処女(おとめ)殉教者 ローマの聖フィロメナ
Santa Filomena di Roma



(上) パリ、ラマルシュによるアール・ヌーヴォーのカニヴェ 「聖フィロメナ」 (図版番号 212) 日本風の切り紙細工に黒色インクのインタリオ 114 x 74 ミリメートル フランス 1890年代 当店の商品


 聖フィロメナは四世紀初頭に殉教したとされる少女です。1802年、ローマにあるプリスキッラのカタコンベで、この聖女のものとされる墓所が見つかりました。1805年から 1961年まで、聖フィロメナはカトリック教会が定めるローマ典礼暦に祝日が載っており、公的崇敬の対象でした。


【プリスキッラのカタコンベにおける墓所の発見と、崇敬の広がり】

 ローマにあるプリスキッラのカタコンベでは、ローマ帝国時代の殉教者の墓所を見つけるべく探索が行われていましたが、1802年3月24日にそれらしき墓所が見つかり、翌25日に発掘調査が行われました。墓所はテラコッタでできた三枚の板を並べて封じられていました。三枚の板には赤色顔料を使用し、左端の板から順に、「ルメナ、パークス・テー、クム フィ」(LUMENA - PAXTE - CUM FI)と記されていました。これを「パークス・テークム、フィルメナ」と並び変えれば、「フィルメナよ、平安が汝とともに(あるように)」という意味になります。

 墓所を封じる三枚の板には、これらの文字以外にも、錨とナツメヤシの葉、一本の百合、向きを上下に違えた二本の矢、槍が描かれていました。錨は希望を象徴し(「ヘブライ人への手紙」六章十九節)、魚や善き羊飼いと並んで、初期キリスト教徒に最も愛用された図像のひとつです。ナツメヤシの葉は勝利の象徴、百合は神による選びと摂理、純潔の象徴であり、いずれも聖人に相応しい図像です。また矢や槍は、これらの武器による殉教を連想させます。

 墓に収められていた遺体は十二歳から十五歳の女性で、頭蓋に骨折がありました。また遺体とともにガラスの小瓶が見つかりましたが、そこには乾いた血液が入っていると思われました。以上の出土状況に基づき、この墓所は殉教処女フィルメナ(羅 FILUMENA)のものと判断されました。フィルメナという名前は、ギリシア語で「愛される女性」を表すフィロメネー(Φιλομένη)を、ラテン語に移入した女性名と考えられました。

 1805年8月10日、少女の遺体は南イタリア、ナポリ近郊のムニャーノ・デル・カルディナーレ(Mugnano del Cardinale カンパニア州アヴェリーノ県)に移され、聖堂の祭壇下に安置されました。カタコンベの墓所を塞いでいた三枚の板は、1827年8月4日、教皇レオ十二世から当地の聖堂に贈られました。1833年にはナポリに住むイエスのマリア・ルイザ修道女(Maria Luisa di Gesù)がフィロメナの殉教を幻視しました(註1)。移葬先の墓所、ムニャーノ・デル・カルディナーレの聖堂で、病気の治癒をはじめとする奇跡が続発し始めると、殉教処女聖フィロメナへの崇敬は急速に広まりました。信仰弘布会(l'Œuvre Pontificale de la Propagation de la Foi, l'OPPF)の設立者で、尊者に列せられている女性ポーリーヌ・ジャリコ(Pauline-Marie Jaricot, 1799 - 1862)は 1835年に重病に罹りましたが、同年8月10日、ムニャーノ・デル・カルディナーレを巡礼で訪れて快癒しました。教皇グレゴリウス十六世はこれらの奇跡を調査した後、殉教処女聖フィロメナへの崇敬を認可しました。聖フィロメナの祝日は、当初は移葬の日である 8月10日とされ、後にレオ十三世によって 8月11日に移されました。




(上) パリ、ブマール・フィスによるカニヴェ 「おとめ殉教者 聖フィロメナ」 (シャルル・ルタイユ 図版番号 475) 中性紙に黒色インクのインタリオ 125 x 83 ミリメートル 当店の商品



【殉教処女フィロメナの実在性に対する疑義と、典礼暦からの排除】


 ローマ大学キリスト教考古学教授であり、ヴァティカン美術館キリスト教部門部長、ヴァティカン図書館書記でもあった考古学者オラツィオ・マルッキ(Orazio Marucchi, 1852 - 1931)は、1904年に刊行された「教会史雑考 第二巻」("Miscellanea di Storia Ecclesiastica", Vol. 2, 1904)の中の記事、「聖フィロメナの銘に関する考古学的分析」("Osservazioni archeologiche sulla Iscrizione di S. Filomena", op. cit. pp. 365 - 386)において、殉教処女フィロメナの実在性に疑問を投げかけました。この記事がきっかけとなり、カトリック教会の内部でも、聖フィロメナの崇敬に関して慎重論が広まりました。

