グアダルペ修道院史 II. 聖ヘロニモ会修道院の時代  el monasterio jeronimiano de Guadalupe

 II - 2. 全盛期 1389 - 1562年  capítulo II, artículo 2: 1389 - 1562



(上) サンタ・マリア・デ・グアダルペ王立修道院 中庭


 グアダルペ修道院における修道士たちの生活は、日中の大部分と夜間の一部が典礼の時間、残りが労働の時間でした。労働の内容は多岐に亙りました。修道院が運営する農場はグアダルペ及び近在に大きく広がっていましたし、グアダルペ村の統治に関する事柄もありました。病者と巡礼者の世話も必要でしたし、写本の作成や刺繍等の手仕事もありました。

 聖ヘロニモ会はグアダルペの修道院を村ともども発展させることを目指し、さまざまな改革を行いました。

 1389年以前のグアダルペ修道院はグアダルペの村に大きな自治権を与えていましたので、初代修道院長フェルナンド・ジャネス師が村に対して管轄権を行使すると、村からの抵抗に遭いました。しかしながら聖ヘロニモ会は、グアダルペ修道院を譲り受けるに当たり、この修道院にもともと帰属していた諸々の特権を引き継ぎましたから、村人に小作料を納めさせ、村の公職に就く人物の選定にも関わりました。

 グアダルペ修道院は妥協的な態度を採らず、村に対する管轄権を強硬に行使しましたが、これにはふたつの理由がありました。ひとつめの理由は、修道院が村人の労働力に大きく依存していたからです。村人たちは修道院の作業場や工事現場、農場で仕事をしており、その仕事量をすべてこなすには、修道院が有する特権を最大限に行使する必要がありました。もう一つの理由は、巡礼者を増やす必要があったからです。グアダルペ修道院を引き継いだ聖ヘロニモ会にとって、巡礼をいっそう盛んにすることは第一の関心事でした。巡礼を盛んにしたいのであれば、巡礼の目的地であるグアダルペの地に争いがあってはなりません。それゆえ修道院は、村の境界付近にある土地や建物を買い取ることによって、修道院に対する村の結びつきを強めました。

 グアダルペ修道院の経済及び社会的地位を高めるには、何よりもまず、聖地としての魅力を強めることが必要でした。聖ヘロニモ会の修道士たちがこのことをよく理解していたゆえに、グアダルペ修道院は最初の百五十年間で急速に豊かになりました。フェルナンド・ジャネス師は聖ヘロニモ会を創立する以前、世俗の宮廷に仕えた経験があり、聖地グアダルペが自身の修道会にとって大きな経済的意味を有することを理解していました。

 聖ヘロニモ会は初期に急速な発展を見ました。聖ヘロニモ会が 1389年にグアダルペ修道院を引き継いだとき、修道士の数は三十二名でした。それが 1424年の時点で百名を超え、1435年には百二十名、1467年頃に百五十名となっています。1495年の修道士数は百四十名です。十九世紀初頭のスペイン独立戦争(ナポレオンのフランス軍をイベリア半島から追い出した戦い)時代まで、グアダルペ修道院の修道士の数は百十名と百五十名の間を増減しました。

 聖ヘロニモ会による継承後、グアダルペ修道院に在籍する修道士の数が急速に増えたのは、十四世紀末から十五世紀前半にかけてグアダルペで行われた大規模な建設工事のために、人手が必要であったからです。修道士たちは資材の運搬もすれば、石工や左官としても働きましたし、その他にもさまざまな職人仕事や雑用をこなしました。

 修道士の人数が増えるにつれて、ヘロニモ会士の出身階層は著しく多様化してゆきました。ヘロニモ会士のうち、貴族出身者の割合が減る一方で、「コンベルソス」(conversos 改宗者)あるいは「クリスティアノス・ヌエボス」(cristianos nuevos 新キリスト教徒)、すなわちレコンキスタ以後に、ユダヤ教やイスラム教からキリスト教に改宗した人々の子孫が、大きな割合を占めるようになっていったのです。1450年から 1485年の時期には、後者が多数派を占めるようになっています。カトリック両王(los Reyes Católicos 註1)が異端審問を始める前、ヘロニモ会はコンベルソスも平等に受け容れており、社会的地位の高いコンベルソス家庭の出身者が多く入会していました。しかしながら異端審問が始まった直後の 1496年にはコンベルソスの入会が禁止されました。

 初期のヘロニモ会修道院では多様な職業的技能が必要でした。この状況が有利に働いて、広範囲に亙る階層や職業から入会希望者が増え、修道院には多彩な人材が集まりました。一般にこの時代の修道院では事務から手工業、芸術に至る多様な職業的技能が必要とされており、なかでもグアダルペ修道院はきわめて大きな勢力を有していたので、修道士たちはイベリア半島全域から集まりました。1462年頃にグアダルペ修道院で働いていた修道士は、門番二名、オスピタル(西 hospital 救貧院)係一名、調理師二名、かまど係一名、聖具室係一名、銀細工師一名、蝋燭職人一名、衣服係一名、ワイン蔵係一名、理髪師一名、羊皮紙職人一名、製本職人一名、画家一名、看護師七名、鍛冶職人一名、靴職人一名、織工一名、皮革職人一名、金庫係二名、らばの世話係一名、食肉係一名、果実係一名、営繕係一名を擁していました。

