守護天使
les anges tutélaires ou les anges gardiens




(上) 石版小聖画 「わたしが眠っていても、神はお守りくださいます」(仏 Je dors, mais Dieu me garde.) ベネディクト会バイユー修道院 図版 D57 フランス 1950 - 60年代


 この世に生きている限り、人はいつ何時災厄に遭うか分かりません。事故や病気、天災、犯罪被害など、突然身に降りかかる不幸の多くは予測不可能な不可抗力によります。それゆえあらゆる宗教において、このような災厄から人を守ってくれる霊的存在が想定されました。キリスト教もその例外ではなく、地上に生きる一人ひとりに守護天使(仏 un ange tutélaire ou ange gardien)が付いているとされます。

 本稿では守護天使の存在に関するトマス・アクィナスの議論を確かめた後、民心の顕れとしての信心具を概観します。


【トマス・アクィナスの議論】

 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第1部 112問と 113問において天使の働きを論じています。113問2項 「一人ひとりの人間が一人ひとりの天使によって保護されているか」(羅 Utrum singuli homines a singulis angelis custodiantur)において、トマスは一人ひとりの人間に専任の守護天使がいると論じています。この項のレスポンデオー(異論に対する回答)を全訳いたします。ラテン語テキストはレオニナ版、段落分けと日本語訳は筆者(広川)によります。意味を通じやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。


      Respondeo dicendum quod singulis hominibus singuli angeli ad custodiam deputantur.     [異論に]答えて次のように言うべきである。[すなわち]一人ひとりの人に対して、個別の天使が保護のために遣わされているのである。
     Cujus ratio est, quia angelorum custodia est quaedam executio divinae providentiae circa homines. Providentia autem Dei aliter se habet ad homines, et ad alias corruptibiles creaturas: quia aliter se habent ad incorruptibilitatem. Homines enim non solum sunt incorruptibiles quantum ad communem speciem, sed etiam quantum ad proprias formas singulorum, quae sunt animae rationales: quod de aliis rebus corruptbilibus dici non potest.    [そのように言える]理由は、[次のとおりである。すなわち、]天使による保護は、人に関して神の摂理が実行されるひとつの様式である。しかるに神の摂理とその対象の関係は、摂理の対象が人間である場合と、他の諸々の可滅的被造物である場合では、異なっている。なぜならば両者は非可滅性に対して異なる関係を有するからである。すなわち人間は共通の形相(けいそう)に関する限りで非可滅的であるのみならず、さらに個物が有する固有のフォルマ(本質)、すなわち理性的魂に関しても非可滅的であるからである。このことは他の可滅的所持物に関して言われ得ない。
     Manifestum est autem quod providentia Dei principaliter est circa illa quae perpetuo manent: circa ea vero quae transeunt, providentia Dei est inquantum ordinat ad res perpetutas. Sic igitur providentia Dei comparatur ad singulos homines, sicut comparatur ad singula genera vel species corruptibilium rerum.    しかるに神の摂理が永遠に不変な物事に第一に関わることは明らかである。しかるに移り変わる物事に関しては、[移り変わるそれらの物どもを]永続的な物事に対して秩序付ける限りにおいて、神の摂理があるのである。したがって以上のことから、神の摂理は可滅的諸事物の個々の類や形相を対象にするのと同様に、個々の人間をも対象にするのである。
     Sed secundum Gregorium, diversi ordines deputantur diversis rerum generibus; puta Potestates ad arcendos daemones, Virtutes ad miracula facienda in rebus corporeis. Et probabile est quod diversis speciebus rerum diversi angeli ejusdem ordinis praeficiantur. Unde etiam rationabile est ut diversis hominibus diversi angeli ad custodiam deputentur.    しかしながらグレゴリウス[一世教皇]によると(註1)、諸事物の多様な類に対しては、多様な位階[の天使たち]が遣わされる。たとえば能天使たちは悪霊どもを妨げるために遣わされ、力天使たちは物質的諸事物においてさまざまな奇跡を為すために遣わされる。おそらくは、諸事物が有する多様なスペキエース(観点、相)に対して、同じ位階に属する多様な天使たちが遣わされるのであろう。このことから論理的に判断すれば、多様な人々に対して多様な天使たちが守護に遣わされる[ことになる]。

 上記引用箇所の第一段落において、トマスはこの論題に対する結論をまず提示しています。すなわち一人ひとりの人に対して、個別の天使が保護のために遣わされているというのがトマスの結論です。

