19世紀後半のフランスで制作されたクラシカルなメダイ。
メダイの一方の面には、マンドルラ(紡錘形の後光)形画面の上下いっぱいに無原罪の御宿り(聖母マリア)の立ち姿を浮き彫りにし、カドリロブ(四つ葉)と正方形を組み合わせたゴシック風の枠で囲んでいます。マンドルラの周縁部には「われは無原罪の御宿りなり」(Je
suis l'Immaculée Conception.) の言葉、その下にメダイユ彫刻家リュドヴク・ペナンの名前 (PENIN, LYON)
を刻んでいます。
聖母は腕にロザリオを掛けて立ち、胸の前に両手を合わせて、天を仰ぐように斜め上方を見上げています。これは1858年3月25日、ルルドにおける16回目の出現の際に、ベルナデットに四度続けて名を問われたときのマリアの姿です。マリアはこのとき、「われは無原罪の御宿りなり」(Je
suis l'Immaculée Conception.) と答えました。
マンドルラ形画面とゴシックの枠の間に彫られた「棘の無い薔薇」と「白百合」は、いずれも聖母の象徴です。聖書において棘は罪の呪いを象徴します。原罪を持たない聖母はロサ・ミスティカ(ROSA MYSTICA ラテン語で「神秘の薔薇」の意)、すなわち棘の無い「奇(くす)しき薔薇」です。「ロサ・ミスティカ」というマリアの称号は、ロレトの連祷にも出てきます。
(下・参考写真) ジャン=バティスト・エミール・ドロプシ作 「ロサ・ミスティカの聖母」 直径 18.5 mm 1909年 当店の商品です。
ヴルガタ訳「雅歌」 2章 1節には「リーリウム・コンヴァッリウム」(LILIUM CONVALLIUM 谷間の百合、野の百合) という語が出てきます。「雅歌」
2章はたいへん美しいので、1節から 6節をノヴァ・ヴルガタと新共同訳により引用します。2節は若者の歌、それ以外は乙女の歌です。
NOVA VULGATA | 新共同訳 | |||
1. | Ego flos campi et lilium convallium. |
わたしはシャロンのばら、 野のゆり。 |
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2. | Sicut lilium inter spinas, sic amica mea inter filias. |
おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。 |
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3. | Sicut malus inter ligna silvarum, sic dilectus meus inter filios. Sub umbra illius, quem desideraveram, sedi, et fructus eius dulcis gutturi meo. |
若者たちの中にいるわたしの恋しい人は 森の中に立つりんごの木。 わたしはその木陰を慕って座り 甘い実を口にふくみました。 |
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4. | Introduxit me in cellam vinariam, et vexillum eius super me est caritas. |
その人はわたしを宴の家に伴い わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。 |
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5. | Fulcite me uvarum placentis, stipate me malis, quia amore langueo. |
ぶどうのお菓子でわたしを養い りんごで力づけてください。 わたしは恋に病んでいますから。 |
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6. | Laeva eius sub capite meo, et dextera illius amplexatur me. |
あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ 右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。 |
「雅歌」が何を表すのかについては、歴史上様々な説が唱えられてきました。紀元一世紀頃までの古い時代には、雅歌の内容を字義どおりに捉えて男女の性愛を謳ったものとする素朴な考え方もありました。それ以降の時代の諸説は「雅歌」を比喩的に捉えるのが普通ですが、比喩の対象について諸説は一致しませんでした。たとえば 12, 13世紀には「若者」と「乙女」をそれぞれ能動知性、受動知性とする説が有力でしたし、マルティン・ルターは政治的な文脈で解釈を行いました。
現代の聖書解釈学の標準的な説では、「雅歌」の若者は神、乙女は神に選ばれ愛されるユダヤ民族を表すと考えられています。上に引用した 2章2節では、異民族に囲まれたユダヤ民族を、茨に囲まれた美しい百合にたとえています。新共同訳が「茨」と訳したヘブル語の植物名は、他の訳では「あざみ」とも訳されています。ノヴァ・ヴルガタの「スピーナ」(spina)
は「棘(とげ)」という意味です。上述したように、棘のある植物は、聖書において「罪の呪い」すなわち罪ゆえに神の祝福を失った状態を象徴的に表します。茨やあざみに囲まれた美しい百合は、神に愛される選民ユダヤ人を表しています。
