ピエール・セシル・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898



(上) レオン・ボナ (Léon Bonnat, 1833 - 1922) 「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ」 レオポール・フラマン (Léopold Flameng, 1831 - 1911) によるグラヴュール。画面サイズ 31 x 18 cm


 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ)は19世紀フランスを代表する画家の一人で、画架判大の絵のほかに、建物を飾る大きなサイズの作品も数多く手掛けています。


【ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの生涯】

 ピエール・セシル・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898) は、1824年12月14日、リヨンに生まれました。リヨンのコレージュ(中学校)からパリの名門高校リセ・アンリ=カトル(le lycée Henri-IV アンリ四世校)に進み、卒業後はアンリ・シェフェ (Henry Scheffer, 1798 - 1862)、ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand-Victor-Eugène Delacroix, 1798 - 1863)、トマ・クチュール (Thomas Couture, 1815 - 1879) の許で学びました。またピュヴィス・ド・シャヴァンヌはリセ卒業後に二度、イタリアを訪れており、多くの優れたフレスコ画を目にしたと考えられます。

 アングル (Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780 - 1867) の許で学びながらも、ドラクロワに影響されてロマン派風の作品を描くようになった夭折の画家、テオドール・シャセリオー (Théodore Chassériau, 1819 - 1856) は、フランス会計検査院 (la cour des comptes) の階段室に、1844年から 48年にかけて壁画の大作を製作しました。当時の会計検査院の建物は、1871年、パリ・コミューンの際に、旧市役所、テュイルリー宮とともに火を放たれて焼け落ちてしまいましたが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは焼失前の会計検査院でシャセリオーの壁画を見て、この作品からも大きな感銘を受けたと伝えられます。

 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの作品にはしばしば厳しい批評が下され、サロン展にも何度も落選しましたが、1861年、36歳のときにサロンに出品した「ラ・ゲール」("La Guerre" ou "BELLUM" 「戦争」)と「ラ・ペ」("La Paix" ou "CONCORDIA" 「平和」)は、いずれも絶賛されました。


(下) Puvis de Chavannes, "La Guerre" or "BELLUM" (reduced version), 1867, oil on canvas, 109.5 x 149.2 cm, Philadelphia Museum of Art



(下) Puvis de Chavannes, "La Paix" or "CONCORDIA" (reduced version), 1867, oil on canvas, 108.9 x 148.6 cm, Philadelphia Museum of Art




 「ラ・ゲール」と「ラ・ペ」は、1863年のサロン展に出品された「ル・トラヴァイユ」("Le Travail" 「労働」)及び「ル・ルポ」("Le Repos" 「休息」)とともに、人間の活動における四つの相を描いた連作を構成します。


(下) Puvis de Chavannes, "Le Travail", c. 1863, oil on canvas, 108.5 x 148 cm, Widener Collection, The National Gallery of Art, Washington D. C.



(下) Puvis de Chavannes, "Le Repos", c. 1863, oil on canvas, 108.5 x 148 cm, Widener Collection, The National Gallery of Art, Washington D. C.




 さらに 1863年には「アヴェ、ピカルディア・ヌートリークス」("Ave, Picardia Nutrix" ラテン語で「おお、恵み多きピカルディよ」)がサロン展に出品されました。以上五点の作品に、1880年の「ルードゥス・プロー・パトリアー」("Ludus pro Patria" ラテン語で「祖国のための闘い」)、1882年の「槍の練習をするピカルディーの若者」("le Jeune Picard s'exerçant à la lance" )を加えた七点は、北フランス、アミアン(Amiens ピカルディー地域圏ソンム県)にあるピカルディー美術館 (le Musée de Picardie) の階段室を飾っています。


 サロン展に関しては、1864年に「秋」("l'Automne")、1866年に「覚醒と夢想」("la Vigilance et la Fantaisie")及び「遊び」("le Jeu")を出品しています。1866年の二作品は、いずれもカマユー(camaïeu 単色画)です。

