モンテ・ガルガノ 大天使聖ミカエルのバシリカ
Il Santuario di San Michele Arcangelo sul Gargano, Monte Sant'Angelo





 492年、南イタリア、シポント近郊の山モンテ・ガルガノで不思議な出来事が起こり、シポント司教聖ラウレンティウス・マイオラーヌス (San Lorenzo Maiorano, + c. 545) に大天使聖ミカエルのお告げがあって、モンテ・ガルガノに聖堂が造られました。モンテ・ガルガノの聖堂は「大天使聖ミカエルのバシリカ」として中世以来重要な巡礼地であり続けています。


【古い町シポントと、新しい町マンフレドニア】

 ナポリからイタリア半島を横断したちょうど反対側、アドリア海に面するマンフレドニア(Manfredonia プッリャ州フォッジャ県)の町から3キロメートルほど南下したところに、シポント (Siponto) の遺跡があります。シポントはローマ時代以来の古い都市です。古代には司教座が置かれていましたが、その後衰退し、688年にベネヴェント (Benevento) 司教区に編入されました。しかし1034年にはふたたび司教座が、1066年には大司教座が置かれて繁栄しました。

(下) La Basilica Minore di Santa Maria Maggiore di Siponto




 しかしながら1223年、この地域に大きな地震が起こり、シポントは壊滅してしまいます。ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の弟であるシチリア王マンフレディ (Manfredi, 1232 - 1258 - 1266 註1) は、シポントに替わる町として、シポントの北3キロメートルの場所に、1256年から7年の歳月をかけて新しい町マンフレドニアを建設しました。


【シポレト司教聖ラウレンティウス・マイオラーヌスへのお告げ】

 伝承によると、シポントの司教であり、現在ではマンフレドニアの守護聖人とされる聖ラウレンティウス・マイオラーヌス (San Lorenzo Maiorano, + c. 545) は、シポントからほど近いガルガノ山(Monte Gargano 現在のサンタンジェロ山 Monte Sant'Angelo)において、所有する家畜を放牧させていました。

 492年5月8日、牧童たちが目を離した隙に一頭の雄牛がいなくなりました(註2)。牧童たちが探したところ、険しい崖を登りきったところに洞窟の入り口があり、牛はそこで丈夫な蔦に角を絡めているのが見つかりました。

 牛は蔦が角から外れずにいら立っており、危険で近づくことができなかったので、牧童たちはやむを得ず牛を目がけて矢を放ちましたが、矢は何と途中で向きを変えて、射手の方へと飛んで来るではありませんか。これを見た牧童たちは怖れを為して、すぐにその場から逃げ出しました。

 この出来事はすぐにシポントに伝わり、司教は市民に三日間の断食と祈りを命じました。三日後、大天使ミカエルが司教に現れて、ガルガノ山の洞窟はミカエルの保護のもとにあること、神と天使たちの名のもとに洞窟を聖別するよう神が望んでおられることを明かしました。この啓示を受けた司教が聖職者たち、市民たちとともにガルガノ山の洞窟に行ってみると、洞窟内部は聖堂にふさわしい構造となっていました。

 その後この場所には複雑な地下構造を有する聖所、モンテ・ガルガノのバシリカ (Il Santuario di San Michele Arcangelo sul Gargano) が建てられて、大勢の巡礼者を集めています。


【ニムロドの矢 ― 射手に向けて返ってくる矢の説話】

 上に引用したモンテ・ガルガノの説話で、射手が牛に向かって放った矢は空中で向きを変え、射手の方に戻ってきました。発射された矢が神威によって向きを変える説話は世界に広く分布し、神話学では「ニムロド(註3)の矢」という類型名が付けられています。

 インドに分布する「ニムロドの矢」としては、「賢愚経」巻一に、阿闍世王が恒伽達(ごうがだつ)を射殺しようと試みる話が見られます。恒伽達は阿闍世(あじゃせ)王の宰相が恒河天神に祈って得た子で、王妃と侍女たちが脱いだ衣を盗もうとして見つかり、王の前に引き立てられました。阿闍世はこれを射ようとしますが、三度試みても矢は反転して王自身に向かい、恒伽達を射ることができません。これに恐れを抱いた王は、神通力の由来を恒伽達に尋ねました。

 「法句譬喩経」巻四には、優填王が第一王妃を射殺しようと試みる話が見られます。第一王妃は敬虔な仏教徒でしたが、第二王妃に讒訴されて王の怒りを買いました。優填はこれを射ようとしますが、何度試みても矢は反転して王自身に向かい、妃を射ることができません。仏の力を目の当たりにした王は恐れを抱き、自ら妃の縛めを解きました。

