グアダルペ修道院史 聖ヘロニモ会修道院の時代  el monasterio jeronimiano de Guadalupe

 II - 5. 閉鎖と追放 1786 - 1835年  capítulo II, artículo 5: 1786 - 1835



(上) サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院 鐘楼と聖グレゴリオ塔に挟まれた一角 修復前の状態 二十世紀初頭に撮影された写真


 「アンティグオ・レヒメン」(el Antiguo Régimen 旧体制、アンシアン・レジーム)末期のスペインは国力が衰退し、経済も弱体化しました。スペイン国内の各修道院も大きな打撃を受け、その影響は長く続きました。グアダルペのように豊かな資産を持つ修道院も被害を免れることはできず、1780年代後半以降、慢性的な赤字に悩まされ始めました。赤字の主な原因としては、移動牧群からの利益が減ったこと、穀物価格が上昇したこと、十分の一税の徴収権をはじめ特権の大部分を失ったことが挙げられます。

 グアダルペ修道院の衰退を分析するためには、収入額と支出額を精査するのみならず、スペインにおける修道会の地位、特にヘロニモ会の政治的地位がますます低下したことに注目する必要があります。1808年から1814年にかけて、スペインではナポレオン軍を駆逐する独立戦争(西 la Guerra de la Independencia)が戦われました。スペインはこれに勝利してフランス軍を国外に追い出しましたが、スペインの社会構造及び経済はこの戦争によって完全に崩壊しました。グアダルペ修道院をはじめとする諸々の修道会は、スペイン独立戦争の勃発(1808年)からグアダルペ修道院の閉鎖(1835年)に至る時代に大きな困難に直面しましたが、修道会が有する社会的地位の急速な低下こそが困難を惹き起こした第一の原因でした。


 グアダルペの村は十四世紀半ばまで王領でしたが、1348年、カスティジャ国王アルフォンソ十一世は村の領主権をグアダルペ修道院長に譲りました。グアダルペの村はこのときからグアダルペ修道院長の領主権に服するようになりました。

 1348年にグアダルペ修道院長が領主権を得てから最初の三百年間、グアダルペの村人たちは修道院長への服属を嫌い、村独自の議会を設立することを目標に、修道院長の特権にたびたび抵抗し、騒擾や紛争に至りました。1348年から四百六十三年後の 1811年8月6日、カディス議会はスペインにおける領主裁判権の全廃を宣言しましたが(註1)、この宣言を生み出したのは当時の自由主義的傾向でした。カディス議会による領主裁判権全廃の宣言は、1812年のカディス憲法(la Constitución de Cádiz 註2)に継承されます。

 ヘロニモ会修道院の時代、グアダルペ村の人口は常に千人未満でしたが、うち六百五十人は修道院で様々な仕事に雇われており、グアダルペ修道院は多数の雇い人の給与と諸経費に多くの金銭を必要としました。ヘロニモ会時代の修道院財政はおおむね良好な水準を維持していましたが、十七世紀末には決定的な衰退期が始まりました。これはカスティジャ国内における農業の成長モデルが力を失ったこと、ならびに羊毛の輸出が減り、不規則になったことが原因です。

 さらにスペイン独立戦争中、グアダルペ修道院の牧群と農場は非常に大規模な破壊と盗掠に遭い、修道院の衰退はそのせいで著しく速まりました。戦争が始まった時点で修道院の負債は既に大きく膨れ上がっており、戦争勃発後は外部から大規模な融資を受けられる可能性がほとんど有りませんでした。しかしながらその一方で、ヘロニモ会は農場や牧群の復興に必要な資金を得るために、大きな面積の地所を売却することを拒んでいました。そのうえヘロニモ会士たち自身も、いわゆる「トリエニオ・リベラル」(西 el Trienio Liberal 自由主義の三年間 註3)の時期にグアダルペ修道院の一時的閉鎖が起きて以来、修道院の存続可能性を疑い始めました。これらの事実は、1810年以降のグアダルペ修道院が経済活動の活力を失い、収入をただ消費するだけの集団に変質していたことを示します。修道院がこのような状態になったゆえに、ヘロニモ会は農場開発を再開することができず、修道院への資金流入も急速に落ち込んでゆきました。

 スペイン独立戦争後のグアダルペ修道院は、財政が悪化したにも関わらず、修道院本体を支えるのに十分な資金をいまだ有していました。スペイン社会が修道院に対して示す態度と政策は年を追って対立的になっていましたが、グアダルペ修道院が大規模な福祉活動と慈善を維持していれば、イメージの悪化を避けられた可能性もあります。しかしながらグアダルペ修道院は、これらの活動に掛かる経費をもはや負担できなくなっていました。フェルナンド七世没後の政治状況において、グアダルペ修道院が存続できる望みが実質的に失われると、ヘロニモ会は内側から崩壊し始めました。その原因は、一言で言えば、グアダルペのヘロニモ会が社会とのつながりを回復できなかったことにあります。

