グアダルペ修道院史 II. 聖ヘロニモ会修道院の時代  el monasterio jeronimiano de Guadalupe

 II - 3. 危機 1563 - 1707年  capítulo II, artículo 3: 1563 - 1707



(上) 1638年に新設された聖具室


 グアダルペ修道院の経済状態は 1530年以降悪化し始めましたが、修道院財産の増加傾向が減速したのは 1560年代に入ってからでした。この時期にはスペイン全体の経済状態が悪くなっており、グアダルペ修道院の財産もこの全体的傾向に連動して増えにくくなったのです。グアダルペ修道院史上初めて十二名の修道士が経費削減担当者に任命されました。修道院の輝かしい時代は終わりを告げようとしていました。

 最も大きく減少したのは修道士たちが巡回して集める喜捨と布施でした。硬貨による収入は約五十年間に四割減少し、十七世紀初頭には六千万マラベディとなりました。信徒から得られる収入が減ったために、かつてあれほど豊かであったグアダルペ修道院の経済も損失を計上するようになり、巡礼に訪れる人々に対して物心両面の適切な施しを無料で行うことができなくなりました。グアダルペ修道院の経済状態が悪化する引き金となったのは、喜捨の受け容れ中止を命ずる教皇ピウス四世(Pius IV, 1499 - 1559 - 1565)の教令ですが、スペイン国王フェリペ二世(Felipe II de España, 1527 - 1556 - 1598)は 1563年にこの施策をさらに強化しました。経済が弱体化したグアダルペ修道院は政治的影響力を失っていましたので、国王の政策をある程度弱めることはできつつも、金品の寄付を受け続けるためには、幾つもの厳しい基準に縛られることになりました。

 大勢の人々によるグアダルペの聖母への崇敬こそが、グアダルペ修道院が得る収入の基盤でした。グアダルペにおける聖母崇敬は、巡礼及び奇跡から切り離すことができません。十六世紀には巡礼が増加しましたが、巡礼者のイメージは悪くなりました。とりわけ1570年代以降、カスティジャにおける広汎な階層が貧窮し、社会を不安定にしました。巡礼者と貧者は多くの場合に同一視されました。このためカスティジャに住むほとんどの人は、巡礼者に対して同情よりも警戒心を抱きました。しかるに巡礼という中世的な信仰のあり方こそが、グアダルペの聖母への崇敬を構成する最も特徴的な要素のひとつでした。

 社会が巡礼者を警戒するという新しい状況のもと、修道院が信徒から金品を集めることを一切許すべきでないという風潮が生まれました。グアダルペの聖母がスペインの宗教的慣習において果たす役割が縮小し、またグアダルペ修道院が人々に与える印象が悪化するにつれて、修道院に寄せられる布施や少額の寄付は減ってゆきました。グアダルペ修道院の印象が悪化した理由として、スペイン社会における修道士の役割が減り、社会的地位が低下したこと、グアダルペ修道院から派遣されるデマンダドレス(西 demandadores 地方を巡って喜捨を集める担当者たち)の中に、暴虐を働く者があったこと、多額の資産を保有するグアダルペ修道院への反感が挙げられます。さらに宮廷におけるグアダルペ修道院の影響力が低下したこと、カスティジャ国民の広い階層において経済状態が悪化したこと、グアダルペの聖母の信仰が広まるにつれて、この聖母の聖地とされる場所がグアダルペ以外にも幾つもできたこと。これらの要因が重なって、グアダルペ修道院が集める布施や寄付はますます減ってゆきました。ラス・ビジュエルカス(las Villuercas カセレス県東南端、グアダルペが属する地方)における聖母崇敬の中心地として有していた人気を失ったこと、及びグアダルペ修道院の管理と運営を行うヘロニモ会の働きを、イベリア、とりわけカスティジャの社会が評価しなくなったことが、グアダルペ修道院の経済的衰退を決定的にしました。

 ヘロニモ会がグアダルペ修道院に搬入する穀物の量は、1550年から 1650年までの間に激減しました。その理由の第一は、ヘロニモ会士が行う農作業が急減したこと。第二は十分の一税を徴収する権利を修道院が失ったこと。第三は修道院が所有する耕地の地代や水車の賃料が入らなくなったこと。第四はトルヒジョ及びトルヒジョ近郊で契約されている農地からのテルシアス・レアレス(教区民から集める十分の一税のうち、九分の二)が減少したことによります。