 1869年には「ギリシアの植民地マルセイユ」("Marseille, colonie grecque")及び「オリエントの門マルセイユ」("Marseille, porte de l'Orient")が出展されました。このふたつはいずれもマルセイユのロンシャン宮のために描かれた作品で、大多数の批評家は冷淡な態度を崩しませんでしたが、テオフィル・ゴーチエ (Théophile Gautier, 1811 - 1872) とポール・ド・サン=ヴィクトル (Paul de Saint-Victor, 1827 - 1881) はピュヴィス・ド・シャヴァンヌを高く評価しました。


(下) Puvis de Chavannes, "Marseille colonie grecque", 1869, éscalier du Palais Longchamp, Marseille




 1870年には「砂漠におけるマグダラのマリア」("la Madeleine au désert")、及び「洗礼者聖ヨハネの斬首」("Décollation de Saint-Jean-Baptiste")を出品します。この二点はいずれも画架判大(通常のイーゼルに載るサイズ)で、大作ばかりを描いてきたピュヴィス・ド・シャヴァンヌとしてはたいへん珍しい作例といえます。


(下) Puvis de Chavannes, "The Beheading of Saint John the Baptist", 1869, The National Gallery, London




 1872年には「希望」("l'Espérance")、1873年には「夏」("l'Eté")、1875年には「シャルル・マルテル」("Charles-Martel" 「カール・マルテル」)、及び「サント=クロワ修道院における聖ラドゴンド」("Sainte Radegonde au couvent de Sainte-Croix")を発表します。1875年の二点はポワチエ市役所のための作品です。


(下) Puvis de Chavannes, "l'Espérance", 1872, oil on canvas, 102.5 x 129.5 cm, Walters Art Museum, Baltimore




 1876年には、サント=ジュヌヴィエーヴ教会、後のパンテオンを飾ることになる最初の二作品の素描を発表します。後述するように、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは二期に分けてパンテオンの装飾を手掛けますが、1876年に発表したのは、少女時代の聖ジュヌヴィエーヴを描いた作品二点、すなわち「少女聖ジュヌヴィエーヴ」("Sainte Geneviève enfant")、及び「聖ジュヌヴィエーヴの両親に対し、娘の崇高な運命を予言する聖ジェルマン」("Saint Germain prédisant aux parents de sainte Geneviève les hautes destinées de leur enfant")です。


(下) Puvis de Chavannes, "l'Enfance de sainte Geneviève", 1874 - 1878, huile sur toile, Panthéon, Paris




 この頃以降、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの画風は、形象を単純化する傾向を強めます。1879年には「放蕩息子」("l'Enfant prodigue")、及び「海辺の若い女性たち」("les Jeunes Filles au bord de la mer")を発表します。

 「海辺の若い女性たち」は単純化された画面構成、抑えた色調と奥行き、絵具を厚く塗り重ねず艶を消した描画法に特徴があり、一見古典風の詩情を漂わせながらも、最も目を引く女性がこちらに背を向けているという斬新な作品です。この作品はマティスやピカソをはじめ、多くの画家に影響を与えています。


(下) Puvis de Chavannes, "les Jeunes Filles au bord de la mer", 1879, huile sur toile, 61 x 47 cm, Musée d'Orsay




 1880年に上述の「ルードゥス・プロー・パトリアー」("Ludus pro Patria" ラテン語で「祖国のための闘い」)を発表した後、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは1881年のサロン展に、最も有名な作品のひとつ、「貧しい漁夫」("Pauvre pêcheur")を出品します。

 この作品では、貧しい漁夫がひとり、岸に繋がれた小舟の上に立っています。網は海中に下りていますが、漁夫の寂しげな表情からは、漁の成果が上がらなかったことがうかがえます。