 グアダルペの修道院共同体が抑圧を受けたのは、スペイン全体の政治及び社会が変化した結果です。しかしながらグアダルペ修道院の閉鎖は、スペイン政府が全ての修道院の廃止を決めるよりも少し前に起こっています。すなわち1814年に復位したスペイン国王フェルナンド七世(Fernando VII, 1784 - 1833)は、王権神授説を信奉し、絶対君主であろうとしましたが、1833年9月29日に国王が亡くなると、王の幼い娘イサベル(Isabel II, 1830 - 1904)と王弟カルロス(Carlos María de Borbón y Borbón-Parma, 1738 - 1855)の間で、王位をめぐるカルリスタ戦争(西 las Guerras Carlistas)が起きました(註4)。内戦が勃発しておよそ半年後の 1834年4月18日、グアダルペ修道院内の僧房の扉に、カルリスタ側に味方する中傷的な宣伝文書が掲示され、修道院内に騒動と混乱が起こって、ヘロニモ会の評判は地に落ちました。このことがグアダルペ修道院の閉鎖に大いに関係すると考えられます。

 スペイン政府のエストレマドゥラ理事会は自由主義陣営に属する組織で、1835年に結成されました。結成直後の 1835年9月5日、理事会はエストレマドゥラにある全修道院の閉鎖を決定し、決定の十三日後である同年9月18日にグアダルペの修道士たちも追放されて、ヘロニモ会修道院としてのグアダルペ修道院は、四百五十五年十か月二十七日に亙る歴史を閉じました。修道院の扉を閉めたのはセノン・デ・ガルバジュエラ修道士(Fr. Cenón de Garbayuela)で、初代のフェルナンド・ジャネス師(Fr. Fernándo Yáñez)から数えて百代目の修道院長でした。

 グアダルペ修道院が他に類例のない修道院であることは強調に値します。特に十六世紀半ばまで、グアダルペ修道院の経済的、宗教的、社会的活動は、当修道院が「グアダルペの聖母」を安置する聖地であった事実に特徴づけられています。この事実ゆえにグアダルペ修道院は、エストレマドゥラの他の修道院とも、ヘロニモ会の他の修道院とも異なる独自の歴史を歩みました。

 四百五十五年に亙ってグアダルペに留まったヘロニモ会のおかげで、グアダルペ修道院は人気の巡礼地であり続け、文化、芸術を大いに発展させました。グアダルペ修道院の廻廊はムデハル様式及びゴシック様式で造られており、修道院建築としては最も小型の部類に属します。修道院には聖遺物を安置した礼拝堂、奥まったところにあって地下聖堂を伴うグアダルペの聖母礼拝堂 ― 別名「シエテ・アルタレス」(西 los Siete Altares 七祭壇)、有名な大聖具室、新聖堂をはじめとする多数の部屋に加え、修道院棟以外にも複数の施療院、複数のコレヒオ、ミラベル宮殿(el palacio de Mirabel)、隠修用の建物三棟があります。




(上) サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院 中央廻廊と施療院廻廊の間の廃墟 修復前の状態 二十世紀初頭に撮影された写真


 ヘロニモ会士たちが退去を完了した 1835年9月18日以来、旧グアダルペ修道院はトレド大司教区に属する教区教会となりました。数次に亙る永代所有財産解放令(las leyes desamortizadoras 註5), 手入れが為されなかったこと、財産が競売にかけられ、あるいは略奪されたことにより、その後の旧グアダルペ修道院はどんどんと荒廃してゆきました。修道院聖堂と付属部分のみは教区教会となったために没収を免れ、教区及び近隣の信徒たちの手で維持されていました。

 文献学者、詩人であり、カセレス県選出のコルテス議員も務めたビセンテ・バランテス(Vicente Barrantes Moreno, 1829 - 1898)は、旧グアダルペ修道院が有する歴史的重要性を高く評価し、1878年、本の出版や新聞広告の掲載、会議の開催を通して、遺構を修復するための運動を開始しました。翌 1879年3月1日、旧グアダルペ修道院は重要文化財「モヌメント・ナシオナル」(西 Monumento Nacional 国家記念物)に指定されました。

 ビセンテ・バランテス以外にも、多数の作家が同様の熱意を以て、「ディアリオ・デ・バダホス」(Diario de Badajoz バダホス日報)紙上で運動に参加しました。1906年にはエストレマドゥラの住民一万名がグアダルペ修道院に巡礼を行いました。1907年3月20日には教皇ピウス十世が、サンタ・マリア・デ・グアダルペ(Santa María de Guadalupe グアダルペの聖母)をエストレマドゥラの守護聖女と宣言しました(註6)。これら二つの出来事は、旧修道院の修復の実現に決定的影響を及ぼしました。サンタ・マリア・デ・グアダルペがエストレマドゥラの守護聖女と宣言されて間もなく、グアダルペはフランシスコ会修道院として復活しました。



