セラフ、セラフィム (熾天使 してんし)
seraph, seraphim




(上) モワサック修道院付属聖堂南側扉口のタンパン 「ヨハネの黙示録」四章に基づく玉座の神、テトラモルフ(セラフィム)、二十四人の長老


 セラフ seraph (セラフィム seraphim)は神の玉座の最も近くにいる最高位の天使です。セラフは単数形、セラフィムは複数形です。セラフという名前は「焼き尽くす」という意味のへブル語の動詞サラフ(saraph)に由来すると考えられています。セラフを日本語で熾天使(してんし)といいますが、熾という漢字も火が盛んに燃える様子を表します。

 旧約聖書において、セラフィムは「イザヤ書」六章に登場します。


【「イザヤ書」 6: 1 - 7 新共同訳】

 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」


(下) ライヒェナウ派による十世紀末の「イザヤ書」挿絵。セラフィムに囲まれた神からは、愛(赤の光)と智(青の光)が発出しています。Staatsbibliothek Bamberg, Bibl. 76, fol. 10 v. 24.8 x 18.6 cm 





 新約聖書において、セラフィムは「ヨハネの黙示録」四章に登場します。

【「ヨハネの黙示録」 4: 6 - 8 新共同訳】

 この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」


 キリスト教において、セラフィムはケルビムの上位に位置する最高位の天使であり、テ・デウムにもケルビムと並んで登場します。

 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第1部108問5項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum convenienter nominentur.") において、セラフィムの本性を神に向かう愛であると論じています。この項の異論五に対するトマスの回答を全訳いたします。ラテン語テキストはレオニナ版、日本語訳は筆者(広川)によります。なお異論五に対する回答の後半は、ケルビムに関する考察になっています。


    Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis.    第5の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第7章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。
         
    In igne autem tria possumus considerare. Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter moventur in Deum.
   ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き(註1)。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。
    Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes.    しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力(註2)を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。
    Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant.    火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。
         
    Similiter etiam nomen Cherubim imponitur a quodam excessu scientiae, unde interpretatur plenitudo scientiae.    さらにケルビムという名前も、知恵のある種の上昇に基づいて、同様な付けられ方をしている。それゆえケルビムという名前は知恵の充溢という意味に解される。
    Quod Dionysius exponit quantum ad quatuor, primo quidem, quantum ad perfectam Dei visionem; secundo, quantum ad plenam susceptionem divini luminis; tertio, quantum ad hoc, quod in ipso Deo contemplantur pulchritudinem ordinis rerum a Deo derivatam; quarto, quantum ad hoc, quod ipsi pleni existentes huiusmodi cognitione, eam copiose in alios effundunt.    ディオニシウスはこのことを4つの点に関連して説明している。すなわち第一に、ケルビムが神を完全に見ることに関して。第二に、ケルビムが神よりの光を受けて充ち足りていることに関して。第三に、神から発した諸事物の秩序が有する美しさを、ケルビムは神ご自身のうちに観想するということに関して。第四に、かかる認識に満たされて存在するケルビムは、その認識を他の者たちへと豊かに注ぎ込むということに関して。


 トンマーゾ・ダ・チェラーノ(チェラーノのトンマーゾ Tommaso da Celano, c. 1200 - c. 1260/70) が著した「聖フランチェスコの第二伝記」("Vita secunda S. Francisci", 1246/ 1247)、及びボナヴェントゥラ(Bonaventura, c. 1221 - 1274)が著した「大伝記」("Legenda Maior", 1263)によると、聖フランチェスコは、1224年、ラヴェルナの山中で祈っているときに、キリストの姿で出現したセラフから聖痕を受けたとされています。

 下の写真はジオットによる 1325年頃のフレスコ画で、フィレンツェのバジリカ・ディ・サンタ・クローチェ内、バルディ礼拝堂にあります。この作品において、アッシジの聖フランチェスコはキリストの姿を取った六翼のセラフから聖痕を受けています。セラフの翼の赤色は火を表すとともに愛を象徴します。


(下) Giotto, "San Francesco che riceve le stimmate", c. 1325, affresco, Santa Croce, Cappella Bardi, Firenze




 フランシスコ会のボナヴェントゥラは「魂の神への道程」("Itinerarium Mentis in Deum") において、人間の魂が神に至る道程の諸段階を、セラフィムの六つの翼になぞらえています。プロログスの一部を抜粋して和訳いたします。