 初期のヘロニモ会では、多くの修道士が聖務に携わる一方で、少なからずの平修道士(註2)及び雇い人が農業分野や手工業分野の仕事に任じられていました。少なくとも十五世紀の中頃までは、多くの平修道士が生産的な作業に従事していました。しかるに十五世紀後半になると平修道士の数が減り始めます。その理由として三つの要因が挙げられます。まず第一に、1484年から 1485年にかけて宗教裁判所がグアダルペの村に介入したことをきっかけに、コンベルソ出身者が多かった平修道士を聖務に携わる修道士から遠ざけようとしたこと。第二に、修道院が村人を雇って労働させる仕組みが定着し、自ら農作業や手仕事を行う平修道士を抱える必要性が薄れたこと。第三に、修道士の本来的責務に関する考え方が変わったこと。「純粋血統法」(註3)に基づく施策のひとつとして、1496年、教皇アレクサンデル六世(Alexander VI, 1431 - 1492 - 1503)により、コンベルソスに対して聖ヘロニモ会への入会が禁じられると、平修道士の数は急減しました。

 グアダルペの修道士における出身階層及び出身地は、まず最初に、上述の「純粋血統法」によって変化しました。しかしながら 1496年以降に起こった変化は、グアダルペ修道院がイベリア全域から修道士を惹き付ける力を失って地域化したことによります。

 グアダルペ修道院の人的資源の豊かさは、この修道院が十四世紀末から十五世紀にかけて驚くべき発展を成し遂げた一因でした。経済活動や外交、手仕事、芸術など様々な分野に才能を発揮する人材が、新しい修道院の活力をいっそう強めたのです。しかしながら十五世紀末以降になると、修道院内で多くの地位を占めていたコンベルソスや遠方出身の修道士たちが去り、それらの地位の大部分は、エストレマドゥラ及び近隣地域の小領主や裕福な市民の家系出身者が占めるようになりました。この状況は修道士たちの職業的能力及び文化的水準が低下をもたらし、ひいては修道院が衰退する遠因となります。

 1389年にグアダルペ修道院を引き継いだヘロニモ会は観想修道会でしたので、修道院には各修道士の房が不可欠でした。また修道士の人数が増えたため、すべての聖務日課に参加するためにはアルフォンス十一世時代に建てられた聖堂を改装し、内陣を広げる必要がありました。さらに物を作る作業場及び事務室も、修道院敷地内に建設する必要がありました。これらの建設作業は迅速に進められ、聖堂の改装は早くも 1402年頃に完了しました。建設作業には修道士たちも参加しましたが、巨額の費用を要しました。

 グアダルペ修道院における建設作業は、この後 1525年頃まで途切れることなく続きました。初代修道院長フェルナンド・ジャネス師の没年(1412年)までに行われた事業としては、ホスピタル(救貧院)が増築されたほか、廻廊の御堂、ウミジャデロの聖母(Nuestra Señora de la Cruz del Humilladero 註4)の御堂、バルデフエンテスの十字架(Santa Cruz de Valdefuentes 註5)の礼拝堂が建設され、食肉処理場やラバ小屋をはじめとする幾つかの作業小屋及び仕事場も造られました。1412年以降にはグアダルペホ川(el río Guadalupejo)に一箇所の池及び数か所の水車場を造った他、救貧院をさらに増築し、水道機構の修繕と改良、穀倉の建設、会議室、図書室、管理員室、金庫室、国王用宿泊室、新しい薬局、及びゴシック廻廊の造営が行われています。

 グアダルペ修道院がこの時代に現金あるいは現物で支払った費用について、どの年も正確な記録が残っていませんが、修道士たちと雇い人たちを養うためにかなりの費用がかかったことは想像に難くありません。1462年頃の例では、食材の購入と葡萄酒作りにかかる費用として四十万五千百五マラベディスが、被服と他の布及び靴にかかる費用として十六万六千二百マラベディスが支出されています。小麦の年間消費量は六千ファネガスで、、このうち二千ファネガスが外部からの購入分でした。カスティジャでは一ファネガは五十五・五リットルですから、六千ファネガスは三百三十三キロリットル、二千ファネガスは百十一キロリットルに相当します。食肉として毎年消費される動物は、雄羊千五百頭、牝羊七百三十頭、子羊七百五十頭、雄牛及び去勢牛七十頭、牝牛百四十頭、子牛三十頭、かもしか八十頭、山羊五百頭、子山羊八百二十頭、豚二百頭、その他の動物八百頭となっています。修道士及び修道院の雇い人に必要な食物と被服はこれほどまでに大量であったので、修道院の農場及び作業場で作られる物のうちかなりの部分が自家消費に回り、足りない分の購入にも多額の費用を要しました。

 ヘロニモ会は、いま一つの重要施策として、救貧・救護事業の組織化及びさらなる充実と多様化を図りました。グアダルペ修道院の救貧・救護事業はプリオラト・セクラルであったときから盛んでしたが、この傾向はヘロニモ会が引き継いで以降も変わりませんでした。グアダルペ修道院の救貧・救護事業は、修道院の人気と地位をさらに高めました。グアダルペ修道院の運営によって得られた利益は、修道院を訪れる巡礼者たち及びグアダルペ村の貧者たちのために主に使われました。