註1 スペインで最初の立憲議会は 1810年9月24日、スペイン南端に近いサン・フェルナンド(San Fernando アンダルシア州カディス県)で開かれ、後に十数キロメートル南のカディス(Cádiz アンダルシア州カディス県)に場所を移したため、コルテス・デ・カディス(Cortes de Cádiz カディス議会)の名で知られています。この立憲議会では、1811年8月6日、旧体制(アンティグオ・レヒメン el Antiguo Régimen)下の領主権が無効であると宣言されました。1811年8月6日の宣言(el Decreto de 6 de agosto de 1811)を、以下に示します。


       el Decreto de 6 de agosto de 1811    
           
   1º    Desde ahora quedan incorporados á la Nación todos los señoríos jurisdiccionales de cualquiera clase y condición que sean.    
   2º    Se procederá al nombramiento de todas las justicias y demás funcionarios públicos por el mismo orden y según se verifica en los pueblos de realengo.    
   3º    Los Corregidores, Alcaldes mayores y demás empleados comprendidos en el artículo anterior, cesarán desde la publicación de este decreto, a excepción de los Ayuntamientos y Alcaldes ordinarios que permanecerán hasta fin del presente año.    
   4º    Quedan abolidos los dictados de vasallo y vasallage y sus prestaciones, así R[eale]s como personales, que deban su origen á título jurisdiccional, á excepción de las que procedan de contrato libre en uso del sagrado derecho de propiedad.    
   5º    Los señoríos territoriales y solariegos quedan desde ahora en la clase de los demás derechos de propiedad particular, sino son de aquellos que por su naturaleza deben incorporarse á la nación, ó de los en que no se hayan cumplido las condiciones con que se concedieron, lo que resultará de los títulos de adquisición.    
   6º    Por lo mismo, los contratos, pactos, ó combenios que se hayan hecho en razón de aprovechamientos, arriendos de terrenos, censos, u otros de esta especie, celebrados entre los llamados señores y vasallos, se deberán considerar, desde ahora como contratos de particular á particular.    
   7º    Quedan abolidos los privilegios llamados exclusivos, privativos y prohivitivos que tengan el mismo origen de señorío, como son los de la caza, pesca, hornos, molinos, aprovechamientos de aguas, montes y demás, quedando al libre uso de los Pueblos, con arreglo al derecho común, y a las reglas municipales establecidas en cada Pueblo; sin que por esto los dueños se entiendan privados del uso que como particulares puedan hacer de los hornos, molinos y demás fincas de este especie, ni de los aprovechamientos comunes de aguas, pastos y demás, á que en el mismo concepto puedan tener derecho en razón de vecindad.    


註2 カディス憲法(la Constitución de Cádiz)またはスペイン1812年憲法(la Constitución española de 1812)は、1812年3月19日、カディスに召集されたコルテス(議会)で発布されたために、この名称で呼ばれています。カディス憲法(1812年憲法)はスペインで最初の憲法であるとともに、当時の世界で最も進歩的な憲法の一つでした。

註3 カディス憲法は 1814年に復位した反動的なスペイン国王フェルナンド七世(Fernando VII, 1784 - 1833)によって廃止されました。しかしながら 1820年に革命が起こり、フェルナンド七世は捕らえられ、カディス憲法が復活しました。自由主義政府がスペインを統治し、カディス憲法が復活していた期間を「トリエニオ・リベラル」(西 el Trienio Liberal 自由主義の三年間)と呼んでいます。この革命はフランスの干渉によって 1823年に挫折し、復位したフェルナンド七世は極端な恐怖政治を敷きました。

註4 カルロスは追放先のポルトガルでスペイン国王への即位を宣言し、これを支持するカルリスタス(西 los Carlostas カルロスの支持者たち)がバスクで蜂起して、カルリスタ戦争(西 las Guerras Carlistas)が起こりました。この内戦は1833年から 1876年まで三次に亙って戦われましたが、幼いイサベルを支持する自由主義勢力が勝利を納めました。

註5 永代所有財産解放令(las leyes desamortizadoras)とは、教会や修道院の所有地を強制的に収用する法律のことです。スペインではアンティグオ・レヒメン(アンシアン・レジーム)期から十九世紀にかけて、永代所有財産解放令がたびたび発布されました。グアダルペ修道院閉鎖後のものとしては、1836年から1837年にメンディサバル(Juan de Dios Álvarez Mendizábal, 1790 - 1853)が行った財産没収、1841年及び1854年から1856年にマドス(Pascual Madoz Ibáñez, 1806 - 1870)が行った財産没収が挙げられます。

註6 サンタ・マリア・デ・グアダルペがエストレマドゥラの守護聖女と宣言されることを目指して、1906年に雑誌「グアダルペ」が発刊され、1915年まで継続して発行されました。また同じ目的のために、聖歌「アウグスタ・レイナ」(西 "Sugusta Reina" 「威厳ある女王よ」)が作曲されました。




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