 1961年になって、聖女フィロメナは典礼暦から削除されました。主な理由は次の三つです。第一に、墓所を塞いでいた三枚の板が正しく配列されておらず、これは同時代(ローマ帝国時代)の信者たちから崇敬を受ける殉教者にふさわしい状態とは考えられないこと。第二に、聖フィロメナの人物像や殉教の経緯について、裏付けとなる資料がまったく欠落していること。第三に、「神に愛される女」を表すフィロメナは、特定の人物の名前ではなく、単なる形容詞の可能性が高いこと。

 聖フィロメナは典礼暦から排除されましたが、この聖女に対する個人的崇敬が禁じられたわけではなく、ムニャーノ・デル・カルディナーレの墓所は現在でも多くの巡礼者を集めています。聖フィロメナはル・ロゼール・ヴィヴァン(仏 Le Rosaire vivant 註2)及びレ・ザンファン・ド・マリ・イマキュレ(仏 Les Enfants de Marie Immaculée 註3)の守護聖人です。



註1 イエスのマリア・ルイザ修道女が 1833年に幻視したところによると、聖フィルメナ(フィロメナ)はギリシアにある小国の王女として生まれました。フィルメナという名前には、フィリア・ルーミニス(羅 FILIA LUMINIS 光の娘)の意味が籠められています。フィロメナは極めて美しい少女であったゆえにディオクレティアヌス帝から妃に望まれました。しかしながら純潔の誓いを立てていたフィロメナは、皇帝の望みを断固として拒みました。怒った皇帝は四十日のあいだ、フィロメナを鎖に繋ぎ、城塞中の牢に閉じ込めました。その後フィロメナは高位の人たちの前に引き出され、裸にされて鞭打たれた後、牢に戻されました。しかしながら瀕死のフィロメナのもとにふたりの天使が訪れ、膏薬を塗って傷をいやし、フィロメナに生気を吹き込みました。次にフィロメナは錨に括られ、ティベル河に投げ捨てられましたが、ふたりの天使が縄を解き、錨だけが川底に沈んで、フィロメナは濡れることさえなく岸辺に運ばれました。それを見た大勢がキリスト教徒になりました。皇帝は街路でフィロメナを引きずらせた上、数多くの矢で射らせました。フィロメナは瀕死の傷を負って牢に戻されましたが、安らかな眠りに落ちると、一夜のうちに癒されました。怒り狂った皇帝は射手たちに命じてさらに矢を射させましたが、矢はすべて脇に逸れました。射撃をさらに続行したところ、矢は空中で反転し、六人の射手を射殺しました。このとき数名の射手が回心してキリスト教徒になり、少女は神の力に守られているとの考えが人々の間に広がりました。救い主イエスが十字架に架かり給うたのと同じ金曜日の午後三時、少女フィロメナは斬首により、ついに殉教しました。殉教の日付は、ローマからムニャーノ・デル・カルディナーレへの移葬が行われたのと同じ8月10日でした。

 イエスのマリア・ルイザ修道女の幻視は、レゲンダ・アウレアのような中世のハギオグラフィアを完全になぞっており、歴史的事実でないことは一見して明らかです。カタコンベのフィロメナの墓所を塞ぐテラコッタの板には、方向を違えた二本の矢が描かれていました。イエスのマリア・ルイザ修道女はこの図像を、矢が空中で反転したさまを表すものと解釈しています。聖なる存在に向けて射られた矢が反転して射手を傷つけるモティーフは、神話学において「ニムロドの矢」と呼ばれています。

註2 ル・ロゼール・ヴィヴァン(仏 Le Rosaire vivant)は「活けるロザリオ」という意味で、二十名(かつては十五名)の人が一日一連ずつ、深く黙想しながらロザリオを祈る活動を指します。ル・ロゼール・ヴィヴァンは 1826年にポーリーヌ・ジャリコによって創始されました。

註3 レ・ザンファン・ド・マリ・イマキュレ(仏 Les Enfants de Marie Immaculée)は、愛徳姉妹会及びラザロ会によって 1837年に設立された少女のための信心会で、子供の心に確固たる宗教心を涵養することを目的としています。愛徳姉妹会及びラザロ会の創立者であるヴァンサン・ド・ポールは 1737年6月16日にクレメンス十二世によって列聖されましたから、レ・ザンファン・ド・マリ・イマキュレはヴァンサン・ド・ポール列聖百周年の年に設立されたことになります。1847年、レ・ザンファン・ド・マリ・イマキュレは教皇庁から信徒団体(Une Association de fidèles)として正式に認可されました。レ・ザンファン・ド・マリ・イマキュレとは、フランス語で「無原罪のマリアの子供たち」という意味です。


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