 巡礼者の数を増やすには、裕福でない人々の水準に合わせて宿泊所と食事を提供しなければなりません。ヘロニモ会ではグアダルペ修道院を訪れる巡礼者に対し、三日間の宿と食事、靴一足、入浴所、帰りの旅に必要なパンと葡萄酒を無料で提供しました。そのためオスピタル(救貧院)は幾度にも亙って増築されています。グアダルペ修道院にはいくつかの迎賓施設も建てられており、国王や貴族をはじめとする貴顕の人々、他の修道院の修道士が滞在することもありました。賓客の宿泊手配を担当するポルテロ(門番)は高い地位にあり、それらの迎賓施設を管理していました。九月の祝祭時期には修道院内の宿泊施設が不足するので、周辺の民家二十軒が借り上げられました。

 グアダルペ修道院は複数のオスピタル(救貧院)を運営していましたが、それらは単なる滞在施設ではなく、医療や外科手術も行われていました。グアダルペにおいてオスピタルの活動が最も盛んであったのは十五世紀後半です。修道院は他の雇い人とは比べ物にならない高額の報酬を支払って、有能な医師を雇っていました。医師に対する1462年頃の報酬は年間一万五千マラベディスで、正貨(硬貨)で支払われました。年間報酬一万五千マラベディスは、司祭の十倍、外科医の五倍、村長の二倍に相当します。カルロス一世の侍医であったディエゴ・デ・サバジョス医師(Diego de Zavallos, c. 1490 - 1556)も、サラマンカ大学教授であり、カルロスニ世の侍医であったマテオ・デ・ラ・パラ医師(Mateo Jareño de la Parra, + 1699)も、グアダルペ修道院のオスピタルで働いた経験がありました。

 グアダルペ修道院を訪れる巡礼者の中には、医療と聖母の執り成しの力により、病気から癒されるためにやって来る人々もありました。医療による癒しと宗教による癒しは相容れないものと考えられず、医師や外科医はいわば聖母の助手と見做されました。それゆえグアダルペ修道院が提供する高度な医療は、「グアダルペの聖母」の執り成しによる奇跡的治癒が実現するうえでも大きな役割を果たしたといえます。

 グアダルペ修道院では多額の資金を投じて、地元グアダルペの貧者たちに援助を行っていました。援助の対象を地元の貧者とした理由の第一は、隣人から愛の業を始めるべきであるからです。第二の理由は、グアダルペ修道院の地元に住む人々が不幸であれば、グアダルペ修道院が聖地であるといえなくなってしまうからです。1462年頃の記録によると、修道院長は二万四千マラベディス、ポルテロ(門番)は六千マラベディスを、貧者への施しに費やしています。しかしながら施し物は現物支給を基本としました。グアダルペ修道院は最も困窮した村民八名に対してパンと肉を、独身男性五十名に対してパンを毎日供給し、女性三十名に対して一週間当たり百二十個のパンを供給しました。ポルテロの下で働く少年たちは毎日二かご分(百六十個)のパンを巡礼者に配りました。

 パンと肉に加えて、グアダルペ修道院は最も困窮した地元民に対し、一年間に八頭の豚、六頭の子羊、二頭の雄羊、二頭の牝羊、数足の靴、一定量のオリーヴ油、はちみつ、イワシの干物、果物、菓子を与えていました。貧しい村人は修道院の調剤室から無料で薬をもらいました。当時のポルテロは無料で与えられる薬があまりにも多いと不満を述べています。

 飢饉等の危機的状況が発生した際、グアダルペ修道院は村人への援助を増やしました。修道院の援助はグアダルペ以外の村や町に及ぶこともありました。1417年から翌年にかけて食糧難が起こり、小麦一ファネガ(カスティジャでは五十五・五リットル)の価格が百五十マラベディスに達したとき、グアダルペ修道院はポルテロが配る食糧を増やしただけでなく、困窮する人々のもとに食物を送り届けました。

 グアダルペ村の人口は 1485年まで急激に増え続けました。1407年には三百一名でしたが、1446年には五百名、1485年にはおよそ千名になっています。グアダルペ村で収穫される穀物の量は修道院の消費分に足りませんでした。とりわけ不作の年には小麦の絶対量が少ないうえに、村人たちは修道院に小麦を差し出すことに強く抵抗したので、パンの補給は非常に困難でした。そこでグアダルペ修道院では、1462年になって、穀物倉庫を建てました。この穀倉は普段からの備蓄によってパンの供給を安定させるとともに、飢饉の際、修道会が得る農作物が減る一方で、食糧援助の要請が際限なく広がるのを防ぐ役割を果たしました。

 グアダルペ修道院で行われた福祉活動のなかでも、恐らく最も進歩的であったのが、常傭の労働者に対する一種の社会保障制度です。常傭の労働者が老齢や病気、怪我で働けなくなった場合、修道院は無料で医療を提供するとともに、終身年金を支給しました。常傭の労働者が亡くなった場合、未亡人に同様の保障が与えられました。このような保障は修道院の規約に基づくものではありませんでしたが、自然的に発生し、慣習となっていました。グアダルペの村人も修道院が行う福祉活動の対象でした。クリスマス時期になると修道院長は困窮者たちに一定額の金銭を与え、貧しい家庭の娘には少額の婚資を支給しました。