 グアダルペ修道院で消費される畜産物の生産高も、急減しました。牛は 1527年に 2,791頭が飼育されていましたが、1598年には 186頭に激減しました。ここからの回復は緩やかで、十七世紀前半のうちに七百頭に達することはありませんでした。結果として、グアダルペ修道院における肉、乳、チーズ、労役の必要を満たすために飼われる家畜の数は、1650年頃になっても、前世紀中頃の半分にも届いていませんでした。この時代には家畜が喜捨として修道院に贈られることが無くなりました。またグアダルペ修道院がプラセンシア司教区内に有する牧地を他人の家畜が利用する場合、以前はその収益に対して十分の一税を得ることができましたが、上述した通り、この権利も失われました。

 グアダルペ修道院における葡萄の栽培量及び葡萄酒の生産量も明らかに減少していました。葡萄の平均生産量を年ごとに見ると、1559年と1560年は 1479.5カルガ(約 266トン 註1)でしたが、1585年から 1587年は 1116.3カルガ(約 200トン)、1654年から 1658年は 470.9カルガ(約 85トン)に減っています。オリーヴは緩やかに減少しました。オリーヴ油の平均生産量を年ごとに見ると、1559年と1560年は 2287.25アロバ(約 26.3トン 註2)、1585年から 1587年は 1472アロバ(約 17トン)、1654年から 1657年は 1160.95アロバ(約 13.3トン)となっています。

 要するに現金及び現物によるヘロニモ会の収入は、十六世紀後半から十七世紀前半にかけてほぼ同じように減少してゆきました。グアダルペ修道院創建当時の二世紀間、修道院長を務めた人たちは、少ない収入をどのように管理するかという問題に直面しました。十六世紀後半から十七世紀前半のグアダルペ修道院長も、収入が減少し続けるなか、同様の問題に直面せざるを得ませんでした。十六世紀半ばまでのグアダルペ修道院は、地代及び不動産収入によって大きな資力を有しており、消費にも投資にも潤沢な資金を充てることができました。しかるにいまは修道院の収入が急減しつつあり、農園の生産高も減り、自家消費用の家畜の頭数も激減し、十六世紀後半以降は牧原から得られる収入も減少傾向にありました。唯一の明るい材料として、移動牧群から得られる収入は十六世紀の最後の二十五年間に増加しましたが、修道院全体の経済活動が壊滅的状況となるなかで、これを補える金額ではありませんでした。修道院の財力は急速に弱体化してゆきました。

 このような状況にもヘロニモ会の動きは鈍く、赤字が恒常化する以前に対策を講じることができませんでした。数世紀に亙る慣行と決別すること、状況を改善するには根本的改革が必要であると認めることは、ヘロニモ会にとって容易でなかったのです。さらにグアダルペ修道院の財政的危機により、グアダルペの村との関係も不安定になっていました。村に対する補助金や福祉活動を賄う支出が、修道院の予算を大きく圧迫していたのです。1557年には経費削減計画が実施されましたが、削減目標には届きませんでした。それどころか実際のところ、修道院は運営経費を賄うために、未だ比較的少額であったにせよ、頻繁な融資に頼り始めていました。この時代は穀物の価格が上昇していましたが、ヘロニモ会は小麦を買うばかりで、売る側になることはありませんでした。

 グアダルペ修道院の経済状況が悪化し始めたとき、ヘロニモ会が多少の痛みを伴いつつも最初に行った対策は、修道院の運営に関する改革でした。改革をより良く進めるための要件としてヘロニモ会が考えたのは、状況を完全に把握すること、及び経済に関する決定のプロセスを一元化するとともに、あらゆる事柄を考慮して総合的な判断を下すことでした。この目的を達成するために、ヘロニモ会ではグアダルペ修道院全体の運営に対して経理担当者が有する権限を強化し、年ごとの収入とあらゆる支出をシステマティックかつ詳細に可視化するようになりました。こうして完成された「オハ・デ・ガナド」(西 Hoja de Ganado 牧群録)はスペインにおける簿記及び財政分析法の歴史において里程標ともいうべき業績ですが、グアダルペ修道院は十六世紀末以降、この記録のお蔭で、修道院が所有する各家畜群の総体的価値と収益性の変動を把握することができるようになりました。修道院が所有する家畜群の管理に優れた簿記が適用されたのは偶然ではなく、喜捨を集めて回ることができなくなったヘロニモ会が家畜利用に注力した結果でした。

 修道院の運営に関する改革は、グアダルペの共同体予算における支出超過を正すためだけに行われたのではありませんでした。この改革のおかげで、修道院が抱える経済上の諸問題を分析しやすくなり、財政緊縮策を導入する地ならしともなりました。

