額装例





カニヴェ 「イエス・キリストの活ける大時計 ― 内なる魂、病者、苦しむ者たちのメメントー」 (シャルル・ルタイユ 図版番号 281)

L'Horloge vivante de Jésus-Christ : Memento des Âmes intérieures, des Malades, des Affligés, Charles Letaille, pl. 281


121 x 80 mm

フランス  1840年代頃



 1839年に創業したパリのエディトゥール(版元)、シャルル・ルタイユ(Charles Letaille)によるカニヴェ

 カニヴェはもともと修道女が水彩画を描き、切り紙細工を施して制作する手作りの聖画でしたが、銅版画や石版画の周囲に型による切り絵細工を施す方法が 1810年に考案され、1830年代からフランス社会に普及し始めました。本品は 細密なグラヴュール(エングレーヴィング)及びオー・フォルト(エッチング)による初期の作例です。両面の下部に記された図版番号(281)、及び切り紙細工の簡素な様式から判断すると、制作年代は 1840年代後半頃と思われます。


 額装例


 カニヴェの表(おもて)面には、巨大な十字架の下でイエスを囲む人々を中央の聖画に描き、金色の縁で囲んでいます。十字架の巨大さはキリストの苦しみの大きさを象徴するとともに、愛の大きさをも表しています。この面の最上部には、グラヴュールによるフランス語で、次の言葉が記されています。

  L'Horloge vivante de Jésus-Christ : Memento des Âmes intérieures, des Malades, des Affligés  イエス・キリストの活ける大時計 ― 内なる魂、病者、苦しむ者たちのメメントー

 「メメントー」(羅 MEMENTO)はラテン語の動詞「メミニー」(羅 MEMINI 「憶えている」「思い出す」)の命令形で、「忘れるな」「思い出せ」という意味です。しかしながら「メメントー・モリー(羅 MEMENTO MORI 死を忘れるな)」という句が人口に膾炙(かいしゃ)したために、この句、あるいは「メメントー」という語は、近代語において名詞としても使われるようになっています。本品においても、本来動詞である「メメントー」が、「思い起こさせるもの」という意味の名詞として使われています。

 イエス・キリストの受難の次第を示す大時計は、愛と苦しみが表裏一体であることを思い起こさせる「メメントー」です。人は誰しもがそれぞれの苦しみを抱えていますが、イエス・キリストが苦しみ給うた日を黙想することによってイエスの愛を思い起こし、イエスと一体になることが、このカニヴェの主題となっています。裏面に書かれているように、イエスと結びつき、イエスと共に苦しむ魂には、神への愛が与えられるからです。





 十字架最上部の札はティトゥルス(羅 TITULUS 罪状書き)といって、通常ならば「ユダヤ人の王ナザレのイエス」(INRI)と書かれていますが、本品では「トゥ・パラムール」(仏 tout par amour)と書かれています。「トゥ・パラムール」とはフランス語で「すべてを愛により」という意味で、イエスがすべての苦しみを愛によって忍び給うたことを言っています。

 十字架交差部には大時計の文字盤があり、中心部にはイエスの聖心マリアの聖心の冠に囲まれています。文字盤の周囲にはイエスが受難し給う直前の二十四時間、すなわち木曜日の夕刻から金曜日の夕刻までに起こった出来事が表示されています。金曜日の夕刻からは安息日が始まるので、イエスはその前に処刑され、埋葬されました。





 文字盤は木曜日の夕刻から金曜日の夜明け前に至る十二時間がハーフトーン(灰色)の背景で、金曜日の朝から同日の夕刻に至る十二時間が白い背景で表示されています。「イエス・キリストの活ける大時計」については、表(おもて)面の最下部に注釈があり、次のように書かれています。

  Commence à 7 heures du soir: le lavement des pieds; et finit à 6 heures de jour: le tombeau. (La partie teintée indique les heures de nuit.)