 教皇ボニファティウス九世は、1394年四月の教皇小勅書により、グアダルペ修道院長に対し、学生の聴罪を許可しています。この小勅書から、この時期、グアダルペ村に神学校が設置されたことがわかります。1462年頃の学校はマエストロ(maestro 教師)一人、レペティドル(repetidor 反復教師)一人、学生二十五人で、学生は三年を限度に在学することができました。学生はポルテロの仕事を手伝い、聖務の助手も務めました。グアダルペ修道院の教育活動は後に充実して文法及び主要な諸学科が学ばれるようになり、学生の数も増えました。十七世紀末の時点で、神学校に寄宿する学生は四十名、修道院に寄宿する学生は三十名を数えました。

 十四世紀末までに、グアダルペ修道院には孤児院ができていました。グアダルペにはあらゆる階層に属する多数の巡礼者が訪れたので、修道院に乳児が遺棄される事件も頻発しました。遺棄された乳児たちは乳母に育てられ、七歳になると修道院の仕事、特に布を織る仕事の徒弟となりました。孤児の養育費は外部から支給されませんが、孤児自身が後々労働によって修道院に報いる形になっていました。

 レコンキスタ時代のスペインでは、キリスト教徒とイスラム教徒の間で頻繁に戦いが繰り広げられ、捕虜が発生しました。グアダルペ修道院は捕虜解放のための活動も行い、初代院長の時代には、捕虜の身代金が既に支払われていました。ゴンサロ・デ・マドリ修道士(Fr. Gonzalo de Madrid)が院長を務めた十五世紀半ばには、「グアダルペの聖母」の玉座を飾る銀のランプが売却され、売却によって得られた資金は、南スペインのシエサ(Cieza 現ムルシア州ムルシア県)に囚われていた捕虜たちの買い戻しに使われました。1519年から20年にかけて、グアダルペ修道院は捕虜解放のために修道士たちを送り、百二十五名のキリスト教徒を取り戻しました。解放された捕虜たちはグアダルペの聖母に感謝を表すために巡礼を行ます。十五世紀及び十六世紀のグアダルペ修道院にとって、捕虜による巡礼は聖地を宣伝する最良の方法となりました。

 ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547 - 1616)は、没後に出版された小説「ペルシレスとシヒスムンダの苦難」("Los trabajos de Persiles y Sigismunda")の中で自身がグアダルペに参詣した経験を語り、グアダルペの聖母を「捕虜を解放し給う御方、枷のやすりなる御方、囚人を安らわせ給う御方」と呼んでいます。十七世紀初頭のカスティジャにおいて、イスラム教徒に囚われた捕虜の解放は、グアダルペの聖母の執り成しによるものと考えられるようになります。

 グアダルペ修道院が行った社会的な活動は、以上見たように多岐に亙ります。巡礼者の世話とグアダルペの困窮家庭に向けての援助こそが、最も基本的な活動でした。

 1389年にヘロニモ会がグアダルペ修道院を引き継いだ時点で、修道院はかなりの不動産と金銭を所有していました。修道院の資産はその後も増え続けますが、1565年になると建物の増加が急に鈍化し、修道院が所有する農地の面積も、1565年から十九世紀初頭にかけて変化が無くなります。

 1624年頃のグアダルペ修道院は、およそ五千七百頭の牛、およそ四万八千五百頭の羊を所有していました。牧草地の面積はおよそ三万三千ヘクタールと推定され、そのうちの四十五パーセントはトルヒジョ(Trujillo)に、二十七パーセントはメデジン(Medellín)にありました。牛の牧草地は主にメデジンにありましたが、それはグアディアナ川(el Guadiana)近くに生える背の高い草が牛に適していたからです。これに対して上等の羊毛のために飼育される羊の群れは、比較的乾燥した場所に生える丈の低い草を必要とし、これに適したトルヒジョの牧草地で飼育されました。

 グアダルペ修道院が所有するほとんどの牧草地は、家畜の放牧用にのみ使われました。修道院は牧場主組合からの反対にもかかわらず開墾を行うことがあり、十七世紀及び十八世紀には牛用とされる牧草地が綿羊のために転用されることもありました。耕地に関しては、牧草地の一部を転用した場合を除き、1624年頃には三千ファネガスを超える土地を所有していました。耕地の大部分はグアダルペのほか、ブリンギジャ(Bringuilla)、マドリガレホ(Madrigalejo)、アリア(Alía)に所在していました。

 下表は示すように、1389年から 1598年までの間、グアダルペ修道院が所有していた家畜の数を表しています。牛と羊の数が1470年代に急減していますが、これはカスティジャ王エンリケ四世(Enrique IV de Castilla, 1425 - 1474)の死後、エンリケ四世の異母妹イサベル(Isabel I de Castilla, la Católica, 1451 - 1504)と王妃フアナ(Juana La Beltraneja, 1462 - 1530)の間に女王位を巡る内戦が起こり、治安が悪化して、修道院の家畜が盗まれたり殺されたりしたせいです。1527年までに限って見れば、家畜の数は 1389年から大きく増加しています。

 1515年以降について家畜種別に頭数の推移を見ると、重点的に飼育される家畜が牛から羊へと変遷しています。十六世紀半ば以降の数字を見れば、この傾向がはっきりと分かります。


       
去勢牛と牝牛
山羊
               
     1389年   773  1.259 75 --- 
     1461年   3.488  12.796 2.640 750 
     1479年   1.297  10.221 --- --- 
     1515年   1.858  15.513 2.939 820 
     1527年   2.791  22.505 8.122 1.588 
               