    Nam per senas alas illas recte intelligi possunt sex illuminationum suspensiones, quibus anima quasi quibusdam gradibus vel itineribus disponitur, ut transeat ad pacem per exstaticos excessus sapientiae christianae.    というのも、セラフィムの6つの翼を通して、魂が照らされる6段階が理解されうるからである。魂はその6段階を、ある種の6つの階梯あるいは歴程と為すものとして創られているのであって、キリスト教的知恵がエクスタシスのうちに上昇することによって、魂は平和へと到達するのである。
    Via autem non est nisi per ardentissimum amorem Crucifixi, qui adeo Paulum ad tertium caelum raptum transformavit in Christum, ut diceret: Christo confixus sum cruci, iam non ego; vivit vero in me Christus; qui etiam adeo mentem Francisci absorbuit, quod mens in carne patuit, dum sacratissima passionis stigmata in corpore suo ante mortem per biennium deportavit.    しかるにこの道程は、十字架に架かり給うた御方の燃ゆるがごとき愛によらざれば、辿るべからざるものである。十字架に架かり給うた御方は、第三の天にまで引き上げられたパウロを変えてキリストと為し給い、「わたしは、キリストと共に十字架に付けられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(註3)」と言わしめ給うた。さらにキリストはフランチェスコの魂を吸収し給いて、その魂は肉体において顕(あら)わとなった。すなわちフランチェスコは死ぬ前に2年間に亙り、ご受難のいとも聖なるスティグマタ(聖痕)を身に帯びたのである。
    Effigies igitur sex alarum seraphicarum insinuat sex illuminationes scalares, quae a creaturis incipiunt et perducunt usque ad Deum, ad quem nemo intrat recte nisi per Crucifixum. Nam qui non intrat per ostium, sed ascendit aliunde, ille fur est et latro. Si quis vero per ostium introierit, ingredietur et egredietur et pascua inveniet.    それゆえセラフィムの翼を6つ有する姿は、魂が照らされる6段階を示唆している。この6段階は諸々の被造物に始まって神にまで至るのだが、十字架に架かり給うた御方を通してでなけば、何びとも神の内へと正しく入ることはない。戸口から入らずに他の場所から入るならば、その者は盗人であるから(註4)。しかるに戸口から入るならば、その者はあるいは入り、あるいは出て、牧草を見出すから(註5)。
    Propter quod dicit Ioannes in Apocalypsi: Beati qui lavant vestimenta sua in sanguine Agni, ut sit potestas eorum in ligno vitae, et per portas ingrediantur civitatem; quasi dicat, quod per contemplationem ingredi non potest Ierusalem supernam, nisi per sanguinem Agni intret tanquam per portam.    ヨハネが黙示録において「かの子羊の血にてその衣を洗う者どもは幸いなり。彼らには生命の樹への権利があり、門を通って都に入るがゆえに。(註6)」と言い、門を通るかのようにかの子羊の血を通るのでなければ、観想によって天上のエルサレムに入ることが不可能であるように言っているのは、このためである。
    Non enim dispositus est aliquo modo ad contemplationes divinas, quae ad mentales ducunt excessus, nisi cum Daniele sit vir desideriorum. Desideria autem in nobis inflammantur dupliciter, scilicet per clamorem orationis, quae rugire facit a gemitu cordis, et per fulgorem speculationis, qua mens ad radios lucis directissime et intensissime se convertit.    なぜならば、神の観想は魂の上昇をもたらすのであるが、人はダニエルとともに強い願いを持つのでなければ(註7)、神を観想するようには決して創られていないからである。しかるにわれわれの内に強い願いが燃え立つのは、ふたつの場合である。すなわちひとつには、祈りの叫びを通して。祈りは心の嘆きによって人を唸らせる。いまひとつには、思弁におけるひらめきを通して。精神が輝く光のほうへ自らを向けるのは、思弁によるのである。


 上に引用した箇所で、ボナヴェントゥラは「十字架に架かり給うた御方の燃ゆるがごとき愛」(羅 ardentissimum amorem Crucifixi)という言葉を使っています。ここでクルーキフィクスス(Crucifixus 十字架に架かり給うた御方)は属格に置かれていますが、この属格は「愛の主体」及び「愛が向かう客体」の両方を重層的に意味しています。すなわちアモル・クルーキフィクシー(羅 amor Crucifixi)は「十字架に架かり給うた御方が罪びとを愛する愛」という意味を表すとともに、「罪びとが十字架に架かり給うた御方を愛する愛」という意味をも表しています。

 キリストから注がれる愛がパウロのうちに充溢したとき、使徒は第三の天にまで引き上げられました(「コリントの信徒への手紙 二」十二章二節)。フランチェスコの身にも、これと同様のことが起こりました。すなわち神とキリストから注がれる愛がフランチェスコのうちに充溢したとき、この聖人もまた脱魂状態に陥ったのです。このときフランチェスコのうちには神の愛が充溢し、フランチェスコはキリストと一体になりました。そしてフランチェスコの魂は神とキリストに向かって上昇したのです。神とキリストの愛が聖人のうちに充溢し、また聖人の魂が神とキリストに向かって上昇したことを示す可視的な印として、聖人の体には聖痕が残されました。

 神は人々がフランチェスコに倣い、神の愛に満たされて神へと上昇することを望み給いました。神が僕(しもべ)フランチェスコの体に聖痕を与え給うたのは、「フランチェスコのうちに充溢する神とキリストの愛」、「フランチェスコから神とキリストに向かう愛」、並びに「僕フランチェスコを通して人々に注がれる神とキリストの愛」を、誰にとっても分かりやすいように可視化するためでした。神から与えられたこのような役割ゆえに、アッシジの聖フランチェスコは「セラフィクス」(羅 Seraphicus)すなわち「熾天使のごとき者」と呼ばれます。



註1 自然な日本語になるように、モトゥス(羅 motus)を「動き」と訳しましたが、この語の原意は能動的に動くことではなく、受動的に動かされることです。

註2 トマスはこの箇所において、セラフが人の魂に触れて浄化する力を、クアエダム・アクイタース(羅 quaedam acuitas)と言っています。アクイタース(羅 acuitas)は動詞アクオー(羅 acuo)の名詞形で、尖り、先端という意味ですが、クアエダム・アクイタースを「何らかの尖り」と訳したのでは何の事やら分かりません。アクオーは「尖らせる」が原意ですが、掻き立てる、惹起するという意味にも使われます。したがってトマスが言うクアエダム・アクイタースとは、「外部の対象に働きかけて掻き立てる何らかの力、外部に或る状態を惹き起こす何らかの力のことです。上の文では「外部のものに働きかける何らかの力」と訳しました。

註3 「ガラテヤ書」二章十九節。日本語の訳文は新共同訳に拠りました。

註4 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 」 「ヨハネによる福音書」十章一節 (新共同訳)

註5 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」 「ヨハネによる福音書」十章九節 (新共同訳)

註6 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。  「ヨハネの黙示録」二十二章十四節 (新共同訳)

註7 「お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。 」 「ダニエル書」九章二十三節 (新共同訳)


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