聖ドミニコ女子修道会プルイユ修道院
Le monastère des Dominicaines de Prouilhe
(上) Le Monastère de Prouilhe/Prouille コロタイプによるプルイユ修道院 フランスの古い絵はがき
いまから八百年前あまり前の十三世紀初頭、
グスマンの聖ドミニコ(Domingo de Guzmán, 1170 - 1221)は、
カタリ派と論争するために、ディエゴ・デ・アセベス(Diego de Acebes, + 1207 註1)とともにピレネーを訪れました。聖ドミニコはファンジョー(Fanjeaux オクシタニー地域圏オード県)から東に一キロメートル離れた村、ラセール・ド・プルイユ(Lasserre-de-Prouille/Prouilhe)に居を定め、ディエゴ・デ・アセベスとともにプルイユ修道院(Le
monastère de Prouilhe/Prouille)を開きました。プルイユ修道院はドミニコ会最初の修道院です。
伝承によると、聖ドミニコは 1208年、この修道院において、ノートル=ダム・デュ・ロゼール(Notre-Dame du Rosaire ロザリオ聖母)から
ロゼール(仏 rosaire ロザリオ、シャプレ、数珠)を授かりました。ロゼールの祈りでは天使祝詞を唱え、その回数を数珠(じゅず)で数えます。ロゼールを使った祈りはドミニコ会の修道士と修道女によって広められました。
【プルイユ修道院の歴史】
■ 創建当初のプルイユ修道院
十三世紀初めのラングドックは
カタリ派の勢力が非常に強く、カルカソンヌ(Carcassonne オクシタニー地域圏オード県)はカタリ派の中心都市の一つでした。ディエゴ・デ・アセベスと聖ドミニコが修道院を開いたプルイユはカルカソンヌから三十八キロメートルの場所にあり、やはりカタリ派の勢力圏内でした。
伝承によると、1206年7月のある日、聖ドミニコが祈っていると、火球のようなものがプルイユ方面に降りました。プルイユには聖母に捧げた礼拝堂があり、古くからの巡礼地となっていましたが、当時の村は領主同士の争いで荒廃し、住む者もいなくなっていました。火球が降りたことを神の示しと解した聖ドミニコは、プルイユに修道院を建てることを決意しました。
聖人は同年にトゥールーズ司教から聖母礼拝堂と周辺の土地を与えられ、粗末な土壁の建物に十二名ほどの女性を住まわせました。同年12月27日、女性たちは修道服を着衣し、ラ・サント・プレディカシオン・ド・プルイユ(La
Sainte Prédication de Prouilhe プルイユ宣教会)が発足しました。これが聖ドミニコ女子観想修道会プルイユ修道院(Le monastère des Dominicaines de Prouilhe)の始まりです。
ドミニコ会はフランシスコ会と並ぶ托鉢修道会で、正式名称を説教者修道会(羅 ORDO PRÆDICATORUM, OP)といいます。ドミニコ会の修道士は修道院から外に出て説教を行いますが、女子修道院は観想修道院と位置付けられ、修道女たちが修道院外に出ることはありません。
プルイユ修道院はラングドックにおけるカトリックの拠点となり、またカタリ派からの改宗者の避難所としても機能することになります。プルイユ修道院では
アウグスティヌス会則に従う厳格な修道生活が行われましたが、カタリ派ももともと厳格な禁欲を行っていたため、同派からの改宗者は修道生活によくなじみました。
ラングドックのカトリック修道院はほとんどがシトー会のものでした。それゆえ創建当時のプルイユ修道院は、ファバ修道院(L'abbaye de la
Lumière-Dieu de Fabas)、フォンフロワ修道院(l'abbaye Sainte-Marie de Fontfroide)、ブルボンヌ修道院(L'abbaye
de Boulbonne)等、同地域の有力なシトー会系修道院から強い影響を受けていました。聖ドミニコは 1207年にディエゴ・デ・アセベスからプルイユ修道院の監督を引き継いでいましたが、1209年まではローラゲ地方(Le
Lauragais)での福音宣教に携わり、同年九月のアヴィニヨン公会議以降はトゥールーズでの説教活動に注力していたため、ようやくプルイユ修道院の管理に専念できるようになったのは
