教父時代にキリスト教の正統教義が定まると、カトリック教会(ἡ καθολικὴ ἐκκλησία ギリシア、東欧、近東の教会を含む公同の教会)はおよそ六百年に亙る安定期に入りました。しかしながらその後、カトリック教会との訣別を図る分離派が力を持った時代が三度訪れました。その一度目は、世の終わりと考えられた紀元
1000年あるいは 1033年の前後の時代、二度目はグレゴリウス改革によって引き締められた綱紀が再び緩み始めた十ニ世紀半ば、三度目は宗教改革によってプロテスタント諸教派が成立した十六世紀です。
カトリック教会は分離派が生まれるたびに、彼らを異端派と呼んで弾圧を繰り返しました。その弾圧を乗り越えて分離派が独立を果たし、カトリック教会と対等の力を獲得したのは、三度目の分離派運動である宗教改革の時でした。宗教改革があまりにも華々しい歴史的事件であったために、われわれはプロテスタント教会の誕生が歴史上一回だけ起こった出来事であるように錯覚しがちです。しかしながら紀元
1000年前後に起こった一度目の分離派、十二世紀半ばに起こった二度目の分離派、十六世紀に起こった三度目の分離派は、いずれも同じ宗教的精神に基づいて行動し、信仰上の主張も同一でした。三つの分離派が異なるのは、一度目と二度目の分離派がカトリック教会との闘争に敗れ、異端として根絶やしにされたのに対し、三度目の分離派がカトリックと互角に戦って、独立を果たした点です。カトリック教会から見れば、一度目、二度目、三度目の分離派はいずれも異端であり、ただ三度目の異端派(プロテスタント諸派)を根絶できなかっただけであると考えられます。端的に言えば、プロテスタント教会は三度誕生しました。そのうち一度目と二度目のプロテスタント教会は成長する前に圧殺され、三度目にようやく育ったのです。
本品メダイが関係するのは、二度目の分離派教会が誕生した時代です。
分離派教会が二度目に誕生したのは、十二世紀半ばのことでした。この頃ヨーロッパ全域で誕生した分離派は地域によってさまざまな名前で呼ばれました。南フランスから北イタリアにかけて隆盛を誇った分離派を、歴史学ではカタリ派(仏 cathares)と呼んでいます。カタリ派の本拠地は、フランス南西のラングドック地方です。
グスマンの聖ドミニコ(Domingo de Guzmán, 1170 - 1221)は 1194年、エル・ブルゴ・デ・オスマ (El Burgo de Osma) の司教座聖堂で聖アウグスチノ会則に従って共同生活をする律修司祭となり、1203年あるいは1204年に同地の司教ディエゴ・デ・アセボ (Diego de Acebo, 在位 1201
- 1207) とともに、ラングドック地方を訪れました。このときカタリ派に接した聖ドミニコは、彼らの指導者が徳においても知性においても優れた人々であることを知って、カタリ派を一掃するには優れた徳と教養を備えた説教師が必要であることを痛感しました。
翌年、聖ドミニコはふたたびラングドックを訪れ、同地に滞在してカタリ派根絶に心血を注ぐことになります。1206年の終わり頃、聖ドミニコはファンジョー(Fanjeaux オクシタニー地域圏オード県)から東に一キロメートル離れた村、ラセール・ド・プルイユ(Lasserre-de-Prouille/Prouilhe)に居を定め、プルイユ修道院(Le monastère de Prouilhe/Prouille)を開きます。カタリ派には女性の修道者も多かったのですが、プルイユ修道院はカタリ派から改宗した女性たちの受け入れ先となりました。
十五世紀まで遡れる伝承によると、ドミニコはカタリ派をカトリック教会に帰一させるべく奮闘しつつも思わしい成果を得られずにいましたが、1208年、プルイユにおいてノートル=ダム・デュ・ロゼール(仏
Notre-Dame du Rosaire ロザリオ聖母)が聖ドミニコに出現し、聖人にロゼール(仏 rosaire ロザリオ、シャプレ、数珠)を授けました。強力な祈りの武器とも言うべきロザリオを与えられた聖ドミニコと同志たちは、このとき以降、カタリ派の改宗に成果を上げはじめました。
