グアダルペ修道院史 I. プリオラト・セクラルの時代 1320 - 1389年

【カスティジャ王によるグアダルペ修道院の優遇政策】

 サンタ・マリア・デ・グアダルペ(ビルヘン・デ・グアダルペ、グアダルペの聖母)


 サンタ・マリア・デ・グアダルペ修道院の最初期については、1467年から1534年までこの修道院に暮らした修道士ディエゴ・デ・エシハ(Diego de Ecija)が記録を残しています。1953年に校訂されたディエゴの記録によると、修道院が位置している場所には、もともと隠修士の小屋があり、発見された聖母の像はこの小屋に安置されました。その後、相次ぐ献金や遺贈によって 1320年に最初の修道院が建てられ、ペドロ・ガルシア神父(Pedro Garcia, + 1330)が院長になりました。ディエゴの記録によると、増加する一方の巡礼者に穀物を提供するため、1329年の時点において、グアダルペ修道院の家畜である二十四頭の去勢牛が、グアダルペに隣接するアリア(Alía)の麦畑を耕していました。カスティジャ王アルフォンソ十一世(Alfonso XI de Castilla, "El Justiciero", 1311 - 1331 - 1350)はグアダルペ修道院に対して牧草地と耕地の所有権を下賜しましたが、修道院では巡礼に訪れる人々からの喜捨、及び修道士たちが方々を回って集めた喜捨により、牧草地と耕地を下賜される以前の段階で、既に収入を大きく伸ばしていました。

 やはりディエゴ・デ・エシハの記録によると、隠修士の小屋の跡に建てられたグアダルペ修道院の聖堂は、建物の一部が破損していたうえに手狭でもありました。国王アルフォンソ十一世は 1330年頃に初めてグアダルペを訪れましたが、その際グアダルペ教会に経済上のさまざまな特権を与えるとともに、聖堂の増築と、聖堂に付属する巡礼者用宿泊施設の建設を命じました。聖堂の建設作業はトルビオ・フェルナンデス・デ・メナ師(Toribio Fernández de Mena, + 1367)の下で行われ、1336年頃、トレドのムデハル様式による大きな聖堂が建ちました。このときのグアダルペ修道院長はサビナ司教であり枢機卿でもあったペドロ・ゴメス・バロソ師(Pedro Gómez Barroso, c. 1270 - 1348)で、トルビオ・フェルナンデス師はその代理人の地位にありました。

 グアダルペ修道院はアリア教区に属しており、この教区はトレド司教の管轄でした。またグアダルペ修道院はタラベラ(Talavera カスティジャ=ラ・マンチャ自治州トレド県)の領主の所領でした。しかしながら国王アルフォンソ十一世は、1337年12月3日、イジェスカス(Illescas カスティジャ=ラ・マンチャ自治州トレド県)において、タラベラの領主フェルナン・ペレス・デ・モンロイ(Fernán Pérez de Monroy, Señor de Monroy, 1251 - 1351)に勅令を発し、グアダルペ修道院に対するタラベラ領主の領主権を解消するように命じました。

 1340年10月20日、アルフォンソ十一世は「サラドの戦い」(註1)においてイスラム軍に圧勝しました。国王はこの勝利を感謝してグアダルペの聖母に参詣し、イスラム軍から得た戦利品を捧げました。またグアダルペの村は従来王領でしたが、アルフォンソ十一世は1348年に村の領主権をグアダルペ修道院長に譲りました。グアダルペではこの勅令を以て村の起源としています。このようにして聖地グアダルペの本格的発展は 1340年代から始まりました。聖堂は巡礼者用施設と接続する部分がこの時代に改築され、いっそう立派になりました。ただし聖堂自体の大きさは 1336年当時及び現在とかわりません。

 この時期にグアダルペ修道院長であったのは、前述のトルビオ・フェルナンデス・デ・メナ師でした。トルビオ・フェルナンデス師は 1341年から終生修道院長に在任し、1367年に没して、グアダルペ修道院に埋葬されました。トルビオ・フェルナンデス師の跡を襲ったのはディエゴ・フェルナンデス師(Diego Fernández)です。ディエゴ・フェルナンデス師の時代、グアダルペ修道院はカスティジャ国王エンリケ二世(Enrique II de Castilla, 1333 - 1366 - 1379)及びフアン一世(Juan I de Castilla, 1358 - 1379 - 1390)からより大きな特権を与えられました。ディエゴ・フェルナンデス師の次にはフアン・セラノ師(Juan Serrano, + 1402)が六年間修道院長を務めました。

 ベネディクト会、カルメル会、ドミニコ会、フランシスコ会等の修道会は、聖ベネディクト戒律、聖アウグスチノ会則等、各修道会のレグラ(西 regla 戒律、会則)に従うことを誓った修道士の集まりです。修道生活におけるこのようなあり方を「レグラル」(西 reglar)といいます。これに対して「第三会」のように修道誓願を立てない場合もあり、このような修道生活のあり方を「セクラル」(西 secular)といいます。1348年から 1389年までのグアダルペ修道院は、特定の修道会に属さない「プリオラト・セクラル」(priorato secular)でした。しかしながら1389年、フアン・セラノ師がセゴビア司教に任命されると、国王フアン一世はグアダルペ修道院を聖ヘロニモ会(La Orden de San Jerónimo, Ordo Sancti Hieronymi, O.S.H.)に譲りました。