 経費を大幅に削減し、経済上の大改革を導入する以前に、ヘロニモ会ではアメリカ大陸から得られる利益を増やして、イベリア半島から得られる利益の喪失を補おうと考えていました。多数のインディオ(新大陸原住民)たちがグアダルペの聖母を崇敬していることは明らかでした。新大陸にはグアダルペの聖母に因む地名が多く、新大陸にある多数の教会と隠修士たちも、グアダルペの聖母崇敬を広めていました。インディオたちの信仰心を活用して、スペインが新大陸に有する植民地から布施や喜捨を効率的に集める仕組みを作ろうと考えたヘロニモ会は、多数の修道士を新大陸に派遣し(註3)、当地におけるグアダルペの聖母崇敬を強化するとともに、植民地から喜捨を集める仕組みの確立を目指しました。この目標を達成するために数多くの信心会が設立され、その運営はフランシスコ会修道院に委ねられるのが常でした。

 このような努力は実を結び、グアダルペ修道院は十八世紀のかなり後の年代まで相当な収入を得続けることができました。しかしながらグアダルペ修道院が所在するカスティジャとポルトガルの住民が喜捨をしないのに、新大陸の信徒たちにそれを補わせようとする計画には無理があり、この仕組みは結局破綻しました。非常に広大であり、大西洋を隔てて数千キロメートルのかなたにある新大陸でグアダルペの聖母の崇敬が盛んであっても、そこから得られた喜捨をエストレマドゥラにきちんと送金させられると考えたのは、理想主義的に過ぎました。

 グアダルペ修道院における年間消費量について、1611年から1620年の中央値を取ると、現金 1975万7276マラベディ、小麦 68万6368リットル(註4)、大麦 22万5385リットル(註5)、葡萄酒七十六トン弱(註6)、オリーヴ油十五トン強(註7)、塩漬け鱈(たら)などの魚四十トン弱(註8)、羊 2,352頭、らば 563頭、鶏 1,417羽、牛 84頭、山羊 989頭に上ります。これらの数字からは、前世紀に始まった経費節減の試みが、この頃にはもう行われなくなっていたことがわかります。しかしながらこれに続く1620年代に、ヘロニモ会は経済政策を大きく転換します。修道院財産の健全性を損ないかねない予算不足の悪化と恒常化を避けるため、経費を大幅に削減する必要があったのです。

 厳しい緊縮財政にもかかわらず、グアダルペ修道院の負債は 1630年から 1680年までの間に危機的なペースで増えてゆきました。1630年1月26日はクリストバル・デ・バディジョ修道士(Fr. Cristóbal de Vadillo)が修道院長に就任した日ですが、この日にグアダルペ修道院に課せられた地代の元金は 598万7000マラベディでした。しかるに1682年12月22日には、これが2992万マラベディに増えていました。1600年代後半には利率が下がりましたが、グアダルペ修道院が年間に支払う利子は百万マラベディに達しました。ヘロニモ会では利子の支払額を減らして財政上の負担を軽減するため、田舎にある大きな地所一箇所の売却を数度にわたって試みています。

 グアダルペ修道院がこれ以上の財政緊縮策を取ることは、さまざまな理由により、実質的に不可能でした。第一の理由は、修道院のように明らかに消費に偏った集団の場合、予算を削減し、あるいは臨時支出を廃止すれば、非常に大きな困難を惹き起こすことになるからです。重大な財政問題を抱えていた1638年に、グアダルペ修道院では大きな聖具室を新設しました。このことを見ても、グアダルペのヘロニモ会が経費をかけすぎる体質を有していたこと、政治上・宗教上の影響力を絶対に維持すべきであると考えていたことがわかります。新しい聖具室はスルバランの作品群で飾られており、グアダルペ修道院長が貴顕を迎えて、修道院の輝かしい過去を見せるための舞台装置でした。しかしながらこの時代、グアダルペ巡礼はかつてのような重要性を失っていました。またハプスブルク家出身のフェリペ二世は、1563年から 1584年まで二十年以上の歳月をかけて、マドリの西北西四十キロメートル余、エル・エスコリアル(El Escorial マドリ州マドリ県)に、サン・ロレンソ修道院(El Monasterio de San Lorenzo de El Escorial)を建設しました。グアダルペ修道院が聖具室を新設したときには、ハプスブルク家の関心はグアダルペを離れ、既にエル・エスコリアルに向いていました。

 第二の理由は、グアダルペとその周辺地域に住む大部分の人々の経済状態がますます悪化している時代に、グアダルペの修道院長たちは住民に対する福祉及び援助活動を維持し続けたことによります。この頃はおよそ六百人の困窮者がパンの施しを求めて毎日修道院に押しかけていました。しかるにこの頃、スペイン王室は国民の福祉を軽視しがちであったのです。十七世紀末において、修道院を訪れる人々への施しには年間二万五千レアレス(註9)、施療院には年間三万二千レアレス、コレヒヨには年間三万レアレスの費用がかかりました。グアダルペ修道院がこの時期に支出した金額の八分の一が、福祉及び援助活動に向けられていたことになります。またとりわけフェリペ四世時代に王室から求められた献上金のせいで、修道院における経費節減策の実施はさらに困難になりました。グアダルペ修道院が王室に納めた献上金は、1629年から 1640年までの十二年間で 374万マラベディに達しました。