1211年5月のことでした。このとき以降プルイユ修道院への喜捨は大きく増えて、修道院の経営は安定しました。
(下) プルイユのノートル=ダム・デュ・ロゼール 十九世紀の作品 フランスの古い絵はがきから。
■ 十六世紀のプルイユ修道院
第五ラテラノ公会議開催中の 1516年8月18日、教皇レオ十世(Leo X, 1475 - 1513 - 1521)とフランス王フランソワ一世(François
I
er, 1494 - 1515 - 1547)の間にボローニャ協約が締結されました。この協約により、フランス国内の司教及び修道院長の任命権は国王が有することになり、修道院の自治は大きく損なわれました。プルイユ修道院も王立修道院となって、女子修道院長の地位をめぐる貴族の争いに巻き込まれるようになりました。
■ 十八世紀のプルイユ修道院
1715年3月4日夜、プルイユ修道院で火災が発生し、修道院の建物は全焼しました。1734年、国王ルイ十五世はプルイユ修道院の再建をサン=パプール(Saint-Papoul オクシタニー地域圏オード県)の司教ダニエル=ベルトラン・ド・ラングル(M
gr Daniel-Bertrand de Langle, 1701 - 1774)に命じましたが、修道院再建に必要な資金が不足していたため、再建作業が始まったのは
1740年代のことでした。
アンリ三世(Henri III, 1551 - 1589)の時代、ユグノーすなわち改革派(カルヴァン派)信徒が多い地域の宗教政策担当官として、改革派地域担当国務長官(Secrétaire d'État de la Religion prétendue réformée)が創設されました。ユグノーが多い地域のひとつであるラングドックにも担当国務長官が置かれ、1725年から 1775年まではルイ・フェリポー(Louis Phélypeaux de Saint-Florentin, duc de La Vrillière, 1705 - 1777)がその地位にありました。
サン=パプール司教ダニエル=ベルトラン・ド・ラングルと再建工事の監督たちは、1746年、ルイ・フェリポーに再建計画書を提出し、ルイ・フェリポーは建築家ジャック・アルドゥアン=マンサール(Jacques
Hardouin-Mansart de Sagonne, 1711 - 1778)に意見を求めました。ジャック・アルドゥアン=マンサールはルイ・フェリポーの推薦によってルイ十五世に重用され、1742年からはヴェルサイユにサン=ルイ教会を建設中でした(註2)。1746年5月21日にはジャック・アルドゥアン=マンサールがプルイユ修道院の再建も担当することが正式に決まり、再建費用は王室がラモンダン(Ramondens オクシタニー地域圏オード県)に所有する森の収入から拠出されることになりました。
修道院再建を任されたジャック・アルドゥアン=マンサールは、王の命によって 1747年1月にプルイユを訪れました。しかしながら巨額の費用を投じながらも再建工事はなかなか捗らなかったため、メール(仏
Mère 女子修道院長)は王に苦情を申し立てました。ルイ・フェリポーの執り成しも空しく、ジャック・アルドゥアン=マンサールは 1753年11月にその任を解かれました。この時点で完成していたのは、修道院建物の一階のごく一部に過ぎませんでした。
再建工事はしばらく停止した後、ドミニコ会士レモン・ヴェルジェス(Frère Raymond Vergès)が監督に就いて 1757年に再開しました。レモン・ヴェルジェス修道士はこの仕事に熱心に取り組みました。1785年から
1787年にはメールの要請により、建築家ジャン=アルノー・レモン(Jean-Arnaud Raymond, 1742 - 1811)が修道院付属聖堂ノートル=ダムを再建し、翌
1788年、巨額の費用と長い歳月を投じた再建工事は、マンサールの設計通りにようやく完了しました。
しかしながら翌 1789年にフランス革命が勃発し、プルイユ修道院は共和国政府に接収されました。1793年、当地の政府委員(commissaire
du gouvernement)に任じられたファンジョー出身の革命政治家ユーグ・デトレム(Hugues Destrem, 1754 - 1804)が十六万五千リーヴルで修道院を買い取り、修道院の真新しい建物は石材や装飾品目当てに解体されてしまいました。
■ 十九世紀のプルイユ修道院