 寂莫とした海とは対照的に、海岸にはこの世ならぬ花畑があって、漁夫の妻らしき女性が無心に花を摘んでいます。漁夫の妻の服装も、楽しげな様子も、漁夫とは大きく異なっています。岸辺には幼い子供も眠っていますが、この子供は裸で、活き活きとした様子もありません。漁夫の妻と漁夫は、顔を向ける方向も、服装も、仕草も、まったく異なっています。漁夫の妻ひとりが来世の楽園に遊ぶかのようです。


(下) Puvis de Chavannes, "Le pauvre pêcheur", 1880, huile sur toile, 192.5 x 155.5 cm, Musée d'Orsay




 「貧しい漁夫」は一見したところ互いに関連性の乏しい主題を寄せ集めたように見えます。また遠近法を無視して描かれており、色数を抑えた画面も陰鬱で単調に感じられ、絵具を厚く塗り重ねない描法も重厚さに欠けると看做されて、1881年のサロン展では多くの批評家に酷評されました。作家ジョリ=カルル・ユイスマンス (Joris-Karl Huysmans, 1848 - 1907) は「貧しい漁夫」を古ぼけた稚拙なフレスコ画に比し、さらに祈祷書の挿絵のようだとまで言っています。これに対してポール・ゴーギャン (Paul Gauguin, 1848 - 1903)、ジョルジュ・スーラ (Georges-Pierre Seurat, 1859 - 1891)、モーリス・ドニ (Maurice Denis, 1870 - 1943)、パブロ・ピカソ (Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973) らは、「貧しい漁夫」の静謐な画面、無駄を削ぎ落とした表現を非常に高く評価しています。

 「貧しい漁夫」は1887年に国家によって買い上げられ、ルーヴル美術館を経て、現在はオルセー美術館に収蔵されています。


 なお上野の国立西洋美術館には、松方コレクションに由来する縦長の作品が収蔵されています。こちらの作品では、舟の中、漁夫の後方に幼児が眠っていますが、幼児を包む布は暗い色に描きなおされています。また海岸の花も鮮やかな色を失った上に数も減っています。国立西洋美術館の作品には女性が描かれておらず、漁夫は妻を喪った悲しみと貧しさに打ちひしがれた孤独な寡夫の雰囲気を強く漂わせています。


(下) Puvis de Chavannes, "Le pauvre pêcheur", c. 1880, huile sur toile, 105.8 x 68.6 cm, Le musée national de l'art occidental, Tokyo




 1882年には「美しき国」("Doux pays")、及び上述の「槍の練習をするピカルディーの若者」("le Jeune Picard s'exerçant à la lance" )、1883年に「夢」("le Rêve")、及び「M・C嬢の肖像」("le portrait de Mlle M. C.")、1884年に「芸術と三美神の貴く聖なる森」("le Bois sacré cher aux Arts et aux Muses")を発表します。この作品と1886年の「ローヌ河とソーヌ河」("le Rhône et la Saône")、「古代の幻影」("Vision antique")、「キリスト教的霊感」("Inspiration chrétienne")は、いずれもリヨン美術館に飾られています。1885年のサロン展には「秋」("l'Automne")、1887年のサロン展には「アルマ・パレーンス」("l'Alma parens" 「慈母」)のための素描を出展しています。「アルマ・パレーンス」はパリ大学の円形講義室を飾っています。


(下) Puvis de Chavannes, "le Rêve", 1883, huile sur toile, 102 x 82 cm, Musée d'Orsay




 ところで、1889年までのフランス画壇は、サロン展を主催する「フランス芸術家協会」(Société des Artistes Français) が一極的に支配していましたが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、メソニエ (Jean-Louis-Ernest Meissonier, 1815 - 1891)、ロダン (François-Auguste-René Rodin, 1840 - 1917) の三名が「フランス芸術家協会」と袂を分かち、1890年、「国民美術家協会」(la Société nationale des beaux-arts, SNBA) を結成しました。