 記紀によると、国譲りの際、天穂日命(あめのほひ)に次いで出雲に派遣された天若日子(あめのわかひこ)は、大穴牟遅神(おおなむち)の娘を得て当地に留まりました。天若日子に任務を思い出させるため、高天原からは雉の鳴女(きじのなきめ)が遣わされましたが、天若日子は雉を射殺し、雉を射た矢は高天原に達しました。高御産巣日神(たかみむすび)は矢を投げ返し、天若日子は邪心ゆえにその矢に貫かれて死にました。



註1 シチリアは本来ローマ教皇の封土でしたが、当時は神聖ローマ帝国の実効支配下にありました。神聖ローマ帝国はその「イタリア政策」ゆえに、皇帝フリードリヒ1世 (Friedrich Barbarossa, 1123 - 1152 - 1190) の治世であった1157年以来、教皇と対立関係にありました。1250年に皇帝フリードリヒ2世 (Friedrich II, 1194 - 1220 - 1250) が没すると、後を襲った次男コンラート(コンラート4世 Konrad IV, 1228 - 1254)は庶兄マンフレディと協力してシチリア王国を確保しました。しかし歴代の教皇はシチリアを決してあきらめませんでした。

 教皇ウルバヌス4世 (Urbanus IV, c. 1195 - 1261 - 1264) はフランス国王ルイ9世 (Louis IX de France, 1214 - 1226 - 1270) を唆(そそのか)して、シチリアに出兵させようとします。このときシチリア王コンラート(神聖ローマ皇帝コンラート4世)はすでに没していましたが、ドイツには息子コンラディン (Konradin, 1252 - 1268) がいました。コンラディンは父の帝位を継ぎませんでしたが、シチリア王位の正当な後継者でした。

 ルイ9世は1248年以来十字軍に携わっており、東方への前線基地を確保したいと考えていましたから、シチリアを手に入れられればこんなに都合のよいことはありません。しかしながら義人、聖者の名声が高かったルイ9世としては、正当な王位継承者である少年コンラディンがいるシチリアを横取りするわけにはゆきません。シチリアが欲しければ、何らかの方法でコンラディンを亡き者とするしかありません。

 そこでルイ9世はこの汚れ仕事を弟シャルル・ダンジュー (Charles d'Anjou, 1227 - 1285) に任せます。シャルルはプロヴァンス伯の四女ベアトリス (Beatrice de Provence, 1234 - 1267) を妻に迎えていましたが、このプロヴァンスはアルル・ブルグンド王国の一伯領であり、アルル・ブルグンド王は神聖ローマ皇帝の臣下でした。要するにシャルルはフランス王の弟でありながら、神聖ローマ皇帝の宋主権下にあったのです。これはシャルルが聖人と慕われる兄王の名声を傷つけることなく、その意思を汲んで汚れ仕事を遂行できる立場にあったことを意味します。

 1263年、教皇ウルバヌス4世の命を受けたシャルル・ダンジューは、翌年マルセイユからイタリアに入り、1266年にマンフレディ、1268年にコンラディンを破ります。シャルルは16歳のコンラディンを捕縛し、ナポリに連行して斬首しました。

 コンラディンはホーエンシュタウフェン朝を支持するギベリン党の諸都市によって、正当なシチリア王と認められていました。封建法は捕虜となった君主の処刑を禁じていましたから、これは非常に問題のある暴挙というべき措置でした。コンラディンの処刑によってホーエンシュタウフェン朝は断絶し、ルイ9世は東方への足がかりを確保しました。


註2 動物に導かれて山中に聖地を見出す説話は、洋の東西を問わず広く分布します。ヨーロッパの事例としては、スペイン中部グアダルペにおいて、いなくなった牛を探す牧童が聖母マリアの聖地を見出しています。わが国の霊山の開山伝承においても、伯耆大山では金色の狼、立山では熊、高野山では二頭の黒犬、英彦山では白鹿と鷹、羽黒山では三本足の烏が、それぞれ重要な役割を果たしています。


註3 ニムロドはノアの孫クシュの子で、「創世記」十章に登場します。新共同訳により該当箇所を引用します。

  クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。(「創世記」十章七節から十二節 新共同訳)


 旧約聖書に書かれたニムロド伝はこれだけですが、聖書とは別のカナンの神話には、ニムロドが天に向けて放った矢が神によって投げ返され、これによってニムロドが胸を射られる物語が見られます。



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