(上・参考写真) 「わたしは谷間の百合」(Je suis le lys de la vallée.) アール・デコ様式によるフランスの小聖画 当店の商品
クレルヴォーの聖ベルナールは、キリスト教の立場から、「雅歌」の若者を「神」、乙女を「神に選ばれたマリア」と解釈しました。「雅歌」2章2節(おとめたちの中にいるわたしの恋人は茨の中に咲きいでたゆりの花)のこのような解釈に基づいて、薔薇に囲まれたマリア、あるいは百合とともに描かれたマリアの図像が多く制作されました。マリアの象徴あるいはアトリビュート」(英 attribute 聖人の図像において、聖人とともに描かれる象徴的な付き物)は数多くありますが、百合は薔薇とともに最もよく目にするもののひとつです。
本品の浮き彫りにおいて、彫刻家ペナンは聖母の上半身ではなく全身を、画面の上下いっぱいに浮き彫りにしています。これは「無原罪の御宿り」なるマリアが天地を繋ぐ恩寵の器であることを表します。エヴァは原罪を犯すことにより、すべての人に死をもたらしました。これに対して「新しきエヴァ」であるマリアは、救い主を産むことにより、すべての人に生命をもたらしました。マリアはこの役割のために、「ロサ・ミスティカ」すなわち無原罪の御宿りとして特別な救いに与ったのです。聖ベルナールによると、百合もまた同じ意味を表します。これに加えて百合は「神に選ばれた身分」及び「神の摂理を信じる信仰」の象徴でもあります。マリアはその信仰のゆえに神に選ばれて受胎を告知され、摂理への信頼ゆえに受胎告知を受け容れました。それゆえ受胎告知画には白百合が描かれます。本品の彫刻においてマリアの左右に彫られた薔薇と百合にはこのような意味があります。
メダイのもう一方の面には「いと尊きロザリオの元后」の図像が浮き彫りにされています。この面に署名はありませんが、浮き彫りはやはりリュドヴィク・ペナンによります。
「ロサ・ミスティカ」と同様に、「いと尊きロザリオの元后」(Regina sacratissimi Rosarii) もまた、ロレトの連祷にある聖母マリアの称号のひとつです。本品では画面中央奥の一段高いところに聖母子が座し、手前に跪いたふたりの聖人にロザリオを与えています。「いと尊きロザリオの元后(女王)」である聖母は戴冠しています。幼子イエズスは聖母の右膝の上に立っていますが、両腕を水平に広げた姿は十字架上の受難を思い起こさせます。
向かって右手前で聖母からロザリオを受け取っているのはグスマンの聖ドミニコ、向かって左側で幼子イエスからロザリオを受け取っているのはシエナの聖カタリナです。聖母に執り成しを求める「ロレトの連祷」の一節が、周囲にフランス語で刻まれています。
Reine de très Saint Rosaire, priez pour nous. いと尊きロザリオの元后、我らのために祈りたまえ。
(上・参考写真) Francesco Botticini, Adorazione del Bambino (details), 1482 circa, tempera su tavola, diametro 123 cm, Palazzo Pitti,
Galleria Palatina, Firenze
聖母子の足下には薔薇の花環、あるいは薔薇の花の冠が置かれています。カトリックの数珠をわが国では「ロザリオ」(rosario) と呼んでいますが、イタリア語「ロザリオ」の語源はラテン語「ロサーリウム」(ROSARIUM) で、これは薔薇の花環(花綱、冠)のことです。薔薇は聖母の象徴であり、聖母像に捧げる薔薇の花環あるいは薔薇の花の冠を、「ロサーリウム」(ロザリオ)と呼んだのです。
ロザリオのことを、フランス語では「ロゼール」(rosaire) または「シャプレ」(chapelet) といいます。「ロゼール」は特に15連のロザリオを指す語で、語形から明らかなように、ラテン語「ロサーリウム」に由来します。「シャプレ」は五連のロザリオを指しますが、この語は本来「被り物」を表す「シャペル」(chapelle)
に縮小辞が付いたものであり、やはり花の冠を表します。ドイツ語ではロザリオを「ローゼンクランツ」(Rosenkranz) といいますが、これは文字通り「薔薇の花環」という意味です。
ロザリオの祈りでは、天使祝詞(アヴェ・マリア)、すなわち救い主の生誕を予告するガブリエルの言葉が唱えられます。上の参考画像はルネサンス期の画家ボッティチーニの作品で、生誕した救い主イエスを礼拝する聖母とともに、薔薇の花綱(ロサーリウム)が描かれています。
メダイの手前、向かって右には、グスマンの聖ドミニコ (St. Domingo de Guzman, 1170 - 1221) が浮き彫りにされています。聖人はドミニコ会の白い修道衣と黒いマントをまとって跪き、聖母子を仰ぎつつ両腕を広げています。 よく知られた聖ドミニコ伝によると、新生児ドミニコが洗礼を受ける際、その額に星が輝くのを、代母が目にしました。それゆえ聖ドミニコの図像では、額あるいは頭上に星が描かれることが多くあります。本品の浮き彫りにおいても、リュドヴィク・ペナンは輝く星を聖人の頭上に配しています。
ドミニコはスペイン北部の町パレンシア(Palencia カスティジャ・イ・レオン州パレンシア県)で学究生活を送り、6年に亙って学芸を、4年に亙って神学を修めました。神学研究の最後の年である 1191年にスペインに大飢饉が起こったとき、ドミニコは貧しい人々のために現金、衣服、家具を手放しただけではなく、当時はたいへんな貴重品であった本(羊皮紙の写本)までもすべて売り払いました。学究の徒であるドミニコが本を手放したことに友人たちが驚くと、ドミニコは「人々が飢え死にしつつあるときに、死んだ動物の皮から学べと私に言うのか」と答えました。