  [イエス・キリストの活ける大時計は]夕刻七時の洗足に始まり、日中六時の墓に終わる。(灰色の部分は夜の時間帯を表す。)



 それぞれの時刻に書き込まれている内容は次の通りです。

     木曜日  19時    lavement des pieds    イエス、弟子たちの足を洗い給う。
       20時    la Cène    最後の晩餐
       21時    prière au jardin des olives    オリーヴの園での祈り
       22時    sueur de sang    血の汗を流して祈り給う。
       23時    baiser de Judas    ユダの接吻
     金曜日  0時    soufflet chez le grand prêtre    イエス、大祭司邸にて平手打ちされ給う。
       1時    faux témoins, crachats    偽証され、唾を吐きかけられ給う。
       2時    reniement de Saint Pierre    聖ペトロの否認
       3時    la prison      獄に繋がれ給う。
       4時    
       5時    
       6時    première interrogation de Pilate    ピラトによる一回目の尋問
       7時    dérision d'Herode    ヘロデから嘲られ給う。
       8時    flagellation    鞭打たれ給う。
       9時    la Couronne d'Épines    茨の冠を被せられ給う。
       10時    Barrabas préféré, Jésus condamné    バラバが恩赦に選ばれ、イエスは有罪となる。
       11時    Jésus baisse et prends Sa Croix    イエス、身を屈めて十字架を負い給う。
       12時    Jésus dépouillé et cloué sur la Croix    イエス、衣を剥ぎ取られ、十字架に釘づけされ給う。
       13時    le bon larron    良き盗賊
       14時    Ecce Mater tua    見よ。これは汝の母なり。
       15時    Jésus expire.    イエス、息を引き取り給う。
       16時    le Cœur ouvert...    心臓を槍で突かれ給う。
       17時    Jésus mort dans les bras de Marie    死せるイエス、マリアの腕に抱かれ給う。
       18時    le Tombeau (Fin)    埋葬 (終り)





 十字架の基部に描かれているのは、安息日が始まる直前、夕刻のエルサレムを背景に、十字架から降ろしたイエスの遺体を囲む人々の姿です。イエスが十字架上に亡くなったのは金曜日の午後三時頃でした。その日の日没には安息日が始まります。安息日には収入を得るための仕事はもちろんのこと、埋葬のように大掛かりな作業もすることができないので、夕方、まだ日が暮れないうちに、イエスの弟子であったアリマタヤのヨセフが総督ピラトに願い出て、イエスの遺体の引き渡しを受けました。(マタイ 27: 57 - 61 他)

 本品の聖画にはイエスを中心に、三人のマリアと使徒ヨハネが描かれています。イエスの後ろにいるのがヨハネ、その右(向かって左)が聖母、その右が聖母と同名の姉妹マリア(クロパの妻であり、小ヤコブとヨセフの母であるマリア)、その右(向かって左端)でイエスの手を取っているのがマグダラのマリアです。手前の向かって右寄りに置かれた二つの容器には、没薬と沈香、あるいはナルドの香油が入っています。

 この聖画ではゴルゴタがエルサレム市街の南側に描かれており、沈みゆく太陽は向かって左側から残照を投げかけています。イエスの体の前面と、マグダラのマリアの背中が夕刻の光に照らされ、香油の容器は長い影を作っています。

 真新しい亜麻布の上に下ろされたイエスの体は、残照に照らされているだけではなく、無垢の光を発しています。イエスの体から近い距離にある聖母の顔、ヨハネの顔、マグダラのマリアの顔は、太陽光ではない柔らかな光に照らされています。この柔らかな光は愛と恩寵の光です。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。聖母マリアの衣は太く高密度の並行線で描かれていますが、線の角度や間隔を変化させることにより、人体の凹凸や衣の襞を巧みに表現しています。顔や手などの肌はポワンティエ(仏 pointillé 点描法の点、スティプル)で表現されています。イエスの体にこびり付いた血は、いっそう細かいポワンティエで描かれています。





 各人物の顔は直径二ミリメートルに収まりますが、目鼻立ちが整っているばかりか、細部まで立体的に描かれています。瞼の膨らみも正確に表現されており、イエスが目を閉じていること、聖母とヨハネの視線がイエスに向けられていることもよくわかります。聖母の目の直径は 0.3ミリメートル位ですが、白目と黒目の区別や睫毛の存在まで感じさせます。