 「国民美術家協会」の会長にはメソニエが、副会長にはピュヴィス・ド・シャヴァンヌが就任しましたが、メソニエは翌年に亡くなり、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが跡を継ぎました。


(下) 向かって左から右に、ロダン、メソニエ、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ




 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは「国民美術家協会」のサロンにおいて、1890年に「インテル・アルテース・エト・ナートゥーラム」("Inter artes et naturarn" 「自然と芸術のあいだ」)、1891年に「陶器と陶芸」("la Poterie et la Céramique")を発表します。この二点はルーアン美術館のために描いた作品です。同じく1891年には「夏」("l'Eté")、1892年には「冬」("l'Hiver")を、再建されたパリ市役所のために描いています。1883年には「ヴィクトル・ユゴーに捧ぐ」("l'Hommage à Victor Hugo")の素描を発表しますが、この作品は1884年に完成し、市長室への階段の天井部分に取り付けられました。


(下) Puvis de Chavannes, "l'Eté", 1891, huile sur toile, 232.4 x 149.6 cm, Cleveland Museum of Art




 1895年に出展した「世に光を伝える使者たる天才を称賛する三美神」("les Muses inspiratrices acclamant le Génie messager de lumière")は、マサチューセッツのボストン公共図書館のために描いた作品で、図書館の仕事は1896年に完成しました。「国民美術家協会」の1896年のサロンには、これまでの全作品の素描三百点と、連作「芸術と学術」("les Arts et les Sciences")の五点を含む油彩八点が展示されました。1897年と1898年には、パンテオンのために描く「パリに食糧をもたらす聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève ravitaillant Paris")、及び「眠れるパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi")の素描が、それぞれ出展されました。これが生前最後の出展となりました。


【ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとマリ・カンタキュゼーヌ】

 1856年、当時32歳であったピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、四歳年上の魅力的な女性マリ・カンタキュゼーヌ (Marie Cantacuzène, 1820 - 1898 *1) に出会い、パリの歓楽街ピガールに四十年に亙って居を定め、一緒に暮らすようになります。マリはピュヴィス・ド・シャヴァンヌに愛され、数々の作品のモデルになりました。「聖ヨハネの斬首」(1869年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)のサロメやポワチエ市役所壁画(1870 - 1875年)の聖ラドゴンド、パンテオン壁画(1874 - 78, 1893 - 98年)の聖ジュヌヴィエーヴも、マリがモデルを務めています。

 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは死の前年である1897年にマリ・カンタキュゼーヌと正式に結婚することになります。


(下) Puvis de Chavannes, "Portrait de Marie Cantacuzène", musée des Beaux-Arts de Lyon, 1883




(下) Puvis de Chavannes, "The Beheading of Saint John the Baptist", 1869, The National Gallery, London





【ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとパンテオン】

 パリ五区の「ラ・モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴ」(la montagne Sainte-Geneviève 「聖ジュヌヴィエーヴの丘」)に、「ル・パンテオン」(le Panthéon) と呼ばれる建物が建っています。

 この建物はパリの守護聖人聖ジュヌヴィエーヴ (St. Geneviève, c. 419/422 - 512) に捧げた聖堂として構想され、フランス革命前の1764年9月6日、当時の国王ルイ15世によって定礎が行われましたが、その後幾度も用途が変更されました。

 聖堂はフランス革命期の1791年にはほぼ完成していましたが、この年の4月4日、憲法制定国民議会 (l’Assemblée nationale) は、この建物を国家の偉人の霊廟とすることを宣言しました。

 しかるに第一帝政時代の1806年以降、建物は聖堂と偉人の霊廟を兼ねることになり、王政復古期と七月王政期にはカトリック聖堂としての性格を強めました。この時代、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856) がペディメントを製作しています。

 第二共和政時代、建物は「タンプル・ド・リュマニテ」(Temple de l'Humanité フランス語で「人類の殿堂」)であると宣言されましたが、第二帝政期には再びカトリック聖堂に戻りました。

