アッシジの聖フランチェスコ
San Francesco d'Assisi, St. François d'Assise, St. Francis of Assisi


 Francisco de Zurbarán, The Ecstacy of St. Francis, c. 1600, oil on canvas, Alte Pinakothek, Munich

 Francisco de Zurbarán, St. Francis kneeling, 1635 - 39, oil on canvas, National Gallery, London


 アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi, 1182 - 1226)はたいへん心優しい人で、神の愛に満たされたゆえに「フランキスクス・セラフィクス」(羅 FRANCISCUS SERAPHICUS セラフの如きフランチェスコ)と呼ばれます。動物の守護聖人としても知られています。


【アッシジの聖フランチェスコの生涯】

誕生から若者時代まで

 アッシジの聖フランチェスコ (アシジの聖フランチェスコ) は、元の名をジョヴァンニ・フランチェスコ・ベルナルドーネ (Giovanni Francesco Bernardone) といい、裕福な布地商人の息子です。

 フランチェスコは父ピエトロが商用でフランスに滞在している間に生まれました。息子が宗教家として活躍することを願った母ピカは、洗礼者ヨハネにちなんで息子にジョヴァンニという名前をつけましたが、父は息子が宗教家になることを望まなかったので、フランスから戻ると息子の名を自身のフランス趣味によってフランチェスコに改めました。


 若者時代のフランチェスコはトロバドゥール(吟遊詩人)として派手な服を着、大勢の友人たちと付き合って、喧嘩をしたり恋愛に耽ったりの日々を過ごしました。1201年には騎士として武勲を立てることに憧れてペルージャとの戦争に加わり、捕虜となって1年間を過ごします。1203年にアッシジに帰ったフランチェスコは再び愉快な若者としての日々を送りますが、翌年の重病をきっかけに霊的危機を迎えます。


霊的危機と覚醒

 1205年、フランシスコはペルージャでブリエンヌ伯の軍隊に加わりますが、スポレトにおいて幻視を経験してアッシジに戻った後は宗教への傾きを強め、スポーツや友人たちとの付き合いを控えるようになります。友人たちに「結婚でも考えているのか」とからかわれたフランチェスコは、「君たちが見たこともないような美人と結婚するのだ」と答えましたが、フランチェスコが言う「美人」とは、イタリア語では女性名詞である「清貧」(poverta) を指していました。

 この頃フランチェスコは一人きりになれる場所に出掛けて、進むべき道を神が示してくださるように祈ることが多くなり、アシジ近郊の救癩(らい)院で患者の世話をし始めました。フランチェスコは巡礼のためにローマにも出掛け、貧者を救うためにほうぼうの教会の前で物乞いをしています。


サン・ダミアノ教会での幻視

 ローマからアッシジに戻ったフランチェスコは、アッシジ近郊のサン・ダミアノ教会で幻視を体験します。その幻視では、教会の壁に描かれたキリスト磔刑像がフランチェスコに対して「フランチェスコよ。フランチェスコよ。あなたにも分かるように、私の教会は崩れかけている。行ってこれを直しなさい」と三度繰り返して語りかけたのでした。フランチェスコはこれを当時荒れ果てていたサン・ダミアノ教会のことだと考えて、自分の馬と父の店の布地を売って、会堂を修理する費用を調達しました。

 フランチェスコの行動に父ピエトロは激怒し、脅したり体罰を加えたりして息子の気持ちを変えさせようと試みますが、フランチェスコは司教の前で父から与えられた衣服まで脱ぎ捨てて父との関係を絶ちました。この出来事の後、フランチェスコはアッシジで物乞いの生活を送りながら、ポルチウンクラの教会や、後に自身が住まうことになるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂など、当時荒廃していたいくつかの教会の修繕に励みました。



Benozzo Gozzoli, Renunciation of Worldly Goods, and the Bishop of Assisi Dresses St. Francis, 1452, fresco, 260 x 220 cm, San Francesco, Montefalco