 本品のようなインタリオ(伊 intaglio 凹版)では、鋼板に穿つ穴の大きさや線の太さ・深さを調整することによって、凹部に入るインクの量を調整し、立体感のある画像を描きます。原理は分かりやすいですが、本品の版を彫ったグラヴール(graveur 版画家)には、インクを載せる以前の鋼板しか見えていないことを考えるならば、本品の細密な描写は人間業とは思えません。







 聖画下の両端には、版元名と所在地が彫られています。

  Charles Letaille, à Paris  パリ、シャルル・ルタイユ

 その下には短い韻文が彫られています。

  Pour un Chretien fidèle à méditer son Dieu, / La Croix est tout un livre.. et la Souffrance un jeu.  信仰深いキリスト者が神について瞑想する際、十字架はまさに本である。苦しみは競技である。

 これは十字架について瞑想すればさまざまなことに気づくという意味、またそれぞれの人が抱える苦しみは、魂が神への愛に燃えるようになるための競技であるという意味です。「苦しみは競技である」という言い方を少しわかりにくく感じられるかもしれませんが、これは「コリントの信徒への手紙 一」 9: 24 - 27において、パウロが信仰生活を運動競技に譬えている記述に基づきます。一行目行末にある「デュー」(仏 Dieu 神)と二行目行末の「ジュー」(仏 jeu 競技)で韻を踏んでいます。




 裏面には神を愛する人になるための訓練と祈りがフランス語の活版で刷られています。内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Comment on obtient l'Amour.    どのようにして愛に至るか
         
     MOYEN UNIQUE: Le souvenir perpétuel de Jésus crucifié, et la participation à ses souffrances.    唯一の道は、十字架に架かり給うたイエスを常に想起し、イエスの苦しみに与(あずか)ることである。
         
     Je comprends maintenant, dit le R. P. Carafa, pourquoi un Séraphin apparut crucifié à Saint François, et pourquoi l'amour crucifié lui ayant dit : que demandes-tu François ?... et le Saint ayant répondu : l'Amour, il lui fut dit : En voici le moyen, c'est d'être attaché à la Croix... Et ainsi il demeura blassé, et tout ensemble enflammé de l'amour divin...     カラファ神父は次のように語っておられる。「十字架に磔(はりつけ)になったセラフが聖フランチェスコに対して現れた理由が、いま私にはわかる。磔になった愛(訳注 セラフのこと)が『フランチェスコよ、何を求めているのだ』と言い、聖人が『愛です』と答えたときに、『わたしのように十字架に付けられることこそが、その方法だ』と聖人に語られた理由が、いま私にはわかる。フランチェスコはセラフの言葉通りに傷を負い、それとともに神が与え給うた愛の炎に包まれて生きることになる。」
         
     O AMOUR, ton prix est la douleur!... ô Amour, souverainement doux... et souverainement amer... Souverainement doux au désir du cœur, souverainement amer au goût des sens, parce que, comme un feu céleste, tu vas étendant ta flamme de tous côtés, brûlant, consumant tout ce que tu rencontres de terrestre et d'humain !...     愛よ。我が汝から得るものは、苦痛である。この上なく甘美なる愛よ。この上なく苦き愛よ。汝は心の望みにとってはこの上なく甘美であり、感覚の欲にとってはこの上なく苦い。汝は天から下った火のように、あらゆる方向に炎を伸ばし、地上のもの、人間的なものに出会えば全てを焼いて燃やし尽くしてしまうからだ。
     C'est sur la Croix que Jésus-Christ nous a mérité l'Amour.... C'est en méditant la Croix et en vivant sur la Croix que nous entrerons en possession de cet Amour... et de Celui qui nous l'a mérité.    イエス・キリストは十字架上にて我らに愛を与え給うた。我々は十字架を瞑想することによって、また十字架上に生きることによって、この愛をわがものとし、またこの愛を我々に与え給うた御方をわがものとすることができるのだ。
         