 第二、第三段落では、第一段落で示された結論の根拠として、一人ひとりの人間は神の摂理の対象としてふさわしいといういことを述べています。第二、第三段落では結論に至る根拠がさらにその根拠に遡って論じられているために、議論がたいへん入り組んでいます。これら二段落における議論の前提は、神の摂理は永遠に不変な物事に第一に関わる、ということですが、これを前提として第二、第三段落の議論の骨格を三段論法の形に整理すると、次のようになります。すなわち、天使による保護は神の摂理によるゆえに、永遠に不滅のものを対象とする。しかるに一人ひとりの人間は理性的魂を持つゆえに、永遠に不滅である。したがって天使による保護は、一人ひとりの人間を対象とする。

 第四段落でトマスが述べているのは、天使の数はそれぞれの位階に属する者がたくさんいて、自分の位階に割り当てられた勤めを分担しているということです。人間を守護する責務を課せられた天使はたくさんいるから、一人ひとりの人に対して専任の守護天使がいるのであろう、とトマスは論じています。


 なおトマスが最後の段落の冒頭で言及しているのは、グレゴリウス一世の「福音書に関する第三十四説教」です。ミーニュの「パトロロギア・ラティナ」第76巻から、関連する部分を引用いたします。ラテン語テキストは 1857年のガルニエ版、日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通やすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。

      Sed quid prodest nos de angelicis spiritibus ista perstringere, si non studeamus haec etiam ad nostros profectūs congrua consideratione derivare ?     しかしながら我々が適切な考察によって我々の成長へと導くべく、これらのことをさらに探求しないのであれば、霊的な使者(天使)たちについてこのように論じることに、どのような利点があろう(註1)。
     Quia enim superna illa civitas ex angelis et hominibus constat, ad quam tantum credimus humanum genus ascendere, quantos illic contigit electos angelos remansisse, sicut scriptum est :    というのも、かの天上の国は天使たちと人間たちから構成されているのだが、我々が信ずるところによると、どれほどの数の選ばれた天使たちが[そこに]留まるかに応じて、人類がその国に入る数も決まるからである。そのことは聖書に書かれている通りである。
     Statuit terminos gentium secundum numerum angelorum Dei (Deut. XXXII, 8), debemus et nos aliquid ex illis distinctionibus supernorum civium ad usum nostrae conversationis trahere, nosque ipsos ad incrementa virtutum bonis studiis inflammare.    (「申命記」 32章8節に書かれているように、)神は御使いたちの数にしたがって人の[住む地の]境界を定め給うた。我々もまた天上の国々のかかる区分けから、われわれの交わりに役立つ何かを引き出して、善き考究により諸々の徳を増し加えるために、我々自身を燃え立たせるべきである(註2)。
     Quia enim tanta illuc ascensura creditur multitudo hominum, quanta multitudo remansit angelorum, superest ut ipsi quoque homines qui ad coelestem patriam redeunt ex eis agminibus aliquid illuc revertentes imitentur.    すなわち多くの天使たちが留まれば、それだけ多くの人間がかの場所に昇ってゆくと我々は信じるゆえに、この群れから天の祖国に帰る人々もまた、そこに戻ってゆく者たちに或る程度倣う[務め]が残っているのだ(註3)。
     Distincte namque conversationes hominum singulorum agminum ordinibus congruunt, et in eorum sortem per conversationis similitudinem deputantur.    なぜならば、別々の群れに属する人々の間の交わりは秩序に従って為されるが、[彼らは]交わりによって似る者となり、その運命へと定められるからである(註4)。
     Nam sunt plerique qui parva capiunt, sed tamen haec eadem parva pie annuntiare fratribus non desistunt.    というのも、[自分は]わずかな物を取りつつも、この同じわずかな物を愛情を以て兄弟たちに知らせるのはやめておくという者たちが、たいへん多いからである(註5)。
     (Homil. 34 in Evang. : ML 76, 1251 C. - Sancti Gregorii Papae I Opera Omnia, Patrologiae cursus completus, 76, tomus secundus, Jacques-Paul Migne apud Garnier fratres, 1857)    


 上記の引用箇所、特に二つ目の文(Quia enim ...)と三つめの文(Statuit ...)において、グレゴリウスは天上の天使と地上の人間の一対一対応を説いているように読めます。五つめの文(Distincte namque ...)が少し分かり辛いですが、筆者(広川)は要するに「異なる集団の人間であっても、付き合っていればやがて互いに似る者となる」という意味に取り、「人間は天使と親しく交わり、天使に倣うべきである」と説くために、経験的真理を引き合いに出していると解しました。しかるにこの文を「さまざまな種類の人間が、天使との交わりを通していずれも同様に聖化される」という意味に解することもできます。