 1871年、パリ・コミューンの際に、パンテオンは国家の偉人の霊廟となるべきことが宣言されました。ドーム頂上にある十字架の腕木が切り落とされて赤旗が掲げられ、聖堂は反乱軍の司令部と武器弾薬庫として使用されました。

 コミューンが鎮圧された後、聖堂は建築家ルイ=ヴォクトル・ルーヴェ (Louis-Victor Louvet, 1822 - 98) によって修復され、ドーム頂上には再び十字架が掲げられましたが、ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo, 1802 - 85) がここに埋葬された際、聖堂サント=ジュヌヴィエーヴの用途はまたもや変更され、霊廟パンテオンになりました。


 これと前後して、1874年、フランス史をテーマにした一連の油彩画を、聖堂の窓を塞いだ柱間部に貼り付けて、聖堂内部の装飾とすることが決定され、聖ジュヌヴィエーヴ、聖ドニ、聖王ルイジャンヌ=ダルク、クローヴィス、シャルルマーニュ等を題材にした作品群の制作が始まりました。


(下) 古い絵葉書に見るパンテオン。切手の図柄はルイ・オスカル・ロティ (Louis Oscar Roty, 1846 - 1911) の「ラ・スムーズ」(la Semeuse 種播く女)です。




 第三共和政政府は、優れた歴史画で有名なメソニエにパンテオンの壁の一部を割り当てて、壁画の制作を依頼しましたが、メソニエはこの仕事を果たさずに亡くなりました。そこで第三共和政政府は、メソニエが描くはずであった部分の壁画制作を、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌに改めて依頼します。

 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌはこれよりも先、1874年から76年にかけて、少女時代の聖ジュヌヴィエーヴの壁画をパンテオンに制作していましたので、続きを描く機会が与えられたことに喜んで、政府の依頼に応じ、1893年から98年にかけて、柱間四つ分に新たな作品を制作しました。


(下) Puvis de Chavannes, "Ste. Geneviève ravitaillant Paris", "Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi", 1893 - 98, huile sur toile, Panthéon, Paris




 柱間四つ分のうち、三つ分は一続きで、クローヴィスの父であるサリ族の王シルデリク1世が464年にパリを攻囲し、市中に食糧が無くなったとき、決死の覚悟で船を仕立てて市外から食糧を運び込んだパリの守護聖女ジュヌヴィエーヴを描きます。「パリに食糧をもたらす聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève ravitaillant Paris") には、画家自身による次の言葉が添えられています。

Ardente dans sa foi et sa charité, Geneviève, que les plus grands périls n'ont pu détourner de sa tâche, ravitaille Paris assiégé et menacé de la famine.

信仰と愛に燃えるジュヌヴィエーヴは、如何に大きな危険に遭っても使命を貫いて、包囲され飢餓に瀕するパリに食糧を運ぶ。



 もうひとつの柱間部には、「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi") を描きます。この作品には、画家自身による次の言葉が添えられています。

Geneviève, soutenue par sa pieuse sollicitude, veille sur Paris endormi.

ジュヌヴィエーヴは、子を想う信仰深き母の愛情を以って、眠れるパリを見守っている。



 "soutenue par sa pieuse sollicitude" を直訳すると「敬虔な配慮に支えられて」となりますが、"sollicitude"(配慮、世話)というフランス語は、母が幼い子供を心配してあれこれと世話を焼くような場合に使われる言葉であり、守護されるべきパリを常に気に懸ける守護聖女ジュヌヴィエーヴの、母のように強い愛情と優しさを感じさせます。


 パンテオンの作品はピュヴィス・ド・シャヴァンヌの画業を集大成した最晩年の作品であり、画家自身、友人宛ての手紙の中で次のように書いています。


 Je vais choyer le Panthéon quand j'en aurai fini avec l'Hôtel de Ville Je veux en faire mon testament.