本品はプルイユ修道院に安置されている十九世紀の聖母子像、ノートル=ダム・ド・プルイユを、精緻な浮き彫りで表した稀少なメダイです。
ノートル=ダム・ド・プルイユを伝統的類型に当て嵌めれば、セーデース・サピエンティアエ(羅 SEDES SAPIENTIÆ 上智の座)の聖母像に分類されます。しかしながらこの作品は近代の聖母像であるゆえにロマネスク彫刻のような近寄り難さはなく、ゴシック様式の聖母像に似た温かみを有します。簡素な玉座に腰かけた裸足の聖母は、幼子の頭に顔を近づけ、愛しくてたまらないというように目を閉じて接吻しようとしています。まことの知恵である幼子イエスは左手を球体の上に置き、右手を挙げて祝福を与えています。
イエスが左手を置く球体は、被造的世界の全体を象徴しています。イエスがその上に手を置いているのは、イエスが天地万物の造り主であり、主宰者であり、ロゴス(希 λόγος ことば、万物の理法)すなわちサピエンティア(羅
SAPIENTIA 知恵、上智)であることを表します。
ノートル=ダム・ド・プルイユ像において、祝福を与えるイエスは右手に十五連のロゼール(仏 rosaire ロザリオ)を持っています。これは聖母から与えられるロゼール(ロザリオ)が、換言すれば聖母に捧げるロザリオの祈りが、キリスト者にとって祝福に他ならないことを表します。
さらにロザリオとはラテン語のロサーリウム(羅 ROSARIIUM 薔薇の花環)という意味ですが、薔薇の花環が聖母に捧げられるのは聖母自身が棘を持たないロサ・ミスティカ(羅 ROSA MYSTICA 神秘の薔薇)、無原罪の御宿リであるからです。ロザリオが人間に与えられた祝福であるとは、聖母が人間に与えられた祝福であることを表します。これは聖母による執り成しが罪びとにとって祝福であるということでもありますが、より根本的には受胎告知の際に救いを受け入れ、「お言葉通り好みに成りますように」と言った聖母自身が、すべての人にとっての祝福であることを表しています。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。本品の聖母子は極めて精密な浮き彫りで表現され、その表情は慈愛にあふれています。十三世紀のラングドックにおいてドミニコ会は異端審問を引き受け、数千人に上る分離派信徒の命を奪いました。ドミニコ会の創設者であるグスマンの聖ドミニコ自身は理屈ではなく愛を優先する人であったことを思うと、正義ならざる偽りの正義によって人間が犯す過ちに鳥肌が立つ思いがします。
本品の細密浮き彫りは見事な出来栄えです。聖母子の顔はそれぞれ直径二ミリメートルの円に収まりますが、聖母の目鼻立ちは美しく整い、イエスは幼子らしく愛らしい表情を浮かべています。聖母の衣文(えもん 衣の襞)、手指や足指などの細部、イエスの幼い体つきも見事に表現されています。ロザリオの珠は直径
0.1ミリメートルほどですが、すべて綺麗な半球に整形されています。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
プルイユ修道院は全世界に広がるドミニコ会の最初の修道院であり、キリスト教史及び中世ヨーロッパ史においてたいへん重要な存在です。それにもかかわらず当地に出現したとされる聖母ノートル=ダム・ド・プルイユのメダイは極めて稀少であり、筆者(広川)自身、本品がこれまでに目にした唯一の作例です。
本品はおよそ九十年のフランスで制作された真正のアンティーク品で、サイズと重量は五百円硬貨とほぼ同じです。浮き彫りはたいへん立体的ですが、保存状態は極めて良好で、突出部分にも特筆すべき摩滅は認められません。本品はメダイユ彫刻の国フランスにおける優れた作例のひとつであり、充分に美術品と呼べる水準に達しています。それと同時に本品は美しいペンダントでもあり、信心具でもあり、十三世紀のラングドック(南西フランス)を思い起こさせる史的記念物でもあります。