     PRATIQUE : On propose aux âmes ferventes cette courte prière à dire toutes les heures pour la gloire de DIEU, leurs propers besions et le salut de leurs frères...    《実践》 熱意ある信仰者たちよ。神の栄光のために、自分自身の必要のために、兄弟たちの救いのために、この短い祈りを常に唱えなさい。
     (A défaut de temps, seulement l'Aspiration.)    (時間がないときは下記の「願い」のみでも可)
         
     PRIÈRE : Père éternel, je vous offre toutes les réparations de Jésus pendant cette heure si pleine de mérites...(citer le sujet de l'heure.)    《祈り》 永遠なる御父よ。功徳に満ち満ちたるこの時刻に、イエスが受け給うた苦しみへのあらゆる償いを捧げます。(その時刻の主題を述べる。)
     Je m'unis, autant qu'il est en mon pouvoir, aux saintes intentions qui animaient alors son âme adorable, voulant que tout en moi (jusqu'à mes moindres mouvements), tente par Lui et avec Lui à votre plus grande gloire... à mon propre salut... et au salut du monde.     私は能力の及ぶ限り、イエスの崇(あが)むべき御魂を掻き立てた聖なる御意志に、自分の心を合わせます。そして最も些細な動きに至るまで、わが内なるすべてが、イエスを通し、イエスと共にあることによって、御身のより大きな栄光と、私自身の救い、世界の救いに資することを願います。
         
     Aspiration : O Marie, ô ma Mère ! parfaite amante de Jésus crucifié, apprenez-moi à m'unir à Lui pendant cette heure...    《願い》 マリアさま、わが御母よ。十字架に架かり給うたイエスを、非の打ち所なき愛し方にて愛し給う御方よ。この時刻に、私がイエスと一つになれるように助け給え。


 トンマーゾ・ダ・チェラーノ(チェラーノのトンマーゾ Tommaso da Celano, c. 1200 - c. 1260/70) が著した「聖フランチェスコの第二伝記」("Vita secunda S. Francisci", 1246/ 1247)、及びボナヴェントゥラ (Bonaventura, c. 1221 - 1274) が著した「大伝記」("Legenda Maior", 1263) によると、聖フランチェスコは、1224年、ラヴェルナの山中で祈っているときに、キリストの姿で出現したセラフから聖痕を受けたとされています。カラファ神父が言及しているのはこの出来事です。

 「十字架に磔(はりつけ)になったセラフ」を指して、カラファ神父は「磔になった愛」と呼んでいます。これはセラフの本性が「愛」であると考えられているためです。「セラフ」という名前は「焼き尽くす者」という意味です。セラフを日本語で「熾天使」(してんし)といいますが、「熾」という漢字も火が盛んに燃える様子を表します。

 下の写真はジオットによる 1325年頃のフレスコ画で、フィレンツェのバジリカ・ディ・サンタ・クローチェ内、バルディ礼拝堂にあります。この作品において、アッシジの聖フランチェスコはキリストの姿を取った六翼のセラフから聖痕を受けています。セラフの翼の赤色は火を表すとともに愛を象徴します。


(下) Giotto, "San Francesco che riceve le stimmate", c. 1325, affresco, Santa Croce, Cappella Bardi, Firenze




 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第一部百八問五項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum convenienter nominentur.") において、セラフィムの本性を神に向かう愛であると論じています。この項の異論五に対するトマスの回答のうち、セラフ(複数形 セラフィム)に関する部分を全訳いたします。

    Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis.    第五の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第7章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。
         
    In igne autem tria possumus considerare. Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter moventur in Deum.
   ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。
    Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes.    しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。
    Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant.    火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。


 焼き尽くす愛であるセラフは、自身が燃えているだけではなく、セラフに触れる人の魂に愛の火を着火し、その人の魂を浄化します。それとともにその魂をセラフ自身に似たものと変えて、神への愛という属性を賦与します。

 トマスは上の引用箇所において、セラフが人の魂に触れて浄化する力を、「クアエダム・アクイタース」(羅 quaedam acuitas)と言っています。「アクイタース」(羅 acuitas)は動詞「アクオー」(羅 acuo)の名詞形で、「尖り」「先端」という意味ですが、「クアエダム・アクイタース」を「何らかの尖り」と訳したのでは何の事やら分かりません。「アクオー」は「尖らせる」が原意ですが、「掻き立てる」「惹起する」という意味にも使われます。したがってトマスが言う「クアエダム・アクイタース」とは「外部の対象に働きかけて掻き立てる何らかの力」、「外部に或る状態を惹き起こす何らかの力」のことです。上の文では「外部のものに働きかける何らかの力」と訳しました。




