本品において、少女フィロメナの滑らかな肌と、少女が戴く薔薇の花弁はポワンティエ(スティプル・エングレーヴィング)で、優雅な衣文(えもん 衣の襞)のある衣と波打つ髪、墓所入り口の脇に飾られた白百合、要石のクリスム、墓所内の暗部は線状のグラヴュール(エングレーヴィング)で、それぞれ制作されています。カタコンベの壁面はオー・フォルト(エッチング)で制作されていますが、これはインタリオの線をまっすぐに引かず、細かい振幅を与えることによって、地中の土壁の質感を再現するためです。オー・フォルトはグラヴュールに比べて緻密さに劣る場合がありますが、カニヴェは画面が小さいので、たとえオー・フォルトであってもグラヴュールと同等のきめの細かさを実現しています。

 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。肌のポワンティエは一ミリメートル四方におよそ二十個の点が打たれています。すべての点は手作業で打たれており、その直径と深さを精密に制御することで、滑らかな肌の明暗を断絶なく表現しています。目、鼻、唇の細部は、もはや顕微鏡でも判別困難な細かい点で描かれ、可愛らしい唇の膨らみは、生身の少女のごとき写実性を以て描写・再現されています。これら各部のサイズは一ミリメートルに足りませんから、版画家は百分の一ミリメートルのオーダーで精密かつ正確な作業をしていることがわかります。

 愛の光に照らされる少女の衣は、自ら柔らかな微光を放つかのように見えます。版画家は衣の明るさを表現するために波線を多用し、直線によるインタリオも極細の線としています。体の右端(向かって左端)にある暗部の表現は、線の太さを増すのではなく、クロスハッチ内部に点を打つことで明度を落としています。





 墓所の入り口でフィロメナを迎える百合は、キリスト教の象徴体系において、薔薇と並んで最も重要な花です。馥郁たる百合の香気は、少女が地上の生命と引き換えに贖った処女の純潔を表します。殉教者の花としての百合は、神による選びを象徴します。イエス・キリストが神の摂理への信頼を説いた譬え話(「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節、及び「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節)において、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(οὐδὲ Σολομὼν ἐν πάσῃ τῇ δόξῃ αὐτοῦ περιεβάλετο ὡς ἓν τούτων.)と呼ばれた白百合の美しさは、純白の衣を着て輝く少女の美と重なり合います。





 カニヴェの裏面には神への愛と殉教に関する観想、および聖フィロメナに執り成しを求める祈りが、活版によるフランス語で刷られています。内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。筆者の訳は正確ですが、こなれた日本語となるように心掛けたため、逐語訳ではありません。分かりやすく訳すために言葉を補った箇所や、フランス語の一文をいくつかの和文に分けて訳した箇所があります。

           Mourir pour Jésus-Christ, c'est Croire en Jésus-Christ ! ... c'est faire pour Lui ce qu'Il a fait pour nous ...         イエス・キリストのために死ぬとは、イエス・キリストを信じることである。それはイエスが我々のためにしてくださったのと同じことを、イエスのためにするということに他ならない。
            《La plus grande preuve d'amour ; c'est de donner sa vie pour celui que l'on aime ...》     「愛の証のうちで最大のものは、愛する人のために生命を与えることである。」
 
        L'amour divin ne veut qu'une chose, ne prétend qu'à une chose, ne soupire que pour une chose. --- Cette chose unique, ce sentiment qui domine tout, ce désir qui l'emporte sur tout, c'est d'arriver à la possession du souverain Bien, de ce Bien devant lequel s'évanouissent toutes les choses de ce monde ...    神への愛が求め、希求し、願うことはただ一つである。この唯一事、すべてに勝る気持ち、すべてに優先する要求とは、最高善を有するに至ることである。この最高善を前にすれば、この世のすべては消えてしまうのだ。
       