 修道院への資金流入が止まると、ヘロニモ会が経費の支出を続けるためには、広大な領地の管理方法を大きく改革しなければなりませんでした。グアダルペ修道院では日々の経費を補って余りある収入がある時代が長く続き、とりわけ十五世紀、十六世紀は豊かな時代でした。豊かな時代の修道院長たちは、修道院が所有する農地と牧地を拡大するために、余った資金の大部分を使いました。そのうえ修道院では収入が減ってもアシエンダ(西 hacienda 荘園)を削減しませんでした。修道院の土地所有権は安泰であったので、その運営にはまだ十分な余裕があったのです。

 十七世紀半ば以来、ヘロニモ会の経済改革は強化されてこれまでにない規模となり、その影響は修道院が所有する広大な農地にも及びました。この改革には二つの目標がありました。目標のひとつは、牧地を移動する家畜を増やすことです。この方法で牧される畜群は実際に増加して、1640年以降には一頭当たりの収益が十分に高い水準に達しました。もうひとつの目標は穀物の栽培を再び盛んにすることでした。ヘロニモ会の穀物栽培は、十七世紀末から1720年代にかけて、この方面でも大きく前進しました。いずれの分野においても、1660年代の初めには、修道院がエル・リンコン(El Rincón 註10)、ラ・ベガ(La Vega 註11)、マドリガレホ(Madrigalejo 註12)、ラ・ブルギジャ(La Burguilla 註13)に所有する農園で、穀物栽培が回復し、あるいは盛んに行われるようになりました。自前の農園で穀物の収穫量が増えたため、修道院は穀物の購入量を減らし、浮いた資金を他の物品用に回すことができました。

 財政緊縮策と集約的な土地利用は良い結果をもたらしました。グアダルペ修道院への入金は、1652年から1660年の平均値と、1689年・1690年の平均値を比較すると、48.58パーセント増加しました。修道院で自家消費される農産物の生産高も、十七世紀後半に大きく増加しました。牧地を移動する家畜が大きな収益を挙げたおかげで、1687年から 1695年の間、グアダルペ修道院は自身に課せられた人頭税の大部分を支払いました。

 グアダルペ修道院の経済危機は十六世紀に始まりましたが、十七世紀末になって危機の一部がようやく解消しました。1550年以前に集められていた喜捨によるのと同規模の経済力を回復することはなく、また神聖ローマ帝国がスペインを支配し始める以前に有していたのと同等の政治的、宗教的重要性を回復することもありませんでした。しかしながらグアダルペ修道院は広大な地所を維持し、新しい状況のもとでいっそう発展すべく、遅ればせながらも経済上必要な改革を導入しました。十七世紀末のグアダルペ修道院は負債をかなりの程度減少させており、まもなく好景気の時代が始まれば、その恩恵に与れる状態となっていました。



註1 カルガ(carga)は重量の単位です。カスティジャにおける一カルガは、およそ180キログラムに相当しました。

註2 アロバ(arroba)は重量の単位です。カスティジャにおける一アロバは 11.5キログラムに相当します。

註3 次の修道士の名前と派遣された年の記録が残っています。

     1587年頃    ディエゴ・デ・ロサル修道士(Fr. Diego de Losar)
     1599年    ディエゴ・デ・オカニャ修道士(Fr. Diego de Ocaña)と、マルティン・デ・ポサダ修道士(Fr. Martín de Posada)
     1612年    ペドロ・デル・プエルト修道士(Fr. Pedro del Puerto)

註4 12,367ファネガス。ファネガ(fanega)は穀物を量る単位、あるいは一ファネガの穀物を蒔ける地籍を表します。穀物量一ファネガは、カスティジャにおいて 55.5リットルです。

註5 4,061ファネガス。

註6 6,587アロバス=7万5750キログラム カスティジャにおける一アロバは 11.5キログラムです。

註7 1,314アロバス=1万5111キログラム

註8 3,464アロバス=3万9836キログラム

註9 年間の穀物消費量三万六千リットル余(650ファネガス)、羊肉消費量二トン余(4500リブラス)

註10 エル・リンコン(El Rincón)は、カセレス県アラゴン・デル・リオ(Alagón del Río)に属する地区です。

註11 ラ・ベガ(La Vega)は、マドリ県の地名です。

註12 マドリガレホ(Madrigalejo)は、カセレス県の村です。

註13 ラ・ブルギジャ(La Burguilla)は、カセレス県ビジャル・デル・ペドロソ(Villar del Pedroso)の地名です。





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