(上) 石版による小聖画 「あなたの愛の火を、私たちのうちに灯してください」 サント・クレール修道院、ヴェルサイユ 22.5 x 17.5 cm フランス 1940年代頃 当店の商品です。


 カルメル会の聖人である十字架の聖ヨハネ (San Juan de la Cruz, 1542 - 1591) は、「愛の活ける炎」("Llama de amor viva") という美しい詩を書いています。この詩にセラフは出てきませんが、神の愛(あるいは、愛なる神)を火に譬えています。

 筆者(広川)による日本語訳を付して、この詩の内容を示します。原テキストは美しい韻文ですが、筆者の和訳はカスティリア語(スペイン語)の意味を正確に日本語に移すことを主眼としたため、韻文になっていません。極力逐語的に訳しましたが、不自然な訳文にしないために、句の順番が原文通りでない部分がいくつかあります。なお第四連の "morar"は、カスティリア語の "quedar(se)", "permanecer" (とどまる)の意味です。

    Canciones del alma en la íntima comunicación,
de unión de amor de Dios.
神の愛の結びつきについて、
神との親しき対話のうちに、魂が歌う歌
     
    ¡Oh llama de amor viva,
que tiernamente hieres
de mi alma en el más profundo centro!
Pues ya no eres esquiva,
acaba ya, si quieres;
¡rompe la tela de este dulce encuentro!
愛の活ける炎よ。
わが魂の最も深き内奥で
優しく傷を負わせる御身よ。
いまや御身は近しき方となり給うたゆえ、
どうか御業を為してください。
この甘き出会いを妨げる柵を壊してください。
         
    ¡Oh cauterio suave!
¡Oh regalada llaga!
¡Oh mano blanda! ¡Oh toque delicado,
que a vida eterna sabe,
y toda deuda paga!
Matando. Muerte en vida la has trocado.
  やさしき焼き鏝(ごて)よ。
快き傷よ。
柔らかき手よ。かすかに触れる手よ。
永遠の生命を知り給い、
すべての負債を払い給う御方よ。
死を滅ぼし、死を生に換え給うた御方よ。
         
    ¡Oh lámparas de fuego,
en cuyos resplandores
las profundas cavernas del sentido,
que estaba oscuro y ciego,
con extraños primores
calor y luz dan junto a su Querido!
  火の燃えるランプよ。
暗く盲目であった感覚の
数々の深き洞(ほら)は、
ランプの輝きのうちに、愛する御方へと、
妙なるまでに美しく、
熱と光を放つのだ。
         
    ¡Cuán manso y amoroso
recuerdas en mi seno,
donde secretamente solo moras
y en tu aspirar sabroso,
de bien y gloria lleno,
cuán delicadamente me enamoras!
  御身はいかに穏やかで愛に満ちて、
わが胸のうちに目覚め給うことか。
御身はひとり密かにわが胸に住み給う。
善と栄光に満ち給う御身へと
甘美に憧れる心に住み給う。
いかに優しく、御身は我に愛を抱かせ給うことか。


 額装例


 本品はおよそ百六十年前のフランスで制作されたカニヴェですが、それほどまでに古いものとは俄かに信じがたいほど綺麗な状態です。良質の中性紙に刷られているため、中性紙のような劣化は起こっておらず、今後も劣化することはありません。超絶技巧とも呼ぶべき細密版画は十九世紀ならではの芸術品です。目立つ汚れや切り紙細工の破損などの特筆すべき問題は何もありません。稀少な完品です。

 上下の写真は額装例です。下の写真に写っている額は職人に特注した一点もので、この額を使用した額装料金は 18,900円(額、マット、ベルベット、工賃、税込)です。









カニヴェの価格 23,800円 (税込・額装別) 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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