【グアダルペにおける修道院経営】

 1330年代以降、カスティジャ国王はグアダルペ修道院に数々の特権を下賜しました。こうして大きくなった修道院長の権力を巡り、グアダルペ修道院はプラセンシア(Plasencia エストレマドゥラ自治州カセレス県)やタラベラ(Talavera)の教会当局とたびたび対立しました。

 この時期、グアダルペの聖母に対する信心はカスティジャ王国全域で盛んになりました。グアダルペの聖母に対して国王の勅令に基づく多くの奉献が為され、グアダルペに向かう巡礼者は途切れることがありませんでした。1377年から 1399年までトレド大司教を務めたペドロ・テノリオ師(Pedro Tenorio, c.1328 - 1399)の命により、1383年、タホ河に「エル・プエンテ・デル・アルソビスポ」(el Puente del Arzobispo 「大司教橋」の意)が架けられて、巡礼の利便が向上しました。「エル・プエンテ・デル・アルソビスポ」が架けられたのはタラベラの近郊で、この場所にはペドロ・テノリオ師によって橋と同名の町エル・プエンテ・デル・アルソビスポ(Villafranca del Puente del Arzobispo カスティジャ=ラ・マンチャ自治州トレド県)が開かれ、今日に至ります。

 スペインの巡礼路はサンティアゴ・デ・ラ・コンポステラへの道が最もよく知られていますが、これに次いで重要な巡礼路にスペイン西部を南北に縦断する「ラ・ルタ・デ・ラ・プラタ」(la Ruta de la Plata 註2)があります。「ラ・ルタ・デ・ラ・プラタ」の南端はアウグスタ・エーメリタ(Colonia Iulia Augusta Emerita 現メリダ 註3)で、ここから北上してノルバ・カエサリーナ(Norba Caesarina 現カセレス Cáceres 註4)を通り、さらにヘルマンティカ(Helmantica 現サラマンカ 註5)を経て、アストゥリカ・アウグスタ(Asturica Augusta 現アストルガ 註6)に至ります。「ラ・ルタ・デ・ラ・プラタ」はアストルガでサンティアゴ・デ・ラ・コンポステラへの巡礼路と合流します。

 グアダルペはトレドとメリダを結ぶ道に近いうえに、「ラ・ルタ・デ・ラ・プラタ」からも比較的近い場所にあります。それゆえグアダルペが繁栄すれば、エストレマドゥラとカスティジャの交通の安定に繋がります。カスティジャ国王アルフォンソ十一世がグアダルペ修道院を優遇した背景には、地政学に基づくこのような配慮があったと考えられます。

 当時の都市参事会は修道院による土地購入を警戒していました。土地の購入をいったん許すと、修道院は名義人を使って次々と土地を買い占め、所領を拡大する傾向があったからです。ある地域に存在する可耕地の総面積は限られていますから、修道院の所領が拡大すると、都市の教会や都市在住の地主に対して納められる地代が減ってしまい、都市の衰退につながります。このような理由で、タラベラとトルヒジョの市参事会はタホ川とグアディアナ川の間にグアダルペ修道院の勢力が及ぶことを嫌いました。実際この地域には、修道院の所有地がほとんど存在しませんでした。しかしながら 1350年にアルフォンソ十一世から王国を継いだペドロ一世(Pedro I de Castilla, 1334 - 1350 - 1366 - 1369)は、1363年、グアダルペ修道院が六万マラベディ(註7)の対価でタラベラ及びトルヒジョ(Trujillo エストレマドゥラ州カセレス県)に地所を買うことを許可しました。国王の許可によって購入された地所は、後世に受け継がれるグアダルペ修道院の資産となりました。ペドロ一世は、グアダルペ修道院による土地購入を許可したのと同じ年(1363年)に、教会の牧群に対し、モンタスゴ(montazgo 山の通行料)を免除しています。

 アルフォンソ十一世の庶子であり、ペドロ一世の異母兄に当たるエンリケは、1366年から 1369年の第一次カスティジャ継承戦争(la Primera Guerra Civil Castellana)でペドロ一世と王位を争って勝利を納め、1369年、カスティジャ国王エンリケ二世(Enrique II, 1333 - 1369 - 1379)として即位しました。この戦争中、エンリケは各地の聖職者や修道院から支持を取り付けるためにさまざまな優遇策を講じましたが、勝利の前年に当たる 1368年、グアダルペ修道院に対しても、年に一度の祝祭を二十日間に亙って催すこと、及び毎週火曜日に市を開くことを許可しています。