小さき兄弟会の設立

 1209年、キリストが十二使徒に清貧を説いた「マタイによる福音書」 10章についての説教を聴いたことが転機となり、フランチェスコは清貧に生きることを決意します。粗末な衣を身に付けて、足には何も履かず、金銭も杖も持たず、人々に悔い改めを説き始めたのです。すぐにベルナルド・ディ・クインタヴァッレがこれに加わり、数ヶ月のうちに11人の弟子がフランチェスコの周りに集まりました。フランチェスコは司祭の叙品を受けず、仲間たちと「小さき兄弟会」を作って、アシジ近郊リヴォ・トルトの救癩(らい)院で質素な共同生活を始めました。フランチェスコたちは快活な歌声を絶やさずにウンブリア地方を巡回し、悔い改めを熱心に勧めて、説教を聴く人々に強い印象を与えました。

 この年、フランチェスコと11人の弟子たちは新しい修道会を設立する認可を教皇インノケンティウス3世から得るためにローマに赴き、教皇の聴罪司祭を勤めるサビーナの枢機卿ジョヴァンニ・ディ・サン・パオロの助力を得て教皇に謁見し、仮の認可を得ることができました。フランシスコと弟子たちは剃髪し、またフランチェスコは助祭に叙せられて教会で福音書を読み上げることができるようになりました。



Benozzo Gozzoli, The Dream of Innocent III, and the Confirmation of the Rule, 1452, fresco, 304 x 220 cm, San Francesco, Montefalco


小さき兄弟会の発展

 1209年、アッシジの聖キアラ (Sta Chiara d'Assisi, 1194 - 1253) はサン・ルフィーノ教会でフランチェスコが語るのを聴いて心を深く動かされます。1211年3月28日、フランチェスコはポルチウンクラにキアラを迎え、女子修道会である貧しきクララ会が発足しました。また1213年には後にフランチェスコの伝記を書くことになるトンマーゾ・ダ・チェラーノ (Tommaso da Celano, c. 1200 - c. 1260/70) もフランチェスコの仲間に加わっています。



Giotto, St. Clara (details), c. 1320, fresco, Santa Croce, Bardi Chapel, Florence


 新教皇ホノリウス3世から1215年、フランチェスコは第4ラテラノ公会議のためにローマに赴き、翌年にはポルチウンクラで祈れば全免償が与えられるとの認可が新教皇ホノリウス3世から下りました。フランチェスコの修道会はますます大きくなり、1217年にはフランス、ドイツ、ハンガリー、スペイン、東方へと分遣されてゆきました。

 1219年、フランチェスコと数人の仲間はエジプトへ巡礼に出発します。当時はラテラノ公会議を受けて実施された第5回十字軍のさなかで、ディムヤートでは激しい戦闘が繰り広げられていましたが、フランチェスコたちはここでアイユーブ朝の第5代スルタン、アル・カーミルに謁見し、熱心に改宗を勧めました。アル・カーミルはフランチェスコの人柄に打たれてエジプトでの宣教を許可し、別れ際にフランチェスコに対して「神が御心に適う法と信仰を示し給うように、私のために祈ってくれ」と語り掛けました。(Jacobus Vitriacensis, Historia occidentalis, de ordine et praedicatione fratrum minorum, 1221) 



Giotto, St. Francis before Siltan, before 1300, fresco, San Francesco, Upper Church, Assisi


 1220年、5人のフランシスコ会士がモロッコで殉教したという知らせが届くと、フランチェスコはヴェネツィア経由でイタリアに戻りました。この年の9月29日、フランチェスコは会の運営を弟子であるピエトロ・カッティーニに任せますが、ピエトロが急死したために、別の弟子エリアが引き継ぎました。1223年11月29日には、最終的に形が整った12章のフランシスコ会則が教皇ホノリウス3世によって認可されました。


聖痕(スティグマタ)と死

 1224年9月、フランチェスコはヴェルナの山で断食して祈っているとき、六翼の熾天使(してんし セラフ)が十字架に架けられている幻視を体験し、体に痛みを覚えます。天使が見えなくなったとき、フランチェスコの体にはイエス・キリストと同じ聖痕、すなわち両手と両足に釘を刺された傷、およびわき腹を槍で刺された傷がありました。そのときの様子はフランチェスコと共に祈っていた弟子レオによって目撃され、記録に残されています。



Benozzo Gozzoli, Stigmatization of St. Francis , 1452, fresco, San Francesco, Montefalco


 フランチェスコは聖痕と眼病のために衰弱し、シエナ、コルトナ、ノチェラ・ウンブラで治療を受けますが快復しませんでした。死の前年である 1225年の夏には、聖痕の痛みと眼病に苦しみつつ、間もなく天にて大きな宝が得られることを喜んで、「被造物の賛歌」(太陽の賛歌)を作りました。最後はポルチウンクラに戻って教えを口述しながら日々を送り、1226年10月3日、詩篇を歌いながら天に召されました。