     1556年   1.051  14.461 7.666 1.304 
     1598年   186  22.309 6.306 759 


 十四世紀以来、ヘロニモ会では水力が盛んに利用されました。1389年から1519年までの間に、同会は二十二基の水車を手に入れています。しかしながら水車の耐用年数はそれほど長くありませんでした。1568年頃の記録によると、グアダルペ修道院が所有する粉挽き用水車は十四基で、うち四基がグアダルペ、四基がカニャメロ(Cañamero)にありました。搾油用水車は二基でした。縮絨に使う水車は三基で、うち二基がグアダルペ、一基がカニャメロにありました。アセニャ(Aceña)にはもう一基、別の水車がありました。

 グアダルペ修道院にとって、町は農地や牧地のような重要性を有しませんでしたが、修道院が町なかに所有する不動産も急速に増えました。修道院がグアダルペの町(村)に所有する家屋は1389年には五十三棟でしたが、1526年にはおよそ三百棟となりました。またグアダルペ修道院は方々の中核都市(セビジャ、マドリ、トルヒジョ、マドリガレホ、プエンテ・デル・アルソビスポなど)に、一軒ないし数軒ずつの家屋を所有していました。

 要するにグアダルペ修道院は動産(家畜)及び不動産から得られる収入以外にも、喜捨、修道院が貸し出す地所からの十分の一税、及び現物による貢納を得ていましたが、動産(家畜)及び不動産を主要な収入の源と考え、これらが大きく増えるように投資を行っていたことがわかります。

 以上で確かめたように、ヘロニモ会が所有する動産(家畜)及び不動産は、急激に増大しました。これがどのようにして可能になったのかを考える際、ヘロニモ会が引き継いだグアダルペ修道院が、大きな資産を伴っていたことを忘れてはなりません。グアダルペ修道院に伴う資産とは、完全に機能している広大な開墾農地、さまざまな権利と特権、王室からの支援、巡礼・喜捨・遺贈が向けられる名高い聖地、喜捨と遺贈を集めるネットワークのことです。1389年に受け継いだこの資産を有効に活用したことで、ヘロニモ会は大きな経済成長を成し遂げました。

 修道院長の経済的才能こそが、ヘロニモ会の経済成長の原動力でした。歴代のグアダルペ修道院長たちは、経済に関する才能を発揮して、贈与、とりわけ喜捨及び少額の遺贈として修道院に入る金額を増やし、さらにうまく運用しました。修道院に対して行われた贈与の件数は、1340年から1399年が二十五件であったのに対し、1400年から1449年が五十五件、1450年から1499年が百三十三件、1500年から1549年が百四十件、1550年から1599年が百六十二件となっています。贈与の件数が増える一方、大きな額の贈与はある時期までは減る傾向にありました。大きな贈与として目立つのは、数か所の農地あるいは牧地、宝石類、及びトルヒジョのテルシアス・レアレスの建物と土地です。「テルシアス・レアレス」(las Tercias Reales)とは、カトリック教会が教区民から集める十分の一税のうち、九分の二のことで、修道院の取り分となりました。グアダルペ修道院はトルヒジョに、このテルシアス・レアレスを徴収するためのオフィスとなる建物を、その土地ごと所有していたのです。

 「ニュルンベルク年代記」の共著者として知られるユマニスト、ヒエロニムス・ミュンツァー(Hieronymus Münzer, 1437 - 1508)は、1495年、グアダルペ修道院の祭具室にある十二の箱の中身、及びいくつかの金庫の中身を見て、「この修道院にある宝物が、カスティジャ王室が所有する宝物に劣らないのは確かだ」と書いています。1556年頃の記録によると、グアダルペ修道院はトルヒジョにあるテルシアス・レアレスのオフィスのお蔭で、平均的な一年あたり、千五百ファネガスの小麦、千ファネガスの大麦、百ファネガスのライ麦、及び四十五万一千マラベディスの小作料を手に入れました。

 1599年までの贈与五百十五件を贈与主の属性にしたがってグループに分け、グループごとの金額が占める割合を百分率にすると、次のようになります。

     贈与主の属性    全贈与に占める金額ベースの割合
         
     王族    11.26%
     世俗領主    4.07%
     「ドン」の敬称で呼ばれる者    30.48%
     高位聖職者    4.46%
     グアダルペ修道院の修道士    1.94%
     新大陸の原住民    4.27%
     グアダルペの村民及び修道院の雇い人    6.60%
     その他の平民    24.85%

 スペイン語の「ドン」は現在では広く使われる敬称ですが、もともとは神、イエス・キリスト、諸聖人にのみ使われていました。中世になって王と最高位の貴族、及び最高位の聖職者(大司教と枢機卿)に使われるようになり、近世にはイダルゴ(郷士 一般の貴族)にも使われるようになりました。上掲表では王と最高位の貴族(世俗領主)、及び最高位の聖職者はそれぞれ独自の項目を立ててありますので、ここでいう「ドン」の敬称で呼ばれる者とは、イダルゴ(中小貴族)のことでしょう。