 エンリケ二世の王子であり、1379年に王位を継いだフアン一世(Juan I de Castilla, 1358 - 1379 - 1390)は、ポルトガルの王位を狙ってたびたびポルトガルに侵攻しました。それゆえフアン一世時代のカスティジャは、財政が常に苦しい状態でした。フアン一世は 1380年、グアダルペ修道院から献金を受けた返礼として、トルヒジョ(Trujillo エストレマドゥーラ州カセレス県)における公証業務の独占権及び通行料の徴収権を、グアダルペ修道院に与えています。

 タラベラの市当局はグアダルペ修道院の勢力拡張を阻止しようと試みて、1338年、修道院の土地の教会に設置された標石を破壊する挙に出ます。上述したように、アルフォンソ十一世はグアダルペ修道院に対して牧草地その他の特権を与えましたが、タラベラ市はこれらの特権に対しても異議を唱えるようになります。さらにはプラセンシアの司教までもが武装兵を率いてグアダルペ修道院を訪れ、院長の解任を要求したうえ、グアダルペ修道院の金庫を破壊して、五百マラベディの賦課金を無理やり奪います。これに対して当時の国王ペドロ一世はプラセンシア司教に書簡を送ってグアダルペの問題に干渉しないように警告し、プラセンシアの参事会と修道会長に対してと同様に、プラセンシア司教に対しても、グアダルペ修道院から賦課金を要求するのを禁じなければなりませんでした。いっぽうグアダルペ修道院は、プラセンシアやタラベラの教会当局及び市参事会からの度重なる圧力と攻撃を受け、修道院所有地を防衛するために多額の費用をつぎ込んで、今日見られる塔や防御壁を建設しました。

 1340年から1389年までの五十年間に、グアダルペ修道院は四十六か所の地所、二軒の家屋、三つの水車を所有しています。牧草地は十七か所で、半分以上がトルヒジョの領域にありました。グアダルペ修道院の修道士と下働きの人々、及び巡礼に訪れる人々を養うには大量の穀物が必要であったので、耕作地が新たに買い入れられました。もともとその場所に住んでいた人々には、代替地が用意されました。

 グアダルペ修道院の所有地は寄進によっても増加しましたが、カスティジャ=レオン王国内の他の諸修道院に比べると、その比率は大きくありませんでした。1389年以前で最も大きいのは、バルデパラシオス(Valdepalacios カスティジャ=ラ・マンチャ州トレド県)の領主ルイ・ゴンサレス・キハダ(Ruy González Quijada)とその妻フアナ・サンチェス(Juana Sánchez)が寄進した耕地と牧草地です。

 1389年、グアダルペ修道院は聖ヘロニモ会に帰属するようになりますが、この年以降にグアダルペ修道院が受けた寄進は、牧草地十七か所、葡萄畑二十三か所、数か所のティエラ・デ・パン・ジェバル(tierras de pan llevar 豆や野菜など主要作物の畑)、農場五か所とそれらの農場にいる去勢牛百二十三頭の他、牛七百七十三頭、羊千二百三十頭にのぼります。グアダルペ修道院では日々必要な経費の他、塔や防御壁の建設、いくつかの水源を結ぶ水道網の敷設、新聖堂の建設、地所の購入等に多額の費用が必要でした。これらの経費を農場経営のみで賄うことはできないので、グアダルペ修道院にとって寄進は大切な収入源となりました。寄進と購入によって拡大した農地を、グアダルペ修道院は四百年以上に亙って自ら経営することになります。修道院が地代と引き換えに所有地を貸し始めるのは、十九世紀に入ってからのことです。



註1 「サラドの戦い」は1340年10月30日に行われた戦闘で、レコンキスタの最終段階における最も重要な出来事に数えられます。この戦闘において、カスティジャとポルトガルの連合軍はモロッコを本拠とするイスラム国家マリーン朝(Sultanato Benimerín)に大勝し、マリーン朝がイベリア半島に侵入するのを阻止しました。

註2 「ラ・ルタ・デ・ラ・プラタ」の「プラタ」は銀とは無関係で、アラビア語「アル・バラト」(al-Balat 舗道)に由来すると考えられています。アル・アンダルス時代(al-Ándalus 711 - 1492年)と呼ばれる数百年の間、現スペインの一部はイスラム勢力に支配されていました。それゆえスペインにはアラビア語の地名が多く、「アル・バラト」に由来する「アルバラト」(Albalat)、「アルバラテ」(Albalate)という地名も方々に残っています。

註3 メリダ(Mérida エストレマドゥラ自治州バダホス県)はエストレマドゥラの州都です。メリダから真北に六十キロメートル進むとカセレスです。

註4 カセレス(Cáceres)はエストレマドゥラ自治州カセレス県の県都です。サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院はカセレスの東九十キロメートルにあります。カセレスから北北東に百八十キロメートル進むとサラマンカに着きます。

註5 サラマンカ(Salamanca)はカスティジャ・イ・レオン県サラマンカ県の県都です。サラマンカから北北西に百四十キロメートル進むとアストルガに着きます。

註6 アストルガ(Astorga)はカスティジャ・イ・レオン県の古都です。

註7 マラベディ(maravedí)は古い貨幣単位です。




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