Giotto, The death of St. Francis and Inspection of Stigmata (detail), c. 1320, fresco, Santa Croce, Bardi Chapel, Florence


 1228年7月16日、ローマ教皇グレゴリウス9世はフランチェスコを列聖し、その翌日にアッシジの聖フランチェスコ聖堂 (Basilca di San Francesco d'Assisi) の礎石を据えました。教皇グレゴリウス9世はコンティの枢機卿であった人であり、フランチェスコの生前から彼の良き友人でした。


【フランキスクス・セラフィクス セラフの如きフランチェスコ】

 聖フランチェスコの魂のうちには、神の愛が充溢していました。それゆえ聖フランチェスコは「フランキスクス・セラフィクス」(羅 FRANCISCUS SERAPHICUS セラフの如きフランチェスコ)と呼ばれます。



(上) 大英図書館蔵 "Carmina Regia", c. 1335, MS 6 E IX, folio 6r, The British Library


 「使徒言行録」十七章には、使徒パウロがアテネのアレオパゴスで演説あるいは説教を行ったこと、アテネの人々が死者の復活を信じずに嘲笑し、パウロがその場を立ち去ったこと、しかしながら数名のアテネ人がパウロについて行って信仰に入ったことが記録されています。このときパウロに従って信仰に入ったアテネ人のなかに、ディオニシウスという名前のアレオパゴス議員がいました。

 アレオパゴス(希 Ἄρειος πάγος )とは字義どおりには「軍神アレース(希 Ἄρης)の丘」という意味で、アテネのアクロポリスから西方三百メートルにある丘のことです。この丘にはアテナイの最高裁判所がありましたので、「アレースの丘」はやがて最高法院をも指すようになります。パウロによって回心したディオニシウスは、新共同訳では「アレオパゴスの議員」となっていますが、これはアテネ最高法院の裁判官のことです。アレオパゴスの議員(裁判官)は執政官(希 ἄρχων)経験者から選ばれ、終身制でした。「アレオパゴスの議員」は優れた知性と教養、高い社会的身分を有する市民であったことがわかります。

 このディオニシウス、すなわち使徒パウロの弟子であるアレオパゴスの議員ディオニシウスを自称する著者による一群の文書が、中世の初めに出現しました。「偽ディオニシウス・アレオパギタ」(羅 Pseudo-Dionysius Areopagita 希 Ψευδο-Διονύσιος ὁ Ἀρεοπαγίτης)によるこれらの文書群は、「ディオニシウス文書」(Corpus Dionysiacum)と呼ばれています。

 「ディオニシウス文書」は二つの大きな特徴を有します。その第一は、新プラトン主義後期の思想を反映していることです。新プラトン主義はニュッサのグレゴリウスやヒッポのアウグスティヌスによって早い時期からキリスト教に採り入れられましたが、後期の新プラトン主義はディオニシウス文書が仲立ちをしてキリスト教に流入したということができます。第二に、ディオニシウス文書によると、神の力は教会の位階及び天上の位階に従って働き、魂を上昇させます。この思想はディオニシウス文書の著者が新プラトン主義から新たに採り入れたものです。

 「ディオニシウス文書」のひとつである「天上位階論」(De Cœlesti Hierarchia, Περὶ τῆς οὐρανίου ἱεραρχίας 天のヒエラルキアについて)によると、感覚及び知性によって捉え得る「聖職者の位階」の上には、知性のみによって捉え得る「天使の位階」があります。これらの位階は被造物における階層的秩序を表しており、一段階ずつ上昇するにつれて神に近付くことになります。諸天使には三つの階級があって、それぞれの階級には三つの位階が属しています。最上の階級に属するのはセラフィム(σεραφίμ 熾天使)ケルビム(χερουβίμ 智天使)、トロノイ(θρόνοι 座天使)で、いずれも無媒介的に神のみそばに侍る天使たちです。上の写真は大英図書館に収蔵されている「カルミナ・レギア」(羅 Carmina Regia 王の歌)のイルミネーションで、第一級の天使たちを描いています。セラフィムは愛の色である赤、ケルビムは知恵の色である青で表現されています。いちばん下のトロノイは特定の色に結び付けられていないため、人の肌に近い色で描かれています。