 この分析から、グアダルペ修道院とカスティジャ王室の間に強い結びつきが長く続いたこと、グアダルペの聖母への信心が新世界の征服者及び植民の間に定着していたこと、グアダルペ修道院の影響力がヨーロッパ各地に及んでいたことがわかります。高位聖職者からの贈与に比べると、世俗領主による贈与は多くありませんが、グアダルペ修道院と教会が比較的後になってできたことを考えれば、これは不思議ではありません。

 町や村を巡って集められる喜捨(デマンダ demanda)は、十六世紀後半まで、ヘロニモ会の主要な収入源でした。一年の間に喜捨によって得られる金額は、1524年から27年の平均が二百二十八万七千五百マラベディス、1538年が二百二十五万マラベディス、1548年から57年の平均が三百一万マラベディスです。十六世紀前半には、布施(リモスナ limosna)と少額の遺贈(マンダ manda)が、修道院の現金収入の三十ないし四十パーセントを占めていました。喜捨が最高額に達したのはおそらく1548年から57年の間と思われる一方、修道院の支出と投資に関する資料によると、十五世紀末から十六世紀の早い時期に、支出と投資のピークがあることがうかがえます。いずれにせよ、グアダルペ修道院が十五世紀から十六世紀前半に行った建設工事および土地買収のために、布施と少額の遺贈が大いに役立ちました。

 グアダルペ修道院の人気と名声が高まるにつれて、修道院の歳入、及び修道院のものとなる動産及び不動産も増えましたが、これはひとえに初期の修道院長たちのお蔭でした。グアダルペ修道院の人気と名声が高まると、修道院長たちはグアダルペに聖母への崇敬を涵養すべく、野心的かつ全面的な計画を始動させます。この計画を支える隅石は二つあって、一つはグアダルペの聖母が起こし給うた諸々の奇跡を、修道会の統制下で最大限に流布すること、いま一つはグアダルペの聖母と信徒たちを結ぶ絆といえる文書を権威づけることでした。

 歳入と財産を増やしたい修道院にとって、グアダルペの聖母への崇敬を高める方法によるのは、大きな賭けであり、諸刃の剣と言えました。その理由は、グアダルペ修道院を聖母崇敬の聖地とするのであれば、観想的生活という修道の理想から遠ざからざるを得ないからです。また巡礼者への支援及び聖母像を納める立派な龕の制作に、莫大な資金を投じざるを得ません。聖母像を安置する龕は巡礼者たちを驚かせ、思わず跪かせるような素晴らしい細工が施されていなければならず、聖堂がある場所もそれにふさわしくなければなりません。このような整備を行うとなると、修道院の財産を増やすための投資は後回しになります。理屈で考えるとこのように困難な点があったにもかかわらず、初期の修道院長たちはグアダルペ修道院を繁栄させるために、ここを聖母崇敬の聖地とすることを決意し、この方策に従いました。

 巡礼者たちこそが聖地の最高の宣伝者です。ヘロニモ会はそのことをよく理解していたので、巡礼者たちを惹き付けて強い印象を与えるとともに、巡礼者たちが自分の町や村に帰った後で他の人々に伝える内容に影響を及ぼすべく努めました。グアダルペで喜捨を落としてもらうには、良い宿と食事、優れた医療を提供するだけでは足りないと考えた修道院長たちは、グアダルペの聖地を訪れる巡礼者たちが得る豊かな霊的恩寵について、教皇たちから保証を取り付けました。カスティジャ国王がグアダルペ修道院をたびたび訪れたことでも、修道院の地位と名声は向上しました。ヘロニモ会はできるだけ多くの巡礼を集めるだけでなく、人々が巡礼の良い体験をいつまでも忘れず、グアダルペの聖母の力と偉大さをあらゆる土地で語り広めたいと思ってもらえるように努めました。この目的を達するために、ヘロニモ会は聖母像ヌエストラ=セニョラ・デ・グアダルペの由来を語るレジェンダを完成し、聖母像が起こした奇跡の記録を編纂して、世の人々が読める形にまとめました。

 ヘロニモ会がグアダルペ修道院を受け継ぐよりも以前の時代から、様々な奇跡がグアダルペの聖母によるものとされていました。ヘロニモ会はグアダルペの聖母の権能を世に知らしめるにあたり、様々な奇跡の文書記録を出来る限り統制すべきであると考えました。なぜならば、まず第一に、信徒が必要とする聖母の御働き、すなわちグアダルペの聖母が信徒のために執り為し給う御働きは、奇跡を記した文書記録のうちに明らかになるのであって、それゆえ奇跡の文書記録は非常に重要であるからです。第二に、個々の奇跡的事例に関して、信徒及び巡礼者自身が解釈を施すことは、聖地グアダルペの名声を守るうえで、非常に危険であったからです。さらにヘロニモ会は、グアダルペにおける奇跡の諸特性を重視し、これを強めるならば、修道会にとって大きな益になることに、すぐに気づきました。

 グアダルペにおける奇跡の特性は、「捕虜の解放」と「海難からの守護」です。なかでも捕虜の解放は、十五世紀から十六世紀のイベリア半島において、とりわけ関心を集めるテーマでした。信仰無きイスラム教徒の地で捕虜となった人々を買い戻すために行われる事柄は、イベリアのキリスト教社会に生きるすべての人々に大いに感謝され、深い影響を及ぼすのが常でした。イスラム教徒の手から救い出された元捕虜たちが巡礼者としてグアダルペ修道院を訪れ、手枷、足枷を奉納すれば、他に何よりも効果的な宣伝となりました。いっぽう船乗りたちに関して言えば、船員は非常に広範囲の人々と接点があるゆえに、グアダルペの聖母への信心を広めるうえで、やはり重要な貢献をする人々でした。要するにグアダルペの奇跡が有するこのような特性を際立たせることで、ヘロニモ会はグアダルペの聖母への信心を容易に広めることができたのです。