【守護天使に関する信心具】



(上) 精緻な浮き彫りによる大天使ミカエル 黒い黄楊(つげ)のクーロンヌ・アンジェリーク モン=サン=ミシェル修道院 全長 37 cm フランス 1950年代頃 当店の商品です。


 新約聖書はギリシア語で書かれています。天使はギリシア語のアンゲロス(希 ἄγγελος)を訳した語です。アンゲロスの語源は不明ですが、ギリシア語における本来の意味は使者です。宗教的文脈を離れれば、アンゲロスは単なる使者、すなわち伝令として遣わされる人を指します。聖書で「神のみ使い」等と訳されているのは、この意味です

 しかしながら神の使いは単なる伝令ではなく、人間を悪から守る力強い存在と考えられ頼りにされました。守護天使はフランス語でアンジュ・ガルディアン(仏 un ange gardien)またはアンジュ・テュトレール(仏 un ange tutelaire)といいます。ガルディアンはゲルマン語系形容詞で、その語根は「守る」を意味します。テュトレールはラテン語系形容詞で、トゥエオル(tueor, v. dep. 見る)と語根を共有し、「見守る」という意味です。ガルディアンとテュトレールは結果的にほぼ同じ意味となります。


 天使に祈る信心具にクーロンヌ・アンジェリーク(仏 une couronne angélique 天使のクーロンヌ)があります。クーロンヌとは環状の数珠のことで、クーロンヌ・アンジェリークは三個ずつの連が9つ、及び連と連の間に一個ずつ、合計三十五個のビーズがクラウン(環状部)を構成し、これにクラウン外のビーズ読ん個と大天使ミカエルのメダイ一枚が加わります。十八世紀にポルトガルのカルメル会修道女アントニア・ダストナコ (Antónia d'Astónaco) に対して大天使ミカエルが出現し、九階級の天使に執り成しを願うために、このクーロンヌで祈るように教えたとされています。

 クーロンヌ・アンジェリークは環状部から祈り始め、最後にメダイへと続く四つのビーズを使います。九階級の天使のうち、守護天使は九番目の階級に属し、環状部の最後の三個が守護天使への祈りに充てられています。またメダイへと続く四つのビーズのうち、最後のビーズも守護天使に捧げられています。




(上) 稀少品 《イエスの子ら会》 《少女を守る守護天使》 ゴシック様式によるアンティーク・メダイ 直径 26.0 mm フランス 十九世紀中頃または後半 当店の商品です。


 様々な災厄から守ってくれる守護天使は現代人にとっても頼もしい存在ですが、子供の死亡率が高かった近代以前の時代にはとりわけ頼りにされました。十九世紀から二十世紀前半に制作された守護天使のメダイには、幼い子供の姿が必ず彫られています。

 上の写真はフランスの子供のための信心会、コングレガシオン・デ・ザンファン・ド・ジェジュ(仏 Congrégation des Enfants de Jésus イエスの子ら会)のメダイです。このメダイは写真に写っている面に守護天使と幼い少女、もう一方の面に幼子イエスの単身像を浮き彫りにしています。コングレガシオン・デ・ザンファン・ド・ジェジュは男の子のための信心会ですが、守護天使と組み合わされている少女の姿には、男の子にも女の子にも、全ての子供に優しい眼差しを注ぎ給う神の愛が可視化されています。

 現在の先進国では、生まれた子供のうちのほとんどが、幼少期を無事に通過して大人になります。しかしながら十九世紀は状況が違いました。1890年頃、英仏独をはじめとする西ヨーロッパ諸国は世界で最も医療が進んでいましたが、それでもおおよそ 15パーセントの子供が一歳になるまでに、20パーセントの子供が二歳になるまでに、25パーセントの子供が五歳になるまでに亡くなりました。生きて成人できる子供は50パーセント弱です。1890年頃に子供を持っていた親自身の世代は状況がさらにひどく、1850年頃でいえば、上述の死亡率が各年代ともおよそ5パーセントずつ上がります。特にヨーロッパ・ロシア(Европейская часть России ロシアのヨーロッパ部分)では、1896年から97年の統計で見ても、42.2パーセントの子供が五歳になるまでに死んでいます( Coale, A.J. and Demeny, P., "Regional Model Life Table and Stable Populations", Princeton University Press, Princeton, 1966)。