 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第一部百八問五項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum convenienter nominentur.") において、セラフィムの本性を神に向かう愛であると論じています。この項の異論五に対するトマスの回答を全訳いたします。異論五に対する回答の後半はケルビムに関する考察になっています。


    Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis.    第5の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第七章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。
         
    In igne autem tria possumus considerare. Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter moventur in Deum.
   ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。
    Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes.    しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。
    Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant.    火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。
         
    Similiter etiam nomen Cherubim imponitur a quodam excessu scientiae, unde interpretatur plenitudo scientiae.    さらにケルビムという名前も、知恵のある種の上昇に基づいて、同様な付けられ方をしている。それゆえケルビムという名前は知恵の充溢という意味に解される。
    Quod Dionysius exponit quantum ad quatuor, primo quidem, quantum ad perfectam Dei visionem; secundo, quantum ad plenam susceptionem divini luminis; tertio, quantum ad hoc, quod in ipso Deo contemplantur pulchritudinem ordinis rerum a Deo derivatam; quarto, quantum ad hoc, quod ipsi pleni existentes huiusmodi cognitione, eam copiose in alios effundunt.    ディオニシウスはこのことを四つの点に関連して説明している。すなわち第一に、ケルビムが神を完全に見ることに関して。第二に、ケルビムが神よりの光を受けて充ち足りていることに関して。第三に、神から発した諸事物の秩序が有する美しさを、ケルビムは神ご自身のうちに観想するということに関して。第四に、かかる認識に満たされて存在するケルビムは、その認識を他の者たちへと豊かに注ぎ込むということに関して。


 トンマーゾ・ダ・チェラーノ(チェラーノのトンマーゾ Tommaso da Celano, c. 1200 - c. 1260/70) が著した「聖フランチェスコの第二伝記」("Vita secunda S. Francisci", 1246/ 1247)、及びボナヴェントゥラ (Bonaventura, c. 1221 - 1274) が著した「大伝記」("Legenda Maior", 1263) によると、聖フランチェスコは、1224年、ラヴェルナの山中で祈っているときに、キリストの姿で出現したセラフから聖痕を受けたとされています。

 下の写真はジオットによる 1325年頃のフレスコ画で、フィレンツェのバジリカ・ディ・サンタ・クローチェ内、バルディ礼拝堂にあります。この作品において、アッシジの聖フランチェスコはキリストの姿を取った六翼のセラフから聖痕を受けています。セラフの翼の赤色は火を表すとともに愛を象徴します。


(下) Giotto, "San Francesco che riceve le stimmate", c. 1325, affresco, Santa Croce, Cappella Bardi, Firenze




 フランシスコ会のボナヴェントゥラは「魂の神への道程」("Itinerarium Mentis in Deum") において、人間の魂が神に至る道程の諸段階を、セラフィムの六つの翼になぞらえています。プロログスの一部を抜粋して示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