(上) Le Monastère de Prouilhe/Prouille プルイユ修道院
コロタイプによるフランスの古い絵はがき
革命で解体されたプルイユ修道院跡はその後数十年に亙って放置されていました。1852年7月にドミニコ会士アンリ・ラコルデール神父(Henri-Dominique
Lacordaire, 1802 - 1861)がプルイユを訪れましたが、そのときは革命前に巡礼者宿泊所であった建物が、宿屋として残っているだけでした。ラコルデール神父はドミニコ会の濫觴プルイユ修道院跡に、ノートル=ダム・ド・プルイユ(Note-Dame
de Prouille プルイユの聖母)に捧げた礼拝堂を再建することを決意しました。
ジュリアン子爵ルイ・シャルル(Louis Charles Jurien de La Gravière, 1797 - 1858)の未亡人マリー=アントワネット(Marie-Antoinette
Camille Panon-Desbassyns, vicomtesse Jurien)は、レユニオン島出身の資産家フィリップ・パノン(Philippe
Panon Desbassayns de Richemont
, 1774 - 1840)の娘で、非常に富裕でしたが、子供が無く、全収入を慈善事業に費やしていました。マリー=アントワネットはプルイユ修道院と付属聖堂の再建に財産を捧げることを決意し、1855年12月27日、子爵夫人の喜捨のおかげで土地の売買契約が結ばれました。
新しいプルイユ修道院の設計者はシャルル・サン=ペール(Charles Félix Saint-Père, 1804 - 1895)で、出身地ディジョンの司教座聖堂建設に関わった実績がありました。新修道院の定礎は
1857年5月31日に行われました。工事は数年続き、聖堂の内陣聖歌隊席とクリプトが完成しましたが、その間に子爵夫人の財務状況が悪化したことを始め、いくつもの障碍が生じて、やがて工事は停止してしまいます。1878年に子爵夫人が亡くなるとプルイユ修道院は再び放棄され、翌1879年に競売にかけられました。
ピレネー山中の町ネ(Nay ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県)には、革命期を潜伏して生き延びた聖ドミニコ女子修道会がありました。再建途上のプルイユ修道院が競売にかけられたとき、後にドミニコ会総長となるヤサント・コルニエ神父(Hyacinthe-Marie
Cormier, 1832 - 1916)はこの修道女たちに助力を求め、ネの女子修道会は要請に応えてプルイユ修道院を買い取りました。1880年4月29日、ネの女子修道会から数名の修道女がプルイユに移りました。
フェリクス・アルセーヌ・ビヤール師(Mgr. Paul Félix Arsène Billard, 1829 - 1881- 1901)は、プルイユを含むカルカソンヌ司教区で、1881年から司教を務めていました。1883年、教皇レオ十三世(Leo
XIII, 1810 - 1878 - 1903)が全世界のカトリック信徒に向けて、「ロザリオの聖母月間」を呼びかけました。このことがきっかけになり、ビヤール師はプルイユ修道院の復活を後押しするために、教区を挙げてプルイユへの巡礼を行うことを考えつきました。師の発案によって、毎年十月十八日には数千人の巡礼者がプルイユを訪れるようになりました。
プルイユ修道院では、聖堂の再建工事が現在も進行中です。
註1 ディエゴ・デ・アセベスは 1201年にオスマ(Osma カスティジャ・イ・レオン自治州ソリア県)の司教に任じられ、亡くなるまでその地位にありました。それゆえディエゴ・デ・オスマの名で呼ばれることもあります。ディエゴ・デ・アセベスは創設直後のプルイユ修道院を聖ドミニコに委ねて、1207年にスペインへの帰途に就きましたが、オスマに着いて間もない同年12月30日に亡くなりました。
註2 サン=ルイ教会(l'église Saint-Louis)は 1754年に祝別され、1843年以降はヴェルサイユの司教座聖堂(La cathédrale Saint-Louis de Versailles)となっています。
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