 市役所(訳注 パリ市役所のこと)の仕事が終わったら、パンテオンにじっくりと取り組むつもりだ。パンテオンを、私の最後の作品にしたいと思っている。



 とりわけ最後の作品となった「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」は、類い稀な傑作として広く知られています。聖ジュヌヴィエーヴのモデルを務めたピュヴィス・ド・シャヴァンヌの妻マリ・カンタキュゼーヌは、画家がこの作品を制作している途中の1898年8月に亡くなりましたが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは妻の死の直後、同年9月10日に、次のように書いています。

 J'ai un peu repris mon travail, et je rêve au jour où j'en aurai fini avec mon Panthéon. Il me semble qu'après je n'aurai plus qu'à me coucher. C'est une sensation qui me poursuit. Rien n'est plus naturel et plus logique: ayant beaucoup travaillé, j'ai bien droit au repos sans en déterminer d'avance la durée.

 少しずつ仕事に戻っている。パンテオンの作品が完成する日のことを夢に見ている。その後は横になるだけだろう。そういう気がしてならないのだ。これはまったく当然で論理的だ。これまでたくさん働いたのだから、前もって期限を決めずに休息する権利があるはずだ。



 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは最後の力を振り絞って「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」の制作を進めました。1898年9月22日には次のように書いています。

 Heureusement mon travail n'en est que très peu atteint, tout marche régulièrement. Je ne laisserai pas de traînards; c'est ce qui me soutient.

 幸いなことに、仕事の遅れはほとんど取り戻せている。すべて順調に進んでいる。落後するのは我慢がならない。その気持ちが私の支えだ。



 「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」を完成させたピュヴィス・ド・シャヴァンヌには、もはや力が残っていませんでした。ヌイイのアトリエから退いたピュヴィス・ド・シャヴァンヌはそのまま床に就き、1898年10月24日、すなわち妻の死の2カ月後、閑静なヴィリエ通りのアパルトマンで、妻の後を追うように亡くなりました。遺体はヌイイに埋葬されました。

 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが完成させた最後の二点は、1899年の初頭、パンテオンの壁面に取り付けられました。



【ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが及ぼした影響】

 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌには大勢の弟子がおり、また直接的な弟子ではない同時代の芸術家たちにも大きな影響を及ぼしました。いずれも象徴主義的傾向の強い画家であるオディロン・ルドン (Odilon Redon, 1840 - 1916)、アレクサンドル・セオン (Alexandre Séon, 1855 - 1917)、エミール=ルネ・メナール (Emile-René Menard, 1862 - 1930)、アルフォンス・オスベール (Alphonse Osbert, 1857 - 1939) は、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌから強い影響を受けています。


(下) Odilon Redon, "Pégase", 1900, 31.5 x 25.3 cm, Hirschorn Museum, Washington D. C.



(下) Alexandre Séon, "La Lamentation d'Orphée", c. 1896, huile sur bois, 116 x 73 cm, Musée d'Orsay, Paris



(下) Emile-René Menard, "Crépuscule sur le Canal", 1894, huile sur toile, 44.5 x 36 cm



(下) Alphonse Osbert, "La Muse au lever du soleil", 1918, huile sur bois, 46 x 38 cm





 ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin, 1848 - 1903)、ジョルジュ・スーラ (Georges-Pierre Seurat, 1859 - 1891)、モーリス・ドニ (Maurice Denis, 1870 - 1943)、さらにポール・セリュイジエ (Paul Sérusier, 1864 - 1927) をはじめとするナビ派の画家たちによる作品にも、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの影響が認められます。


(下) Paul Sérusier"Les Laveuses à la Laïta", 1892, huile sur toile, 73 × 92 cm, Musée d'Orsay, Paris






*1 マリはモルダヴィア公国宮廷出身の公女で、テオドール・シャセリオーのアトリエに出入りしていました。モルダヴィア公国は黒海の北西沿岸にあった国で、現在のモルドヴァ、ウクライナ、ルーマニアにまたがります。



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