 要するに十九世紀のヨーロッパは先進国であったとはいえ、子供が死ぬのはごく普通のことでした。運が悪ければ、五人、六人と産んだ子供が全員幼児期に死んだり、十人産んでもひとりしか成人しないというようなことも、充分にあり得たのです。このような時代の親たちは、子供はいつ死んでもおかしくないものと半ばあきらめつつも、できることなら愛しいわが子が無事に成長してくれるように強く願い、祈りました。メダイユ彫刻家自身を含む大人たちのそのような願いが、一方の面に男児(幼子イエス)を、もう一方の面に女児を刻んだ上の写真のメダイユに結実しています。




(上) 稀少品 ラウル・ラムルドデュ作ゆりかご用メダイ 「子供を見守る守護天使」 円熟の名品 40.6 x 39.2 mm フランス 1930年代 当店の商品です。


 カトリック国フランスでは、赤ちゃんの健康と成長を願って、ゆりかごの上にメダイ(メダイユ・ド・ベルソー médaille de berceau)を懸けることが多くあります。ゆりかご用メダイは守護の聖母や守護天使、守護聖人がモチーフになっています。サイズは直径五センチメートル前後と大型ですが、もしも赤ちゃんの上に落ちても怪我をしないように、多くのものはプラスティックやアルミニウム、打ち出し細工を用いてごく軽量に作られています。

 上の写真は東洋の釣鐘、あるいは半円アーチの窓のように珍しい形のゆりかご用メダイです。ゆりかご用メダイはほとんどがプラスチック製ですが、このメダイは稀少なアルミニウムの作例です。メダイの表(おもて)面には、すやすやと眠る幼い子供と、子供を見守る守護天使が柔らかいタッチで浮き彫りにされています。幼子の柔らかい肌、天使の衣の流れるような襞(ひだ)、天使の髪や翼の羽毛など、これがアルミニウムの浮き彫りであることを忘れさせるような巧みさで表現されています。

 メダイの右下、端に近い部分に、フランスのメダイユ彫刻家ラウル・ラムルドデュ (Raoul Eugène Lamourdedieu, 1877 - 1953) の署名が刻まれています。ラウル・ラムルドデュは、アレクサンドル・シャルパンティエ (Alexandre Louis Marie Charpentier, 1856 - 1909) の弟子であり、サロン展のみならずサロン・ドートンヌ展、アンデパンダン展でも活躍した才能豊かな芸術家です。象徴性に富む女性像を得意として、オーギュスト・ロダンに「彫刻界のピュヴィス・ド・シャヴァンヌ」と評されました。

 本品の浮き彫り彫刻において幼子が裸なのは、この作品の作者であるラウル・ラムルドデュの作風であると同時に、幼子のよるべのなさを表しています。一方、幼子を見守る守護天使の力は最強であり、地上の軍隊が一斉に戦いを挑んでも指先でひねりつぶしてしまう天上の軍人ですが、いまはあくまでも優しい表情を浮かべ、目を閉じ、交差した腕を胸に当てて祈りのポーズを取っています。本品の守護天使は幼子の幸福を祈る両親の愛、この世の何よりも強い両親の愛を象徴し形象化したものであって、この彫刻家ならではの静謐な画面は、オーギュスト・ロダンの評を思い起こさせます。本品は実用性を考えて制作されたゆりかご用メダイでありながらも、信心具をはじめとするアール・ポピュレール(仏 art populaire 民衆芸術) にときおり見られるキッチュさ(俗悪さ)は無く、象徴性に富む優れた芸術作品に仕上がっています。




(上) レモン・ドラマール作 ブロンズ製メダイユ・ド・ベルソー 「主はその天使たちに命じて汝を守らせ給へり」 アール・デコ様式による芸術品水準の作例 直径 50.4 mm フランス 1920 - 30年代 当店の商品です。


 上の写真はフランスの高名な彫刻家レモン・ドラマール(Raymond Delamarre, 1890 - 1986)によるブロンズ製のゆりかご用メダイで、アール・デコそのもののような意匠が特徴です。この作品において、守護天使は母子のすぐそばで怠りなく周囲を見渡し、害を加える者が母子に近づくことがないように守っています。天使は神の命により母子を守っているのですが、大柄で力強い天使の姿は「母の愛」の形象化でもあります。天使は神の軍人であり、地上の如何なる軍隊よりも強い存在です。それと同様に、母が幼子に注ぐ愛は、地上の誰がどんなものに向ける愛よりも強いのです。天地を繋ぐかのように、メダイユの上下いっぱいに彫られた天使の立ち姿は、あたかも天から降(くだ)ったかのように利己心の無い母の愛を表します。胸の前に手を合わせた天使の姿は、母の祈りを表します。