 グアダルペの奇跡を集めて記した本が成立する過程を大まかに言うと、まず巡礼者が奇跡を体験してこれを人々に話します。次に奇跡譚の収集を担当する修道士が巡礼者の話を精査して、奇跡の証拠を検証し、超自然の出来事として記録します。こうして出来上がった奇跡の本には、1510年から1599年に起こった八百五十七件の奇跡が記録されており、半数以上が1560年までの事例となっています。

 十六世紀には奇跡の真正性に対してこれまで以上に関心が向けられ、1535年、ヘロニモ会に属する諸修道院の修道院長が集まって会合が開かれた際には、奇跡譚集を校訂して不要な部分を削除することが合意されました。1614年、ヘロニモ会の巡察使は、トリエント公会議の決定に従い、高い学識と深い信仰心を兼ね備えた三名の修道士を選出して、グアダルペの奇跡を検証するようにを求めました。

 奇跡譚集に納められた奇跡の体験者を出身地別に見れば、非常に大まかではありますが、巡礼者がどこから来ていたかがうかがえます。1510年から1599年のデータに基づくと、グアダルペが聖徒として認知されていたのは基本的にカスティジャ国内においてであり、ポルトガルでも強い影響力が認められますが、アラゴン王国での影響力は格段に弱まります。

 要するにグアダルペ修道院が聖母の奇跡を本に編纂したことで、グアダルペの聖母の奇跡は広く知られるようになりました。またグアダルペの聖母の執り成しに帰せられる超自然の出来事を、世の人々に広く知らせるにあたり、奇跡譚集は大いに役立ちました。

 布施と遺贈を要請・収納しやすくするために、グアダルペ修道院は教皇や王室から布告を出してもらうべく、活発に働きかけました。アヴィニヨンの対立教皇ベネディクトゥス十三世(Benedictus XIII, 1328 - 1394 - 1423)は 1414年3月19日の小勅書により、グアダルペ修道院とその病院のためにカスティジャ国内で行われる遺贈につき、管区司教に対して如何なる税を支払う必要も無く、許可を得る義務も無いことを宣言しました。教皇マルティヌス五世(Martinus V, 1368 - 1417 - 1431)は、1423年6月20日、ポルトガル王国で布施を求める権利をグアダルペ修道院に与えました。

 一方カスティジャをはじめとするスペインの諸王室は、グアダルペ修道院が行う喜捨集めに関し、十六世紀半ばまでに、従来よりも大きな特権を認めました。すなわちカスティジャ国王フアン二世(Juan II de Castilla, 1405 - 1406 - 1454)は、1438年3月18日の勅許状により、グアダルペ修道院において喜捨集めに中心的な役割を担うグアダルペの修道士に対し、軍役を免除しました。1445年9月23日の布告では、フアン二世は臣民に対し、グアダルペの修道士が喜捨を集めるため、国王指定の町に来た場合、広場や市場など公共の場所において大声で呼ばわり、喜捨集めに協力することを命じています。フアン二世の娘であるイサベル一世(Isabel I de Castilla, la Católica, 1451 - 1504)とその夫であるアラゴンのフェルナンド二世(Fernando II de Aragón, el Católico, 1452 - 1516)は「カトリック両王」(los Reyes Católicos 註1)と呼ばれますが、カトリック両王もフアン二世と同様に、「グアダルペの聖母」のために、修道院の寄付集めを保護しています。フェリペ二世(Felipe II, 1527 - 1556 - 1598)は 1561年3月12日の勅令により、グアダルペ修道院がアラゴン全域で喜捨を集めることを許可しました。しかしながらアラゴンで喜捨や遺贈を募るにはモンセラート修道院という強力なライバルがあり、またこの時期は寄付集めが回復不可能な危機的状況に陥っていたので、フェリペ二世の勅許がグアダルペ修道院にどれほど役立ったかは不確かです。しかしながら十六世紀半ばまで、グアダルペ修道院は教皇や国王に対して常に働きかけ、少なくとも喜捨集めに関しては、妨害を受けずに済みました。グアダルペ修道院の喜捨集めを妨害するのは町や村の教会関係者ですが、彼らは教皇や国王の勅許によって行動を阻まれたからです。

 要するに、グアダルペ修道院が喜捨や遺贈によって多額の金銭を集めることができた理由は、ひとつにはグアダルペがイベリア半島におけるマリア崇敬の中心地として地位を固めたからであり、ひとつにはヘロニモ会が優れた組織力により、喜捨と寄付を集める細かいネットワークを、カスティジャ王国のほぼ全域と、ポルトガル王国の幾つかの地方に張り巡らしたからです。