    Nam per senas alas illas recte intelligi possunt sex illuminationum suspensiones, quibus anima quasi quibusdam gradibus vel itineribus disponitur, ut transeat ad pacem per exstaticos excessus sapientiae christianae.    というのも、セラフィムの六つの翼を通して、魂が照らされる六段階が理解されうるからである。魂はその6段階を、ある種の六つの階梯あるいは歴程と為すものとして創られているのであって、キリスト教的知恵がエクスタシスのうちに上昇することによって、魂は平和へと到達するのである。
    Via autem non est nisi per ardentissimum amorem Crucifixi, qui adeo Paulum ad tertium caelum raptum transformavit in Christum, ut diceret: Christo confixus sum cruci, iam non ego; vivit vero in me Christus; qui etiam adeo mentem Francisci absorbuit, quod mens in carne patuit, dum sacratissima passionis stigmata in corpore suo ante mortem per biennium deportavit.    しかるにこの道程は、十字架に架かり給うた御方の燃ゆるがごとき愛によらざれば、辿るべからざるものである。十字架に架かり給うた御方は、第三の天にまで引き上げられたパウロを変えてキリストと為し給い、「わたしは、キリストと共に十字架に付けられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言わしめ給うた。さらにキリストはフランチェスコの魂を吸収し給いて、その魂は肉体において顕(あら)わとなった。すなわちフランチェスコは死ぬ前に二年間に亙り、ご受難のいとも聖なるスティグマタ(聖痕)を身に帯びたのである。
    Effigies igitur sex alarum seraphicarum insinuat sex illuminationes scalares, quae a creaturis incipiunt et perducunt usque ad Deum, ad quem nemo intrat recte nisi per Crucifixum. Nam qui non intrat per ostium, sed ascendit aliunde, ille fur est et latro. Si quis vero per ostium introierit, ingredietur et egredietur et pascua inveniet.    それゆえセラフィムの翼を六つ有する姿は、魂が照らされる六段階を示唆している。この六段階は諸々の被造物に始まって神にまで至るのだが、十字架に架かり給うた御方を通してでなけば、何びとも神の内へと正しく入ることはない。戸口から入らずに他の場所から入るならば、その者は盗人であるから。しかるに戸口から入るならば、その者はあるいは入り、あるいは出て、牧草を見出すから。
    Propter quod dicit Ioannes in Apocalypsi: Beati qui lavant vestimenta sua in sanguine Agni, ut sit potestas eorum in ligno vitae, et per portas ingrediantur civitatem; quasi dicat, quod per contemplationem ingredi non potest Ierusalem supernam, nisi per sanguinem Agni intret tanquam per portam.    ヨハネが黙示録において「かの子羊の血にてその衣を洗う者どもは幸いなり。彼らには生命の樹への権利があり、門を通って都に入るがゆえに。」と言い、門を通るかのようにかの子羊の血を通るのでなければ、観想によって天上のエルサレムに入ることが不可能であるように言っているのは、このためである。
    Non enim dispositus est aliquo modo ad contemplationes divinas, quae ad mentales ducunt excessus, nisi cum Daniele sit vir desideriorum. Desideria autem in nobis inflammantur dupliciter, scilicet per clamorem orationis, quae rugire facit a gemitu cordis, et per fulgorem speculationis, qua mens ad radios lucis directissime et intensissime se convertit.    なぜならば、神の観想は魂の上昇をもたらすのであるが、人はダニエルとともに強い願いを持つのでなければ、神を観想するようには決して創られていないからである。しかるにわれわれの内に強い願いが燃え立つのは、ふたつの場合である。すなわちひとつには、祈りの叫びを通して。祈りは心の嘆きによって人を唸らせる。いまひとつには、思弁におけるひらめきを通して。精神が輝く光のほうへ自らを向けるのは、思弁によるのである。


 上に引用した箇所で、ボナヴェントゥラは「十字架に架かり給うた御方の燃ゆるがごとき愛」(羅 ardentissimum amorem Crucifixi)という言葉を使っています。ここで「クルーキフィクスス」(Crucifixus 十字架に架かり給うた御方)は属格に置かれていますが、この属格は「愛の主体」及び「愛が向かう客体」の両方を重層的に意味しています。すなわち「アモル・クルーキフィクシー」(羅 amor Crucifixi)は「十字架に架かり給うた御方が罪びとを愛する愛」という意味を表すとともに、「罪びとが十字架に架かり給うた御方を愛する愛」という意味をも表しています。

 キリストから注がれる愛がパウロのうちに充溢したとき、使徒は第三の天にまで引き上げられました(「コリントの信徒への手紙 二」十二章二節)。フランチェスコの身にも、これと同様のことが起こりました。すなわち神とキリストから注がれる愛がフランチェスコのうちに充溢したとき、この聖人もまた脱魂状態に陥ったのです。このときフランチェスコのうちには神の愛が充溢し、フランチェスコはキリストと一体になりました。そしてフランチェスコの魂は神とキリストに向かって上昇したのです。神とキリストの愛が聖人のうちに充溢し、また聖人の魂が神とキリストに向かって上昇したことを示す可視的な印として、聖人の体には聖痕が残されました。

 神は人々がフランチェスコに倣い、神の愛に満たされて神へと上昇することを望み給いました。神が僕(しもべ)フランチェスコの体に聖痕を与え給うたのは、「フランチェスコのうちに充溢する神とキリストの愛」、「フランチェスコから神とキリストに向かう愛」、並びに「僕フランチェスコを通して人々に注がれる神とキリストの愛」を、誰にとっても分かりやすいように可視化するためでした。神から与えられたこのような役割ゆえに、アッシジの聖フランチェスコは「セラフィクス」(羅 Seraphicus)すなわち「熾天使のごとき者」と呼ばれます。