リュドヴィク・ペナンはこの浮き彫りにおいて、聖人の心の優しさを、穏やかな横顔のうちに余すところなく表現しています。フランスにおけるメダイユ彫刻中興の祖、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856) はリュドヴィク・ペナンよりも少し前の時代の人ですが、モデルの横顔を好んで作品にし、「正面から捉えた顔はわれわれを見据えるが、これに対して横顔は他の物事との関わりのうちにある。正面から捉えた顔にはいくつもの性格が表われるゆえ、これを分析するのは難しい。しかしながら横顔には統一性がある。」と言っています。
聖ドミニコ単独のメダイや他の諸聖人のメダイにおいて、リュドヴィク・ペナンはほとんどの場合正面向き、あるいは正面向きに近い角度で顔を彫っており、ダヴィッド・ダンジェのように横顔のメダイを多く作ったわけではありません。リュドヴィク・ペナンがこの群像において聖ドミニコの顔を側面から捉えているのは、四人の人物の空間的配置から来る必然的要請のためでしょう。しかしリュドヴィク・ペナンはこの作品において聖ドミニコを側面から捉えることにより、聖人が持つ生来の優しさを、あたかもおのずから滲み出るかのように引き出すことに成功しています。上の写真に写っている定規のひと目盛は
1ミリメートルです。
(上・参考画像) Lorenzo Lotto, "Madonna de Rosario e Santi", 1539, olio su tela, 384 x 264 cm, Pinacoteca Comunale ''Donatello Stefanucci'', Cingoli
12世紀から13世紀前半、フランス南西部のラングドック地方は異端カタリ派の勢力圏でした。聖ドミニコはこの地方に滞在し、1206年、プルイユ(Prouille オクシタニー地域圏オード県)に修道院を創設して、カタリ派をカトリック教会に帰一させるべく奮闘しましたが、思わしい成果はなかなか得られませんでした。
15世紀まで遡れる伝承によると、1208年、プルイユにおいて「ロザリオの聖母」が聖ドミニコに出現し、聖人にロザリオを授けました。強力な祈りの武器とも言うべきロザリオを与えられた聖ドミニコと同志たちは、このとき以降、カタリ派の改宗に成果を上げはじめました。
聖ドミニコによる「ロザリオの聖母」の幻視は、多数の絵画や彫刻のテーマになっています。上に示したのは、イタリア・ルネサンスの画家ロレンツォ・ロット
(Lorenzo Lotto, 1480 - 1556) が、イタリア中部の町チンゴリ(Cingli マルケ州マチェラータ県)のロザリオ信心会から注文を受けて、この町の聖ドミニコ教会のために描いた大きな祭壇画です。この作品において聖ドミニコは手前の向かって左側に跪き、聖母からロザリオを受けています。手前右側に跪いているのはチンゴリの司教で、聖母子に町を捧げています。
メダイの手前、向かって左には、ドミニコ会の聖女であるシエナの聖カタリナ (Santa Catarina da Siena, 1347 - 1380) が跪いています。
あるときカタリナはキリストを幻視しました。キリストは茨の冠、及び黄金と宝石でできた冠をカタリナに示してどちらかを選ぶように告げ、カタリナは茨の冠を選びました。この出来事ゆえに、カタリナの図像には茨の冠が描かれることが多くあります。本品の浮き彫りにおいても、聖女は茨の冠を被っています。1375年、聖女は両手、両足、脇腹に聖痕を受けました。カタリナが聖痕を受けていたことは、1380年、神秘的結婚による「夫」イエズス・キリストと同じ年齢である33歳で聖女が亡くなったとき、初めて明らかになりました。
(下・参考画像) Giovanni Battista Tiepolo, "Hl. Katharina von Siena", zirka 1746, Öl auf Leinwand, 70 x 52 cm, Kunsthistorisches Museum
Wien, Gemäldegalerie, Wien
この面の浮き彫りを制作したリュドヴィク・ペナンは、19世紀前半以来四世代にわたってメダイユ彫刻家を輩出したリヨンのペナン家の一員で、正統的で重厚な作風により知られています。弱冠34歳であった1864年、当時の教皇ピウス9世によって「グラヴール・ポンティフィカル(graveur pontifical 教皇御用達のメダイユ彫刻家)に任じられましたが、惜しくもその4年後に亡くなりました。
リュドヴィク・ペナンによるいくつかの作品を紹介します。
(下) 我が肉を食し我が血を飲む人は永遠の生命を有す、而して我、終の日に之を復活せしむべし 直径 41.1 mm 最大の厚さ 4.7 mm 重量 34.5 g 1869年
(下) ミシオン記念 ブロンズ製クルシフィクス 51.3 x 31.5 mm
(下) クレルモンのノートル=ダム・デュ・ポール 十字軍800周年記念 800シルバーのメダイ 突出部分を除く直径 22.8 mm 1895年
(下) 竪琴を弾く聖セシリア オリジナルの箱入り メダイユの直径 32.6 mm 厚さ 最大 2.8 mm
本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品です。拡大写真では突出部分の磨滅が判別可能ですが、実物を肉眼で見るとたいへん美しく、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。自信を持ってお薦めできる美術品水準のメダイです。