     C'est l'amour divin qui a fait les martyrs, c'est sa céleste flamme qui a dévoré, consumé, détruit dans leur cœur tout autre besoin que celui de posséder Dieu.    人々が殉教したのは、この愛のためである。殉教者の生命と愛(直訳 心臓)の内にあったあらゆる現世的必要、神を我がものにするということ以外の必要は、神への愛という天上の炎に飲み込まれ、焼き尽くされ、無にされた。
     Pour acheter cet immense bonheur, ils n'ont pas craint d'affronter tous les tourments, de subir toutes les tortures, d'endurer tous les genres de mort... --- Dieu trouvé ! .. Dieu possédé ! .. Dieu glorifié ! .. tout était là pour eux ! --- Et après le moment très-court d'une tribulation passagère, ils se sont élevés dans les cieux où ils chanteront leur victoires ...    この大いなる幸福を贖(あがな)うために、殉教者たちは恐れることなく全ての責め苦に直面し、あらゆる拷問を受け、あらゆる種類の死を耐え忍んだ。そのようにして殉教者たちは神を見出し、神を我がものとし、神の栄光を称えたのである。ほんの束の間の苦しみを経て、彼らは天に昇った。彼らはそこで勝利の凱歌を歌うことになるのだ。
     
 Car plus on aime Jésus, plus on fuit tout ce qui peut séparer tant soit peu du divin Crucifié.  俗世間の事柄のせいで、人は十字架に架かり給うた御方から離れてしまうことがある。イエスを多く愛する人は、たとえ少しでもイエスから離れる原因になる事を避ける。イエスを多く愛すれば愛するほど、細心の注意を以て他事を避けるのだ。
 --- Loin de trembler alors que la croix arrive, on lui tend les bras comme au moyen d'union le plus sûr ; on la regarde avec une sainte allégresse ; on l'embrasse comme le lien sacré qui unit l'âme à Dieu et qui lui promet l'éternel héritage.  ― 十字架がもたらされるとき、人は怖気(おぞけ)をふるうどころか、むしろ十字架こそが自分をキリストと一体にならせてくれる最も確実な方法と考え、十字架に両腕を差し伸べる。聖なる喜びを以て十字架を眺める。魂を神に結び付け、永遠の財産を約束してくれる聖なる紐帯として、十字架を抱きしめる。
 Ecoutez notre Sainte, livrant ses membres innocents à la torture et à la mort : 《O bonne Croix, qui as porté le Maître, ne refuse pas de porter la servante ! Viens briser les liens qui me retenaient captive et rends-moi à Celui pour lequel j'ai vécu et pour lequel je veux mourir. 》  我らの聖女は、無垢の体を責め苦と死に委ねた。聖女の言葉を聴いてほしい。「主の体を抱いた良き十字架よ。婢(はしため フィロメナ自身のこと)の体も拒まずに抱いてください。私を繋ぎ止める地上の絆を断ち切り、私を主の許(もと)に連れて行ってください。私はこれまであの方のために生きてきましたし、あの方のために死にたいのです。」
 Heureuse Vierge ! parée de tous les charmes de l'innocence et embellie encore par la pourpre du martyre, obtenez-nous la grâce de savoir tout souffrir et tout sacrifier au bonheur d'être fidèle à Dieu jusqu'à la mort, afin de le posséder éternellement dans les joies du paradis. Ainsi soit-il.  幸いなる処女(おとめ)よ。無垢のあらゆる魅力で飾られたうえに、殉教の紫衣までもまとった処女よ。汝を通して与えられる恵みにより、我らが全てを耐え忍び、すべてを犠牲に捧げて、死に至るまで神に忠実に、幸いな生を送れますように。そして楽園の喜びの内に、神に忠実であるという幸せを永遠に失いませんように。アーメン。
 
 pl. 475 --- Paris, rue Garancière, 15  図版番号 475 ― パリ、ガランシエール通十五番地






 本品は 130年ないし 140年以上前のカニヴェですが、良質の無酸紙に刷られているうえに大切に保管され、古い年代のものとは俄かに信じがたいほど綺麗な保存状態です。繊細な切り紙様細工にも破損は無く、たいへん稀少な完品です。

 1802年に墓所が発見され、1904年以降その崇敬に慎重論が広まった処女(おとめ)殉教者フィロメナは、十九世紀のカトリシズムと共に歩んだ聖女と言えます。またインタリオによる美麗なカニヴェも、十九世紀のフランスに特有の美術品です。細密インタリオによって聖フィロメナを描き出した本品カニヴェは、キリスト教信心具の歴史上ただ一度だけ、この時代のフランスにおいてのみ生まれ得た小さくとも本格的な美術品です。





27,000円 (税込み 簡易な額装付き)

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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