 十四世紀末まで遡ることが可能な聖フランチェスコ伝「イ・フィオレッティ・ディ・サン・フランチェスコ」(伊 "I fioretti di san Francesco" 「聖フランチェスコの小さき花」)の十五章には、アッシジの住民たちがサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ一帯が炎に照らされているのを見て、家事を消そうと急ぎ集まった出来事が書かれています。しかしながら現場に火事は発生しておらず、聖フランチェスコと聖キアラをはじめとする修道者たちが神を観想しているだけでした。神が聖フランチェスコたちに与え給う愛と、聖フランチェスコたちが神を愛する愛が、人々の目には炎となって映じたのでした。「イ・フィオレッティ」の記述が歴史的事実であるかどうかは別として、これは「セラフの如き聖フランチェスコ」が神を観想するときに、如何にもふさわしい出来事といえます。


【動物たちの守護聖人聖フランチェスコ】

 心優しい聖フランチェスコは、動物たちの守護聖人として親しまれています。




(上) Giotto, "la Predica agli Uccelli", 1295 - 1299, affresco, 270 x 200 cm, la Basilica superiore di San Francesco d'Assisi, Assisi


 「イ・フィオレッティ」の十六章は聖フランチェスコの宣教の始まりに関する記述ですが、ここには福音宣教のために街道を通る聖人が、ピアノ・ダルカに差し掛かったときに大勢の小鳥たちを目にし、その小鳥たちに説教をした出来事が記されています。聖人は「マタイによる福音書」六章二十六節から二十八節、及び「ルカによる福音書」十二章二十四節から二十七節を引用して、小鳥たちに対する神の愛を示し、いつも熱心に神をほめたたえることを小鳥たちに勧めました。説教が終わり、聖人が十字を切って小鳥たちを祝福すると、小鳥たちは四つの群れに分かれ、美しく囀りながら東、西、南、北に飛んでゆきました。小鳥たちはこれによって、フランチェスコの福音宣教が世界中に広まることを示したのでした。




(上) Luc-Olivier Merson (1846 - 1920) , "Le Loup de Gubbio", 1878, Musée de Lille


 「イ・フィオレッティ」二十一章 「聖フランチェスコが極めて猛々しきアゴッビオのオオカミを回心させた際に為したこの上なく聖なる奇跡について」によると、フランチェスコがしばらく住んでいたアゴッビオ(現在のグッビオ)の近くに人食いオオカミがいて、町の人々から恐れられていました。フランチェスコは町の人々を救うために弟子たちと一緒に山に分け入りましたが、弟子たちはみなオオカミを恐れて逃げてしまいます。オオカミを見つけたフランチェスコが十字を切って側に来るように命じると、オオカミは大人しく従い、顎を閉じてフランチェスコの足元に横たわりました。フランチェスコが「兄弟オオカミよ。お前はこのあたりで害を為し、大きな悪事を働いた。人々は皆お前を憎んでいる。しかし、兄弟オオカミよ、私はお前と町の人々を和解させたいのだ」と語りました。

 フランチェスコはオオカミを連れて町に行き、驚く町の人々をオオカミと和解させました。「オオカミは空腹ゆえに悪事を為したのであるから、町の人たちは定期的にオオカミに食べ物を与えなければならない。その代わりオオカミは今後人々も家畜も襲ってはならない」とフランチェスコは言うのでした。アゴッビオの犬たちも、その後はオオカミを追い立てることはありませんでした。


 フランチェスコは天に召されるときに自分のロバに感謝し、ロバは涙を流したと伝えられています。


【聖フランチェスコとクレシュ】

 聖フランチェスコは現在見られるように立体的なクレシュを初めて作った人です。



Benozzo Gozzoli, Establishment of the Manger at Greccio, 1452, fresco, 304 x 220 cm, San Francesco, Montefalco


 また聖フランチェスコは、市井の人たちは普段話している言葉で神に祈るべきだと考えて、物を書くときはラテン語ではなく常にウンブリア方言を使いました。聖フランチェスコの作品は宗教的価値のみならず高い文学的価値を有しており、聖フランチェスコはイタリア語を使った最初の詩人と考えられています。

 聖フランチェスコの祝日は10月4日です。また9月17日はフランチェスコが聖痕を受けた記念の祝日となっています。



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