 「神は汝を天使たちに委ね給うた」(羅 ANGELIS SUIS MANDAVIT DE TE.)との言葉は、年間を通して修道院で行われる聖務日課のうち、四旬節第一主日の朝課で唱えられるレスポンソリウム(応唱)の言葉で、四旬節の苦しい期間の初めにあたって、信仰によって天使の加護を知るキリスト者の言葉です。また同じ言葉は寝る前の祈りである終課においても一年を通じて日々唱えられ、夜の闇の中にあっても守護天使が守り給うことを思い起こさせる祈りの言葉となっています。この言葉はもともとは下に示す詩篇の聖句(新共同訳聖書で「詩篇」91篇11節から13節)に由来します。

     Angelis suis mandavit de te, ut custodiant te in omnibus viis tuis; in manibus portabunt te, ne unquam offendas ad lapidem pedem tuum. Super aspidem et basiliscum ambulabis, et conculcabis leonem et draconem.    主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。(新共同訳) 




(上) 細密グラヴュールによるダンテル・メカニーク 「わが守護天使よ。御身とともに、われ天に行かん」 ブアス=ルベル 図版番号 1044 フランス 1862年 当店の商品です。


 近世から十九世紀ころまでのフランスの修道院では、羊皮紙や犢皮紙(とくひし)にレース状の透かしを施し、キリストや聖母、聖人を水彩で描いたカニヴェ(仏 un canivet)という小聖画が制作されていました。十九世紀中頃になると、版画による聖画に、手作業によらない透かし細工を組み合わせたカニヴェ、ダンテル・メカニーク(仏 une dentelle méchanique)が制作されるようになります。ダンテル・メカニークというフランス語は機械編みレースを指す場合もありますが、信心具のダンテル・メカニークは機械的方法で透かし細工を施した版画のカニヴェを意味します。

 ダンテル・メカニークの主題は手作りのカニヴェと同様で、守護天使の姿もしばしば登場します。上の写真はパリの版元ブアス=ルベルが 1860年に制作したダンテル・メカニークで、裏面に 1862年の年号が書き込まれています。メダイの場合と同じく、ダンテル・メカニークの守護天使も常に子供とともに描かれます。




(上) 定型化された図像による守護天使の小聖画 多色刷り石版画 フランス 十九世紀後半から二十世紀初頭 いずれも当店の商品です。


 第二次世界大戦以前のフランスは現代に比べて世俗化が進まず、市民の日常にカトリック信仰が融け込んでいました。小聖画(宗教的主題の小さな絵)は、現在ではノエル(仏 Noël クリスマス)やパーク(仏 Pâques 復活祭)の時ぐらいしか目にしませんが、第二次世界大戦以前のフランスでは小聖画もまた市民生活とともにありました。

 上の写真はいずれもフランスの小聖画で、多色刷り石版画により守護天使と子供を描きます。この種の図像は定型化が進んでいますが、子供と天使の姿勢や表情、描かれている状況、絵の細密さはどれも少しずつ異なります。



註1 ad nostros profectūs congrua consideratione derivare 適切な考察によって、我々の成長へと誘導する ※ この derivare は、目的を表す不定法。

註2 ここでいう conversatio とは聖徒の交わりのこと、及び一般に人と人との交流のこと。

註3 グレゴリウスはこの文で、「人間は、救いを得るような聖徒であっても、天使に倣うべきである」と言っている。そこに戻ってゆく者たち(illuc revertentes)とは、天使たちのこと。天使は一時的に地上に遣わされるが、本来は天上の存在であるから、向きを変える(revertor, v. dep.)という動詞を使っている。完全に倣うと言わずに、或る程度倣う(aliquid imitentur)と言っているのは、天使と人間は自然本性が異なるゆえに、人間が天使とまったく同じように生きることはできないからである。

註4 文の後半 "in eorum sortem per conversationis similitudinem deputantur" を直訳すると、「交わりの類似性を通して、[彼らは]その運命へと定められる。」

註5 天使に倣うべき理由を、例を挙げて述べている。どのような集団に属する人間でも、善きものを独占しようとする。人間はこのように卑しいので、天使と親しく交わり、天使に倣って生きるべきである。


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