 歴代の修道院長は聖地グアダルペの地位を高めることを何よりも重視しましたが、これは正鵠を射た施策でした。動産と不動産、とりわけ布施や小規模の遺贈が修道院に流れ込み、貧者への施しや巡礼者の世話、修道院を聖地グアダルペとして整備するのに要した費用を十分に補い、余りある収入となったからです。聖地としての整備には多額の資金がかかりましたが、修道院の資産はおかげで大きく増えました。ヘロニモ会がイベリア、とりわけカスティジャの社会に対し、聖地を守り、聖地を監督し、聖地に仕えることの価値を知らしめ、その役割を担わせました。このことに成功したからこそ、グアダルペ修道院への資産流入は、二世紀近くに亙って高い水準を保ったのです。しかしながら、聖地グアダルペの人気と名声を最も重視する修道院の戦略は、非常に長い目で見ると、不都合な事態も引き起こしました。すなわちこの戦略のせいでグアダルペ修道院は経費の支出が目立って多く、この傾向を途中で変えることは困難であったため、十六世紀中頃以降に修道院への資金流入が減り始めると、問題が生まれたのです。

 王室はグアダルペ修道院を常に保護し、修道院はその保護に頼る状態が続きました。もしもこの状態が続いていなければ、グアダルペ修道院がこれほど大きく発展することは難しかったでしょう。十五世紀は修道院が有力諸侯からの危険にさらされた時代でしたが、諸侯はカスティジャ王室がグアダルペ修道院を特別に保護していることを知っていたので、修道院に対する敵対行動を強行することはほとんどできませんでした。グアダルペ修道院に対するカスティジャ王室の保護は、十五世紀の間じゅう続きました。それがよくわかる例を挙げれば、グアダルペ修道院の修道院長を二度務め、フアン二世の顧問団の一員でもあったゴンサロ・デ・イジェスカス(Fr. Gonzalo de Illescas, + 1464)の要請により、カスティジャ国王は、1460年頃、カニャメロ(Cañamero エストレマドゥラ州カセレス県)にある城の取り壊しを命じました。この城はディエゴ・デ・オレジャナ(Diego de Orellana)が建てたもので、グアダルペ修道院の安全にとって脅威となっていました。グアダルペ修道院はカスティジャ国王による庇護のお蔭で諸侯の軍事的脅威から守られただけでなく、修道院の権利、特権の有効性を巡り、タラベラ、トルヒジョ、メデジンの三都市との間、及びプラセンシア司教との間に起こる様々な係争からも、比較的よく守られていました。

 ポルトガル王室もグアダルペ修道院にいくつかの特権を与えていました。たとえばグアダルペ修道院は、一万五千頭の羊の移牧に、シエラ・デ・ラ・エストレジャの牧地を、夏のあいだ無料で使うことが認められていました。シエラ・デ・ラ・エストレジャ(エストレラ山脈 葡 la Sierra da Estrela 西 la Sierra de la Estrella)はポルトガル中部の高地で、イベリア半島の中央を東西に走るシステマ・セントラル(中央山系 西 la Sistema Central)の西端に当たります。ポルトガル王室から保護されたお蔭で、グアダルペ修道院は働き手や必要な物資の補給にも困らず、移牧用牧舎を建てる費用も節約することができました。



註1 「カトリック両王」(los Reyes Católicos)とはフェルナンド二世とその妃イサベル一世のことです。

 フェルナンド二世(Fernando II de Aragón, el Católico, 1452 - 1516)はアラゴンの王太子(アラゴン王の息子)であり、1479年、父王の死によってアラゴン王国を継ぎました。またこれより先の 1469年にカスティジャ=レオン王国の王女イサベル(Isabel I de Castilla, la Católica, 1451 - 1504)と結婚し、1474年にイサベルがカスティジャ=レオン王国女王(イサベル一世)に即位したことで、同年から妃の死去の年(1504年)までカスティジャ共治王でもありました。一方イサベル一世はもともと有していたカスティジャ=レオン王国女王の地位に加え、フェルナンド二世との結婚によってアラゴン王妃ともなりました。

 フェルナンド二世(エル・カトリコ)とイサベル一世(ラ・カトリカ)は、二人合わせて「カトリック両王」(ロス・レジェス・カトリコス)と呼ばれています。カトリック両王はカトリック信仰の保護者を自任してユダヤ人とイスラム教徒を烈しく弾圧し、多数の人々を異端審問で火刑に処して財産を没収しました。

註2 平修道士または助修士、労働修士(西 legos, hermanos legos)とは、修道誓願を立ててはいるが、助祭や司祭に叙階されていない修道士のことです。叙階された修道士が聖務を行うのに対し、平修道士は修道院のための肉体労働を行います。修道士の仕事が祈ることであるのに対し、平修道士の仕事は、修道士が祈りに専念できるように、修道士を養うことです。

註3 十五世紀後半以降のスペインでは、1449年にトレドで起きた反コンベルソスの反乱をきっかけに、コンベルソス(ユダヤ教やイスラム教からの改宗者)を社会的に重要な地位から排除することを目的とする一連の法律が定められ、運用されました。これら一群の法律をまとめて「純粋血統法」(西 los Estatutos de Limpieza de Sangre)といいます。

註4 「ウミジャデロ」(humilladero おじぎ場)は「謙虚になるべき所」というほどの意味で、村や聖地の境界となる場所に建てられる路傍の十字架のことです。単に「クルス・デ・テルミノ」(cruz de término 境界の十字架)とも言います。

註5 バルデフエンテス(Valdefuentes)はエストレマドゥラ州カセレス県の村です。




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